AKATHUKINITE…5

 年が明け、新しいプロデューサーとレコーディングを始めたヒューとケイは、不満たらたらだった。その超有名プロデューサーは、俺の言うとおりの音を出していれば絶対売れるものが作れるのだ、と言い切り、ヒューとケイがどんな意見を出しても即却下した。おかげで二人はじょじょに口数が少なくなり、スタジオはプロデューサーと返事をするキャロルの声しか聞こえなくなっていた。彼女に不満はないようでプロデューサーに言うとおりに歌っている。もともと彼女は歌うだけで作詞もしていないので、音作りには興味がないのである。自分の声を引き立てる音があればいい訳だ。それに最近の彼女の様子はおかしい。明らかにヒューやケイをバカにした口調で、訳の分からない事をわめいているのである。
『前のボーカルと同じかよ……』
ヒューとケイは目を合わせてため息をついた。
「ライブしたいな……」
「ああ……」
意見を言っても聞かれないのは、そんな力がないからだ。スタッフ達を納得させるだけの要素が自分達にはない。経験も信頼もないファーストアルバムがたまたま売れただけの新人である。世間には凄いと思われても、この業界ではガキ同然なのだ。
本当にこれが自分のやりたかった音楽なのか?こういう状況を俺は求めていたのか?金や名声を手にするのが目的で音楽を作っていたのだろうか?
自分が分からなくなるヒューだった。
『シバに会いたい……』
結ばれた日から、ヒューは毎日柴崎に会いに行っていた。どんなに遅くなって、顔を見にアパートメントを訪れ、玄関先で帰る事もあった。でも、彼の笑顔を見ると、荒れていた心が暖かくなっていくのである。それはゆっくりと潤すように満ちてくる。めぐり会えた事を神様に感謝した。
「そうだヒュー、お前アイリーンと連絡とってないのか?」
「え、ああ、まあな………」
「電話かかってきたぞ、連絡先教えるように言ってくれってな」
「でもな………」
「シバサキさんの事か?」
「ちょっとな………」
「逃げててもしょうがないだろ?いつか言わなきゃいけないんだから」
「ああ、分ってる………」
柴崎とああいう関係になってしまったので、彼女に会うのは気が重かった。その時、ヒューはある事を思い出した。
「あのさ、ケイ…タキシードを売ってる店でいいとこ知らないか?」
        *
「チヒロ・シバサキ様ですね。お迎えにあがりました」
「はあ〜………」
仕事場にヒューから迎えに行く、と連絡があったので、待っていたら、出迎えに来たのは運転手付きのリムジンカーだった。向かった先はブルックリンハイツにある高級シーフードレストラン、リバー・カフェであった。ここから見えるマンハッタンの夜景は映画などでも有名である。
店内に入り、案内されたテーブルにはフォーマルスーツで正装したヒューが待っていた。身体に合ったスーツを身につけた彼は大人びて見える。
「やあ、ヒュー、びっくりしたよ」
「…オーダーメイドで服作るのなんか初めてだよ」
ちょっと緊張気味のヒューが小声で囁く。
「俺もリムジンが迎えにくるなんて初めてだよ」
「んじゃあ、乾杯するか」
「ああ、そうだな、では何に?」
「う〜ん……」
ヒューは少し考えた。
あなたに会わせてくれた運命に感謝、かな。神様に感謝、かな。あ……
「シバの宗教って何だ?ブッダ?」
「う〜ん仏教ではないな…あえて言うなら神道かな」
「シ、シンドゥ?どこか違うのか?」
「仏教は大陸から渡って来た教えで、神道はもともと日本にあった教え。多神教で八百万もの神様がいるとされている」
「八百万!?それ全部覚えてるのか?!」
「本当に八百万もいるんじゃないんだ、数え切れない程の神様がいるってたとえだよ。名もない神様もいるし」
「なんでそんなに神様がいるんだ?」
「自然が神様だからだよ、樹や虫とか石もそうだよ」
「石が?なんで?」
「自然の一部だから」
「ふ〜ん、じゃあ結婚式とかは何に誓うんだ?樹とか石にか?」
「神道でかい?そういえばどうなんだろ?まあ自分の信じるものに誓えばいいんじゃないか。でもなぜ?」
「シバと結婚する時、俺は何に誓えばいいのかなって思ってさ」
「なっ!」
柴崎の顔が耳まで真っ赤になる。
「まあ、今日のところは、誕生日おめでとう」
「……知ってたのか?」
「クリンスさんが教えてくれた。一週間遅れだけど三月二日だろ、おめでとう、では乾杯」
「乾杯……」

