AKATHUKINITE…8

          二
 大老を殺すー。
フェイは決意した。あの男がいる限りファイは一生幸せになれないのだ。家に囲われ、自由を奪われ、一生屈辱を味わされるに違いない。フェイの心は悲しみと憎しみが渦巻き、もはや誰にも止められなかった。
月に一度の演奏会の日、いつものようにフェイは紅家を訪れたが、サロンには行かず、この前ファイに教えてもらった大老の部屋に忍び込む。部屋の鍵は針金を使った。さすがに苦労したが、五分程で扉は開いた。
今、大老は香港に行っていて不在なので、警備もどことなく緩んでいるようである。演奏会の日に彼が家を空けるのは珍しかった。
例の本棚にある隠し扉を開く。前回と同じ手紙の束と、写真たてに、お酒の瓶が置いてある。
震える手で瓶を取り出し、蓋をはずす。中身は半分程減っている。フェイはポケットから一錠のカプセルを取り出した。
それは青酸カリであった。
母が父の後を追おうとして持っていたが、結局使わなかったカプセル。母の友人である娼婦にもらった遺留品の中にこれが入っていた。たとえ毒薬でも、両親が愛しあっていた証に見えて、フェイは大切にしまっておいたのである。それが、こんな形で使うはめになろうとは……
カプセルを二つに割ろうとするが、手が震えているので、なかなか出来ない。心臓が口から飛出そうなぐらい高鳴っている。やっと割れたカプセルの中身を瓶の中に降り注いだ。
白い粉が、綺麗な血の色をした水面に落ちて、沈んでいく。少し瓶を振ると、粉はあっという間に溶けて見えなくなってしまった。
これで大老は死ぬに違いない。こんな所に入っているのだ、大老以外は飲まない筈である。彼以外の犠牲者がでる事はない。
これが、ファイの為なのだ、とフェイは自分にいい聞かせた。
彼にあんな行為をしていた大老を絶対に許せない。あの時の様子から初めてではないと察しはついていた。いつから、あんな行為をされていたのだろうか……
もっと以前から?
なのにファイはいつも自分に優しくて……
彼の苦しみを知らずに笑っていた自分が情けなかった。何もしてやれなかった自分が。
廊下を覗いて誰もいない事を確かめて部屋を出る。鍵をかけて、何事もなかったかのように平然と歩くが、フェイの心は漆黒の闇が広がっていた。
「フェイ」
いきなりファイが目の前に現れたので、驚きのあまり心臓が跳ね上がる。
「…に…にい…さん……」
「どうした、フェイ、サロンに来てくれないのか?」
「うん…今日は…帰ろうかと……」
彼の顔がまともに見れずに目をそらす。
「どうして?今来たばっかりじゃないか?」
「……うん………」
「身体の具合でも悪いのか?なんか顔色悪いみたいだし、大丈夫か?」
どんな時でも人の心配ばかりしているんだな……ファイ……
「にいさんは…幸せか……」
「……ああ…そうだな……」
嘘をつかなくていいのに、もう俺の前で無理に笑わなくていいのに!
フェイの胸は痛みで張り裂けそうだった。
「でも!大老がいなければもっと幸せになれるだろ!」
「え…………?」
「兄さんを家に閉じ込めて、留学もさせないで!おかげで友達も作れないじゃないか!あんな、あんな自分勝手な男!死んじまえばいいんだ!」
「フェイ………」
いきなりのフェイの暴言に、ファイは一瞬あっけにとられていたようだったが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。
「誰かが死んで幸せになるなんて事はないよ…別れはいつも悲しいものだ……」
「でも、あんな奴!」
「…フェイ、私は大老の本当の子供じゃないんだ……」
「え…………」
「この前手伝ってもらって部屋に入っただろ、あの時私が見ていた手紙には、母が大老に私を引き取って欲しいと嘆願している手紙だったんだ」
「引き取る……って大老はずっとファイのお母さんを探してたんだろ?」
「そうだ、大老はずっと私の母を愛していたが、母が愛したのは別の男だったんだ」
「じゃあ………」
「そう、それが私の本当の父親だ。母と父は駆け落ちして暫くいっしょに暮していたが、父は母と私を捨てて出ていった」
「父の顔は覚えていないけれど、母は最後まで父を愛していた。自分を捨てた男なのに……」
「………………」
「病気にかかり、自分の命が残りわずかだと悟った母は、大老に私を託した。彼が断らないと分っていたからだ。母は大老を愛さなかったくせに、利用したんだ。そして大老は私を自分の子供として引き取ってくれた、私が七才の時だよ。」
「……あの身分違いに悩んだっていう話は?」
「自分の子供として引き取る為の大老の作り話だよ、私にも同じ話をしていた」
「……どうして……」
「私にも自分が本当の父親だと信じ込ませたかったんだろうな、でも、一番信じたかったのは大老自身かもしれない……」
「彼にとって私は、愛した女性の子供であると同時に、愛する人を奪った男の子供でもあるんだ……」
「……にいさんは…大老を…憎いと思った事はないのか……?」
「……ないよ…彼はとても悲しい人なんだ……」
許している………
ファイは大老を許しているのだ、あんな酷い事をされているのに、何故だ!?
