AKATHUKINITE…1

        プロローグ
 初めて、日本にやって来た。しかも、こんな片田舎に。
ここが、彼の生まれ育ったところ、とても美しい所だ……
誰もいない無人の駅に降り立ち、辺りを見渡すと、山々が夕日に照らされ、燃えるような色をしていた。
一面に広がる水田には、植えられた苗が風に揺れている。遠くから烏の泣き声が聞こえ、西洋では不吉なその声も、なぜかこの景色の中では風景の一部のように感じられた。目を閉じて、彼の笑顔を思い浮かべる。
闇色の美しい瞳をもつ彼を……
      

        第一部
         一
 彼が好きだ、とヒュー・アイザックは自覚した。そして思わず笑いが込み上げてきた。
信じられない。彼は日本人で、俺より十も年上のバツイチ男なのに…
今まで同性など好きになった事はないし、友人や知り合いにはいるが、その人達の気持ちも分からなかった。むろん、その種の人種を否定する気は毛頭ない。かといって、自分が対象になるのはごめんだった。それなのに、ゲイでもない自分が同性を好きになるなんて…
もしかして只の同情かもしれない。そうだ、きっとあの人のいろんな面を知ってしまったから、勘違いしているだけなのかもしれない…
ヒューはそう思い、過去の記憶を探り始めた。彼、柴崎千尋に出会ったのは、今から四ヶ月程前、養護福祉センターを訪れた時だった。
        ***
 春の朝、ヒューはブルックリン地区の養護福祉センターを訪れた。建物の中に入ると、受付の大柄な黒人女性に書類と証明書を提示する。彼女は証明書とヒューの顔を見比べながら文章を読み上げた。
「ヒュー・アイザック、二十才、白人男性。六十時間のボランティアね。すぐ案内するから待ってて」
そう言うと書類を持って後ろの部屋に入っていく。ヒューは軽くため息をつき、カウンターにもたれかかった。
先日、マンハッタンのグリニッジ・ビレッジで、友人と障害事件を起こしてしまったのだ。お高くとまった数人の白人エリートが、黒人でゲイのルイスを侮辱したからである。その時は自分とルイスの他に、バンド仲間のケイとキャロルがいた。バンドがロッホ・インダストというレコード会社との契約が成立し、ルイスが自分達を祝ってくれたところだった。
売り言葉に買い言葉で怒鳴りあいをしているうちに、向こうの一人が殴り掛かってきて、乱闘騒ぎとなった。
相手は四人だったが、すぐ倒せた。彼等は泣いて逃げていき、その後ろ姿を笑って見送ったが、数日後、警官がアルバイト先のガソリンスタンドに現れたのである。
ケイとキャロル、ルイスも捕まり、署に連れて行かれ、皆別々に事情調書された。裁判が開かれると、相手が骨にヒビを負う程の怪我をしていたのに対し、こちらがかすり傷ひとつ負っていなかった事が不利となった。
結局、キャロルは乱闘になった時、逃げていたのでおとがめなし。ルイスは乱闘に加わっていなかったので、千ドルの罰金。ヒューとケイは二千ドルの慰謝料と、市の福祉センターで六十時間のボランティア活動を命ぜられた。ヒューはブルックリン地区の、ケイはフラッシング地区である。
ヒューはハイスクールを卒業してから、家を出ていた。実の父親でない男と暮らすのは、もううんざりだったからである。母親は男関係にだらしなく、ヒュー達の父親と離婚してから、とっかえひっかえ男を家に呼び込んでいた。暴力的な男もおり、生意気な口をきくヒューは何回か殴られた事がある。
姉のアイリーンも卒業後家を出て、一人立ちした。今は結構いい出版社に勤めて、それなりの地位もあるようである。自分の自立後は、一人家に残っているヒューをいろいろと気づかってくれた。
ヒューが卒業した時、いっしょに暮らさないかと言われたが、すでにボーイフレンドと同棲していたので断った。お邪魔虫になる程野暮ではない。
金のない自分に代わって保釈金はアイリーンがだしてくれたが、当分口も聞いてくれない程怒っていた。当たり前だが…
ヒューはまた、今度は深くため息をついた。警官に捕まった事でガソリンスタンドのアルバイトもくびになってしまったし、バンドも音が出来ないと契約料は払ってくれない。契約料をもらってそのままトンズラされない為である。
