AKATHUKINITE…9

 予想どおり電話はこちらが名乗った途端切られてしまった。登録したらしく後でどんなにかけても着信拒否された。紅家に駆け付けると、ドアマンが行く手を阻む為、早速前に立ちふさがる。
「おい、今日は演奏会の日ではないだろう!アポイトメントもなしで通す分けにはいかん」
「は!」
いきなりフェイがドアマンの額に拳を打ちつけた。ドアマンは声もなく床に倒れる。
「行くぞ!」
「はあ〜」
あっけにとられるケヴィンだったが、エレベーターに飛び乗るフェイの後を急いで追う。後ろから警備員がこちらに向かって走って来たが、エレベーターのドアが先に閉まった。
「何階だ」
「最上階だ………」
「大丈夫か?あの調子じゃ、上で待ち構えてるんじゃねーか?」
「ああ、警備員が電話してるだろうな、それにすぐエレベーターが止まるさ」
「は?」
フェイがそう言ったと同時に、エレベーターがガクンと止まった。
「なんてっこった〜」
「ケヴィン、台になってくれ」
「え?」
「天井を開けるから、ちょっと足場になっててくれ」
「まったく………」
ケヴィンは言われたとおり、膝を曲げてフェイの足場になってやった。身体を支えながら持ち上げてやり、天井を開けるとフェイは上に出た。
「おい、フェイ、俺も引っ張ってくれ〜」
「お前はそこで待ってろ」
「へ?何言ってんだ!俺も行くぞ!おいこら!フェイ!てめ〜」
怒鳴るケヴィンをよそに、フェイはエレベーター内に付いている作業用の梯子に飛び移って、それを使って最上階まで登りきった。内側からエレベーターのドアを力まかせにこじ開ける。
「ようこそ、フェイ」
そこには小軍と二人のボディガードがいた。必ず出て来るだろうと思っていた。
「大老は?生きてるか?」
「捕らえろ」
小軍の命令で二人の男が両側からフェイを押さえ付けた。一人が腕を後ろにねじ上げ、もう一人が後ろから膝を蹴り、跪かせる。
「つ!」
「どういうつもりだフェイ?大老が今夜、お帰りになるのを分かっていて来たのか?」
小軍の落ち着きようから、大老がまだ生きていると分かる。
「小軍、大老の飲む酒には毒が入っている、早く知らせてくれ」
「何?」
「フェイ!どうしたんだ!?」
廊下の端に車椅子に座ったファイが、こちらを驚いた様子で見つめている。
「ファイ!ごめん!俺、大老に毒もっちまった!この前ファイといっしょに入った部屋にあったお酒だ!早く止めてくれ!」
「!」
フェイの叫び声を聞いたファイは大急ぎで車椅子をUターンさせた。小軍も彼の後を追う。
「そ奴を絶対離すなよ!」
小軍がフェイを押さえ付けているボディガードに念を押した。もし、大老に何かあったら、すぐさまフェイを殺すつもりなのである。
間に合うだろうか………
押さえ付けられたままの姿勢でフェイは待った。自分の鼓動が耳に痛いぐらい鳴り響いている。やがて、小軍が戻ってきた。
「大老がお会いになるそうだ…離せ」
間に合ったか………
フェイは大きく息を吐き出した。
腕を解かれ、立ち上がると小軍に促されてあの部屋に連れて行かれた。中には椅子に座った大老と、青い顔をしたファイがいるだけであった。
「フェイ………」
ファイの悲しそうな視線が痛い。そしてやっとフェイは思い出した。
「エレベーターに閉じ込められてる奴なんだが…」
「もうすぐ来る」
小軍の言葉通り、廊下に響き渡るケヴィンの声が近付いてきた。
「いて、いてーて!そんなに強く持つなって!」
ケヴィンがボディガードに腕を掴まれ連れて来られた。フェイは顔を知られているが、ケヴィンは初顔でおまけに白人なので用心しているのだ。
「離せ」
「あ〜痛かったぜ〜」
ボディガードに手を離されて、ケヴィンは摘まれていた手をさすった。
「皆、扉を閉めて出て行ってくれ、小軍、おまえもだ」
「しかし、大老………」
「……………」
大老の視線に止められ、小軍は何も言わずに部屋を出て行った。
「さて……フェイ、お前は私に毒をもったというが本当か?」
「ああ………本当だ………」
フェイは大老の前のテーブルに置かれているグラスに目をやった。そこには、一杯のワイングラスがあり、中身は半分以上減っていた。血の色をしたあのお酒である。
「?」
飲んでしまったのか?
