AKATHUKINITE…3

       三
 十月も半ば過ぎ、季節はもうすっかり秋であった。柴崎に気持をうちあけた日から幾日か過ぎたが、ヒューの目に彼は何も変わらないように見えた。まるで自分の告白などなかったかのように…
そんな柴崎の態度にヒューは安心する一方とまどってしまった。自分の事をどう思っているのだろう?ずっと考え続けてやっとの思いで告白したのに。冗談だと思っているのかもしれない。それとも聞かなかった事にしたいのだろうか?男からの告白だったから?
確かめたくても、怖くてできない。結局ヒューは告白する前と同じ状態に陥ってしまった。いや、それよりも余裕がなくなった分、苦しさは増したようだった。
        *
「ルイス!おかわり!」
バイト帰り、ルイスの店に寄ったヒューは、酒をくらってカウンターに伏していた。
「やめときなさいよ、もうグデングデンじゃない」
「うるせー飲みたい気分なんだ…………」
「駄目!弱いくせに無理しなさんな」
グラスを拭きながらルイスは辺りを見渡した。もう午前三時をまわった頃で店に客は一人もいなかった。
「もう、いい加減に帰りなさいよ。私も店が閉められないじゃないの」
「…………」
「まったく。何やけになってんだか…」
「……なあ、ルイス……」
「何?」
「なんでゲイになったんだ?」
「はあ?何、いきなり?」
「……なんでだ……」
「……さあ、もの心ついた時から好きになるのは皆男だったのよ。これでも昔は悩んだのよ。世間や家族の目を気にして」
「いつから気にならなくなったんだ……」
「気になってるわよ。ただ、私は自分らしく生きたいだけよ。自分に嘘ついて生きるなんてごめんだわ。生きる意味がないもの」
「……そうか……」
「……なに、柴崎のこと?」
「え…………」
「彼が好きなんでしょ」
「え!」
ヒューは顔を上げた。
「やっぱりね」
「…なんで……」
「分ったのかって?この前にパーティーでなんとなくね。ただヒューはゲイじゃないから確信なかったんだけど」
「…………」
「告白したの?」
「…………」
「で、どうなの?」
ヒューは頭を垂れた。そんな彼を見てルイスはため息をついた。
「俺……嫌われたかな……」
「そう思う態度されたの?」
ヒューは力なく首を振る。
「全然変わんねー」
「そう……きっと、彼もいきなり告白されてとまどってるんじゃない?態度が変わらないなら嫌っているんじゃないと思うわ。むしろ嫌ってないから分からないのよ」
「……そうかな……」
「そうよ。何?ヒューは彼が嫌いな感情を押さえて、とりつくろった態度とってると思う?」
「…………」
柴崎は自分より大人だけれど、自分の感情を押し殺した態度ができる程、器用な人間ではないと知っている。確かに彼の態度は変わらないが、本当に変わらないのだ。その後ろにある感情も軽蔑的なものへと変化したのでもない。少なくとも嫌われてはいないのだろうが、やっぱり何の進展もない。
「あ〜あ……」
ヒューはまたカウンターにうつ伏した。恋がこんなに辛いなんて初めてである。
        *
 真夜中、柴崎はふっと目を覚ました。時計は午前三時をまわった頃でヒューはまだ帰っていないようだった。もう一度眠ろうとしたが目が冴えてなかなか寝つけない。
柴崎はヒューの気持を知ってからもできるだけ普通に接しようと思った。しかし、自分を見つめるヒューの熱い視線に気付いてしまったので、それはかなり難しかった。一人になってからも、先程ヒューとかわした会話でおかしな事を言わなかっただろうか、とか変な態度ではなかっただろうかとか、気になって仕方なかった。ヒューの気持ちを無視しているつもりはないのだが、どういう態度をとればいいのか分からないのである。なにより、彼をどう思っているかなんて……
ずっとこのままではいけないのだろうか……
「あ〜もう……」
眠るのをあきらめた柴崎は台所に行き、月明かりの中、水を飲んだ。ヒューはいつ帰ってくるのだろう?彼が気になって眠れない。待っていようか?