『今度の家賃、どうやって払おう…』
働こうにもボランティア活動とレコーディングに時間をとられて、ろくに働けないかもしれない。いつもならアイリーンに金を借りるところだが、二千ドルなどという大金を払ってもらったところである。いくら姉とはいえこれ以上甘える訳にはいかない。
「はあ〜」
二度目の大きなため息をついた時、後ろから先程の黒人女性が出て来た。
「おまたせ、あなたの担当の指導員を紹介するから付いて来て頂戴」
ヒューはリュックを抱え直すと、しぶしぶ後を歩いて行った。廊下を歩きながらヒューはどんな嫌な奴が出てくるのかと想像した。軍人ばりに命令口調のマッチョマンか、事前事業している自分にうっとりしている金持ちナルシストか。どちらにしても、いいように扱われるつもりはない。こちらが言うとおりに動くと思ったら大間違いだと、はっきり言っておかなければ。それには初めが肝心である。
「ここよ、さ、入って。シバ、例の彼よ。よろしく頼むわ」
女性はドアを開けるとさっさと元来た道を引き返した。ヒューが部屋に入るとそこは他目的室のような所で机と椅子が並べられていた。机の側に書類を持った中年の男性と、窓の側に学生らしき少年がいる。ヒューは中年の男に近寄り、威嚇するような態度で尋ねた。
「ヒュー・アイザックだけど。あんたか、指導員って」
「はじめまして、ヒュー。俺はチヒロ・シバサキだよろしく」
そう言って横から右手を差し出してきたのは、窓際にいた少年だった。
『え?』
一瞬何を言われているのか理解できなかった。
『シバサキ?そういえばさっき案内してきたおばちゃんがそんな名前言ってたような?という事はこいつが俺の指導員か、そんなばかな!成人してなくてもできんのかよ!』
頭の中がパニックになってしまった。だって今、自分に手を差し出しているのは、どうみても年下の少年である。
「アイザックさん?」
少年は首をかしげて、その大きな黒い瞳をヒューに向けていた。
「え、あ、ああ…」
反射的に手を握り返す。ボーっとしていた自分が少し恥ずかしくなった。どんなまぬけ面をさらしていたのかと……
「六十時間のボランティア活動だったね。週何時間ぐらいの割合でできそうかい?仕事はしているの?あ、座って話そう。そこに腰掛けて」
少年は溌溂と、大人の口ぶりと声でヒューに話しかけている。あまりに自然な口調だったので、思わず言うとおりに椅子に腰掛けてしまった。
「どう、仕事してるの?」
「え、それは…その…」
ちらりと、後ろにいる中年の男性を垣間見る。と、その視線に柴崎が気付いた。
「彼はこの館の責任者だよ」
「あ、そ…で、あんたが俺の指導員か?」
「ああ、そうだよ」
「……学生か?」
柴崎は少し笑って答える。
「俺は君より十才年上だよ」
「ええ!!」
ヒューは驚いて大声をだしてしまった。
「日本人は若く見えるからね」
柴崎はそう言うが、ヒューにも日系人の友達が何人かいるし、確かに実年令より若く見える。が、彼ほどではない。本当に驚いてしまった。もしかしてからかわれているのか?などと、考えつつ、目の前にいる彼をじっと見つめる。
「君には子供達を保護している孤児院に俺といっしょに行って欲しいんだ。そこで、芸術関係の勉強をするのを手伝って欲しい」
『ほんとうに十才も年上なのか?どうみてもジュニアだぜ。しかも日本人。英語は上手いな。こっちに来て大分たっているのか?仕事何してるんだろ?まてよ、シバサキ、シバサキ、どっかで聞いたな〜』
説明など聞いていなかったヒューは、シバサキという名前に心あたりがある気がして一心に考えた。
「あ〜!!」
いきなり大声をだした。驚いた柴崎は目を見開いてヒューを見つめる。
「な、何?どうした?」
「シバサキって、あのチヒロ・シバサキか『PIECE ON MY HERT』の!」
身を乗り出して尋ねる。
「あ、ああ、そうだが」
「へ〜あの本のね〜」
『PIECE ON MY HERT』とは二年前発売された写真集である。いろんな人種のいろんな人達を、温かい目線で撮った写真で、二百万部を越える大ベストセラーとなった。先月2号が出版されて、それもベストセラーになったところである。ヒューも出版社に勤めているアイリーンからぜひ読め、と言われて読んでいた。言われたとおり、どの写真も温かくて、心に染み入るようだった。