一瞬フェイは不思議そうな顔をした。
「お前が言っているのはこれの事だろう」
大老は後ろを向いて、棚からもう一つの、中身の入ったワイングラスを取り出した。
「グラスに注いだ時、いつもと色が違うと分ったのでな、他の瓶を開けたのだ」
「………………」
「え〜……」
ケヴィンは二つのグラスの中身を見比べてみたが、同じ色をしているようにしか見えなかった。
『どこが違うってんだ?』
「何故、私に毒を盛ったのだ?」
「………………」
「答えられんのか?所詮お前はその程度の人間なのだな。クズだった父親とそっくりだ」
大老の言葉にフェイは頭の血が一気に登った。
「ふざけんなよ…てめ…貴様がファイにしている事はなんだよ…人をクズ呼ばわりできる人間かよ!貴様が!」
「フェイ…………」
ファイの目が驚きで見開かれる。
大老がファイにしていた事…?ケヴィンはピンときた。凌辱か…それで、フェイは俺にあんな事を…ケヴィンはため息をつきたくなった。なんだ、結局ファイが原因かよ…と、気が抜ける。
「ここに知らせに来たのは貴様の命を助ける為じゃない。俺が貴様を殺したら一番悲しむのはファイだと気付いたからだ!今でも、殺したいと思っている!」
「………………」
「親父をクズと言ったが、クズは貴様だ!」
大老は黙ってフェイの言葉を聞いていた。
「お前に私を殺す器があると思っていたのか?」
「なに?」
大老が毒の入ったグラスを手に取り、そのまま一気に飲み干した。
「!」
「ええ!」
「父様!」
三人は呆然として大老の顔を見つめていた。
「……許してくれファイ…私は自分が間違っていると分っていた…しかし、どうする事もできなかった…」
「父様………」
「ずっと、お前の母を、宝琴を愛していた…今でも愛している……なぜ、私愛してくれなかったのか、何故私を置いて逝ってしまったのか…ずっと考え続けていた……」
「………………」
「もう、去られるのは堪えられなかった……だから、お前を閉じ込めて……あんな事を……間違っていると分っていても、自分を止める事が出来なかったの……自分を止めるにはこうするしかないのだ……」
「そんな……」
ファイの身体が微かに震えていた。
「お前を愛している……」
その時、大老の身体が椅子から落ちて床に転がった。ファイは車椅子から飛び下りて、彼の傍らに四つ足で歩み寄る。
「父様!しっかり!」
「苦しくはない……とても眠いだけだ……でもとても安らかな気持ちだ……」
「父様…………」
ファイの瞳から涙がこぼれた。
「ファイ……お前が憎かった、愛おしかった……これでお前は自由だ……好きなように、生きるのだ……私を許してくれるか……」
「父様……そんなの卑怯です!」
「ファイ……」
「それ程私にすまないと思うのなら、死ぬ程の勇気があるのなら、何故私に償おうとなさらないのですか!あなたはそうしなければいけない筈です。生きて、一生をかけて私に償うべきです!」
「ファイ……私を許してくれるのか……?」
「私は父様を一度も憎んだ事はありません。だってあなたは私の母を愛してくれた、たった一人の人だから……」
「……私はなんと愚か者だ…長い間探した答えが目の前にあるのに、気が付かなかったとは…しかし…もう遅いのだな…」
「父様…………」
