AKATHUKINITE…2

『俺、何かしたかな?』
柴崎は最近のヒューの態度が気になっていた。いつもイライラしている様子で、話かけても返事をしない事が多々あるのだ。バンドで何かあったのか、アパートメントが見つからなくてイライラしているのか…しかし、ヒューみたいな青年は干渉されるのを嫌うタイプだし、言い出さない以上、こちらからは聞けない気がする…
どうすればいいのか考えながら、柴崎は福祉養護センターに向けて自転車を走らせていた。仕事場に以前担当していたジェーンという女の子が、会いたいと言って来ていると連絡が入ったからである。急いで仕事を終わらせたのだが、センターに着いたのは午後7時頃だった。多目的室に行くとジェーンがマギーとトランプをしながら待っていた。
「シバ!」
「やあ、ジェーン久しぶりだね。元気にしてたかい?」
「ん………」
ジェーンがちらりとマギーを見た時、彼女は立ち上がって部屋を出て行くところだった。
「マギー、ありがとう」
マギーは柴崎に軽く手を上げて応えた。
「どうした?何か心配事でもあるのかい?」
柴崎はジェーンを椅子に座らせて、自分も前に腰掛けた。彼女は万引きをしたところを捕まり保護された子だった。
「あの…今度ママ結婚する事になったの…」
彼女は母子家庭で母親はバーのウエトレスをして働いている。
「そうか…おめでとう…どんな人と?」
「…農場やってる人なんだって。親戚の結婚式でこっちに来てて、バーで飲んでるとこママに一目惚れしたって…」
「そうか………」
「…結婚したらその人の農場のとこに行くんだって…オレゴンなの…」
「オレゴンか、随分遠いな」
いきなり知らない男が父親になり、見知らぬ土地へ行かされる。不安になるのも無理はない。
「……シバ………」
「なんだい?」
「私のこと好き?」
「ん、好きだよ」
「愛してる?」
「……そ、そうだな〜…」
いきなりの問に言葉を詰まらせていると、突然ジェーンが椅子から飛び下り柴崎に抱きついてきた。
「私、シバのこと大好き!愛してるの!お願い、結婚して!」
柴崎は驚きのあまり声もでなかった。が、頭がはっきりしてきて、柴崎はゆっくり彼女の身体を離した。彼女は決して自分と結婚したいのではない。自分を好いていてくれるのは本当だろうが、ただ、今の状況から連れ出してくれる人を求めているだけなのだ。
「…シバ?……」
「…ごめん…」
「…どうして?私が嫌い?子供だから?」
「…違うよ…俺はジェーンが大好きだよ」
「じゃあなぜ?私、もっと綺麗になるから!すぐ大きくなるわ!だから!」
「好きな人がいるんだ……」
「え……」
「日本にいた女の人で彼女の事が忘れられない…」
「日本にいるの?」
「ああ………」
「じゃあ、シバはなんでここにいるの?彼女のとこにいかないの?彼女を連れてこないの?」
「死んだんだ……」
「……死んだって……」
嘘をつく訳にはいかないので、柴崎は事実を言うしかなかったが、日頃目をそらしている事実を話して、自分がどうなるのか分かっていた。胸が苦しくなってくる。
「俺のお嫁さんだった人、もう今はいない人だけど、俺は今でも彼女が好きだ」
「…………」
ジェーンは俯いて椅子に座り直した。しばらく黙ったままだったが
「…どんな人だったの?」
「…彼女とは幼馴染みで、小さい頃から兄妹みたいに育った…」
「ずっと好きだったの?」
イタイ……
「……ああ……」
ムネガハリサケソウダ……
「……いいな…その人……」
柴崎は必死に胸の痛みを隠しながらジェーンの頭を撫でた。しばらく二人で話をしているうちに落ち着いたらしく、ジェーンは帰ると言い出した。柴崎はマギーを呼んで、自分は自転車なので送ってくれるように頼んだ。いっしょにセンターの外に行き、車の前で見送る。