フェイはそれ以上聞きたくなくて踵を返して走り出した。
「フェイ!」
後ろからファイの声が聞こえる。
やめろ、やめろ、聞きたくない!俺は絶対あの男を殺すんだ!同情などと誰がするものか!
紅家を飛び出してもフェイは迷いを振払う為に走り続けた。
        ***
「本当に、聞いてくれたのですか?」
自分のデスクでケヴィンは国際電話をかけていた。
「でも、一度もアイザックさんは電話に出てくれないじゃありませんか?本当に私から電話があったと伝えて下さっているのですか。はあ、そうですか、ではまたおかけします」
「どうしたケヴィン?誰に電話してたんだ?」
「ヒュー・アイザックだよ。八年前のチヒロ・シバサキ事件の関係者」
「まだ調べてんのか?もうとっくに終わった事故じゃないか、今さらなんで?例のドラマのコメントでもとるのか?」
「いや、違うよ………」
ケヴィンはヒューに、何故あの時シバサキを呼んだのか理由を聞きたかったのである。FAXを送ったのだが、事情説明できたのは事務所の女の子で、直接彼と話す事は許されなかった。一応ヒューに伝えておくと言っていたが、本当に伝えてくれたのだろうか?勝手にもみ消されていそうで不安だ。
どうしてもケヴィンは訳を知りたかった。何かが引っ掛かっているのだ。それに、自分を助けた人に八年間一度も連絡もしない、会いにも行かないなど卑怯ではないだろうか?
「な〜んか気になってるんだけどな〜長年の勘ってやつか〜」
「長年って、お前記者になってまだ三年だろうが」
「う〜ん、三年目の長年の勘〜」
「なんだそりゃ?」
「なあオリバー、もしお前が友達に話があって会いたいとする。自分も友達も職場にいる、となるとどうする?」
「電話してどっかで落ち合うけど」
「だよな、家の前で待ってろとは言わないよな〜」
「ああ、そうだな。それがどうした?」
「それが、ある人がそういう事してるんだよ、どう思う?」
「自分が先に家に着くって分かってたんだろ」
「でも家に帰ってから電話するのが普通じゃないか?途中、わざわざ公衆電話からしてるんだぜ」
「よっぽどで急いでたとか?」
「それじゃあ、直接職場に行けば良かったんだよ、そいつがいたのはミッドタウンで友達の職場はグラマシーだ。目と鼻の先じゃないか。家はブルックリンなんだから、遠いだろ」
「う〜ん、じゃあ行きにくい職場だった、とか?」
「そこの手伝いもしてたので顔みしりです」
「う〜ん………」
「なんか微妙にくい違うんだよ〜」
「じゃあ、そいつは合鍵を持っていた、とか?」
「友達に合鍵なんか渡すか?」
「いっしょに住んでたというのは?」
「同居していたのは別の所だった」
「そうか〜同居もしていない奴に合鍵なんて渡さないよな、恋人ならいざしらず」
「そうなんだ…あ……」
ケヴィンは一瞬思った。
もしかして二人は合鍵を渡す間柄だったのか?