「許してくれ…いつまでも…お前を愛しているよ…」
大老の目が静かに閉じた。
「父様!死なないで下さい!父様!」
正気にかえったケヴィンは急いでドアの外に出た。
「救急車を呼んでくれ!大老が毒を飲んだ!早く!急いでくれ!」
小軍らがかけつけ、部屋の中は大騒ぎとなった。そんな中、フェイは一人放心して立ち尽くしていた。周りの騒ぎも、ケヴィンの声も、遠い所からの雑踏のように聞こえていた。
        ***
 数週間後ー。
フェイが病院のロビーを歩いていると、前を歩いてくるケヴィンを見つけた。
「ケヴィン」
「よ、フェイ、今帰りか?」
「ああ、なんだよケヴィン、お前仕事は」
「その仕事で近くまで来たんだ。ついでにファイさんの見舞いに行こうと思って来たんだけどな」
「へ〜」
「リハビリ、調子いいのか?」
「ああ、歩行器付きだけど大分歩けるようになった」
「そうか………」
「……………」
「ちょっと、中庭歩かないか?」
「ああ………」
ケヴィンに促され、二人は病院の中庭を歩き出した。
「ファイさん、留学が決まってるんだってな」
「ああ、もうしばらくリハビリして、その結果が出てからだけどな。オーストリアだそうだ」
「大老、元気か?」
「ああ、全然元気だよ。あの日も精密検査を受けるとかで一日入院しただけだもんな」
「で、退院か」
「なんか、今はつきものがおちたような顔してるよ。まだ俺は許せないけどな」
凌辱しただけでなく、足の自由も奪っていたと知った時はやはり殺すべきだった、と一瞬思ったのだが…
フェイの大老に対する感情は複雑だ。彼も苦しんでいたのだろうというは分かる。記号にしてあった孔子の言葉、『子曰、朝聞道、夕死可矣』の意味は『朝[正しい真実の]道がきけたら、その晩に死んでもいい』なのだから。それに、今は親として正しい愛情を注ぎだしたところである。なによりファイが許している以上、認めるしかない。だからといって、すべてが許せる訳でもないのだが……とりあえず、殺さなくて良かった、とは思っている。
「それにしてもな〜」
ケヴィンは笑いを必死に堪えた。
「なんだよ」
「青酸カリだと思っていたのが、実は速効性の睡眠薬だったなんてな〜」
「笑うな!」
「だってよ〜お前のあの時の顔ってば」
ケヴィンはお腹をかかえて笑い出した。
「厭な奴……しょうがねーだろ、俺は本気で信じてたんだから!親父が母さんに渡した自殺用の毒だって!」
「ああ、それなんだけどな」
「なんだよ?」
「フェイの父さん、母さんに後追い自殺して欲しくなくて、薬を摺り替えて渡したんじゃないかな?」
「そんな粋な事する男じゃなかったみたいだけどな〜」
「でも、本当の事は誰にも分からないだろう」
「ああ」
「だったら、都合のいいように考えておいたらいいじゃねーか」
「……楽観的だな……」
「それが俺のいいところ〜」
「それだけがとりえ〜、の間違いじゃないのか?」
「か〜言ってくれるぜ」
「……でも、おかげで大老は助かった……そしてファイと親子として新しく始められたんだな……」
「そうだな……あ、あの日、なんでドアマン殴ったんだ?あいつに話しても良かったんじゃねーか?」