ヒューの一番好きな写真は、農場で農夫らしきおじいさんが、赤ちゃんに微笑みかけているものである。
大好きだった祖父の姿と重なり、ヒューは何度も何度もそのページをめくった。そこには自分の無くしたものが映っているような気がして…
「…もっと年とった人が撮ってるのかと思ったぜ」
「…そうか?読んでくれたんだ。ありがとう」
にっこり微笑まれてヒューは照れくさくなった。
「で、週どれぐらいの時間できそうなのかな?」
「え、あ、ああ、そうだな、今何もしていないから、いつでもいいぜ」
「じゃあ、来週の火曜日の午後一時にここに来てくれるかい?孤児院に行って子供達にリトミックという授業を受けさせる手伝いをして欲しい」
「リトミック?」
「皆で輪になって歩きながら音楽に合わせて手足を動かすというものだよ。でも途中でリズムが変わるから、変わったリズムに合わせて動きも変える、という授業なんだ」
「ふ〜ん?」
何に為の授業だろう?とヒューは思ったが、そんな思いが顔にでたのか
「リトミックは心と身体に、リズムを理解させる遊びだよ」
と柴崎が説明してくれた。
「俺は一応ピアノを弾いているんだが、得意じゃないから、曲が数えるほどしか弾けないんで困ってたんだ。ヒューはバンドでギターやってるんだろ?いろんなリズムにあわせて弾いてやってくれないか」
「……分った……」
なんだ、そんな簡単な事か。とヒューは拍子抜けした。
「じゃあ今日はこれでいいよ。また来週な」
椅子から立ち上がった時、柴崎が手をだしてきたので、反射的に握り返してしまう。
『あ』
と思ったが、まあいいや、とすぐ思った。
『別に嫌な奴じゃないし、威嚇する必要もなさそうだ。いざとなればこっちが勝つだろうし』
そんな事を考えながら、福祉センターを後にした。
        ***
 一週間後、ヒューは三十分以上も遅刻してセンターに到着した。皿洗いのバイトが決まり、慣れない仕事で疲れてしまったのである。今朝起きた時間は十二時過ぎであった。息をきらして駆け付けると、ロビーで柴崎は何でもないという風に待っていた。やっぱり三十才の男には見えない。と、ヒューは思った。
「おはよう、ヒューは自転車持ってるかい?」
「ああ、今日も乗ってきた」
「良かった。なかったらマギーのを借りるとこだった」
「マギー?」
「この前来た時受付で会っただろ」
「ああ、あのでかい女か」
「じゃ、行こうか」
そう言って歩き出した柴崎の後をヒューはついて行った。
        *
 孤児院での授業は何の問題もなく終わった。帰る時も
「ヒューまた来てくれるの?」
「次はいつ?」
と、子供たちは目をきらきらさせて尋ねてきた。
「また来週来るよ、じゃあな」
見送りしてくれる子供達に手を振って、二人はいったんセンターに戻った。そこで、今日のボランティア活動の内容と時間を、指導員といっしょに報告しなければならないのである。
「今日はありがとうヒュー」
「え?」
「子供達すごく楽しそうで、喜んでただろ。ヒューのおかげだな」
ニコニコ微笑まれたヒューは照れくさくなって顔を逸らした。
「…別に…好きでやったんじゃないぜ。やらなきゃいけなかったから……」
「そうか?結構楽しそうだったんじゃない?」
図星である。自分のギターで踊っている子供達を見て、こちらも楽しくなっていたのであった。
「音楽っていいな。年令も言葉も関係なく通じるものがあるから」
「ん?」
「音楽やっている人って素敵な人が多いんだ。ヒューもそうだな」
一瞬、何を言われているのか分からなかったが、誉められていると気付き、途端に顔が赤くなる。
『何言ってんだ。この男。そんな恥ずかしい事よく言えるな〜』
なぜか手なずける為のお世辞を言われたとは思わなかった。返事もせず、そっぽを向いたままのヒューに、柴崎が話しかける。
「来週、同じ時間大丈夫か?」
「大丈夫だ」
なぜか『邪魔臭い』と思わない。そういえば、遅刻した理由とか聞いてこないな、とヒューはふと思った。
「今朝、遅刻しちまったけどいいのか?」