でも、待っているなどと知られたら恥ずかしいし……
考えた末、夜の写真を撮っていたという言い訳を思い付き、カメラを持つ事にする。リビングで明かりもつけず、ソファに座った柴崎は不思議な感じがした。見慣れている筈の夜の部屋がいつもと違って見える。なぜだろう、どこか暖かさを感じるのは……部屋が暖かく感じるのは彼が帰ってくると分かっているからだ。独りじゃない、誰かと暮す部屋になったから……
月の光がいつになく優しく感じて、柴崎はアイルランドでオーロラを見た時の事を思い出した。あの満天の星空の下で、地球が沈黙の唄を歌っている光景を見た時の事を……その光景を撮るのがずっと長い間の夢だったのに、いつの頃から忘れてしまっていた。柴崎の胸にヒューの告白が蘇る。
『あ………』
自分が熱くなるのを感じて柴崎は胸を押さえた。いつもの引き裂かれそうな痛みではなく、それは甘い感覚だった。ヒューが自分の中で大きな存在になっていると柴崎は初めて気付いた。しかし、それが彼の求めているものかどうかは分からない。
結局、その夜柴崎はヒューが玄関の鍵を開ける音を聞いた途端、部屋に駆け込み寝たふりをしてしまったのだった。
        ***
 十一月、ミッドタウンでチヒロ・シバサキの個展が開かれた。『PIECE ON MY HERT』の知名度もあいまってさほど宣伝していないにもかかわらず、人の入りは上々であった。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
マスコミ関係や知人やらの対応で、忙しくしていた柴崎のところに、一人の女性が挨拶にやってきた。
「こんにちは、柴崎さん。この度は個展開催おめでとうございます」
「あ、アイザックさん。来てくださったのですか?」
それはヒューの姉、アイリーンであった。
「ええ、まだ弟がお世話になっているようで申し訳ありません」
「いいえ、とんでもありません」
柴崎は少しドキリとしながら返事をした。
「本当にぐーたらな弟で申し訳ありません。今度、私からも早く住む所を見つけて早々に出て行くように言っておきますね」
「え………」
柴崎の胸がズキリと痛む。
「ところで今回多数の写真が出典されていますが、いつ頃撮られたものなんですか?」
「え?」
アイリーンの口調が記者のそれになる。
「『PIECE ON MY HERT』の二号と同じ時期ですか?」
「そうですね…どう思われましたか?」
「え?私がですか?」
「はい」
「そうですね…雰囲気は同じですが、今回は風景が多いようですね」
「そうですか」
「第三号も予定されているのですか?」
「……どう思われます?」
「え………」
アイリーンはやばい〜と思った。実はチヒロ・シバサキはインタビューに応えた事がなく、出版された本にもコメントを一切載せていない。業界ではマスコミ嫌いだと噂されているのである。顔写真も載った事がないので、結構な老人だと一般的には思われていた。こんな少年のような男性だと知ったら皆驚くに違いない。事実、アイリーンもそうだった。先日、ポロっと編集長に弟がチヒロ・シバサキと暮していると話してしまい、世間話でもしているふりをして何かコメントもらってこい、と言われてしまったのである。そして、今日ここに来たのであるが、彼にばれてしまったらしい。黒く、大きな瞳に真直ぐに見つめられていると、こちらの姑息さが見すかされている気がしてアイリーンは恥ずかしくなった。
「あ、お、お忙しいようですから、これで失礼します!」
と、言いながら急いで会場を後にする。ビルの外に出て歩いていると、アイリーンは強烈な自己嫌悪の波に襲われた。
『あ〜あ、やっぱり来るんじゃなかった〜。無茶なんだよ、あのチヒロ・シバサキからコメントとるなんて〜』
見かけがあれだけに、ついついみくびってしまったが、彼は立派なアーティストなのだ。彼の考えを理解してもっと尊重して、信頼されなければならなかった。不粋な事をしてしまった……
『ヒューがあれだけお世話になっている人なのに』