食事が済むと二人はマンハッタンの美しい夜景を見ながら、少し歩く事にした。まだ肌寒いが、二人とも寄り添いたかったのである。
「ヒューが俺の誕生日知ってたなんて驚いたよ。しかも、いきなりリムジンでお出迎えなんて」
「ちょっと金持ちになったから……」
「お腹減ってないかい?ヒューあんまり食べなかったから」
「そんなに腹減ってなかっただけだよ」
というは嘘であった。慣れない所で慣れないテーブルマナーを気にしての食事に、緊張しすぎて咽を通らなかったのである。
「今日はありがとうヒュー、楽しかったよ。すごく嬉しかった」
「そうか、良かった」
ちょっと照れくさい。
「かっこ良かったよ」
「え!」
「でもいつものヒューも素敵だよ」
「あ?」
「今のスーツ姿のヒューも、いつものヒューも、どちらもかっこいいよ」
ちょっと横を向いて、恥ずかしそうに小声で話す柴崎がとてもかわいい。この人は本当に、自分を見ていてくれるのだ…抱き締めたくなったけど、人が多いのでこらえる。
「そうだ、これ渡しておくよ」
「何、鍵じゃないか?」
「俺のアパートメントの鍵。また廊下で凍えられたらたまらない」
「ふふ、ありがとう。今日仕事は早く終わったの?」
「まあ……」
「どうかしたのか?」
最近のヒューは妙に塞ぎ込んでいるようで、柴崎は気になっていた。
「…新しいプロデューサーが俺達にやりたい音楽をちっとも分ってくれなくて…まあ分かる気もないんだろうけど…」
「…うん……」
「…なんか分からなくなってきた。本当に俺は何がしたいのか……」
「………………」
「俺はギターが好きで、音楽が好きで…それだけだったのに…なんか愚痴ってるな…」
「話してくれ………」
柴崎の瞳がまっすぐにヒューを見つめている。
「……昔、初めてライブハウスで弾いて、大勢の人の拍手を聞いて思ったんだ。絶対プロになろうって」
「………………」
「でもそれって欲望に目がくらんでただけかもな。金が欲しいとか、えらくなりたいとか。バカだな俺…」
「違うよ……」
「何が?」
「ヒューの感じたのは欲望じゃないよ…きっとピーターパンと同じだよ」
「へ?」
「ピーターパンにでてくる妖精のティンカーベルだよ。彼女が死にそうになった時、妖精を信じる人の拍手で蘇るだろ、ヒューが感じたのはそれだよ」
「……………」
「自分の存在を認めてくれるものがいる証だ…」
「……シバ……」
「俺はいつでもヒューに拍手を送るよ……」
ヒューは柴崎を抱き寄せた。
「ちょ、ちょっと、ヒュー…」
人目が気になってしまう柴崎だった。
「大丈夫…影になってるから…」
「で、でも………」
「あのさ……」
「ん?」
「俺…バンド辞める…もう一度自分の音楽冷静に見つめたい…それで…さ…シバ…」
「何?」
「いっしょに暮そう……」
「……ヒュー……」
「今度は一緒に家借りよう、買ってもいいよ。前みたいに借り住まいじゃなくて……」
「……………」
「俺の帰る所を作ってくれないか?」
「……ヒュー………」
黙ってヒューを見つめていた柴崎の瞳から涙が溢れ出て、ヒューは驚いてしまう。
「どうした?シバ………」
もしかして体調が悪いのでは!とヒューは焦った。
「え、もしかしてどっか痛い?」
「違うよ……」
もう十分だ…こんなに幸せなんて…信じられない……と柴崎は思った。
今のこの一時さえあれば、自分はこの先何があろうと生きていける……彼をずっと愛していける……
柴崎はヒューの胸に身体を預け、ヒューは彼を強く抱き締めた。
        ***
 バンドを抜けると決心したヒューだったが、やはり一騒動起きた。自分と同じ気持ちだったケイはともかく、やっと名声を手に入れたと思っていたキャロルは猛反対した。レコード会社も何様のつもりだ、と悪口雑言を浴びせかけた。しかし、初めにかわした契約ではファーストアルバムを作るまで、というものだったので、義務は果たしている。それにバンドは解散できなくても個人が抜ける自由は認められていたので、ヒューが抜けるというのを止める権利はない訳である。が、作曲、作詞を担当していたヒューが抜けるというのは事実上の解散を意味していた。
キャロルは怒り狂い、ヒューに詰め寄ったが、その姿は端から見ていても尋常ではなかった。「このゲイ野郎!」だの「死ね!」だの同じように反対していたレコード会社の人間もたしなめた程である。彼女は歌唱力はあるが、プロの中で飛び抜けたものではない。アルバムもヒューの曲があればこそのヒットだというのを、よく知っていたのだ。