「じゃあ、帰りましょうかジェーン」
「うん……シバ……」
「ん………?」
「また会ってくれる?」
「ああ、いつでもおいで」
「……ありがと……」
車が去っていった後、柴崎は自分の自転車に向かって歩き出した。頭の中がぐるぐる回る。歩いている筈がいつしか走り出していた。押さえていた感情が後から後から溢れでてくる。彼女の、もういない人の映像が頭の中に写し出される。痛みとともに蘇る…
息を荒くしながら、自転車に乗るが無意識の行動であった。感情の波に押しつぶされそうで、彼の目には何も映っていなかったのである。苦しい、胸がつぶれる……
襲い掛かる胸の痛みから逃れたかった。しかし、逃げる場所などどこにもないと知っている。ひたすら、家に向かって必死にペダルを漕ぐだけであった。部屋に辿り着くと、柴崎はバスルームに駆け込みシャワーを頭からかぶって大声で泣いた。痛みに堪えられず、床に座り込む。
いつも目をそらしている事実。もう彼女がいないという事、愛する人がこの世にいないという事。思い出せばいつもこの強烈な痛みに襲われる。苦しかった。
誰か……
祖母が死んだ時、初めて愛してくれた人、愛する人にもう会えなくなるという現実を知った。それから柴崎はずっと怖かった。祖父まで逝ってしまうのが…そして、彼も逝ってしまった。祖母が死んだ一年後の同じ日に。
もう誰もいない、俺を愛してくれた人は……
この先いつまでこの苦しみを背負っていくのだろう?いつこの悲しみは終わるのだろう?一年後か?三年後か?十年後か?死ぬまでか?堪えられない……
「誰か………」
今すぐ救って欲しい……
冷たい水を浴びながら、柴崎は膝を抱えて座っていた。
        *
 レコーディングが終わり、スタジオを出たヒューとケイは地下鉄に向かって歩いた。
「あ、そうだ、妹の騒ぎが治まって帰ったんだが、どうする?俺ん家来てもいいぜ」
「う〜ん、そうだな…いや大丈夫だ、どうせすぐアパートメント見つけるし」
「そうか。結構居心地いいのか?」
「……まあな」
「部屋貸してくれてる奴っていい奴なんだな」
「な、なんで?」
ヒューは少しドキリとしながら尋ねた。
「お前人に対しても警戒心強いだろ。干渉されるのも嫌いだし。他人とこんだけ長い間暮らしても不満がないなんて珍しいと思ってさ」
「………そうか……?」
「そうだよ。お、ここから行くわ。じゃあな」
「……ああ………」
ケイは地下鉄への階段を降りて行った。彼とはジュニアスクールからの付き合いで無二の親友である。知り合った頃、母親の恋人が嫌な奴で(母親の恋人で嫌な奴じゃなかった男などいないが)白人優先主義だった。その反発からかヒューは黒人や日系人の友達を多くもつようになった。だが、ある日、ケイに「お前は俺達の中にいれば優越感にひたれるから、いっしょにいるだけじゃないのか」と、言われショックを受けた。そして、少なからず自分の内にそういう気持があったと気付いた。しかし、そういう気持を差し引いても、皆が好きでケイも友達だと思っている事も本当なので、自分の気持を正直にケイに伝えた。その時から二人は本当の親友になったのである。
今では白人の友達も黒人の友達もいる。自分で言うのもなんだが、ヒュ−は人種に惑わされる事なく、その人そのものを見る自信があった。そして、それをできるようにしてくれたのはケイなのだ。彼の言葉を覚え返して、そうかもしれない、とヒューは思った。あの柴崎の家は心地良かった。今までそう感じたところはじいさんの所しかなかったのに……
不思議な気分だった。昔のじいさんとの思い出を重ねているのだろうか?