アイリーンは立ち止まり、一言でもお詫びしなければと、会場に引き返した。

「シバ、お客さんよ」
控え室にいた柴崎にクリンスが声をかける。
「はい、あ………」
クリンスに促されて部屋に入って来たのはヒューであった。
「じゃ、私は仕事があるから」
と、クリンスが出てゆき、部屋には二人だけになる。
「…来てくれたのか………」
「……招待券くれただろ。見て帰ろうと思ってたけど、クリンスさんが会っていけばって……」
彼女は観に来た事を知られるのを恥ずかしがっていると思ったらしい。
「そ、そうか………」
なぜだか柴崎は動揺して、ヒューの顔をまともに見れず、いつもと同じ態度をとれなかった。
先程のアイリーンの言葉が蘇る。
『早々に出ていくように……』
胸がまた痛む。
「?どうした?」
「え!い、いやなんでもない…そうだ、ヒューのお姉さん来てくれたよ。ついさっき帰ったんだが、会わなかったか?」
「アイリーンが?いや会わなかったな」
「そうか………」
「…………?」
ヒューの熱い視線をいつになく意識してしまい、柴崎は息が苦しくなってきた。そんな彼の様子を見て、ヒューは何かと思った。
自分が来たのが気に入らないのだろうか?なぜ、こちらを見て話してくれないのだろう?どこかとりつくろったような彼の態度にヒューは苛ついてくる。いっそ胸ぐらを掴んで、俺の事をどう思っているのか怒鳴りつけて問いただしてやろうか。こんな生殺しは止めてくれと叫びたい。
「コーヒーでも飲むかい?持ってくるよ」
そう言いながら柴崎がヒューの横を通り過ぎた時、ヒューは振り返って彼を後ろから抱き締めた。
「あ………」
堅くする柴崎の小さな身体を強く抱き締め、目を閉じて彼の肩口に顔を埋める。
「…なんで好きになったのかな……」
「ヒュー……」
「こんなに好きになるなんて…ばかみてー」
「……………」
ヒューの辛さが伝わってきて、柴崎は顔を伏せた。どうしたらいいんだろう?自分は彼をどう思っているのだろう?何もいえず、柴崎はじっと立っている事しか出来なかった。そして、そんな二人の姿をアイリーンがドアの隙間から見ていた。謝罪しようと引き返してきた時、ヒューが部屋に入っていくのが見えたのである。秘書にことわり、部屋に近づいて、ヒューが出て来た所を驚かしてやろかな、と思い覗いてみたのだ。目に飛び込んできた思いもよらぬ光景に、彼女もまた、立ちつくすしかなかった。
        ***
 次の日、柴崎はアイリーンから電話で話があるから会ってくれ、と言われた。約束したカフェに行くとアイリーンが緊張した面持ちで座っている。
「すみません、お待たせして」
「…いえ、こちらこそ、急にお呼びしてすみません……」
「いえ、それで、お話とは?」
「…あの、まずは、昨日は失礼いたしました。いきなりインタビューみたいな事を始めてしまって…不躾でした。申し訳ありません」
「ああ………」
なんだ、その事か、と柴崎は拍子抜けした。彼女から話というので、ヒューの事だと思ったのだ。住む所が見つかったから連れていくとか、そんな話かと……
柴崎がコメントやインタビューに応えないのは、自分の作品を見てもらう人に変な先入観をもってもらいたくないからである。自分の言葉のせいで、この作品はこう感じなければならない、と思ってほしくないのだ。だが、その事で回りの協力してくれている人達に迷惑をかけているのは知っている。オファーを断る時、嫌な思いをしているだろうに、皆、何も言わずやってくれていた。なのに自分がアイリーンの言葉に応えて、彼らの今までの苦労を無駄にする訳にはいかないのだ。
「それと…不躾ついでに思いきってお聞きします。あなたとヒューはどういった関係なんですか?」
「え………」
「あの…あの子が…ヒューが、あなたの事好きだって…その…つまり…そういう関係ですか?」
アイリーンの声は小さかったが柴崎ははっきり聞こえた。回りのざわめきがまるで耳に入らず、彼女の声だけが耳に届く。
「……あ…それは……」
「あなたも、ヒューを…そういう意味で好きなのですか?」
そういう意味で?恋人として愛しているかという意味で?