「ヤクだな………」
帰り道でケイがぼそりと呟いた。
「そう思うか」
「ああ、かなりのジャンキーになってるな、やばいな…」
「ケイはどうする?俺が抜けて?」
「別にどうもしないさ、俺もお前同様ちょっと分からなくなってきたところだったからよ」
「そうか………」
「最初に分かりあえるスタッフを見つけてから活動するべきだったんだ。デビュー出来るってだけで飛びついたのは失敗だった」
「いい曲ができたら、いい環境が整うんじゃなかったんだな」
「そういうこった、ちょっとスタッフ側に回ってみようかと考えてるんだ。そうした方が周りが冷静に見れるだろ」
「なる程な、俺も考えようかな」
「……自分の力を過信してたな……」
「そうだな…曲盗まれて意地になってたのかな…」
だから負けん気でろくに調べもせずに、デビューを決めてしまった。
もう一度考えてみよう。自分は何が欲しいのかを……
        *
 昼下がりにアイリ−ンの職場近くでヒューは彼女に会う約束を取り付けた。
「…久しぶり、元気だった?」
「……おう、アイリーンもかい?」
「まあね……で、何?」
「……今度、引っ越そうかと思ってさ…もしかしたら家買うかもしんないから、その時は保証人頼まれてくれないか?」
「…柴崎さんと暮らす家買うの?」
「ああ…今、俺の暮らしているアパートメントボロだからな。安いからそこにしたんだけど…」
柴崎の所でもいいのだが、少々手狭である。やはりダブルベッドが置けるぐらいのベッドルームが欲しいのだ。
「先日、柴崎さんが私の所に来たわよ」
「え?」
「謝ってたわ、『嘘をついて申し訳ありませんでした』て」
「嘘ってなんだよ?」
「前にあんたは弟みたいな存在で特別な感情はないって私に言った事よ。あれは嘘でした。ヒューは自分にとって大切な存在なんですって…まいったわ……」
あんなに真直ぐ言われたのでは何も言い返せなくなってしまうではないか。
あんな美しい瞳で………
この人は本当にヒューの事を想っていてくれるのだと分かった。
「…もう私は何も言わないわ。家買うなら保証人だろうがなんだろうがなってやるわよ」
「……サンキュー……」
「…不肖の弟が〜…あ、私今度結婚するわ」
「そうか、おめでとう……」
「幸せになるつもりだから、ヒューも幸せになんなさい、頑張りなさいよ」
「おう……」
日増しに日射しが暖かくなり、心も身体もぽかぽかしてくる。
アイリーンと別れ、自転車を漕ぎながら、ヒューは道行く人々に大声で叫びたい気分だった。
今、俺には愛する人がいるんだ。その人はとても優しくて、綺麗で、かわいくて…なにより、その人も俺を愛してくれるんだ、と。
誰よりも自分を暖かくしてくれる人。太陽よりも暖かくしてくれる人なんだと……
        *
 それからヒューは不動産を見て回ったが、なかなかこれという物件は見つからなかった。スタジオに直行しようかとも思ったが、ひとまずアパートメントに引き上げることにする。ドアの前で鍵を取出そうとした時、物陰から誰かが襲い掛かってきたので、反射的に横によける。
「キャロル………」
飛び出してきた人陰はキャロルだった。しかも手にはナイフを握りしめている。
「お前……なんのつもりだ……」
「あんたの曲よこしなさい」
「は?」
「今まで作った曲よ!ストックしてあるんでしょ!私によこしなさい!」
「……ばかか…お前……」
あきれて物も言えない。これじゃ本当に前のボーカルと同じだ。しかもラリっているらしく目が虚ろである。薬のいきおいで起こした行動のようだ。ちらりとドアを見ると、ノブにこじ開けようとした後がある。
「んなものあるか、ばか言ってないで、さっさと帰れ」
「嘘つきなさいよ!あんたが何曲かテープに吹き込んでるの見てるんだからね!」
「あのな…仮にあったとしも、なんで俺がお前に渡さなきゃいけないんだ?」
「当然だわ!勝手にバンド抜けるだの解散するだの振り回されて、私にどれだけ迷惑かけてると思ってるのよ!」
「迷惑って………」
お前が俺やケイにかけてきた迷惑はどうなんだ、と聞き返したい。
「とにかく、俺はお前に何ひとつ渡す気はないね、早く帰れ」
ふらふらしたジャンキー女にナイフを突き付けられても怖くはない。
「ヒュー……?」
後ろからの聞き覚えのある声に振り返ると柴崎が立っていた。
「シバ…なんでここに…」
ヒューが気をとられている隙をついて、キャロルは柴崎に飛びかかった。
『しまった!』