しかし、最近はなぜか彼を見るとイライラしていた。もやもやとしたシミが胸に広がり、何かを彼に言いたいのに言葉にならなくてくやしい、そんな感じである。クリンスから結婚していた事を聞いてからだった。
『結婚か………』
自分もいつかするのだろうか?今まで好きになった女性の顔を思い返すがいまいちピンとこない。
『なぜ結婚したのだろう?幸せだったのだろうか?』
しかし、結婚しなければ、連れ合いに先立たれるという悲劇を味わわずに済んだだろうに。真夜中、バルコニーで泣かずに済んだだろうに。ヒューは胸が苦しくなった気がして、振り払うように力一杯ペダルを漕いだ。

アパートメントの戻ると部屋は真っ暗であった。時刻はすでに十一時を回っている。
『柴崎、まだ帰ってないのかな?』
リビングルームに向かおうとしたヒューの耳に水音が聞こえた。
『シャワーの音?柴崎風呂に入ってるのか?』
しかしバスルームに電気は付いていない。蛇口をしめ忘れたのか、とバスルームに入ると真っ暗なバスルームの中、壁際に座わりこんでいる人影が見えて心臓が飛び上がる。
『えっ!!』
しかし、よく見るとその人影は柴崎であった。
「シ、シバ…か………」
「……………」
「何やってんだ?明かりもつけないで?」
彼の顔は立てた膝の上に置かれていて見えない。右肩にシャワーの水がかかっている。
「……………」
答えはない。眠っているのかとヒューは柴崎の肩を揺するが、途端に柴崎の身体は崩れて床に倒れた。
「へ?おい、どうし……」
起こそうとしたヒューは柴崎の身体が異常に熱いのに気付く。驚いて額に手を当てるとすごい熱だった。
「やべ〜」
大変だ。
ヒューは急いで柴崎の身体を抱き上げ、ベッドルームに運んだ。服がびしょ濡れだが、軽い彼はなんなく持ち上がった。タオルでも曵いた方がいいのかと一瞬ためらうが、邪魔くさくてヒューは濡れた柴崎の身体をベッドに寝かせた。彼は目を覚ます様子はなく、ぐったりしている。息も少し苦しそうで、熱はかなり高そうである。
『どうすればいいんだ?』
とりあえず濡れた服を替えた方がいいだろうと、ヒューは彼の服を脱がせ始めた。濡れているので脱がせにくかったが、なんとか上半身を裸にしてタオルで拭いてやる。やっぱり小柄な身体で自分よりひとまわり小さかった。しかし、思ったよりしっかりした体つきである。小さいけれど痩せているという訳でなく、ちゃんと筋肉もついていて、無駄なものがないという感じだ。手伝いで撮影道具を運んだ事があるが、結構な重量で、助手のいない柴崎は普段自分であの器材を運んでいるのだろうから、これぐらいの筋肉がつくのは当然かもしれない。ヒューが一番驚いたのは彼の肌がとても綺麗な事だった。
水滴に濡れた彼の肌はとても瑞々しくて、肌理細やかかで手に吸い付いてきそうである。思わずヒューは彼の背中を指で辿ってみる。見たままの滑らかな感触に背中がぞくりとした。
『何やってんだ俺は』
我に返り、柴崎がいつも寝る時に着ている浴衣を持ってくる。その時ヒューは自分がズボンを脱がせていないと気付いた。
『やっぱり脱がせなきゃいけないよな』
すごく後ろめたい、恥ずかしい気がする。
『同じ男同士だろ、バーとやっちゃえばいいんだ』
と、頭では思うのだが、なかなか行動に移せない。先程の指の感触が蘇って余計にヒューを躊躇わせる。考えた末、柴崎の身体をうつ伏せにしてそのままズボンと下着を脱がせた。背中から浴衣をかぶせて包み込む。浴衣の着せ方は見よう見まねの適当である。浴衣で寝る時は下着はつけないと言っていたので、履かせずにすんで助かったと思った。濡れたシーツを替え、彼の身体を再びベッドに寝かせた時、ヒューはヘトヘトだった。
『あ、濡れたタオル額に乗せるか』
しぼったタオルを持ってきて髪をかきあげると、改めてなぜ柴崎はバスルームにあんな格好でいたのだろうかという疑問が湧いてきた。身体を拭いている間も、浴衣を着せている間も柴崎は目を開けなかった。まるで、外界のすべてをシャットアウトしているかのように……
何かあったのだろうか?何か思い出したのか?ヒューの胸がズキリと痛む。その時、柴崎の瞳から涙が溢れ落ちた。