「あの子は……別にそっちの子じゃなかったんです。普通に女の子とつきあってましたし。あなたも以前結婚してらしたと聞きましたが…」
「……………」
「どうなんです?あの子に何か変な事教えたりとかしていませんよね?その…言葉が悪くてすみません、でも、ヒューを遊びに利用しているのなら止めて下さい。あの子結構ナイーブなんです」
語気が少し荒くなる。彼女は本気でヒューを心配しているのだ。たった一人の弟を……
「……違います…」
「はい?」
「私とヒューはそういう…あなたが心配しているような関係ではありません。心配なさらないで下さい」
「でも、あの子はあなたに…」
「確かに…そういう事を言っていましたが、それは恋人のような愛情ではありません。弟が兄を慕う感覚ですよ。彼はちょっと勘違いしているようですが……」
「……じゃあ……」
「一時的な錯覚ですよ。ヒューはお父様がいらっしゃらないんですよね?つまり、その情を私に重ねているだけです」
「そうなのですか……」
「ええ、私と彼との間には何もありません。彼もちょっと勘違いしているだけですから、すぐに気がつくでしょう」
そうだ、そうに違いない。彼はきっとすぐに自分を忘れて新しい恋をするだろう。
「そうだったんですか。まあ、私ったら大変失礼な事を……本当に申し訳ありません」
「いえ、弟さんを心配するのは当然ですから」
「本当になんてお詫びしていいのか。そういう事情でしたら、早くあの子を出ていかせた方がよろしいですね。離れた方があの子も早く目が覚めるでしょうから」
「そうですね、その方がいいでしょう」
目の前にいる女性と話しているのは誰だ?
柴崎はアイリーンと話ながら奇妙な違和感を感じていた。自分の口が、表情が勝手に動いて喋っている。まるで、もう一人の自分のお芝居を遠くから見ているような感覚だった。その自分は大きな仮面をかぶっている。自分の感情に蓋をするのはもう慣れっこだ。そうしなければ悲鳴をあげる心を抑えられない。ヒューはいつかきっと新しい恋をして、出て行くに違いないのだ。他の子供達と同じように。
何を期待していたのだろう。彼がずっと自分と暮すとでも思っていたのか。
いつもと同じだ。どうせ失うと分っているなら、初めから受けとめなければいい。
アイリーンと別れても、柴崎は仮面をつけたままで家に帰った。
        *
 バイト中、いきなりアイリーンから呼び出しをくらったヒューは、うっとおしく感じながらも来いと言われたバーに出向いた。
「なんだよ、いきなり呼び出して。こっちの都合ぐらい考えろよ」
「強引に言わなきゃあんたいつまでたっても来ないでしょう。はい、これ」
アイリーンは一枚の封筒を差出した。
「なんだ?これ?」
「あんたの新しく住む所見つけてきたのよ。手続きもすませてきたからその書類。
それと少ないけど引っ越し費用がはいってるわ」
「…ちょ、ちょっと待ってくれよ、そんな急に……」
アイリーンの言葉にヒューは焦った。今までこんな風に自分に干渉してきた事などなかったからだ。
「早く引っ越しなさいよ、あんたの為よ」
「いきなりなんだよ、頼んでもねーのに勝手に決めてきて。断ってくれ」
ヒューは書類を突き返した。
「…あんたが引っ越さないのは柴崎さんから離れたくないからなんでしょ」
「な…………」
「この前の個展会場の部屋であんたが彼を抱き締めてるの見たのよ……」
思いもしなかった言葉にヒューは落ち着きを無くして、そわそわしだした。カンニングが見つかった子供のような後ろめたさを感じる。
「…別に…アイリーンには関係ないだろ……」
「何言ってるの、ばかな錯覚して。柴崎さんだって迷惑でしょ、早く部屋を出なさい」
「錯覚じゃねーよ、俺は本気であの人が好きだ」