「なにが?」
「いや、報告とかしなくていいのかなって思って」
ここに来る間、説教や注意をつらつら言われると予想していたのである。
「別にないよ。それにヒューは急いで来てくれたじゃないか」
「あ?」
「悪いと思って急いでくれたんだろ。ありがとう」
柴崎がまっすぐヒューの顔を見つめて微笑む。
『でかい目だな』
見下ろしながらヒューは思った。日本人は皆キツネ顔で目も細い人が多いが、彼の場合は大きかった。この目で凹凸のない顔だちだから余計幼く見えるのだろう。その時、ヒュ−のお腹が豪快に鳴る。
「お腹すいてるのか?」
「え、ちょっと、いやかなり…かも…」
考えてみれば昨日の夜十一時頃、バイト中にハンバーガーを食べてから何も口にしていない。今朝も時計を見て大慌てで飛び出した為、お腹が空いているなど忘れていた。
「俺もこれからランチだからいっしょに食べよう。近くにおいしいバールの店があるんだ。好きかい?」
ヒュ−は軽く頷いた。
「じゃ、行こう」
行った店はセルフサービスの店で、かなり混んでいた。
「買ってくるから、ヒューはどこか場所とって置いてくれ」
窓際のカウンターで席を見つけたヒュ−は柴崎を待っていた。やがて柴崎が自分を見つけてこちらにやってきた時、一人の男が軽くぶつかり、「ごめんよ、ぼうや」と言った。
「お待たせ。コークだったね」
「ほ〜」
と、ヒュ−はニヤニヤにしながらストローを吸った。
「何?」
「俺だけじゃないんだなーと思ってさ。あんたどう見ても十代だもんな。よく間違えられるんだろ?」
「ああ、こんな顔じゃバーに行ってもすぐ年聞かれるし、証明書提示させられるよ」
「へ〜」
ヒューはサンドイッチにかじりついた。しばらくは夢中で食べていたが、三つ目を食べ終えた時やっと人心地ついた気がした。
「ふ〜」
「おいしかったかい?」
「ああ、ここのサンドイッチうまいな〜」
「この辺じゃ結構有名だよ。チェーン店でもないからあまり広くは知られてないけど」
「この近くに住んでんのか?」
「ああ、十五分程歩いたところだ」
「マンハッタンの方じゃなかったのか?」
ブルックリンは特別治安が悪いところではないが、高給取りが住む所でもない。彼ほど有名なカメラマンならもっといい所に住めるだろうに。
「食後のコーヒーは?」
「欲しいな」
「じゃ、頼もう。俺は紅茶にするよ」
「ジュニアだもんな」
柴崎が微笑むので、ヒューも同じように笑みを浮かべる。気持がほくほくしてきたヒューは、そこで二時間も話をしていた。話と言ってもヒューが一方的に喋っていたのであるが。
柴崎があまりに自然な態度で、ふんふん聞いているので、つい話し過ぎてしまった。バンドの話、友達の話、学校の話、バイトを首になった事、今回の事件の事。家族の話をしていた時に、べらべら話している自分に気がついた。
『何、こんなに喋ってんだ俺?』
話し過ぎた自分が恥ずかしくなって、ふと時計を見るとその時間に驚いてしまう。
「うわ!もう五時かよ!俺、帰るわ」
今日は六時からレコーディングの予定である。バンドまで遅刻する訳にはいかず、ヒューは急いで立ち上がった。
「んじゃな。と、メシ代いくら?」
鞄から財布を出そうとすると
「いいよ。また今度で」
「え?」
「今度時間あった時でいいよ。ほら、急がないといけないんだろ?」
「ああ、今度会った時にな。じゃ」
慌ただしく店を飛び出して行くヒューに、柴崎は軽く手を振って見送った。
        ***
 一ヶ月程たった頃、家賃を滞納していたヒューは、とうとうアパートメントを追い出された。しばらく泊めてくれるところを探してケイの家を訪ねたのだが。
「え、妹が?」
「ああ、離婚するとかしないとかで旦那と喧嘩して、三人の子供達といっしょに戻ってきてるんだ。おかげで家はパンパン状態さ。そんなんでもよければ泊まってくれ」
「そうか……」
「どうする?」
「じゃあいいや、他あたってみるから。でもこれだけは預かってくれないか?」
ヒュ−はギターケースを差出した。
「ああ、マーティンのアコースティックギターだな。分かった。これ大事なもんだもんな」
「…ああ…」