無意識のうちにヒューはその涙を拭い、唇で舐め取っていた。
自分でも何をしているのか解らない。ただ、彼の悲しみを、苦しみを無くしてしまいたかった。頬を唇でたどるうちに柴崎の唇に口付けていた。軽く触れるだけの口付けだったが、柴崎が息をしようと薄く開いた時、深く口付けてしまう。
彼の息は熱く、融けるようだと思った。
その時、ヒューは柴崎を好きになっている自分に気付いたのであった。
       二
「ヒュー、ヒュー」
誰かの呼ぶ声がして目をあけると、柴崎の覗きこむ顔がアップで見えた。驚いて一気に飛び起きる。
「起きたかい?俺はこれから仕事があるから行くよ。ごめん朝食作れなかった…」
『あ………』
柴崎の濡れた瞳を覗き込むと、ヒューの鼓動は高鳴った。夜色の瞳にたくさんの星が瞬いているように見えて…
「し、仕事って、まだ熱あるんだろ?休んだ方がいいんじゃないのか?」
「いや、今日は仕事関係で大事な人と会うんだ。それが終われば早退させてもらうよ。大丈夫だから、あんまり心配しないでくれ」
「あ、ああ………」
そう言われてもやはり心配である。
「じゃあ、いってきます。それと……」
「?」
柴崎は少し視線をはずしながら、彼にしては珍しく口ごもった。
「昨日は本当にありがとう、一晩中ついててくれたんだろ…ヒューがいてくれなかったら、もっと大変な事になってたと思う……」
「え、あ、べ、別に………」
『キスしたのばれてないよな………』
今さらながら不安になる。
「ありがとう、じゃ………」
そう言って柴崎は出掛けて行った。そしてヒューは彼のベッドで寝ていたのに気付いた。あの後、ベッドの傍らに付き添い、そのまま眠ってしまったのである。おそらく目の覚めた柴崎がベッドに入れてくれたのだろう。
大きく息をはきながら、ヒューは心を落ち着けようとした。
信じられない。同性を好きになるなんて……
自分はそっちの人間じゃないのに、なぜ?顔を洗い、支度をしながらヒューは考え続けた。柴崎と初めて会った時の事、いっしょに暮らし始めてからの事、どれを思い出しても愛しいと思う気持ちが湧いてくる。その感情の鮮やかさは、モノクロの世界にいきなり色がついたみたいだった。
「まいった………」
頭を抱えながら、ヒューはどこか幸せな気分に浸っていた。
電車に乗りながら、本当にヒューが居てくれて助かったと柴崎は思った。昨日、つぶれそうな胸を押さえてバスルームに座り込んで号泣したところまでは覚えているが、それからの記憶はまったくなかった。だるくて熱い身体に気が付いて目を覚ますと、ベッドの傍らでヒューが眠っていたのである。バスルームで倒れていた自分をヒューが運んでくれたのだとすぐに分かった。
少々乱暴な着せ方だったが、ちゃんと浴衣を着せて、身体も拭いて、額にタオルを置いてくれて……
彼の不器用な優しさがとても嬉しかった。こんな風に誰かについていてもらうなんて今までほとんどなかった。遠い誰かに愛された記憶が蘇りそうになるが、柴崎はその前にその記憶に蓋をした。蘇った後には失ってしまった今の自分を思い出すからである。もう彼は長い間そうやって悲しみに蓋をする術を身につけていた。愛された記憶や、昔夢見ていた事を思い出さないようにする方法を…
        ***
 今週の水曜日。ヒューはケイとルイスの店で夕食を食べる約束していた。自転車を走らせながらヒューは柴崎の事を考えた。今までと何も変わらないはずなのに、ヒューは何を話したらいいのか分からず、柴崎を見つめてばかりいるようになった。ちょっとした動作や仕種が、今までとはまったく違うように感じて気になってしまうのである。あの日の口付けを思い出して、つい唇を意識してしまう。そんな自分がむず痒い。
『本当に俺は彼が好きなのだろうか?』
今まで好きになった女性の顔を思い浮かべてみるが、柴崎との接点はない。第一男を好きになった経験など皆無である。
『もしかして錯覚か?』
住み心地のいい場所を提供してもらっているから、そう思うだけなのかもしれない。ここ数週間ずっと思い続けている疑問である。ルイスに相談すべきか迷ったが、やはり止めた。まだ自分でもなんの感情か分かりかねている状況なのだから……