アイリーンの言葉にむっとしたヒューは開き直って言い放った。
「ねえ、もしかして私のせいなの?」
「はあ?」
「私が婚約したから淋しくなって、それで……」
「ばか言うなよ、あんたは関係ねーよ」
「ヒュー、おじいさん好きだったでしょ。父さんも覚えてないし、年上の男の人に優しくされたの初めてだから、その代わりとしてみてるのよ。ちょっと離れたら冷静になって気がつく筈よ」
「違うって言ってるだろ。代わりとかじゃねーよ」
「だから気がついてないだけだってば。落ち着いて考えてみなさいよ、あんたゲイじゃないでしょ」
「俺は冷静だ!何も知らないのに俺の気持ち分った口ぶりするなよ!むかつく!」
ヒューは本気で腹がたってきていた。たった一人の肉親(母親は肉親だと思っていない)であるアイリーンからそんな言葉を聞きたくなかったのだ。
「それとも何か?弟の俺がゲイだってばれたら婚約が解消されるから焦ってんのかよ!」
「何言ってるの、私は本気で心配してるのよ!いい加減目を覚ましなさい!柴崎さんだってあんたの錯覚に気付いてるんだから、夢見てるのはあんただけなのよ!」
「はあ?…今なんて……」
「柴崎さんは冷静よ。あんたの気持ちが父兄的な情だって分ってたわ」
「…彼がそう言ったのか……?」
「そうよ、彼も早く離れた方がいいって言ってたわ」
アイリーンの言葉が、ヒューの胸に鋭い矢になって突き刺さった。
『父兄の情…?なんだよそれ…』
「とにかく、今はあそこから離れるのが一番いいと思うから、とりあえず引っ越しなさい。いいわね」
ヒューの耳にはアイリーンの言葉が、回りのざわめきといっしょにガンガン鳴って聞こえた。呼吸が苦しくなる。今まで自分が悩んだのは一体なんだったんだ、とヒューは思った。彼が好きだと自覚してからの苦しみも、告白する時どれ程の勇気を必要としたのかも、告白してからの彼の変わらない態度にとまどったのも……
『全部本気だと思っていなかった?俺一人の空回りだったのかよ……』
ヒューはふらりとおぼつかない足取りで立ち上がった。
「ヒュー?どうしたの?とにかくこの書類を…」
「うるせー!」
アイリーンの手を払いのけると、ヒューは走りだして店を出ていった。
外に出てからも無意識に走り続けた。頭の中で雑音がまだガンガン鳴っている。浮かんできた柴崎の顔を払おうと、何度も頭振った。次第に歩調が遅くなり、荒く息を上げながらヒューは夜道を歩いてた。ポケットに突っ込んだ手が、あのお守りのピルケースに触れる。彼女の部屋から取ってきたこのピルケースには、青酸カリのカプセルが一錠入っていた。
客の中に自殺志願者の男がいて、その男の物だと語っていたが、本当に毒薬なのかは分からない。だが、彼女がこの薬をお守りのようにしていたので、取ってきてしまったのだった。当時、母親の恋人だった男によく殴られ、これを使って殺してやろうと考えていたのだが、結局使わなかった。しかし、男の命を自分はいつでも奪える、という優越感は心を随分と楽にしてくれたように思う。
今、使ってやろうか………
彼が、柴崎がいなくなったら、自分はなんと楽になれるだろう。柴崎のいなくなった世界を想像してみる。
「は………」
ヒューは自嘲気味に笑った。彼のいなくなった世界…それはなんと退屈な色褪せた世界だろう。もう、自分は戻れないのだ、彼を知らなかった自分には……
こんなに好きにさせておいて、当の本人は俺のことなどけほども思っちゃいないのか……
いきなり彼の香りを思い出す。あの瑞々しい優しい香り。いなくても彼の香りを感じる。星がなくなっても光りが消えないように……
彼女は消えても思い出が残り、俺の惚れた人は思い出の女を愛してる……
重くなった心と身体をヒューは引きずりながら歩き続けた。
        *
