AKATHUKINITE…6

         第二部

         一
「飛(フェイ)そろそろ始まる時間だろ、テレビつけてくれ。今日お前が出演する回だったよな」
ケヴィンはキッチンでパスタをゆでながら、リビングのソファに腰かけて本を読んでいるフェイに頼んだ。
「別に見なくてもいいだろ、あんなもん」
「いや、俺は見たい、お前の演技には脱帽するぜ。あれ程化けられるとはね〜結構笑える」
「…やな奴……そんなに見たきゃ自分でつけな」
フェイは立ち上がると自分の部屋に向かった。
「おい、もうすぐ夕飯できるぞ!」
返事はない。まあ、番組が終わった頃に戻ってくるだろう、とケヴィンはテレビをつけた。丁度番組のオープニングが始まったところであった。パスタを食べながらテレビの見える位置に座ると、画面にフェイの姿が現れた。相変わらず優雅な物腰で、見事な化けっぷりである。
落ち着いた口調に、穏やかな微笑み。どこか淋し気な瞳に目が離せない。これが、あの毒舌吐きまくりの生意気男だとは誰が想像できるだろうか。
この番組は、今、米でもっとも人気のあるテレビドラマで、福祉保護センターで起こる事件を扱ったものである。そこで働く人々や、保護されてきた人達の心情や葛藤をテーマにした人間ドラマだった。内容は以前そこで働いていたマギー・スミソニヤの手記が元になっているので、本当に起こった事件ばかりである。実在の人物も何人か実名で登場しており、中でもエドワード・ホーゲンことエディは昔の自分を演じている事で話題になった。彼は最近頭角を現わしてきた役者だった。それらの要素が番組にリアリティを与え、視聴者の心をつかんだのである。
実際いた人物の中で有名な写真家、チヒロ・シバサキもおり、彼の役を演じているのがフェイなのだ。
フェイは役者ではないが監督にスカウトされたのである。彼は17才でチヒロ・シバサキは当時30才だったらしいが、17、8才の少年にしか見えなかったそうだ。番組関係者は17、8の日本人に見える人物を探してオーディションを行ったが、該当する役者が見つからなかった。キャスティングが難航していた時、バーでコントラバスを演奏しているフェイを見つけたという訳である。
最初はしぶっていたフェイだったが、ギャラが良かった事と、自分の素性は一切あかさないという条件で引き受けた。監督としても、チヒロ・シバサキはメインの役ではなく、ドラマにリアリティを与える為の小道具程度に考えていたので条件を承知した。が、ドラマが放送されるや否やフェイに関する問い合わせが殺到したのである。
まず、チヒロ・シバサキという有名な写真家が、この福祉センターで働いていたというのも結構なインパクトだった。それに彼はマスコミ嫌いでインタビューに一切応えず、容貌も知られていなかったのである。それがいきなり十代の少年が演じているのだから驚くのも無理はない。
「シバサキは17、8の少年だったのか?」とか「子供の頃働いていたのか?なら計算が合わないぞ」といったシバサキ自身の質問もあったが、一番多かった問い合わせは演じている彼は何者なのだ、というものだった。
ケヴィンは放送された初登場の回を見ていたが、当然の反応だろうと思った。
黒髪に黒い瞳、東洋人だが、色が白くてどこか白人ぽっさがある。スタイルも良く、動きは野性動物のようにしなやかで……
東洋と西洋の魅力を兼ね備えたフェイはとても美しかった。
フェイのオリエンタルな風貌と淋し気な瞳は視聴者を魅了し、彼の人気は一気にうなぎのぼりとなった。どれだけ人気がでようともフェイは正体を明かさなかったので、余計に人気に拍車がかかったのである。テレビ側もせめて本名だけでも明かさないか、と、もちかけたがフェイは承知しなかった。相変わらずジョンという通り名を使い続けている。
ミステリアスな彼がもっと見たい、と視聴者からの要望で、出番がどんどん多くなり、ギャラもかなりの額をもらうようになった。だがフェイはこんな仕事とは早くおさらばしたいと思っていた。テレビ局に入る時も、追っ掛けの女がキャーキャーわめいて近寄ってくるのでうるさくて仕方ない。