吹き抜ける風が夏の終わりを感じさせた。

「ハッピーバースデー!ヒュー!」
ルイスの店に入ると、ヒューはいきなりクラッカーと拍手で出迎えられた。ぽかんとするヒューの前に大きな箱を抱えたケイが立つ。
「誕生日おめでとうヒュー。これで二十一歳だ。堂々と酒が飲めるな。はい、俺達家族からのプレゼント」
「え…え………」
「やっぱり忘れてたか。九月十八日、昨日だけどお前の誕生日だろ」
「忘れてた………」
「はは、お前らしいよ。で、内緒で誕生日パーティ開く準備してたんだ。ルイスの店は五十人以上じゃないと貸しきりにならねーから、皆知り合いをかたっぱしから集めてきたんだ。知らない顔もあるけど、まあ、ご愛嬌ってとこで」
ようするに皆、なにかの名目で楽しみたい訳だ。だしにされたのだろうが、たまにはこういうのも悪くない。
「おう、皆、ありがとう!」
ヒューが手を上げて応えると、またしても一斉に拍手があがる。
ルイスとこっそり来ていたアイリーンと婚約者からもプレゼントをもらった。そこからは普通のパーティと同じで、名々に飲んだり、食べたり、踊ったりして楽しい時間を過ごしていた。
「はあ〜い、ヒューおめでとう、遅れてごめんなさい」
バンドのボーカルであるキャロルが現れた。彼女の重役出勤は今に始まった事ではないので、慣れている。今のレコーディングも定時に来た時の方が少ないぐらいだ。
「はい、これプレゼント、ハッピーバースデー」
「あ、ありがとう………」
彼女から物をもらうとは予想外である。ほんの少しの間だけ、ヒューは彼女と付き合った事がある。ブロンドにキュートな唇をしたキャロルは見かけはとても魅力的だったからだ。しかし、彼女はわがままで、だらしなかった。大麻やマリファナを吸い、乱交パーティーなどにも平気でいくので、道徳に結構うるさいヒューはすぐに愛想がつきて彼女と別れた。が、彼女はまだ未練があるようで、よりを戻せるチャンスを狙っていた。色目を使ってくるが、バンドメンバーである以上じゃけんにする訳にもいかず、今はあいまいな態度で誤魔化していた。
「キャロルじゃないか?」
「あら、ジェームスじゃない?しばらく〜」
キャロルが去っていったので、ヒューはほっとした。彼女に会うのはレコーディングの時だけにしたいものである。
「大丈夫か、ヒュー」
ケイが気の毒そうに見ている。
「ああ、なんだって、あの女も呼ぶんだよ〜」
「レコーディング中にばれちまったんだよ」
「……ボーカル変えたい………」
「しょうがないだろ。いきなりボーカルが抜けて、コンクールに間に合う他の人間がいなかったんだから」
ヒュー達のバンド『マクベス』には元々男のボーカルがいたのだ。が、彼はヒューの作った曲を自分のものとして、あるレコード会社に売り込み、単独契約をしたのである。それも、バンドコンクールが間近に迫った時に。ただでさえ、ドラムのいない最小人数だったのに、ボーカルがいなくなるなど、最悪であった。慌てて変わりのボーカルを探して、見つかったのが彼女だったという訳である。技量はともかく、性格まで考慮している暇はなかった。まあ、おかげでロッホ・インダストと契約出来たのだが……
話していたヒューは店に入って来た人物を見て息を止めた。柴崎だった。彼が箱を抱えてごったがえす人込みの中、きょろきょろしながら歩きだす。俺を探しているのか?訳もなくヒューの胸が高鳴る。柴崎をじっと見つめ、俺はここだと心の中で呟いた。
「おっ、柴崎さんじゃないか。お〜い、ここですよ」
ケイが大きく手を振ったので、それに気付いた柴崎はヒュー達を見つけた。
「やあ、こんばんは。お招きありがとう」
「あ、ああ。ケイ、お前、彼にも話してたのか?」
「おうよ。お前がやっかいになってる人だからな。声かけるのは当然だろう」
まったく、目ざとい奴だと思ったが、ヒューはとても嬉しかった。
「はい、プレゼント。誕生日おめでとう」
持っていた箱をヒューに渡す。
「……ありがとう……」
「あ、柴崎さん、何飲みます?俺とってきますよ」
「ありがとうケイ、じゃあビールを」