 夜、柴崎はベッドの中で目を閉じていた。真夜中だったが、今夜も眠れなかった。
このところずっとそうであるが、彼はあまり気にしなかった。心の一部を彼はロックしたままで生活していた。
遠くで鍵を開ける音がする。ヒューが帰ってきたのだろう。しかし、どこか乱暴な雰囲気だった。足音もいつもより早い。と、思うと同時に寝室のドアが開き、部屋の明かりがつけられた。驚いて顔を上げるとヒューらしき人影が、ドアのところに立っているのが微かに分かる。暗闇からいきなり明るい電気が灯されたので、目が慣れないのだ。
「ヒュー………」
ヒューは無言でベッドにかけより柴崎の手を掴んで身体を起こさせた。
「……な…に………」
いつにない乱暴な素振りに柴崎はとまどう。それに酔っているのかお酒の匂いもする。
「あんたは俺の事どう思ってるんだ?」
「え?」
「俺の告白をなんだと思ってるんだ。いいか俺は本気だ、あんたに父親の代わりなんか求めちゃいないぜ」
「……………」
「俺の事どう思ってるんだ!答えろ!」
「ヒュー………」
ヒューの瞳も言葉も熱くて激しくて、燃えるようだ。そんな視線に堪えられず、柴崎は顔を逸らせた。
「きっと、勘違いしてるんだ……俺を好いてくれてるけど、それは友情の延長で……」
「俺の気持ちは俺が一番知っているんだよ!別に解説してくなくて結構だ!俺はあんたの気持ちを聞いてるんだよ!」
ヒューは柴崎の肩を掴んで揺さぶった。
「俺……は………」
何故言わないんだ。弟みたいに思っていると、友情以外の何ものでもないと……
柴崎は自分の気持ちが分からなかった。そんな彼の態度に郷を煮やしたヒューは柴崎の身体を押し倒し、ベッドに飛び乗った。
「ヒュー…な、なに………」
乱暴に毛布をはね除けるヒューに柴崎は驚きの目を向ける。
「あんたのイッた顔が見たい」
「え…………」
一瞬柴崎はヒューの言葉の意味が分からなかった。
ヒューの手が浴衣の襟を掴んで大きく広げる。膝を割って身体を入れようとしてきた時、柴崎は自分がいつものように下着を身につけていない事を思い出した。
「ちょ、ちょっとヒュー」
めくれた裾を直そうとするが、手を掴まれ頭の上に押さえこまれる。
「ヒュー、な、なにを……」
「イった顔が見たいって言ったろ」
「どういう意味………」
「こういう意味だ」
大きく開かせた足の間にヒューは手を延ばした。本当に下着をつけていなかったので、すぐにそこに触れた。
「あ!」
柴崎の身体が大きく跳ねる。
「な、何するんだ!ヒュー、やめろ!」
暴れ出した柴崎の身体を、ヒューは強引に押さえ込んだ。頭上に上げた彼の両手を右手で押さえ、膝で腿を無理矢理開かせ身体を入れる。そして手を入れて彼のそこに再び触れる。
「痛!」
柴崎の顔が苦痛に歪むが、構わずヒューは手を動かせた。同じ男だからどうすればいいのか分かる。
「やめろ!ヒュー!」
必死に抵抗しようとする柴崎をヒューは力で押さえ付けた。膝を当てられた腿が痛い。両手もしっかり押さえ込まれ、身動きできない。なにより彼の、ヒューの冷めた視線が真直ぐに自分に注がれていて、柴崎は初めて彼を怖いと思った。
「…あ…あ………」
痛み以外の感覚が徐々に足元から這い上がってきて、柴崎は声をあげた。
『今、俺、なんて声………』
羞恥心で柴崎の頬が赤くなった。たまらなくなって、顔を振ってなんとか逃れようと身体を動かすが、ヒューは一向にどかなかった。
「やめてくれ!ヒュー!」
見てる…ヒューがじっと自分を見下ろしてる……
明るい光に照らされた自分の痴態が恥ずかしくて、柴崎は堅く目を瞑った。彼のよって乱れていくのを感じながら……
「…あ…あ…や…やめ……」
「…………」
「ああ!」
ヒューの手を濡らした柴崎は一気に力を無くし、ベッドに四肢を投げ出した。
『あ………』