出る時も同じようにまとわりついてくるし、変な記者も尾行してくるのでまくのに一苦労である。役者などになるつもりはない。あくまで金の為に引き受けた仕事だったのである。フェイは早くこのテレビシリーズが終わる事を祈るばかりであった。
テレビを見ていたケヴィンは、フェイがこのまま役者を辞めてしまうのはもったいない気がした。しかしあの性格では役者は無理だろうと思う。なにより彼の本職に問題ありだし……
画面にはフェイがその魅力を美しく放ちながら映っている。普段とは似ても似つかない優しい雰囲気と柔らかい笑顔を浮かべて。
『役者じゃないと言いながらよくこんだけ化けられるよな〜』
正体を知っているケヴィンとしては思わず苦笑してしまう。
「腹減った〜」
ドラマが終盤にさしかかる頃、フェイがリビングに戻ってきた。ケヴィンの前に座り食事を始める。
「相変わらず料理美味いな」
「だろうよ、これでも元調理師だからな」
「今はしがない雑誌記者か。無難に調理師になってた方が良かったんじゃねーの?」
「うるせーな。俺がそのしがない雑誌記者になったおかげでお前もこの美味いパスタが食えてんだろ」
「今、なんの仕事してんだ?」
「『らくがきが街の治安を悪化させるって』いうテーマの取材の協力」
「しょーもねーな」
「ああ、あんまおもしろくないけどスポンサーが日本の番組なんでギャラがいいんだ。てきとーにやりながら好きな事件のネタでも探すさ」
「結構抜け目ないじゃん」
「知能的と言ってくれ」
「俺はこれから出かけてくる、遅くなるから鍵持っていくぜ」
「……どこ行くんだ?」
「稼ぎにだよ」
本職か………
「お前もうそれ止めたらどうだ?テレビの仕事でお金だって大分入ったんじゃねーか。それにそのテレビで顔が知られてるだろ」
「ブラウン管の中で穏やかに笑ってる奴が、ストリートで客引きしてるなんて誰も思わねーよ」
「でもなー警察に補導されたりなんかしたらどうすんだよ。キャストおろされるだろ」
「別に役者なんてギャラがいいからやってるだけで、いつ止めたっていーんだよ。じゃあな、俺、行くぜ」
「まったく………」
ケヴィンは軽くため息をついた。
テレビに目を向けると次回の予告が映っていたが、またもフェイが登場するようである。
「チヒロ・シバサキか………」
確か、あの事件が起こったのは八年前だったか。
「ちょっと調べてみるかな………」
        *
 真夜中を過ぎた頃、サウス・ブロンクスのストリートに立っていたフェイの前に一台の車が止まる。この界隈は結構な上客が来る場所で、フェイは力づくでこのストリートに立つ権利を他の少年達から勝ちとったのだった。何も言ってこないので近付くと、運転席に座っていた男が少しだけ窓を開けた。
「………幾らだ?」
「千ドル」
「……一晩でか?高いんじゃないのか?」
「高くないぜ、俺ならな」
「…………」
窓が閉まり、ゆっくりと車は去っていったが、フェイは戻ってくると確信していた。
あの男は戻ってくる。他の少年を探しながら、自分よりいい男がいないと気付くだろう。俺が欲しいと思いながら戻ってくるに違いないのだ、と。そして、その通りになった。
先程と同じように車を止め、フェイが近付いてくると窓を少し開ける。
「……千ドル……だな……」
「ああ」
助手席のドアのロックが外れたのでフェイは車に乗り込んだ。
「シートベルトはちゃんとするぜ」
「……………」
「いい車だな?あんたの車か?」
「……………」
「家族とかいんのか?それとも独身?」
「……………」
「話するの嫌いなのか?」
「……………」
車の中でフェイがいくら話かけても男は一言も口をきかず、黙々と走らせ続けた。30代半ばの身なりのいい白人男である。10分ほど走ると車はあるホテルに入った。すでに部屋をとってあるらしく、フロントに行かずに駐車場から直接部屋に向かう。
「へ〜なかなかいい部屋じゃん」
シンプルだが高級な家具が置かれ、少し暗めの照明が落ち着く雰囲気をつくりだしている。ベッドもセミダブルで大きい。ジャケットを椅子にかけると、男はフェイに抱きつきベッドに押し倒した。