「分かりました。とってきます」
ケイが席を立ち、二人っきりになる。
「あ、あの………」
「うん?」
ヒューは何か言わなきゃと思ったが、上手く言葉が出てこなかった。側にいる彼を見つめて胸が高鳴っている。
「ありがとう、来てくれて。仕事忙しかったんじゃないか?」
「いや、大丈夫だ。突然ケイから電話があった時は驚いたけど嬉しかったよ。こんなパーティー久しぶりだから楽しみだったんだ。ヒューのおかげだな」
柴崎がにっこりと花が咲いたような笑顔を見せる。
抱き締めたい。
突然沸き上がった衝動をヒューは必死に押さえた。
「シバサキさん、こんばんは、よく来てくれたわ」
ビールを取ってきたケイといっしょにルイスがやって来る。聞くところによると、ケイとルイスといっしょにこの店で打ち合わせをしたらしい。
「シバサキさんの名前で今夜貸し切ってもらったのよ。オーナーも彼の本のファンだからすごく喜んでたの」
「こちらこそ、光栄です」
「サインもらっちゃったの〜これから店に飾るわ〜」
「柴崎さんでいらっしゃいますか?」
声の方に振り向くと姉のアイリーンと恋人が立っている。彼女はヒューを見ながら咳払いをした。目が『紹介しろ』と言っている。
「あ…俺の姉貴のアイリーン。彼は婚約者のブレイド氏」
「はじめまして。姉のアイリーンです。弟が大変お世話になっております」
「いえ、こちらこそ。彼には仕事など手伝ってもらったりして助けてもらっています」
「今度また写真集をだされると聞きましたが……」
「写真集ではありません。個展を開くので、その会場でだけ販売する小冊子を作る予定です」
「…あの、もしかしてチヒロ・シバサキのお知り合いの方ですか?」
隣でビールを飲んでいた学生らしき男が聞いてくる。
「知り合いというか……」
「え、何、何チヒロ・シバサキ?あの『PIECE ON MY HERT』の?来てるの?」
回りがざわめきだし、人々が柴崎の回りに集まってくるので、ヒューは徐々に押されて輪の中からはじきだされてしまった。
「さすが有名人だぜ。でも『PIECE ON MY HERT』を撮った人には見えないな。初めて会った時はびっくりしたよ」
「ほ〜んと、もっとおじさんだと思ってたわ。ケイも日系で若く見えるけど彼はすごいわね」
「でも、雰囲気があの本のとおりだと思ったよ。なんか、やわらかいっていうか、ほっとするっていうか」
「笑った顔とかむちゃくちゃかわいいのよね〜」
「ルイス!」
「な、なによヒュー?」
柴崎を取り囲む野次馬や、ケイとルイスの会話を聞いてヒューはむかついてきた。
「ウイスキー持ってきてくれ。ダブルで!」
「なによ、いきなり」
「早く!今日は俺が主役だろ!」
「はいはい。まったく何怒ってんだか」
ルイスはぶつぶつ言いながらカウンターに入った。
「どうしたヒュー?」
「別に……それよりケイお前、いつ彼と会ったんだ?」
「ほんの一週間前だよ。お前に教えてもらったマンションの電話番号にかけてな。こっそりパーティー開きますけど参加してくれますか、って聞いたんだ」
「……ふ〜ん………」
「いい人だな、あの人。お前が懐くのも分かる気がするよ」
懐く?そんなんじゃない、とヒューは言いたくなる。
「不思議な雰囲気もってて、なんかほっとする感じがする。さすがあの写真を撮った人だと思ったよ」
「ああ……そうだな………」
彼は人をほっとさせる。少し前までヒューもそうだった。しかし今はどうだろう?彼を見る度にどきどきしたりむかついたり、ほっとするどころではなくなっていた。
『本当に俺はあの人の事が好きなのだろうか?』
女の子を好きになったら、ヒューはいつも楽しくてわくわくして一直線に進んでいった筈なのに……
「はい、おまたせ。結構きついからゆっくり飲んで……」
ルイスが差し出したグラスを奪うように取ると、ヒューは一気に飲みほした。
        *
「大丈夫かヒュー?」
「う〜………」
「まったく何やってんだか、今夜の主役だからって飲み過ぎだぞ!」
あれからルイスの持ってきたウイスキーをがぶ飲みしたヒューは、酔っぱらってひっくり返ってしまったのである。一人で立てなくなる程になってしまい、ワゴン車で来ていたケイの友達に送ってもらう事になった。