我にかえったヒューは、荒く息をする柴崎のぐったりした横顔を見つめた。頬に伝う彼の涙が目に入り、途端に罪悪感が沸き上がる。ベッドから飛び下り、バスルームに駆け込むと手を洗い出した。
『何をしたんだ俺は』
水をあてながら手を激しくこすり続ける。今、自分の犯した汚い行為を洗い流してしまいたかった。
『くそ!消えろ!消えろ!』
そう心で叫びながら痣が出来る程擦り続けるが、消えるはずなどないのだ。
「……ばかか……俺は……」
一時的な怒りに身をまかせてなんて事をしてしまったのだろう。ヒューは自分の愚かさにたまらなくなって、マンションを飛び出した。
飛び出して行くヒューを柴崎は遠い意識の中で聞いていた。
身体も心も別のところにいってしまったように動かない。
ヒューがなぜ、こんな事をしたのか……
自分のせいだ。
彼は不器用だけど優しくて、こんな乱暴をする人間ではない。子供の頃、理不尽な暴力をうけていたが、彼は人にそれをしなかった。自分のされた暴力を誰かにしないというのはとても難しい事である。
それなのに…………
自分がここまで彼を追い詰めたのだ。悲しみでたまらなくなった柴崎の瞳から、涙がとめどなく溢れ出ていた。
        *
「なんかあったのか?」
「……………」
ヒューが泣きそうな顔をしてケイの家に訪れたのは、夜も明けようとしていた頃だった。部屋にとおすと彼はクッションに顔を埋めて一言も口を開かない。もうすぐアルバムが発売されるので、不安なのかと思ったが、もっと深刻な事態のようである。
「柴崎さんに連絡しなくていいのか?あの人心配してんじゃないか?」
柴崎の名前を出すとヒューの肩がぴくりを揺れる。彼と何かあったらしい。
「どうした柴崎さんと何かあったのか?」
「……………」
「まあ、話したくないならいいんだけどよ……」
「…………た…」
「ん?」
「……になった……」
「うん?」
「…好きになった…」
「へ………」
ケイはポカンと口をあけてヒューを見つめた。
「…そ〜れ〜は〜どういう意味で…」
「そういう意味だ」
「…というのは〜つまり〜…」
「…抱き締めたいし…キスしたい……」
「…………」
ケイがまたポカンと口をあけてヒューを見つめていると、ヒューが初めて顔をあげた。
「変か?やっぱり……」
「はあ……」
「気持悪いとか思うか」
「え……」
「俺と友達でいるの嫌になったか?」
「んな訳ないだろ。ちょっとびっくりしただけだよ、悪い」
「嫌になったか?」
「だから、んな訳ないだろって。お前が誰を好きだろうとお前が変わるんじゃないんだからよ」
「本当か?」
「ああ、俺とお前は変わらないよ。ほら、覚えてるか親父の少年空手道場に通ってた二才年上のダニエルって奴」
「ああ…なんとなく……」
「三年前あいつもいきなりカミングアウトしたぜ。皆初めは驚いたけどよ、何も変わりねーぜ。結局そういう事だろ」
「…そうか……」
「とにかくお前ちょっと寝ろや。すごい顔してるぞ」
差し出された毛布を受け取り身体にかぶせる。ヒューはケイに話した事で大分気持ちが楽になった。こんな風に、自分を受け入れてくれる彼の懐の大きさや強さに感謝した。彼の強さは愛されて育ったものの持つ強さだった。無条件に与えられる真直ぐな親の愛情と、帰るところのある者だけの持つ……
自分にはないものだとヒューはいつ頃からか気付いていた。
安心したヒューは今までの疲れがどっと吹出し、すぐに眠りに落ちてしまった。
『は〜こいつがあの人をね〜』
ケイはヒューの横顔を見ながら、軽くため息をついた。彼があの柴崎を好いているのは気付いていたが、まさか恋愛感情とは。驚く反面、納得もできた。
『それにしてもな〜』
彼に対する感情は変化しなかったが
『あ〜びっくりした〜』
と、思うケイであった。