「なんだよ早いな。どんなのが好きかも聞いてないのに」
男はフェイに口付けながら、彼のシャツのボタンをはずしていく。シャツ一枚にジーンズという格好だったのでフェイの肌はすぐに男の前にさらされた。滑らかな肌に触れて男は項に舌を這わせる。
「ん……」
フェイは男の愛撫を受けながら背中に手を回して引き寄せた。ズボンのベルトはずして床に落とそうとした時。
「ぐっ!」
フェイの膝蹴りが男の腹にはいり、男の身体はくの字に曲がって硬直した。その隙を逃さずフェイは男の両手を後ろに回して、隠し持っていた手錠をかける。ベッドの下に転がり落とすと、更に右足と縛られた両手をもう一つの手錠で繋ぐ。武道を習得しているフェイにとっては雑作もない事だった。
「う、ぐ、な、なんの真似だ!」
男はうつ伏せに寝転んだままフェイを睨みつけた。一方フェイは気にする風もなく、シャツのボタンを留めて男のジャケットのポケットを調べる。そして内ポケットにあった財布を取り出した。
「き、貴様………」
男はやっと、フェイが男娼まがいの物盗りであると気付いたのだった。
「千三百ドルか………思ったより少ねーな。財布自身の方がもっと高いぜ」
男の持ち物は皆ブランドもので高級品ばかりである。なのに財布には現金だけでカードも身分書の一枚もない。
「なる程、男買いに行く時は身分がばれないように用心してるって訳だな」
「……………」
「高収入の職についてんのか?さぞかしいい生活してんだろーな」
「……………」
「ああ、悪い、話すの嫌いだったな。んじゃ、ここのホテルの払いもまだかもしんねーから千ドルだけいただいておくぜ。丁度いいだろ、俺に払う気だったんだからよ」
「……………」
男は黙ったまま屈辱に震えた顔でフェイを見上げている。そんな彼にフェイは小さな鍵を取り出して見せた。
「!」
「手錠の鍵だ」
鍵を持ちながらサイドテーブルに並んでいた新約聖書を取り、無造作にページを開ける。
「へえ、あんたにぴったりのページだぜ。マルコの副音書『誘惑についての警告』」
「……………」
「『また私を信じるこの小さな者の一人に罪をおかさせる人はその首にろばのひきうすをはめられ海に投げ入れられたほうがましである。』俺のことかな……」
「……………」
フェイはそのページに鍵を挟むと元に戻した。
「じゃあな、頑張れよ」
そう言い残しフェイは部屋から立ち去った。何ごともなかったかのようにホテルを出て、夜の町を歩き出した。
        ***
「おいフェイ、起きろ、朝だぞ」
「…う…ん………」
ケヴィンはベッドに転がるフェイの身体を揺すった。毎朝気功をしているフェイが寝過ごすとは珍しい。昨日は寝るのが遅かったのか、久しぶりの本職で心が荒れたのだろうとケヴィンは予想していた。生意気な口調や大人びた態度をしているが、実際は17才の少年なのである。頭がいい分、無理もしている。
「…もう朝か………」
ベッドの中でのびをするフェイは猫みたいだった。
「今日は本宅に行く日じゃないのか?」
「…ああ…また叔父貴達に嫌味言われるんだろーなー」
「でも兄さんに会えるんだろ」
「それがなきゃ行く訳ねーだろ」
「……昨日遅かったのか?」
「ああ、夜中3時ぐらいに帰ってきたかな……地下鉄で帰ってきた」
NYの地下鉄は24時間運行だが、真夜中ともなれば本数は少ない。ましてここはクイーンズのウッドサイドでブロンクスとは離れている。
「タクシーぐらい乗れよ、危ないだろ。それとも稼ぎが少なかったのか?」
「千ドルだった……」
「相場だな……」
「ああ、相場だ……」
「フェイ、マジで止めろよ」
「止めるにはもったいねーんだよな〜」
「んな事言って、俺と出会った頃みたいなもめゴトがまたあったらどーすんだ。いくらお前の拳法の腕がたつっていっても多勢に無勢じゃかなわないだろうし、拳銃とか出してきたら…」
「……………」
「命の危険さらして割のあるもんじゃねーだろーが」
「………心配してんの?」
「え………」
「優しーねーケヴィンは……」