ケヴィンは急いでクリンスに電話をかけた。運良く彼女は家にいて、彼女にシバサキはヒューの合鍵を持っていたか尋ねた。
クリンスは分からない、と答えたが、NYのオフィスにあったものは全部自分がもっているから、見てみますか、と言ってくれた。
「ぜひ、お願いします。今から行っていいですか。ありがとうございます。すぐに伺いますから!」
ケヴィンは受話器を置くや否やヘルメットを手にとった。
「オリバー、俺、ちょっと出てくるわ」
「へ?どこに?」
「フラッシングにあるクリンスっておばあちゃんの家だ!」
「こらケヴィン〜!原稿は終わったのか〜」
編集長の声を無視してケヴィンは大急ぎで外に出た。バイクに跨がった時、ふっとフェイの顔が思い浮かぶ。
彼はあの日、自分に抱かれた(という事にしておこう)日からどうも様子がおかしい。憎しみの含んだ表情で、いつも何かを考えこんでいる。
確か今日は火を使う危険な撮影の日とかで、朝早くからスタジオに入ると言っていた。あの調子で危険な撮影なんて、大丈夫だろうか?少々心配になる。
『俺には何も相談してくれないんだな〜』
まだまだ彼の中で、自分はその他大勢の中の一人なのだろうか?では、あの日も俺でなくても誰でも良かったのだろうか?あんな涙を見せるのは俺でなくても……
「はあ〜」
ケヴィンは大きくため息をついた。
『俺もそろそろ辛抱たまらん状態だぜ〜』
        *
「この部屋にあるすべてが、シバサキの持ち物です」
クリンスの家にたどりついたケヴィンは、シバサキの持ち物を見せてもらった。カメラやファイル、いくつかの段ボールなど、きちんと整理されて並べられていた。かなりの量である。
「こんなにですか?彼は何も持って帰国しなかったのですか?」
「電話や机などビルの備品でしたから。後は全部私に下さったの。もう自分には必要ないからと言って……」
「……………」
カメラも今まで撮った写真も、もう見る事も使う事もできないから……
「ちょっと、探させて頂いてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ。では、私はキッチンにいますから」
「ありがとうございます」
ケヴィンはさほど期待もせずに取りあえず荷物を見て回った。合鍵を持っていたとしても自宅に置くだろし、こんな所にある筈はないだろう。そう思つつも、ほのかな期待を抱きつつ段ボールの蓋を開ける。中にはたくさんの手紙が入っていた。
合鍵を作った時の領収書とかないもんかな〜と考えつつ、調べる。
すると一通の不動産からの手紙を見つけた。消印は九五年四月二十八日、事件のあった日である。
中身を見ると
『先日は、わざわざお越し頂いてありがとうございます。さて、ご希望の物件ですが、グラマシーかミッドタウンの職場に通勤するのに便利な場所、との事でしたが、あいにく、これらのご希望にお応えできる物件がございませんでした。しかし、ビレッジの方でしたら、いい物件がいくつか…』
グラマシーとミッドタウンに職場?
シバサキのスタジオはグラマシーにあるが、ミッドタウンにはなかったと記憶している。スポンサーのCBC社はロウアーマンハッタンにあった筈だし……ミッドタウンにあるのは……
ヒュー・アイザックの職場だ。
ファースト・アルバムの『can`t on jamp』を録音したロッホ・インダストのスタジオがある場所である。二人はまた一緒に暮す気だった。恋人になったからか。だからヒューはシバサキに電話をかけたのか。
『ん、『can`t on jamp』?』
「ああ!」
ケヴィンは思わず大声をだしてしまった。
「そうか、分ったぞ!なんで俺が気になってたか!な〜んだそうだったのか〜」
頭の中の霧が一斉に晴れたかのような爽快感だった、が、段ボールの手紙の中に、真っ黒な封筒があるのを見つけケヴィンの胸に不安が広がる。中身の真っ黒な便せんを開けると、白いインクで『死ね』と書いてあった。
「な!」
ケヴィンの胸が恐怖の為に苦しくなる。フェイがもらったと言っていた手紙とまったく同じである。
これをシバサキも受け取っていた!?どういうことだ!まさか……
頭が混乱してきた。
「落ち着け、落ち着け……」
考えろ、考えろ、考えるんだ!
シバサキに電話をかけたのはヒューではなかったとしたら?
そいつはヒューでもなく、キャロルでもなく、シバサキの命を狙っていたとしたら?
合鍵を持っているのをそいつは知っていたのだ!だから一番始めに鍵を開けさせる為にシバサキに電話をかけた!だが、思わぬ邪魔が入りキャロル・デヅォーデルが死亡してしまったのだ。
そいつがフェイに同じ手紙を送っている……
チヒロ・シバサキの役を演じているフェイの命を狙っているのでは?!