「ついたぞヒュー、降りろ」
「う〜………」
ケイが蹴りとばすようにヒューを車から降ろし、柴崎と両側から担いでマンションのエレベーターに乗った。
「すいませんね、柴崎さん」
「何が?」
「こいつこんなにグデングデンにしちゃって。家が同じなんだから、一番迷惑かかるの柴崎さんでしょ。ほんとすみません。強い方じゃないからこんなになるまで飲むなんて滅多にないんですけど……」
「気にしなくていいよ。迷惑なんて思ってないから」
「そうですか、良かった……」
「うん」
「……こいつ無愛想だけど結構いい奴でしょ?」
「ああ、そうだね。いい子だ」
外見と懸け離れた大人の口ぶりだが、嫌味なくやさしく聞こえる。ケイは柴崎がとても自然にヒューを受けとめてくれているのだと分かり、ヒューが住み心地良く思っているのは当然な気がした。
「あんまり表情変えないけど、涙もろいでしょ」
「そうだね、感動ドラマとか見て涙ぐんでたり」
「そういう時必死に我慢してるけど、分かりますよね」
「でも、本人は完璧に隠してると思ってる」
「そうそう、バレバレなのに」
ケイと柴崎が笑いあっているうちに階に着いた。
「じゃあケイ、今夜はありがとう」
「俺も部屋まで運びましょうか?」
「いや、すぐそこだから大丈夫だよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
エレベータを降りて廊下を歩く。ヒューを抱えてよろよろしつつ、部屋の前にたどり着いた柴崎は、鍵を開けて中に入った。
『う〜重い〜』
ケイの申し出を断った事を後悔しつつ、ヒューの部屋に足を踏み入れる。その時、肩にもたれていたヒューの顔が上がった。
「シバ………」
「ん、何?」
「日本人って本当に黄色肌してるな……」
「何をいきなり……起きたんならちょっと自分で歩け」
『重い〜』
「フレンチトーストみたい………」
「へ?」
ベッドにヒューを転がせようとした時
「うまそ………」
「うわ!」
ヒューが項に噛み付いてきたので、驚いた柴崎は力が抜けて、いっしょにベッドに転がってしまった。
「なにすんだヒュー………」
背中にしっかりヒューが乗っている。
「重い、早くどけ〜。飲みすぎだぞ〜」
なんとか起き上がろうとするが、ウエイトが全然違うのでヒューの身体は一向どかせられない。
「こら!ヒュー」
「ん………」
身じろぎしたヒューがどくと思ったが、また彼は項に噛み付いてくる。
「いて!」
そんなに痛みがある訳ではないが、堅い歯の感触に首がすくむ。それにとてもくすぐったい。
「ヒュー、俺は食べ物じゃないぞ〜おい〜」
まったく、と思いながら身体を抜けだそうとすると、ヒューが手を回して柴崎の身体をしっかりと抱き締めた。
『え………』
優しい、強い抱擁に何かを感じて柴崎は動きを止めた。愛しいものでも抱くようにヒューは柴崎を包みこんでいた。背中に押し当てられたヒューの額を感じる。
小さいな……
と、ヒューはぼんやり思った。
それにいい香りがする……
女のつける香水の人工的な香りではなく、花の香りでもない、芳醇な自然の香り。いつも柴崎の部屋に漂うお香の香りだった。もう彼の香りそのものになってしまっているのだ。
好きだ……俺はこの人が好きだ………
誰にも渡したくない………
思わず抱き締めている手に力が入る。すっぽりと自分の腕におさめられた柴崎の身体。彼の体温が心地良くて、ヒューはそのまま眠ってしまった。ヒューが眠ったのが分って、柴崎はゆっくりと彼の下から抜け出した。大きく息をはいて落ち着こうとした。
『な、何をドキドキしてるんだ』
逃がすまいとするかのような彼の手の強さ。項にたてられた彼の濡れた歯の感触。特別な感情があるかのような気がして柴崎は慌てる。
『ばかな……何があるっていうんだ?ちょっと酔っぱらっただけだろう』
ヒューの考えている事はすぐ分かる。ケイの言ったとおりヒューはポーカーフェイスのつもりらしいが、彼の考えている事は柴崎はすぐ分かった。ちょっと不器用で、無口だけど優しくて素直だともう知っている。自分を好いてくれているのだろうという事も………