ふざけた目つきでフェイはケヴィンを見上げる。彼の気持ちを知っていてわざとこういう態度をとるのである。
「あのな………」
「なんだかんだ言ってもこの仕事は年齢制限があるから俺もそろそろ引退だ。高い値段で売れるのは18才までさ」
「じゃあ、止めるのか?」
「18に見えなくなったらな」
「んじゃ当分止めないんじゃねーか!」
「かもな………」
「お前ね………」
「俺はこれしか出来ないんだ、しょうがねーよ」
「…んな事ないだろ。お前ならちゃんとした仕事につけるかも…」
「ろくな教育もない中国人青年にまともな職があると思うか?バーの演奏だって他の演奏者が休みの時だけだ」
「誰かに紹介してもらうとか」
「叔父貴達に紹介してもらうのか?そりゃあ紅(ホン)家の重役達だ、どこにだって顔がきくだろうよ。こんな一族の面汚しの為にもお仕事をご用意して下さるさ、膝まづいて頼めばな!」
「…フェイ……」
「死んだって嫌だね、あの男どもに頭下げるなんざ、白人野郎に身体売った方がましさ」
フェイはNYで、いやアメリカで絶大な権力をもつ華僑、紅(ホン)一族の直系だが、白人女性との間に生まれたハーフなので、ハンハンと呼ばれ、一族からつまはじきにされていた。
彼の父親は一族の者が言うところのろくでなしで、皆に迷惑をかけまくり、死ぬ前まで娼婦の元ににいりびたっていたそうである。フェイはその通っていた娼婦との間に産まれたのだ。
二才の時母親が殺され、一族は血がつながっているので仕方なく引き取ったのだが、彼への扱いは冷淡だった。あからさまに差別し、両親を侮辱した。そんな中、彼に優しく接してくれたのは乳母と従兄弟の輝(ファイ)だけだった。二人がいたからこそフェイはそんな環境でも堪えていけたのである。
輝(ファイ)は紅(ホン)家の頂点に君臨する大老(ダイロウ)の一人息子で、とても優しく観音様のようだと皆から言われていた。また彼は胡弓奏者でその腕は世界でも一、二を争う程である。しかし、残念ながら彼は足が不自由だった。その彼の足を治す為にフェイは金を貯めているのである。
「どれぐらいたまったんだ?治療費ってそんなにかかるのか?」
「原因が分からねーからなんともいえねーよ。でもあるにこした事はねーからな」
「何度も言うようだけど紅家の力であらゆる治療は受けさせてると思うんだがな」
「いや、大老は白人嫌いだから、西洋人の治療は受けさせてないんだ。もっぱら針とか漢方とかさ。白人の方がその方面の技術は進んでいるんだから、きっと治療できる奴がいる筈だ」
「そーかー?」
ケヴィンは半信半疑の口調だった。
「そうだよ。子供の頃は歩けたし膝から下が動かないだけなんだ。その膝下も感覚はあって、熱さも痛みも感じるんだ。つまり神経がやられてるって訳でもないのさ」
「だから原因が分からないんだろ?」
「ああ…だが逆に言えば原因さえ分かれば治る筈だ」
「……………」
「俺がきっと治してみせる」
力のこもったフェイの瞳を見てケヴィンは辛くなった。
フェイにとってファイは絶対的な存在なのだ。どれだけ自分がフェイを好きでも、彼の中で自分の存在などファイの足元にもおよばないのだろう。彼が他の人より自分に心を許すのは、一年間一緒に暮して情が沸いた事と、ケヴィンは他の者達と違って身体目的でなく、人格を好いている為だとケヴィンは思っていた。
ケヴィンが初めてフェイに会ったのは、ストリートボーイの取材をしていた時だった。
街で身体を売る少年達を取材し、その記録と現状を本にするというライターに協力していたのである。もっともその時のフェイは取材には一切応えなかったのだが。
ストリートボーイの中で東洋人は珍しい。彼等は肌の肌理が細かく美しいので客から人気だが、たいていは組織に属していて店で売られている事が多いのである。
だがそんな事を除いてもフェイは魅力的だった。彼をみた時、ケヴィンも一目で引き付けられた。
他の大勢いる少年とは違って瞳に知性の色があった。野性動物が立っているだけでも、その内に秘めているパワーを感じさせるのと同じものを彼はもっていた。あの細身の身体には常に怒りのオーラが滲みでている。本当に身体を売っているのだろうかと疑問だった。事実、ケヴィンの勘は当たった訳であるが……