ケヴィンは弾かれたように立ち上がった。
「クリンスさん!うわっと!」
クリンスの元に駆け付けるが、足元がもつれてつんのめってしまう。
「どうしたのですか?ナイトラーさん?」
「警察に電話して下さい!八年前チヒロ・シバサキの命を狙った奴が、フェ…じゃない!チヒロ・シバサキの役を演じている役者の命を狙っていると!」
「え………」
「早く!すぐに保護するように要請して下さい!彼は今テレビドラマの撮影でスタジオにいる筈ですから!」
「わ、わかりました………」
ケヴィンの迫力に押されクリンスは頷いた。ケヴィンは急いでスタジオに向けてバイクに走らせた。
警察には通報してもらっても、なんせNY市警。信じるかどうか分からない。第一、狙われているかもしれない、という曖昧な情報なのである。爆弾が仕掛けられている、とか言えば良かった、とケヴィンは後悔した。
頼む!俺の思い違いであってくれ!
なぜ、ヒューとシバサキが気になっていたのか分った。
『can`t on jamp』の中に納められているバラード曲に、叶わない恋を歌ったものがある。
黒髪に美しい黒い瞳の持ち主に恋をした主人公。いつも相手に翻弄される心情は、フェイに片思いしている自分とダブって聞こえたものだった。
ヒューも自分と同じように黒髪と黒い瞳をもった人に恋していたのだ。だから、事故の後、会いにいけなかったのだ。自分の為に愛する人が全て失ってしまった。その姿が辛くて見れなかったからに違いない。
そしてシバサキは恋人の為に身を挺して助け、彼を憎まなかったのだ。愛していたから……
もし、フェイが本当にシバサキを殺そうとした犯人に狙われていたとしたら……
絶対に守るぞ!俺が!
ケヴィンはアクセルを強く踏んだ。
        ***
「よし、本番行くぞ!一回こっきりだから皆、気を引き締めてくれ!」
「はい!」
スタッフ一同の声が上がる。スタジオはいつにない緊張感で満たされていた。
今回の撮影は孤児院が火事になり、保護センターにいた人々が子供達を救出するというシーンである。本物の火をあちこちから出す為、最新の注意を持って挑まなくてはならなかった。リハーサルを何度も行ない、火の吹き出る位置を役者に覚えてもらう。走る時間、立つ位置など入念にチェックする。
「このコントロールパネルで火の出るタイミングを計っているんだ」
「へえ〜これでねえ」
スタッフの持つ、幾つものスイッチのある薄い金属板を、眺めながらエディが感心したように呟く。
「誰が操作するんだ?」
「このセットを作った工務店の人だよ。一台につき二人で操作するから計四人だ」
「すごいなジョン、これだけであのセットの火を操作してるんだってよ」
「……………」
「ジョン?」
「え…あ、ああ…何?」
「おい大丈夫かよ?どうしたんだ、ぼーとして。緊張してるのか?」
「まあ………」
「ちょっとナーバスになってるみたいだけど大丈夫か?立ち位置とかはしっかり覚えておけよ」
「ああ………」
今日は大老が香港から帰ってくる日なのである。夜、眠る前にあの酒を飲むだろう。そして……
本当にこれでいいのだろうか?正しいのだろうか?でも、やはりあの男は許せないのだ……
「では、最終確認を行ないます。エディ、ジョン、来て下さい」
スタッフに呼ばれ二人は監督に近付いた。
「二人は奥から走ってくる。周りは煙りが充満している。ちょっと息を苦しそうにしてくれ。そして、そこにあるドアをジョンが開けると火が間近に吹き出してきたので、ドアを閉める。そこで台詞がでる」
「ここには誰もいない、他の部屋を探すんだ」
フェイが台詞を喋る。
「そう、そして二人はまた廊下を走る。ここまでのシーンだ。ジョン、火が吹き出るところだが、絶対に立ち位置を忘れるなよ」
「分ってます………」
「では行くぞ!」

ケヴィンはやっと撮影している撮影所に着いた。息をきらしながら走り、スタジオまで駆け付ける。スタジオの前は堅い扉に閉ざされ、係員が一人立っていた。
「撮影は!」
「始まってますけど、駄目ですよ、関係者以外立ち入り禁止です」
「警察は来てないのか?」
「こちらに来ると連絡がありましたが…何故知っているのですか?」
「くそ!」
やはり百%信じていないようである。一応調べには来るようだが……
もしかしたら、自分の取り越し苦労かもしれない。あれは単なるいたずらで、偶然にシバサキとフェイに送られただけかもしれない。
しかし、本当だったら?
