朱い鬼

 禊を済ませ、さやかは用意されていた白装束に着替えた。何もない
広いだけの部屋の中央に座り、なんとか気持ちを落ち着かせようとした。
「さやか様、用意はできましたか?」
襖の外側から呼び掛けられる。
「………」
「さやか様?」
「…今まいります」
さやかは立ち上がり声とは反対側の廊下に出た。
この儀式の前には、できるだけ人との接触は避けた方がいいと言わ
れている。
多くの人間の匂いがつくと、へたに刺激を与えてしまう恐れがある
からである。
屋敷の外に出ると、夜空に美しい星がまたたいていた。さやわかな
風が吹き、いつもならば普通の気持ちのいい夜だったろう。
さやかは緊張しながら歩き、裏庭を抜け、その先に広がる竹林の中
に入った。奥に進んで行けば行く程暗闇が濃くなってゆく。そしてさ
やかは小さな鳥居と洞窟の前に辿り着いた。
洞窟の中に入ろうとしたさやかは、中から滲みでてくる気を感じて
一瞬足を止めてしまった。
いやだ、行きたくない
何度そう思っただろう。しかし、行かなくてはならないのだ。
さやかは静かに深呼吸して洞窟の中に入っていった。 

闇の中、そこには鬼がいた。五百年前からここに封印されている鬼が。
さやかは鬼の閉じ込められている祠に近付きながら、辺りに満ちている
魑魅魍魎共の気配を感じた。ここから洩れ出る鬼の気に惹かれてやって
きたのだろう。しかし、かなり低級な奴らのようで、彼等を滅する力の
ある彼女に何かするといった気配はない。
さやかは緊張しながら祠の前に立った。祠といってもそれは四枚の障子
で出来た箱が、木の台座に乗っているだけのものであった。
沈黙と暗闇の中、それは圧倒的な存在をもって建っている。時に忘れ去
られたように。
さやかがここに初めて訪れた十三歳の時からまるで変わらなかった。お
そらくそれ以前から、そして、これからもずっと…。
昔の事を考えてさやかは一つ思い出した事があった。いつも、かすかに
開いた障子の隙間から鬼が自分を見つめていたのを。目をこらして見る
と、やはり鬼の目が障子の隙間から浮かびあがっている。さやかは背中
に虫酸が走るのを覚えた。
『来たか、女』
鬼が地の底から響いてくるような不気味な声で語りかけてくる。
『わたしを封印する為にやってきたか』
「………」
さやかは無言で祠の周りを囲むように地面に置いてある、赤い紙の鎖を
調べた。これが鬼を封印している護符であるが、この一年で力を使い果
たして所々焼き切れていた。
 鬼を閉じ込めておく為に、毎年この場所に訪れ、新たな封印を施すの
が五百年前からの水無月家の当主の代々の務めである。さやかは三十六
代目の当主として九年前からここに来ていた。
 彼女は地面に正座し、懐から赤い護符を取り出して鎖を作り始めた。
それは地に垂れると、ひとりでに動いて祠の周りを囲みだすのだった。
『封印は後少しで力尽きる 間に合うのか』
 鬼がまた声をかけてくるがさやかは無視した。迂闊に鬼の言葉に応えれ
ば、言霊の力によって捕らえられてしまうのだ。
『ここから出た時はまっ先に貴様を喰ってやる』
「………」
『首を引きちぎり内臓をすすり手足に喰いつき骨までしゃぶりつくして
やる』
 この言葉も変わらない。初めて聞いた時は恐ろしくて、泣きそうにな
るのを必死に堪えて、一日がかりで封印をした。屋敷に帰ってからも布
団をかぶり、がたがた震えた。そして次の年、ここを訪れた時、まった
く同じ言葉を話しているのを知ったのである。
 もしかして五百年前から同じなのだろうか…。
『どんな所にいてもきっと見つけだして喰ってやる貴様の姿はこの目に
焼き付いているのだ手も足も目も口も乳も尻も匂いも』
 ふとさやかは思った。鬼は自分の姿を知っているが、自分は鬼の姿を
まったく知らない。
 大きさも色も形も知らない。いつも不気味な目だけが、障子の隙間か
ら見えるだけである。
 どんな姿をしているのだろう…
 見てみたいという想いがわいてくる。
『私と戦いたいとは思わぬか』
 鬼のいつもの言葉にさやかは動揺した。
『古い封印の力は後数時間で無くなり私はここから出る事ができるそし
て貴様と戦い喰ってやる』
「………」
『手を止めろ』
「………」
 一年前までは、喰われると分かっているのに、何故手を止めなければ
ならないのだ、と思っていた筈なのに、どうして今、同じ言葉にこんな
にも心を動かされるのだろうか?
 鬼がこの祠から出れば退治する事ができる。封印している限り鬼は何
もできないが、鬼に何かする事もできないのである。
 五百年前、水無月家の当主はこの鬼と戦い、退治できる力がなかった
為にやむを得ず封印したと伝えられている。
 しかし、私なら…
 九年前の子供のときとは違い、今のさやかの力は当主として恥じぬも
のとなっている。幼い頃から修行を重ね、この何年かのあいだに多くの
餓鬼どもの退治もした。 今の私なら、この鬼と対峙しても勝てるので
はないだろうか。
 この鬼がいなくなればこんな煩わしい務めはなくなる。修験者として
影で生きる必要もなくなるのだ。
 さやかは確かに当主であるが、存在は一部の者しか知らない。表向け
に仮の当主がいて、その者が水無月家の当主として公の場に出ているのだ。
 本当は私こそが…
 ニ十二年間、この務めを果たす為に多くの事を犠牲にしてきた。人々の
影に回り、修験者として生きる事を強要されて…。
 餓鬼共の退治など鬼の封印の付録にすぎない。鬼はいつも喰ってやると
言うが、ある意味ではすでに喰われているのだ。時間という名の自分の
身を。この鬼が存在している限り喰われ続けるだろう。
いっその事、今、ここで…
さやかは知らず知らずのうちに鬼の言葉に捕われそうになっていた。
鎖を作る手が止まりそうになる。
と、その時、残っていた古い封印の鎖がいきなり燃え上がりだした。
さやかは一瞬何が起きたのか分からず呆然としていたが、すぐに我にか
えり、急いで鎖を作り始めた。鬼が妖気を放出して護符を焼き切っている
のだ。早く新しい封印を作り、固定させなければ。護符は次々に力を使い
果たしてちりとなっていく。こんな事今までになかった。
早く作らなければ…!
焦れば焦る程上手くいかない。
さやかが必死に作った鎖は、やっと一つの輪となって完成した。輪になっ
た途端、鎖は一瞬白い光を放ち、封印としてそこに固定された。古い封印が
すべて灰と化すのとほぼ同時であった。
気の抜けたさやかは一気に脱力して大きく息をついた。胸の鼓動が痛いく
らい耳に響いてくる。
自分は何を考えていたのだろう…
どこからともなく風が吹き荒れ、彼女の髪を乱れさせた。周りに潜んでい
た餓鬼共が血なまぐさい笑い声を漏らし始める。闇と陰の色をもった下品な
笑いに包まれて、さやかはいたたまれない気持ちになった。
耳を塞いで、灰の舞う中、逃げるようにその場から駆け出していた。