彼はもっと悪い男だったのである。
取材を終えてしばらくたった頃、ケヴィンが夜の通りを歩いていると、銃を持った男に脅され連れていかれるフェイを偶然見てしまった。こっそり後をつけると人気のない裏通りに入って行く。そこで銃を持った男はフェイに金を返せと要求していた。
その時ケヴィンはフェイの本職を知ったのである。フェイは銃を突き付けられているにも関わらず冷静で、見ているケヴィンの方がハラハラした。
「金なんてある訳ないだろう、もう使っちまったよ」
「なら作って返せ!」
「なんで俺がそんな事しなきゃなんねーんだ?」
「あれは俺の金だろうが!返金を求める権利が俺にはある」
「はは、男買う為の金だろ、楽しい時間いっしょに過ごしてやったんだから当然の報酬だ」
「なんだと………」
「スリルあったろ?滅多にない経験じゃないのか、早く手錠を解かなければ、家族にも会社にも知られてしまうんじゃないかって、焦っただろう?」
「…なに…を………」
「普段は焦らされる立場じゃないからな、あんた。胸が高鳴らなかったか?興奮しなかったか?」
「……………」
「すべてを失ってしまう恐怖を甘く感じなかったか?気持ちいい気がしたろ、堕ちていくのは…」
「……………」
男の顔を思わせぶりに見上げるフェイは、本物の娼婦の瞳をしている。人の欲望をかきたてる煽情的な瞳だ。
彼は頭が良い上に、自分の魅力を自覚しているから質が悪かった。どうすれば人を引き付けられるのか知っている。この時の男はもうフェイの手に落ちていた。銃を持つ手が震え、微動だにぜずに彼を見つめていた。男は別に金など欲しくなかったのだ。ただ、フェイに会いたくて、彼を忘れられずにここまで来たのだとケヴィンには分った。
ケヴィンは走り出て、思いっきり大きな声で叫んだ。
「ポリスマン、早く!こっちだ!早く!」
銃を持った男は弾かれたように駆け出して去っていったが、フェイはまったく動かない。警察など来ないと分っているのだろう、近付くケヴィンをじっと見つめている。
「大丈夫か?」
「あんた、どっかで会ったか?」
「ほら、この前、ライターと一緒に取材してたろ」
「ああ、あの時のな。どうした?」
「いや、偶然脅されている君を見つけて…あいつなんだ?」
「以前の客さ」
「お前、身体売ってなかったんだな…」
「まあな……」
歩き出したフェイの横をケヴィンも並んで歩いた。
「大丈夫なのか?あいつまた来るかもしれないから、危ないんじゃないか?」
「もう、来ねーよ」
「なんで?」
「今日だってかなりの不安を押して来たみたいだったからな。もう一度危ない橋渡る度胸はあの男にはないさ」
「見ててハラハラしたよ、銃突き付けてる相手にあんな口調で」
「けっ、屁とも思わねーなあんな男。自尊心ばかり高くて自分一人じゃ何も出来ない奴さ」
「なぜ分かる?」
「分かるさ。自分の言葉を持ってないからな」
「は?」
「自分で選んで歩いてきた人間には自分の言葉がある。あいつにゃそれがなかった、借りてきたものばかりだった。なのに金だけは持ってるって事は自分で手にいれたんじゃなくて与えられたもんなのさ」
「そういうもんか?」
「そういうもんさ」
「でも、用心した方がいいんじゃねーの?」
「そうだな、あの男探偵でも使ったかして、俺の住んでるとこ探したらしいからな。寝床ぐらいは変えとくさ」
後で分ったのだが、この頃のフェイは母親と同じ娼館にいた中年の娼婦といっしょに暮していた。一族に引き取られてからも、周りの態度に我慢できなくなった時には娼館に戻っていたのである。娼婦達はフェイを自分の子供のように大切にしてくれたという。男を手玉に取る技術はそこで学んだらしい。
「じゃあな、ライターさん」
「あ、待てよ」
「なんだ?」
「…あーのー…行く宛あんのか?」
フェイは軽く肩をすくめてみせる。
「俺のとこに来ないか?」
「は?なんで?」
「…お前が好きになったから……」
ケヴィンの言葉にフェイは一瞬沈黙したが、軽く鼻で笑ってこう言った。
「…聞き飽きた台詞だな……」