フェイに何かあったら自分は一生後悔するだろう。後でどんな総スカンをくらってもいい。今すぐフェイを抱き締め、無事を実感したいのだ。
「もしかしたら、このスタジオに爆弾が仕掛けられているかもしれないんだ!急いで撮影を中止してくれ!」
今度は最初から嘘を言ってみる。
「ええ?」
「早く、何かあってからじゃ遅いんだぞ!」
半信半疑だった係員だったが、ケヴィンの必死の様子を見て、不安になったようである。
「分かりました。監督に伝えます」
係員は中に入ろうと扉を開けたが、その横からケヴィンは身体をすべりこませた。
「撮影は中止だ!皆、中止だ!」
ケヴィンは大声で叫び、扉の付近にいたスタッフが驚いて彼を見つめる。
その時ケヴィンの目に、煙りだらけのセットの中を歩いているフェイの姿が映った。ときどき咳き込みドアを開けようとした、が、一人の男がフェイに向かって駆け出している。
「やめろー!」
ケヴィンが叫んだが、男はフェイにすごい勢いで飛びついた。二人はもんどりうって、いっしょに倒れる。するとフェイの開ける筈だったドアからものすごい炎が吹き出した。予定ではドア入り口付近まで吹き出るだけであったのに。あのままフェイが立っていたら、火は確実に彼の身体を焼いただろう。
勢いよく吹き出した炎はセットに燃え移つり、全体が燃え出した。
「おい、火を消せ!」
消化器を持って待機していた消防士が一斉に飛び出し、火を消そうと泡を吹き掛ける。フェイに飛びついた男は彼を抱き締めたままセットから離れた。エディもすばやく避難している。
心臓が締め付けられるような恐怖を味わっていたケヴィンは、セットから離れたフェイを見て大きく息を吐き出した。
無事だ!
そして、コントロールパネルを操作していた男の一人が、逃げようとしているのに気付く。
「おい、そいつを捕まえてくれ!そいつが犯人だ!」
ケヴィンの声に男は駆け出すが、大勢いたスタッフが反射的に飛びかかり、あっさり押さえつけられた。
何か知っているに違いない。大勢のスタッフが入念にチェックするのだから、セットではなく、扱う人間が決まっているコントロールパネルに細工がしている筈である。
犯人が捕まったのを確認する前に、ケヴィンはフェイの元に駆け付けた。
フェイはまだあの男に抱き締められている。
「あの………」
フェイは何があったのか理解できず唖然としていた。助けてくれたのはなんとなく分かるが、飛びかかってきた男は、自分を強く抱き締めたまま離してくれないのである。
「………シバ…………」
男が苦しそうな声で呟く。
「え…………?」
「ちょっと、あんた、いつまで抱きついてんだよ…」
男がゆっくりと振り返ると、ケヴィンがすごい目で睨んでいた。
「君は?」
「ケヴィン・ナイトラーだ。あんたこそ誰だ?」
「俺に電話をくれたのは君か?」
「え、という事は…あんた………」
「ヒュー・アイザックだ、はじめまして」
「どうしてここに………」
「君からのFAXを見て、会って話をしたいと思って来たんだ。今朝空港についたところだ。ホテルからクリンスさんに挨拶の電話をいれたら、この状況を聞かされてね。それで、ここに駆け付けたのさ」
「そうだったのか…ちょっとこっちに来てくれ」
ケヴィンは大騒ぎしているスタジオの中で、人気のない場所に移動した。何が何やら分からないフェイも取りあえず付いて行く。
「あの事件の時、あんたはシバサキに電話してないんだな」
「ああ…していない………」
「あの犯人を知っているのか?」
「いや…知らない男だ…でも彼が狙われているのかと思い、つい飛び出してしまった…」
フェイに、シバサキの姿を重ねたに違いない。
「俺はシバサキに似ているのか?」
ずっと話を聞いていたフェイが初めて口を開く。ヒューはフェイを見つめると
「……ちっとも似ていないよ……」
と言った。
『さっきは俺を抱き締めて名前を呟いていたくせに』
とフェイは思った。
「犯人はあんたではなく、シバサキを殺そうとしてたんだな」
ケヴィンの言葉にヒューの肩がぴくりと揺れる。