「奴はいつも俺をバカにしてたから、言っても信じなかったと思う。信じたとしても奴は雇われただけの外部の人間なんだ。直接大老と話す権利は与えられていないから、奴の言葉が大老の耳に入るのに時間がかかっちまうんだよ。それに……」
「それに………?」
「一回殴りたかった」
「………お前ね………」
「ま、一応礼言っとくわ、ありがとよ、ケヴィン」
「なんだ、改まって?」
「いろいろと助けてくれたしな……」
「……別に、俺はお前に人殺しになって欲しくなかっただけさ」
「………嬉しい事言ってやろうか?」
「なに?」
「白人の中ではお前が一番好きだぜ」
「え………」
「ああいう事したのはお前だったからだ」
ケヴィンは驚いてフェイの顔を見た。真直ぐに自分を見つめるフェイの瞳が、いつもより綺麗に見えて照れくさくなる。なにより、フェイの言う通り嬉しいのが悔しかった。
「……聞き飽きた台詞だな……」
「けっ気障だね〜」
「お前が言った台詞だろ!」
「はあ、そんな事言ったか、俺?」
「言っただろ、初めて会った時に〜」
「そうだっけか?」
「まったく……そうだフェイ、お前これからどうするんだ?」
「ん?」
「ファイの足も順調に回復してるし、手術費稼ぐ必要も無くなっただろ」
「……そうだな、今まで溜めた金もあるし…とりあえず、学校に行こうかと思ってるんだ」
「…へえ…意外だな…何勉強するんだ?」
「まだ決めてねーけど、ちょっと考えてる」
あの時、大老が死んだと思った時、自分は何も出来なかった。ただ呆然と立ち尽くすだけだった。自分はなんて無力で小さな存在なのだろうか、と悟った瞬間であった。人を殺す行為が、どんな下衆になる事かも知った。
そして、すべてを持っていると思っていた大老でさえ、本当に欲しいものを手にしていなかった。人は誰でも欲しているものがある。自分と同じように、何かを求め、掴みたいと思っているのだ。
「小さな世界しか見ていなかったのに、すべて分ってる気になってた……」
「うん……?」
「もっと広くて大きな世界が見たい……」
フェイは自分が変わったのをはっきりと感じていた。同じ景色を見ていた筈なのに、今はすべてが違ってみえる。手を延ばせばどこにでも届きそうな、じっとしている自分がもどかしいような、ぞくぞくした感覚が芽生えている。
自分は見つける事ができるだろうか?どうしても欲しいものを。手にする事ができるだろか?かけがえのないものを。
空を見上げるフェイから、憎しみのオーラが消えてのにケヴィンは気付いた。変わりに彼を包んでいるのは、ほとばしるような情熱である。彼の内から溢れ出るような美しいエネルギーを感じる。彼は今にもその名のごとく、大きく飛んでゆきそうだった。
『きっと追い掛けるのは大変なんだろうな〜』
でも、絶対諦めないぞ!とケヴィンは思った。
「うん、頑張れ!(俺)」
「なんだ?」
「いや、まだまだ、これからだなって思っただけさ」
「ああ、そうさ、これからだぜ俺達は」
人は何度でも、やり直す事が出来る。
そして、遅いなんて事は絶対にないのだ。

        エピローグ
 ここが、彼の生まれ育ったところ、そして彼の暮らすところ。
クリンスに教えてもらったとおり、小さな小道を登っていくと、一件の日本式の家が見えた。
胸の鼓動が徐々に早くなっていく。本当に彼はここにいるのだろうか?本当に自分は彼に会えるのだろうか?