それからフェイはケヴィンのアパートメントに転がり込んだのであった。
        ***
 その夜、フェイはアッパー・ウエスト・サイドの90st.にある紅(ホン)家の本宅に来ていた。ヨーロッパ調の重厚な外観に立派なドアマン。一見高級コンドミデアムに見えるだろうが、ここには長老ですべての決定権をもつ大老(ダイロウ)の紅劉向(ホン リュウコウ)と彼の息子である輝(ファイ)しか暮らしていない。時々一族の者が泊まる事もあるが、あとはボディガードや使用人達ばかりである。
大老(ダイロウ)は輝(ファイ)に並々ならぬ愛情を注いでいた。足の不自由な彼を好奇の目にさらしたくないと学校に通わせず、一流の教師を呼び寄せ勉強させた。ほとんど家から出さず、閉じ込めたままで、温室で大切な蘭を育てているかのような慎重さであった。
過剰過ぎるとフェイは思っていた。
彼の胡弓の腕前を知った人から留学の話もあるが、すべて大老の意志で断っているのである。乳母に聞いたところによると、ファイの母親は紅家の使用人の娘だったらしく、身分違いに悩んだ母親はファイを身ごもったまま姿を消したらしい。若き日の大老は必死になって行方を探したが、見つけた時、彼女は病気で亡くなっていた。忘れがたみであるファイを残して……
原因不明な足の病気になった事もあり、つい過保護になってしまうのだろうがファイも、もう24才だ。少しは外の世界に出してやるべきではないだろうか。確かにここにいれば安全でなんでも手に入るだろう。皆も皇帝に仕えるかのごとくなんでも聞いてくれる。
だが、ファイ自身はそれを良しとするバカ息子ではないのだ。自分を必要以上に過信したり、他者を下にみることもない。
それにこのままでは友人も恋人を作ることもできないではないか。大老は自分が決めた女と結婚をさせる気だろうけれども……
『兄さんが可哀想だ』
ファイはもの静かで美しくて、優しいから何も言わないけれども、よくフェイから外の話を聞きたがった。とてもおもしろそうに話を聞く彼の姿を見て、フェイは絶対に足を治してやろう、いっしょに外を歩こうと思うのである。
一方、大老は芸術には深い感心をもっており、才能ある若者のパトロンになったり、投資や寄付も行なっていた。そしてそんな者達が集まり、この屋敷で月に一度演奏会を開いているのだ。自慢の息子を見せびらかしたいという思いがあるようで、ファイも参加させており、彼の演奏はいつも皆を魅了させていた。
一族の者ならばこの日は誰でも演奏会に参加できるので、フェイは毎月来ていた。この日でなければ叔父貴達の命令でドアマンに追い返されるからである。
十五才の時、ジュニアハイスクールを卒業すると同時にフェイはここを出た。紅家になど未練はないが、ファイにだけは会いたいので、来るしかなかった。
エレベーターでサロンの階に上がると、すでに多くの人が集まってきていた。生の音楽が演奏され、名々に食事やおしゃべりを楽しんでいる。一族らしき者の他にビジネスで関わりのある白人や日本人も多く招待されている。大老は白人も日本人も嫌いだが、ビジネスでは割り切って付き合っていた。
『利用せよ。されど交わるな』は、彼の言葉である。
白人と交わったフェイの父とその権化であるフェイは、まさに一族の面汚しという訳だ。
フェイがシャンパンを飲んでいると、お客の相手をしていたファイが気が付いた。
「やあ、フェイ、元気か?」
変わらぬ美しい笑顔を浮かべながら車椅子で近付いてくる。昔、彼の母親の写真をみせてもらった事あるが、美しい女性で彼によく似ていた。
「ああ、なんとか。ファイ兄さんも元気そうだね、何よりだ」
「今日も来てくれてありがとう。ゆっくりしていってくれ。泊まっていってくれるかい?」
「そうだな〜」
「頼むよ、フェイの話楽しみにしてたんだから。俺の部屋にベッドも用意してるし」
「んじゃあ、そうするよ」
「良かった、ありがとう」
「フェイ、お前来てたのか」
振り向くと、榎(ヤン)叔父が立っていた。酔っているらしく顔が赤い。
「どうも………」
フェイはペコリと頭を下げた。