気付いた時は遅く、彼女は柴崎の喉元にナイフを突き付けていた。
「さあ、早く渡しなさいな、恋人の顔が切り刻まれるのは見たくないでしょ」
「てめー……」
怒りと彼女に対する憎悪が込み上げてくる。
柴崎は少し驚いているようだが、怯えた様子はない。ヒュー同様、彼女の震える手に掴まれたナイフなど怖くないらしい。只、女性に乱暴するのは躊躇われるので、成りゆきを見守っているようである。
ヒューはポケットから部屋の鍵を取出し彼女に向かって投げ付けた。
「勝手に入って取っていけ!テープはステレオの横にある!とっとと俺の前から消えろ!」
彼女は無言で鍵を拾い、柴崎を突き飛ばして部屋に向かった。
「シバ!大丈夫か!」
ヒューが急いで駆け寄り、抱き起こす。
「ああ、大丈夫…彼女どうした?」
「バンドのメンバーだよ、本当に怪我してないか?」
「平気だ…それより、いいのか?彼女?」
「放っておくさ、これで気が済むだろ」
目を向けるとキャロルが大急ぎでドアを開くところであった。そして中に飛び込んだ、と思った瞬間ー。
ものすごい爆音が轟き、部屋の中から炎が吹き出した。地面が持ち上がる衝撃と爆風を身体に受けて、ヒューと柴崎は床に転がる。
「な……」
何が起こったのか分からない。いきなり辺りは煙りが充満し、あちこちで火の手が上がっているのが見えた。コンクリートの壁が崩れ、沢山の亀裂が入っている。人々の悲鳴が聞こえだす。
「シバ!」
ヒューは急いで彼の姿を探した。少し離れた後ろに倒れていたが、起き上がるところであった。
「大丈夫か!」
「…あ……ああ……一体何が………」
何かが爆発したようだが、どういう状況なのかさっぱり分からない。
「分からない、とにかく、この建物から出よう!崩れそうだ」
壁がはがれ落ちるのを見て、ヒューはやばいと思った。
「あ、彼女は!?」
「え?」
すっかり忘れていたが、煙の中で目をこらしてみると、誰かが倒れているのが見えた。
「どうでもいいよ………」
「ばか!助けないと!」
「おい、ちょっと待て、シバ」
彼女を助けようとする柴崎の腕を掴んで止める。
「……俺が行く、先に階段降りてくれ」
「でも………」
「大丈夫だ、先に避難しててくれ、俺の方が力あるから彼女を引きづってこられるだろ」
ヒューは煙の中をゆっくりとキャロルに向かって歩いた。
先に避難しろと言われても出来る筈がなく、後ろで柴崎はヒューを見つめて待っていた。
その時、ヒューの上にある天井が崩れて落ちてきた。
「危ない!」
柴崎は全身でヒューに体当たりをした。
「うわ!」
ヒューの隣にコンクリートの固まりが幾つか落ちてくる。
「え………」
視線を下に向けると、頭から血を流して倒れている柴崎が目に入った。
大きなコンクリートがいくつか彼の近くで転がっている。それらには赤い血がついていた。
「……嘘だ……」
ヒューは呆然と身体を起こす。
「……嘘だ……おい……シバ……おい!返事してくれ!」
ぐったりとした彼の身体を抱きかかえると、また新たな血が額を生き物のように流れていく。
目を閉じたまま動かない彼の身体。
「……おい……しっかりしてくれ!シバ!返事を!」
ゆっくり柴崎の身体から血が流れだしてくるのを見つめて、ヒューは全身が凍ったかのような寒気に襲われた。
「………いやだ……誰か……誰か助けてくれ!誰か!彼を助けてくれ!」
ヒューの狂ったような悲鳴が辺りに響いた。
        *
 救急病院に運ばれた柴崎はすぐに緊急手術室に運ばれた。ヒューは手術室の前で膝を抱えて座っていた。しばらくして、アイリーンとアルバート、ケイ、クリンスが現れる。
「どしたんだ一体何があったの?」
「シバサキさんはどういう状態なんだ?」
「ヒューも怪我してるじゃない?」
次々と声をかけられるがヒューの耳には何も聞こえなかった。手当ても受けず、警察への質問もろくに返事が出来ない。ただ、真っ青な顔をして、身体を微かに震えさすだけである。
「どうして…電話がなければシバはあんな所に行かなかったのに……」
クリンスの呟きがヒューの耳に入り、ヒューは彼女に視線を向けた。途端にクリンスはバツが悪くなったように目をそらす。
『電話?キャロルか?シバを呼び出していた?俺を脅す為にか?』
俺がもっと彼女に注意していれば良かったのか?いや、もっと以前に、変に期待を持たせたりしたから、彼女の怒りに拍車をかけてしまったのか?俺がもっと、バンドの事や周りの事を考えて行動すれば良かったのか?