このギターはヒューが二年間バイトをして溜めたお金で買ったもので、自分のもっている物の中で一番価値のあるものだった。いざとなればバイトの更衣室にでも寝かせてもらうつもりだが、このギターだけは安全な所に置いておきたい。
「分かった。大切に保管しておくよ」
「ありがとう、じゃな」
他の友人は恋人と同棲してるしルイスは…できれば避けたかった。彼は今のところ目下恋人募集中なので、新しいステディができるまでの犠牲になりたくない。アイリーンのところにでも行ってみるか、とヒューは姉の小言を覚悟しながら、彼女のアパートメントに向かった。合鍵を使って中に入ると、部屋には誰もいなかった。リビングの明かりをつけると、テーブルにジュエリーケースが置いてあるのが目に止まる。そっと手に取り蓋を開けると、中には何も入っていないが指輪の型があった。
『なる程』
どうやら、アイリーンは恋人にプローポーズされOKしたようである。
『で、ムードが盛り上がってどっかに出かけた訳だ』
帰って来た時のお邪魔にならないようにと、ヒューは出て行った。
街中をぶらつきながら、ヒューはアイリーンが家を出た時の事を思い出していた。良かったな、と思う反面、自分が置いて行かれたような気がしたあの時の事を…
小さい時、家に帰りたくない時は祖父の家に行きたくなった。一度ヒッチハイクという無謀な事をして訪れたが、祖父は何も言わず自分の部屋を用意してくれた。彼といる時が一番安らげる時だったのだ。
しかし、彼はもういない。十年前に亡くなり、農場は、その時母親の恋人だった男に売り払われてしまった。
自分はどこに行こう?
昔、隣に住んでいた売春婦の言葉が脳裏を横切る。彼女は中国人で家族を養う為に働いていた。彼女の友達に子持ちの白人娼婦もいて、彼女らは小さいヒューを可愛がってくれた。いつか家族の元へ帰る、といつも言っていたが、結局その願いは叶えられずに彼女は死んだ。
働いていた店で男が銃を乱射し、自らも自殺するという事件がおきて、その犠牲者となったからである。
仮の宿に住んでいるのよね。私たちは似ているわ、と彼女は言い、ヒューもそうかもしれないと思った。しかし、帰りたくても帰れないのと、帰りたいと思える場所がないのとでは決定的に違うと感じていた。
彼女が死んだと知った時、荷物を片付けられる前に、部屋に忍び込んで小さなピルケースをもってきた。それは中国風革細工で出来た綺麗なもので、中には一錠だけカプセルが入っている。ヒューはそれをお守りのように、いつでも肌身離さず持っていた。いつか使う時がくるのだろうか?

「あれ、ヒューじゃないか?」
バイトまでの時間つぶしに、本屋で立ち読みしていたヒューの背後から声がした。振り返ると柴崎が立っていた。少し驚くと同時に、なぜだかヒューはほっとする。
「どうした?何か調べものか?随分荷物多いな」
バイト先のロッカーに入れようと、エレキギターと身の回りの物をまとめて持っていたのである。アパートメントを追い出された話をすると。
「大変だな。うちでよければ来る?」
「いいのか!?」
「ああ、俺は誰とも暮らしてないし、小さいけど客室もあるから」
「頼む!」
「じゃ行こうか?あ、ここから三十分ぐらいだけど大丈夫か?」
「大丈夫だ」
やったラッキー、とヒューは小躍りしたい気分だった。彼を見た時、きっとこう言ってくれる事を心のどこかで期待していたのである。
そして彼は望みを叶えてくれた。
        *
 柴崎のアパートメントはブルックリン・ウィリアムズバーグにあった。
「ここの六階だよ。昔工場の事務所がはいっていた所で、一つのフロアがとても広いんだ。住む人は自分の好き勝手に中を改造して住んでる」
「あんたも?」
「まあね」
六階に到着して二人はエレベーターを降りた。柴崎の部屋は角部屋だった。
「どうぞ、あ、靴はここで脱いでくれ」
「え、脱ぐの?」
「ああ、気持悪いならそこのスリッパ履いてくれ」
玄関の脇にいくつかのスリッパが置かれていたが、こんな慣れてないものは余計気持悪いと思い、ヒューは履かなかった。靴下のままドカドカ歩く。中はすっきりとしたデザインで、どこかオリエンタルな雰囲気が漂っていた。なんの香りだろうか、植物系のいい香りがする。