「なんか最近TVなんぞにでて媚売っているから、忙しくて来る暇がないかと思ったぞ」
そらきた。
「どうも………」
フェイはまたペコリと頭を下げた。
「さすが卑しい血が混ざっているだけはある、媚を売るのが上手いらしくて随分人気があるらしいじゃないか」
「………」
腹がたつにはたつが、こんな厭味は子供の頃にさんざん聞かされたので慣れている。こそこそ話されるよりは、こうして真っ向から聞かされている方がましかもしれない。
「そうそう、すごい人気があるんだってなフェイ」
ファイが言葉をかけてくる。
「私も見たけど、とても演技が上手いね。間の取り方とかも上手だし、すごく良かったよ、ねえ、叔父さん」
「え?」
「叔父さんも見たのではないのですか?フェイの演技とても上手ですよね」
「ま、まあな………」
アメリカのテレビドラマを見ているとばれたのがまずいと思ったらしく、彼はそのまま他の客を見つけて話しかけにいった。フェイはその後ろ姿にあかんべーをしてみせる。
「でも、すごく良かったよ。あんなに演技上手いなんて知らなかったな」
「あれは演技じゃねーよ。兄さんの真似」
「真似?」
「ああ、資料とか脚本読んで思ったんだけど、あのチヒロ・シバサキって奴、兄さんに似てるんだ。だから、俺としては兄さんの振りしてるだけなんだ」
「そうか?俺ってあんな感じなのか?」
「ああ、自分じゃ自分が見えないから分からないだろうけど、あんな感じだよ」
とても優しくて、誰もかれも受け入れるところとか……本当に似ているとフェイは思った。
「大老だ」
「いらしたぞ」
中国服を着込んだ大老が現れ、サロンに緊張感がはしる。
「やあ、皆様、よく来てくださった。今日も素晴らしい演奏家達が集まっておりますし、壁にも若く才能溢れるアーティストの絵を飾っております。どうぞ心ゆくまでお楽しみ下さい。では」
大老はグラスをとった。
「乾杯」
「乾杯!」
大老の挨拶が終わると、皆はまたお喋りを始め、サロンはまた活気づく。
「ファイはどこだ?」
「父様、ここです」
ファイが手を上げて知らせると、こちらにやって来た。傍らには直属の用心棒である小軍(シングヮン)を従えている。
「フェイといっしょか………」
なんか文句あんのかよ、とフェイは思った。
「最近テレビに出ているらしいな」
『嫌味言う気かな』
「武道の鍛練は怠っておらんだろうな」
「へ?あ、ああ、ちゃんとやっております」
大老は昔からフェイに対して何の関心ももっていないようであった。冷淡に扱わなければ、可愛がりもしない。芸術に才能があれば別だったかもしれないが、フェイの才能はもっぱら武道の方に表れた。
「痩せたのではないか?」
「………………」
その通りだったので返事はしなかった。
「広い場ではそれで通用するだろが、狭い空間では不利になる。拳に体重を乗せる練習をしておけ」
「………………」
それだけ言うと大老はファイに一言かけて去っていった。いつ会っても威圧感のある男である。彼はいつも飢えた獣のような空気を纏っていた。背中を向ければ喰われてしまいそうな……
何に飢える必要があるのか、フェイは不思議だった。産まれた時からすべてを持っているくせに……
「フェイ、後で夕食いっしょに食べような」
「うん」
「あのさ…フェイ……」
「何?」
「実は頼みがあるんだ……」
「兄さんが俺に?何?」
「食事が終わったら話すよ……」
「うん……?」
なんだろう、ファイが俺に頼み事なんて?もしかして、こっそり向け出したいとか!ちょっと胸がわくわくするフェイであった。
夕食の後、フェイはファイの部屋でその頼みを聞かされた。
「実は父様の書斎の本棚に秘密の扉があるんだが、そこに何があるか調べて欲しいんだ」
「え?大老の部屋に?でもどうして俺に?」
「私では手が届かないんだ。梯子も持っていけないし」
「分った、どうすればいい?」
「部屋の鍵は時々本とか借りているから持ってる。それで部屋に入り、秘密の扉を開けるから中に何があるか調べて欲しい、いいかな?」
「ああ、いいよ」