どれだけ後悔しようと、時間は戻ってくれない。
ヒューは生まれてこのかた味わったことのない恐怖を感じていた。恐ろしい程の絶望感だった。
自分の隣に大きな黒い穴がぱっくりと口を開けて、自分が落ちて来るのを待っている。
寒い、黒い底なしの穴………
そこに落ちればもう普通の人間には戻れないと分っていた。
戻ってきてくれ……頼む……シバ…死なないでくれ……
先逝たれる苦しさを誰より知っている筈だ。だからいかないでくれ。
あの時、自分を突き飛ばした柴崎の力、あんな小さな身体のどこにあんな力があったのだろう……
全身の力をぶつけて俺を助けてくれたのか……
神様…俺からあの人を奪わないでくれ……どんな事でもするから……お願いです!神様!
ヒューは心の底から祈った……

無限とも思える長い時間が流れたが、やがて手術室の扉が開き、医者が出てきた。
「先生、どうなんです……」
クリンスが震える声で尋ねる。
「……なんとか一命は取り留めました」
その言葉に皆の安堵の息がもれた。
「しかし………」
「え………?」
「脳の中に幾つかの血塊が残ってしまいました。切除するにはあまりにも危険な場所にある為、完全に取り去れなかったのです」
「というと………?」
「視神経の部分でして、おそらく失明は免れないでしょう」
「!」
「しかし、他の箇所への影響はありません。幸い背骨は無事でしたし、手も複雑骨折ではないのですぐに完治するでしょう」
「彼はカメラマンなんだぞ!」
ヒューが悲鳴をあげて、辺りに沈黙がおちる。
「………残念ですが、現代の医学ではこれが限界です……」
手術室からベッドに乗せられた柴崎が出てきた。点滴をつけ、身体中に包帯を巻かれている。クリンスが傍らに走りより、いっしょに病室に消えていく。ヒューは運ばれる彼の姿をずっと見ていたが追わなかった、追えなかった。
「………ヒュー………」
ケイが声をかけようとするが、ヒューはいきなり拳を壁にぶつけた。
「なんで………」
「ヒュー………」
「何故だ!なんでシバがそんな目に合わなきゃいけないんだ!どうしてだ!」
ヒューが力任せに何度も叩きつける。血が吹き出ても叩き続けた。
「よせ、ヒュー!腕が壊れちまう!」
「いっそ壊れりゃいいんだ!」
「ヒュー止めろ!」
ケイとアルバートが二人がかりで身体を押さえて、壁から引き離した。途端にヒューは床に泣き崩れた。
「どうして………」
「………」
「……どうして…彼なんだ………」
「ヒュー………」
胸の裂かれるような痛みが全身を貫く。どうして息をしていられるのか、不思議なくらいの痛みだった。
自分を見つめていた柴崎の瞳をヒューは思い出す。たくさんの星が瞬く夜色の瞳、自分が愛して止まなかったあの美しい瞳。
写真を撮る時の彼の情熱的な瞳も覚えている。
『忘れていた夢を思い出させてくれた』
そう彼は言ってくれたのに、その夢を奪ったのは誰だ?
俺はもう見れない……
もう自分は彼の瞳をまっすぐに見る事は出来ないだろう……
神様、なんて残酷なんだ……
彼の命を助けてくれた代わりに、こんな仕打ちをくれるなんて……