「シバサキを呼んだのは、彼があんたの恋人で合鍵を持っていたからだな…」
「……………」
「シバサキに会いに行ってやるべきじゃないのか…」
「……………」
「彼はあんたを憎んでないってクリンスさんが言ってたぜ」
「…憎んでくれた方が良かった…」
「ヒュー、それは………」
「病院に彼を見舞った時、彼はなんて言ったと思う…『お前が無事で良かった』と…彼の言葉を聞いた時、俺はもう彼に会えないと思った。自分した事が彼に反ってきてしまったから…いっしょにいれば俺は幸せだから、彼の夢を奪った俺が幸せになってはいけないと…彼が許してくれても俺は自分が許せなかったんだ……」
「だが、犯人は始めからシバサキの命を狙っていたと分ったじゃないか」
「なぜ、許したんだ、シバサキはあんたを…?」
フェイがヒューに尋ねた。
「…彼は憎しみで逃げない…」
「逃げる?」
「人は悲しみや痛みに堪えられないから、憎しみに変えようとするけれど、シバは痛みを痛みとして、悲しみを悲しみとして受け止めてた……」
「………………」
スタジオがざわめいたので、見ると、警察が到着し男を逮捕していた。
「じゃあ騒ぎが大きくならないうちに消えるよ……」
ヒューは裏口の方へと足を向けた。
「会いに行けよ」
ケヴィンが彼の背中に声をかける。
「本当に彼が好きだったんなら、行くべきだ……あんた彼を好きになった事、後悔してんのか?」
ヒューがゆっくり振り返る。
「違うんだろ?本気だったんだろ?今でも好きなんじゃないのか?彼もあんたを好きだったんだろ?後悔する程度の気持ちだったのかよ」
「………………」
ヒューは再び歩き出して、二人の前から消えた。ケヴィンは彼が理解できる気がした。自分もフェイに何かあったら、どうなるか分からない。ヒューがシバサキに会いに行けない気持ちは分かる。
でも、彼は間違っている。自分の求めているものを知っているくせに、そこに行かないなんて。本当に欲しいなら、どんなに辛くても手を延ばすべきなのだ。そして、ケヴィンはフェイに手を延ばした。
「フェイ……」
「………………」
「顔、見せてくれ……」
「ん…………」
ケヴィンはフェイの両頬に触れた。
「…すすだらけだな…怪我してないのか?」
「……ああ…大丈夫だ……」
ケヴィンはフェイを強く抱き締める。
「無事で良かった……」
「………………」
フェイを抱き締め、ケヴィンはやっとほっとした。
ケヴィンの手の温もりが伝わってきた時、フェイの脳裏にファイの顔が蘇る。あの時、大老を悲しい人だと言った時の彼の……
ファイは大老の悲しみを受けとめている。彼は誰も憎んでいない。強く俺を抱き締め、愛しい人の名前を呟いていたヒュー。苦しそうな瞳をしていた彼は、俺ではない誰かを見ていた。大老もあんな瞳をしてファイを抱きしめるのだろうか?そして、そんな彼の痛みを受けとめ、許している。
チヒロ・シバサキ、やっぱりあんたはファイに似ていたんだな。
「……ケヴィン………」
「本当に無事で…良かった…」
「……お前バイク乗ってきたか?」
「ああ……何?」
「紅家に連れていってくれないか、今すぐ…」
「なんで?後にしたらどうだ?警察の事情調書とかあるだろ?」
「……俺、大老に毒もっちまった…」
「はあ………?」
「…もう飲んじまったかもな……」
「ば、ばか、本当かよ、それ!」
「……ああ………」
「!このばかが!なんだってそんな事!ああ、もう、今すぐ電話しろ!」
「…俺が電話してもすぐ切られる。受け付けてくれねーんだ」
「なにおー!来い!急げ!紅家に行くぞ!」
ケヴィンはフェイの手を掴んで走りだした。
「いちかばちか、走ってる間、俺の携帯で電話してみろ!ほれ、メットかぶれ!」
フェイは投げられたヘルメットをかぶり、バイクの後ろのシートに乗った。言われたとおり、受け取った携帯で紅家に電話してみる。
「しっかり捕まってろ!とばすぞ!」
フェイの手が腰にしがみつくのを確認して、バイクを発進させた。
『くそ〜一難去ってまた一難かよ〜』
二人を乗せたバイクは、猛スピードでマンハッタンを駆け抜けた。