「ここがリビングでこっちがキッチンだよ。右にある部屋が俺の寝室と仕事部屋」
柴崎の仕事部屋は壁ではなく紙のドアで仕切られていた。
「これ知ってるぜ、『障子』だろ?」
「ああ、よく知ってるな」
「バンド仲間のケイが日系人だから彼の家で見た。泊めてもらう部屋もそうなのか?」
「いや、普通の部屋だよ。そこの左の部屋。お客様用だからクローゼットに何も入ってないから好きに使ってくれ」
「誰も使わないのか?」
「これからヒューが使うだろ」
ま、そうか、と思いヒューは指を差された左の部屋に入った。ベッドとサイドテーブルと、その上にあるスタンド以外は何もない部屋である。クローゼットを開けると言ったとおりハンガーしかない。まるでホテルみたいだ。とりあえず荷物を解き、一息ついたヒューは目を閉じてベッドに寝転がる。
『あ〜バイト行かね〜と』
ぼんやり思った時、ノックの音が聞こえた。ドアを開けると柴崎が立っていた。
「ヒュー、これからどこかに出かけるのかい?夕食は?」
「もうすぐバイトだけど、腹は減ってない」
「何時頃、終わる?」
「午前二時なんだけど……」
「じゃあ帰ってくるのは二時半頃かな?鍵は一つしかないから下でベル鳴らしてくれ。俺でるから」
「遅いぜ……」
「大丈夫だよ。眠り浅い方だから」
「……年寄りくさいな」
自分の言った言葉にヒューは気付いた。この男の前だと何故ほっとするのかを。
「あんた俺のじーさんに似てるんだ」
「え?」
「なんか、こう、どう言ったらいか分からないけど、雰囲気っていうか、感じが似てる。若い顔してるのに年寄りくさいから」
「そうか?」
柴崎は苦笑した。
「親が結構年よりだったのか?」
「……いや、両親は俺が小さい頃事故で亡くなったので、祖父母に育てられたんだ」
「……そうか」
悪い事を聞いたかな〜とヒューは思った。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
「ああ、気をつけてな。スペアキーは明日作っておくよ」
「いいのか?スペアキーなんて作って?」
「なぜ?」
「恋人とかさ、うるさく言われたりしないのか?」
「恋人なんていないから大丈夫だよ」
「え、でも結婚してないよな?」
「……ああ……」
「募集中か?」
「さてね……」
「誰かいい子紹介しようか?」
ちょっとおどけた口調で言ってみる。
これだけ親切にしてもらったんだから、何かお返しをしなければ、と思い付いて出た言葉だった。
「いいよ……」
ぶっきらぼうな答え方を、ヒューは彼が照れているのだと思い、ついからかいたくなった。
「遠慮しないでいいんだぜ。俺、日系人に知り合い多いし、スタイル抜群のチャイナガールもいるぜ」
「いいんだ………」
「なんで?あんたベビーフェイスだけどそういうの好きな子いっぱいいるし、結構もてると思うけど…」
「いいんだ!」
彼らしくないきつい口調にヒューは驚いて黙りこんでしまった。初めて聞く拒絶の言葉。
「…本当にいいから…ありがとう…」
なんだか柴崎の顔が少し悲しそうに見える。
「ああ……じゃ、出かけるわ」
「いってらしゃい……」
柴崎はそのままリビングの方に消えた。
「いってらしゃい…か……」
何年ぶりかに聞く言葉だな、と思いながらヒューは支度を始めた。
        ***
 こうして二人は共同生活を送ることになった。靴を履かないで部屋をうろつくのは慣れなかったので、一つ部屋用シューズを作ることにした。玄関で外の靴から履き替えればいいのである。我ながらいいアイデアだとヒューは思った。風呂場が大きいのには驚いた。トイレとは別で、バスタブの外で身体を洗えるようになってた(日本式らしい)シャワー派のヒューにとっては『なんでそんなに何回も湯舟に浸かるんだろう?』と不思議である。いい香りは、仕事部屋(和室はここだけ)にあるお香だと分かった。眠る時の柴崎の格好は奇妙でまたそれにも驚く。日本のナイトガウンで「ゆかた」というものらしい。
なんだか不思議な所で暮らしていると思う。この部屋だけ別の空間のように感じるのだ。柴崎の雰囲気そのものかもしれない。人をほっとさせるところとか…
まさしくあの『PIECE ON MY HERT』という本の暖かさそのものであった。