ヒューの歩みが止まりそうになった時
「柴崎さん」
女の子の声が聞こえて、ヒューの胸は張り裂けんばかりに高鳴った。
「ここだよ、ちいちゃん、縁側のところ」
あ…彼の声だ…心地よい響きをもった彼の優しい声……
ヒューの足は無意識に声のする方へと向かって行った。
「はい、これ、夏蜜柑よ。おかあさんから」
「ありがとう、どれ、いい香りだね」
「うん、うちで採れたのだからおいしいよ、あれ?」
ちいちゃんと呼ばれた十才ぐらいの女の子が、近付いてくるヒューに気付いた。
「どうしたの?ちいちゃん」
シバサキが不思議そうに尋ねる。
「なんか…外人さんがこっち見てるよ」
「え………」
柴崎がゆっくりと立ち上がったので、膝に置いていた蜜柑が転がり落ちる。
「あー、もう柴崎さんったら」
女の子が散らばった蜜柑を拾い集めるが、柴崎はずっと前を向いていた。
ヒューは張り裂けそうな胸を抱えて、駆け出しそうになる自分を必死に抑えていた。
八年振りに会った彼は、以前とまったく変わっていなかった。相変わらず十代にしか見えない面立ちをしているが、彼のあの美しい瞳は閉じられたままであった。
「…ヒュー…ヒューなんだろ……?」
「……………」
「柴崎さん?蜜柑縁側に置くよ」
「あ、ちいちゃん、ありがとう。蜜柑ありがとうってお母さんに伝えておいてくれるかい」
「うん、分かった。お客さん?」
「ああ…大事なお客さんだ……」
「ふ〜ん、じゃあ帰るね、バイバイ」
「バイバイ………」
女の子が去ると、二人きりになった。しばらく無言で向かい合っていたが、先に柴崎が口を開いた。
「ヒューだろ……元気か?」
「…………………」
「こっちに来てくれるか?」
差出された右手を震える手でとると、柴崎の温もりが伝わってきた。ヒューは押さえきれずに、彼を強く抱き締める。
「……シバ………」
小刻みに震えるヒューの身体を、柴崎は両手で優しく包み込んでやった。
        *
「これは何?」
ベールのような物を柴崎が吊るしたので、ヒューが不思議に思って聞いた。
「蚊屋だよ。眠る時に虫が入ってこないようにするんだ」
「ふ〜ん」
二人は夕食の後、長い間、他愛もない話をしていた。柴崎は何も尋ねず、ずっと笑みを浮かべながら聞いくれた。その姿は八年前となんら変わりなく見える。瞳を閉じている以外は……
虫やほこりが入らない為に閉じているそうである。この家の空気はNYの柴崎の部屋と同じだった。あまりに彼の雰囲気そのものなので、時々周りの空気に溶けてしまいそうで、ヒューは怖くなる。今にも彼が目の前からかき消えてしまうのではないかと……
夜も更けてきたので、眠ろうと夜具を引いた。ヒューは貸してくれた浴衣を着たが裾がかなり余ってしまった。
「じゃあ寝ようか、電気まだ点いてるんだよな」
「ああ……」
「消すよ」
「ああ……」
明かりが消えて月の光りだけが部屋に差し込む。とても静かで、外から聞こえるのは虫の声だけである。
「……シバ……」
「ん?」
「事件の犯人捕まったの知ってるかい?」
「ああ……知ってる……」
柴崎の命を狙った犯人は、昔、写真家を目指していた男で、彼の成功を妬んで起こした犯行らしい。工務店に勤めており、普段の柴崎の住んでいる所では無理だったので、治安の悪いヒューのアパートメントに仕掛けをしたのだ。ヒューとの事はキャロルから偶然聞き、それ以来調べていたそうである。精神的に異常な男で、フェイがテレビに出た時、殺し損なった柴崎がまた出てきたから、殺そうとした、と語っていた。
「…ヒュー…近くに来てくれないか?」
「…………」
「顔に触れたいんだ……」
ヒューは布団を抜け出し、柴崎に覆いかぶさる形で彼の両脇に手を置いた。柴崎が手をのばして、ヒューの頬に触れる。確かめるように、ゆっくりとヒューの顔を辿っていく時、柴崎の瞳は開いていた。
彼の瞬く星が浮かぶ夜空の瞳は、何も映さなくなった今も変わらず美しい。この瞳を真直ぐに見るまで、なんと時間がかかったのだろう……想いが溢れてきたヒューの目から涙がこぼれ落ちた。