さっそく二人は大老の書斎に忍び込んだ。四方を埋め尽くしている本の中から何冊かの本を抜き取ると、金属のダイヤルが壁に付いているのが見えた。但しそのダイヤルは数字ではなく、漢字が刻まれている。
「押すのかい?なんて?」
「子曰、朝聞道、夕死可矣(子の曰わく、朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり)だよ」
「………孔子か」
フェイが言われたとおりダイヤルを押すと、隣の棚の一部が前に飛び出した。丁度フェイの頭の高さぐらいのところである。前に飛び出した棚はスライド出来たので、横にどかして中を覗く。
「何がある?」
「ん〜写真たてが一個と古い手紙の束がある。あ、お酒らしき瓶もあるけど」
「ああ、それは大老の為だけに造られてるお酒だよ。寝る前に毎日飲んでいるんだそうだ。手紙とれるかい?」
「おう」
フェイは手紙を取り出してファイに渡した。彼はそれを急いで調べる。その間、フェイは写真たてを手にとったが、それにはファイの母親の写真が入っていた。宝琴(パオチン)と裏に書いてある。
「へ〜大老はロマンチストだね〜」
「うん?」
「ほら、ファイのお母さんの写真だよ」
「………………」
ファイは写真たてを受け取り、愛しそうに触れた。そんなファイを見てフェイは少し羨ましかった。彼の母親が死んだのは彼が七才の時であるから、母親の事を覚えているだろう。しかし、フェイの母親が死んだのはフェイが二才の時で何も覚えていなかった。
娼館で客がいきなり銃を乱射して、その犠牲者となったのである。父親はフェイが産まれる前に青酸カリで自殺しているし、一族は写真を一枚も残していない。両親の話は母親の友人であった娼婦の言葉でしか知らないのである。父親が自殺した時、母親も死のうとしたらしいが、自分がお腹にいたので生きる決心をしたのだと、聞かされた。人種の違いなど関係なく二人は愛し合っていたんだよ、と。フェイにはそれだけで十分だった。両親は愛しあって自分が産まれた。誇れるものはそれしか持っていないがそれで十分なのだ。でも、時折どんな人だったのか知りたくなるのも事実だった。
「手紙は何?」
「ああ、母さんが父様にあてた手紙らしい」
「ふ〜ん」
何故、隠す必要があるのだろう?恋文なので恥ずかしいのだろうか?
ファイが読んでいる間、フェイは部屋の中をぐるりと見て回った。本しか置いてない部屋だった。調度品がいくつか置かれているが、他の部屋にある物と比べると随分地味である。しかし、この空間が大老には一番落ち着くのかもしれない。紅家を支える男が、この空間で愛した女性の思い出に浸りながら、酒を飲む時間は一番安らげる時かもしれない。
「兄さん、もういいかい……」
ファイを振り返ると彼は青ざめた顔をしていて、フェイは驚いた。
「どうした?気分でも悪いのか?」
「……いや、ちょっとね……」
「兄さん?」
手紙に何か?
「急いで戻ろう、小軍が時々見回りに来てるから、そろそろ来る時間かもしれない」
「ああ、じゃあ片付けるよ」
フェイは急いで手紙と写真たてを元の位置に戻して、扉を閉めた。部屋を出る時も誰もいないか確かめてから廊下に出る。
「悪かったね、変な頼みして………」
「別に。兄さんの役にたてたならいいよ」
「…………何も聞かないんだな」
「兄さんが話したいなら聞くけど」
「………お前のそういうとこ好きだよ」
「そう?」
「………ああ…ほっとする」
「人をいつもほっとさせてるのは兄さんだろ」
「そんなもんじゃないよ私は………」
「何言ってんの〜あれだけの演奏ができる人はざらにはいないぜ〜」
「……………」
「………兄さんの胡弓、大好きだよ。聞いてるとほっとするもん、人もそうでなきゃ音に表れないよ」
「………やっぱりお前好きだよ。お前の前でなら四つ足で歩ける」
「ん?」
「子供の頃は四つ足でも歩けるのが嬉しかったけど、乳母が悲しい目をするので出来なくなった」
「……………」
「でもフェイは俺を哀れんだりしないから全然平気なんだ。フェイだけだよ」
「俺も兄さん好きだよ。という事は俺達相思相愛じゃん!」
「本当だ」
二人は声を出して笑い合った。