二人の朝は、柴崎の作ってくれた朝食から始まった。ヒューが朝、起きてくると用意されているという訳である。後は次の朝まで会わない事が多い。朝食後、柴崎はすぐ出かけるし、ヒューは昼過ぎにレコーディングに行ってそのままバイトで真夜中まで帰れないからである。本当のところを言えば朝はもっと寝ていたいが、柴崎と朝食を食べる為だけに起きた。それが礼儀だと思ったし、そうしたかったのである。新しく住む所はなかなか決まらず、柴崎に家賃を払おうとしたのだが、断られた。そういえばランチ代も払っていない。それを言うと「いくらだったか忘れたからいい」という答えが返ってきた。そんな訳にはいかないとヒューがねばったので、家賃の替わりに柴崎の仕事をたまに手伝うことになった。機材の運搬や資料探し、配達などの雑用であるが、本当にたまにしかない仕事だった。
なんだかんだ言いつつも、ヒューはここでの暮らしが気に入り始めていた。
柴崎は自分に対して何も干渉してこないし、こちらもする気はない。とても楽で祖父といた時のような安心感があるのだ。しかし、ここも所詮仮の宿なのだろう、いつか出ていか無くてはならない。
どんなに自分がいたいと思っても……
        *
 バイトが終わり、ヒューはいつもの時間にマンションに帰った。共同生活を始めて二ヶ月が過ぎようとする頃だった。部屋に入ると真っ暗なリビングに誰かの気配を感じる。
『まさか泥棒?!』
明かりをつかないまま、足を忍ばせリビングを覗く。バルコニーの窓が開けられ、浴衣姿の柴崎が立っていた。夜空を見上げてなんだか寂しそうに見える。ヒューが急いでリビングの明かりつけると、柴崎ははっとして振り返った。
「ヒューか…おかえり………」
「ただいま………」
これも彼と暮らしだしてから久しぶりに使う言葉である。
「どうした?こんな時間に」
「ああ、夜の景色が綺麗だったんで、撮ってたんだ」
見ると彼の手には大きなレンズのついたカメラが握られている。しかし、バルコニーに出て、柴崎の横に並んだヒューは彼が写真を撮っていたようには思えなかった。暗がりの中、彼の瞳が濡れて見えたからである。夜空と同じ色をした彼の瞳にたくさんの光が浮かんでいた。
泣いていた………?
何か言葉をかけたいのだが、思うようにでてこなくてヒューはもどかしかった。
「ここじゃ、星があまり見えないな……」
柴崎が先に口を開く。
「…そうだな、地上の光が強すぎるから……」
「ヒューはおじいさんと暮らしてた事があるのかい?」
「いいや、暮らしたとかじゃないけど、遊びにはよく行ってたな。好きだったから」
「そうか………」
今と同じように、夜、じいさんといっしょに星を見上げたりもした。農場は田舎だったから、まさしく満天の星空であった。
「じいさんがさ、今見えている星は、もしかしたらもうないかもしれないって話をしてくれたよ」
「ん?」
「光が届くのに時間がかかるから、その星がなくなっても光りだけが残って俺達はそれを見てるって」
「……………」
「ま、しょうもない話だけどよ」
「そんな事ないよ。いい話だよ……素敵なおじいさんだったんだな」
「まあね」
「思い出と似てるな……」
「え?」
「消えても残像だけは残っているところとか……」
「そうかもな……」
「おじいさん、元気なのか?」
「いや、俺が十才の時亡くなった。ばーちゃんはカリフォルニアに住んでる息子のとこ行って、今も元気らしいけどな。シバんとこは?」
「祖母は俺が十五才の時に、祖父は次の年に亡くなった」
十五才、まだ子供じゃないか。両親はもっと小さい頃に亡くなったから、それからずっと一人だったのか…
と、ヒューの胸は痛んだ。
「もう中入ったら?朝起きれなくなるぜ」
「そうだなもう寝るよ…ヒュー…」
「何?」
「ありがとう……」
「なにが?」
「いや、誰かと暮らすっていいな…一人の部屋に帰って来るのは味気ないだろ」
「…………」
「ヒューがいてくれて嬉しいよ」
ヒューは自分の頬が赤くなるのが分かった。見られないようそっぽを向く。
この男はなんだ?いきなりそんな恥ずかしい言葉を言いやがって!日本人は何も言葉にしない人種だなんて嘘だな!