「ヒュー………」
「シバ…ごめん…俺…弱くて……」
「…………」
「どんなに、シバが強い人なのか…分ったよ……」
愛する人を失っても、誰も憎まなかった…そして俺を愛してくれた…許してくれた……
シバに似た人を抱き締めた時、ヒューはもう一度、もう一度だけでいい、柴崎に会いたいと思った。会って抱き締めたいと……
「ヒューが思い出させてくれたんだよ…死んでるみたいに生きてた俺に、もう一度人を愛する事を……」
柴崎の手が優しくヒューの涙を拭った。
「…でも……」
「…俺はいつでも幸せだったよ……」
祖父母と暮した時、彼女と暮していた時、ヒューといっしょに過ごした時、どの時も誰かを愛し、愛されていた…あの張り裂けそうな胸の痛みを抱えた時でさえ…いつも幸せだった……愛された時を知っているから……
なのに自分はそのすべてを忘れようとしていたのだ。
「この八年間も俺は幸せだった…ヒューを想っていたから……」
「シバ……」
「言ったろ、俺はいつでもヒューに拍手を送るって」
「…………」
「いつでも、どこに居ても、誰よりも長く……」
ヒューはゆっくりと顔を近付け、柴崎の唇に口付けた。
月明かりの中、二人は白いシーツの波に身体を投げだした。薄いベールに閉ざされたそこは、まるで二人しか存在していないかのように感じられる。
ヒューは柴崎の身体を優しく抱き締めた。彼がこの手の中にいる事を、もっと感じたかった。自分でも信じられない程、彼を愛している。彼の肌に手を滑らせ、確かめるように愛撫すると、彼の身体が跳ねる。
「あ…ヒュー………」
柴崎はもっと触れて欲しいと思った。触れていないところなど、どこにもないぐらいに……
その想いを知っているかのように、ヒューは柴崎の身体に優しく触れてくれる。
肌をからめ合わせると彼の鼓動が伝わってきて、柴崎はヒューの胸に手を当てた。
同じようにヒューも柴崎の胸に手を置く。お互いの鼓動を感じながら二人は深く口付けた。
「…シバ……愛してる……」
背中に手を回し、ヒューと一つになって揺れると、初めてオーロラを見た時と同じ感覚を覚える。
あの、どこまでも続く空の無限の広さと美しさを知った時の。自分の意識さえも、無限に広がっていくようだったあの時の……
そして、彼のすべてを感じるのである。その命も、熱い想いも、痛みさえも……すべてが分かる……
「ヒュー……」
「…ん……?」
「ヒューが……見える……」
        *
 夜明け前、ヒューは支度を整えて、玄関に立った。あがりかまちには柴崎が見送りに出て居た。
「シバ…これ、持っててくれないか?」
「なんだ?これ」
ヒューはピルケースを柴崎に渡した。
「昔、死んだ女友達からもらってきたんだ…毒薬らしい……」
「ん?」
「正確にはその女友達の友人が持ってたんだ。その友人は自殺した彼氏の後を追おうとしてたんで、こっそりすり替えたんだってさ……」
しかし、その白人の娼婦は妊娠している事を知り、生きる希望を得たのであった。それ以来、あのチャイニーズガールはこれをお守りのように持っていた。
「ずっと、一番憎い奴に使おうと思ってた…」
この八年間、使いたかったのは自分だった。
「…でも、もう俺には必要ない………」
「ヒュー………」
「何………」
「いつでも…帰っておいで………」
ヒューは柴崎を強く抱き締めた。
「……ああ、きっと……帰ってくる……シバのところに……」
「ああ……待ってるよ………」
二人は互いに回した手に、力を込めた。

ヒューは小道を下り、もう一度振り返った。外にはまだ柴崎が立っていて、こちらに顔を向けている。太陽が登り、その眩しい光に照らされた彼は輝いて見えた。
きっと自分は帰ってくる、とヒューは強く思った。
帰る所を作ってくれないか、と言った言葉どおり、彼は作ってくれたのだ、自分の帰る所を……
彼のいる所が、自分の帰る所……
きっといつか、彼の瞳を真直ぐに見つめる事が出来るように……
強くなって帰ってくると……
暁にて、君に誓う……


END