ジェーンや他の世話した子達と違って、ヒューは誰かの代わりとして(例えば親とか)好いてくれているのではない。柴崎千尋という一人の人間を見てくれているのはとても嬉しかった。きっと、兄や弟に対する気持ちに似た好意をもっているのだろう、と、この時の柴崎は思っていた。
        ***
 その日ボランティアは、夜にホームレス救済センターで食料配給する予定であった。レコーディングを途中で抜け出し、福祉センターに到着したが、皆、出かける様子がなかった。
「やあ、ヒュー」
「シバ、どうしたんだ?なんか様子が………」
ふと、マギーの姿が目に入ったが彼女は泣いていた。しかも他の女性職員に慰められている様子である。あの気の強いマギーが。
「何かあったのか?」
「今日の配給は中止になった。予定していたトラックが手違いで明日着く事になったそうだ。すまないな、早退までしてくれたのに」
「別にいいけどよ、それだけでマギー泣いてんのか?」
「いや…ジェーンが…この福祉センターに保護されていた子で、母親とオレゴンに行った子なんだけどな」
「うん?」
「…ロスアンジェルスで逮捕された…」
「はあ?」
「ちょっと歩いて帰らないか?もうここにいても意味ないし………」
「ああ………」
ヒューは自転車を降りて、押しながら柴崎と帰り道を歩きだした。最近空気が冷たくなってきていた。
聞くとジェーンという女の子は、再婚した母に連れられオレゴンに行ったが、義理の父親と上手くいかず逃げ出したそうである。そして不良グループと行動を共にしていたが、そのグループが麻薬を売買しており、その一斉逮捕の時に共に逮捕されたとの事だった。どの程度犯罪にからんでいたか分っていないが、刑事責任が問われる為、そういった矯正施設に送られるのは間違いないらしい。なによりロスアンジェルスでは管轄が違いすぎるので、こちらに戻すのは不可能だった。
「……そうか……」
「…………」
ヒューは柴崎が自分を責めているのではないかと思った。自分の知らないところで、知らない人によって、また哀しむのだろうか。
「……聞いていいか?」
「なに?」
「シバの嫁さんってどんな人だったんだ?」
「…………」
ずっと聞きたくて聞けなかった質問をとうとうヒューは口にした。今聞かなければとなぜか思ったのである。
「……幼馴染みでね。同い年。小さい時からずっといっしょにいた……」
「結婚したのは?」
「……二十三の時。写真で食べていけるかな、て思い出した頃……」
彼女と暮した三年間は一人になる不安を持たずにいた唯一の日々だった。帰る家と待っていてくれる人がいた唯一の……
「事故って?」
「自動車事故だよ。居眠り運転していた男の子のトラックと衝突したんだ…」
いつもは避ける話をなぜか柴崎は喋り続けた。話してしまいたい気分になったのは、ヒューだからかもしれない。心のどこかが麻痺している感覚だった。遠い誰かが体験した昔語りを話しているような気分である。
「男の子もシートベルトをしていなかったので、その時死んだ。彼が居眠りする程働いていたのは、身体の悪い母親の手術費を稼ぐ為だったんだ…」
「え………」
「なあ…ヒューなぜかな……」
「ん………?」
「…誰も悪くないのに…皆悲しいんだ……」
覗き込むと柴崎の黒い瞳が濡れていくつもの光が揺れていた。
「シバ……」
「…ん………」
彼は自分が泣いている事に気付いていないようである。瞳が遠いどこかを見ていた。濡れた瞳を自分に向けていても、彼はヒューを見ていない。たまらなくなってヒューは柴崎の小さな身体を抱き締めた。手を離れた自転車が地面に転がる。
「ヒュー……」
本当に俺はこの人が好きだ、とヒューは思った。本当に本気で好きだ、守りたい……
「好きだ…………」
「え…………」
「俺はあんたが好きだ…………」
「な……に…………」
「愛してる…………」
「……ヒュー…………」
ヒューの腕の中で柴崎は驚いて声もでずにじっとしていた。彼の体温を感じながらいつしか消えた胸の痛みに気づかずに……
冷たい風が吹く中、二人は長い間そこに立っていた。