「おやすみ」
少し寂しげな微笑みを浮かべながら、柴崎は何事もなかったように部屋に戻っていった。反対にヒューは自分の体温が一気に上昇した気がして、ドギマギしていた。彼といっしょにいると気分がいいのは、大好きだった祖父に雰囲気が似てるからに違いない。それ以外に何がある?しかし、彼の寂しげな後ろ姿が脳裏を横切る。まるで、彼が消えてしまいそうに感じた。そんな彼を抱き締めたくなった自分を押さえる為に、急いで明かりをつけたのだった。
        ***
 ある日、ヒューが部屋でレコーディングに行く準備をしていると、柴崎から仕事部屋にある手帳を、オフィスに持ってきて欲しいという電話があった。行き先の途中に彼のオフィスはあるので、ついでに届ける事にした。
オフィスに行くと白髪頭で上品な老婦人のクリンスが出迎えてくれた。
「こんにちは、ヒュー、悪いわね」
彼女は柴崎の秘書で、唯一彼に雇われている人でもある。助手はひとりもいない。初めて荷物の運搬をする時に、柴崎から紹介された。明るくておしゃべりで楽しいおばあちゃんだった。オフィスはグラマシーにあるカメオ・スタジオビルの中にあった。カメオ・カンパニーという会社が柴崎のスポンサーなのである。
「はい、これでいいんだよな?」
「ありがとう、助かったわ。シバはクライアントとの打ち合わせがあるし、私は席をはずす訳にはいかないし」
「なんのノートなんだ?これ?」
「シバの物じゃないのよ。借りてたんだけど、貸した人が急にいるから返してくれって言ってきたの」
「ふ〜ん」
「本当に助かったわ、ありがとう。あ、お茶でもどう?」
「あ、別に…いや、もらおうかな……」
「すぐ用意するわ。腰かけて待ってて」
柴崎の話が聞けるかな、と思い彼女のお茶の申出を受けた。ヒューはなんとなく彼の事が気になりだして、もっと知りたくなったのである。言われたとおり、座って待っていると、ポットとカップを持ったクリンスが現れた。
「今日は私、得意のチョコチップクッキー焼いてきたのよ。どうぞ召し上がれ」
「あ、どうも………」
「ダージリンよ、ストレートでいいわよね」
「はい」
紅茶の味など、どれも同じだと思っているヒューはなんでもよかった。お茶とクッキーをよばれながら、ヒューは、どうやってきりだそうか考えていた。
「ヒューはシバと暮らしだしてからどれぐらいになるの?」
「え〜三ヶ月ぐらいかな?」
「そんなになるの。どんな感じ?」
「え…どうって別に……」
「ふふ、シバね、ヒューと暮らし始めてからとても明るくなったみたいなの。ありがとうね」
「そ、そんな…クリンスさんはシバと長いの?」
照れてしまったヒューは、話題を変えようと話をクリンスに振った。
「そうね〜彼が結婚した直後に知り合ったから、七、八年の付き合いかしら」
ヒューは紅茶を吹き出した。
「結婚してたの?!」
「ええ、日本にいた時ね」
「でも今は………」
離婚したのだろうか?
「……細君は事故で亡くなったのよ……」
「え………」
ヒューは言葉を失った。
「ご両親も事故で亡くしたって聞きましたけど……」
「……らしいわね。彼がまだ二才の時らしいから顔も思い出せないそうよ」
「…………」
「彼女を失った時の彼は見ていられなかった…後追い自殺でもするんじゃないかって周りが心配したぐらい…」
「…………」
ヒューは胸が苦しくなった気がした。
「……それで、私がNYに来る事を提案したの。彼女の思い出が残る日本から離れた方がいいと思って……」
「そうなんですか………」
「あれから、もう四年になるわね……」
「…俺、帰ります、ごちそうさま…」
「ああ、今日はありがとうね、ヒュー」
ヒューは足早にスタジオを後にした。胸にモヤモヤした嫌な黒雲が沸きあがっている。
自分が彼女を紹介すると言った時、彼がらしくない態度をとったのも、真夜中、バルコニーで泣いていたのも、実は妻を思い出していたからか?
『ヒューがいてくれて嬉しいよ』
あの言葉は俺にではなく、あの女の代わりとして送った言葉だったのか?
ヒューはなぜ自分がこんなに腹をたてているのか分からなかった。怒りを感じている自分と同時に冷静な自分もいて、何をそんなに怒っているのだ?と、自分自身に問いかけていたが、答は分からないままであった。柴崎の寂しげな笑顔が頭に浮かぶ。
ちょっと女々しいんじゃないか………