慕 情 1

このお話は「春抱き」小説の「古都」「幽鈴」「玉響」の後という設定になっております

「香藤、すまぬがちょっと来てくれ」
「え?はい」
 道場での稽古が終わり、帰り支度を始めていたいた香藤に、道場主である杉山が声をかけた。
 香藤が誘われるまま奥の間に入ると、中央に懐かしい人が座っていた。
「高田さん!」
「よう、香藤、久しぶりだな、元気か?」
 そこにいたのは道場の先輩である高田助蔵だった。彼は香藤が剣術を習いはじめた頃に大変お世話になった人物である。香藤より十歳年上で、誠実で面倒見のいい彼は多くの後輩から親われていた。数年前に亡くなった父親の代わりに家督を継ぎ、忙しい役職に付いたらしく、道場には姿を見せなくなって久しい。香藤はこうして会うのは何年ぶりだろうか、と思った。
「はい、このとおり元気ですよ。高田さん方はどうです?お仕事はお忙しいですか」
「ああ、忙しいながらも、なんとかやってるよ。まあ座れ」
 香藤は返事をすると、向いの座ぶとんの上に腰を降ろした。
「お元気そうで良かった。こうやってお会いするのも何年振りでしょうか」
「……そうだな……」
 久しぶりにあった先輩の姿に喜ぶ香藤だったが、高田の顔色はいまひとつ冴えない気がした。
「今日は何か道場にご用事ですか?」
「実はな香藤、高田はお前に頼みたい事があるそうだ」
 今まで黙っていた杉山が声をかけた。いつの間にか部屋の四方の障子や襖は閉められ、三人しかいない部屋の空気が重苦しいものになっている。二人の表情も堅かった。
「なんです?」
 香藤も知らず知らずのうちに声をひそめていた。
「ある方の護衛をしてもらいたいのだ」
「護衛?誰のです?」
「名前は明かせぬが、私の上司にあたる人物でしっかりした人だ」
「何故護衛を?家中の者に頼めばいくらでもいるでしょうに」
「そういう訳にもいかんのだ」
 高田の話では、今の勘定奉行はかなり前から江戸の大商人らと結託して不正を行なっているらしい。噂はあるもののさしたる証拠がないので、糾弾する事が出来ずにいた。が、粘り強く調査をした結果、ついにある証拠の書状を手に入れたのだ。しかし、その書状をもっている人物は、勘定奉行の刺客を恐れて江戸に入らないと言うのである。そこで、江戸郊外のある場所で受け渡す手筈となったのだが、そこへの行帰りの護衛を香藤に頼みたいというのだ。
「この密会はあくまで秘密裏に行なわなければならん。勘定奉行に知られたら刺客を送り込んでくる事はまちがいないからな」
「それで、俺にですか?でも腕の立つ者は他にもいくらでもいるでしょうに。役職についていない部外者の俺なんかがそんな重要な役目をしていいのですか?」
「部外者だからかえっていいのだ。情報が漏れる心配も少ないし、お前なら人柄も私がよく知っているから買収される事もない」
「ですが……」
 高田の上司が誰が知らないが、勘定奉行を失脚させようとしている人物となると、相当高い地位にいるものだろう。そんな高位の人の護衛を自分なんかがしていいのだろうか?と香藤は思った。
「確かに危険な任務だから、私も頼むのは心苦しいのだが……」
「え?危険って、密会がばれている可能性でもあるのですか?」
「……かもしれん……実は護衛にあたる筈だった半沢辰平が数日前殺されたのだ……」
「…半沢殿が!病死だと聞きましたが……」
「それは表むきの話だ……数人がかりで襲いかかられた様子で、金品も奪われていたから野盗の犯行かもしれんが……」
「……そうだったのですか……」
 半沢辰平といえば、雲弘流の遣い手としてしられた人物であった。
「……だからお前に頼みに来たのだ……半沢の代役を務められるのはお前しかいない」
「…………」
「護衛につくのは私ともう一人だけで、こいつの剣の腕もかなりなものだが……」
「二人だけですか?」
「…出来るだけ目立たぬ方がいい……関わる人が多くなればなる程漏洩する恐れがでてくる……」
「…………」
 多くを語らないが高田の口ぶりから、これは相当に危険なのだと察せられた。しかし、香藤は昔、さんざん世話になった先輩の窮地を放っておけなかった。自らも護衛につくと言っているが、彼の剣の腕は中の中といったところである。本人も分かっているからこそ、香藤に頼みにきたのだ。死を覚悟しているかもしれない。
「……分かりました。俺でよければお手伝いさせていただきます」
「本当か……いいのか……?」
「はい」
「ありがたい……すまんな…香藤……」
「いえ……俺でお役にたてれば……」
「では明後日の六つ半(午後七時)に深川の高砂という茶屋に来てくれ」
「分かりました」
「本当にありがとう…香藤……」
 高田は気が弛んだのか、初めて笑顔を見せていた。

 道場を出るのがいつもより遅くなってしまった為、辺りはすっかり真っ暗になっていた。提灯を用意していなかったが、城下町はまだ店や家の明かりで明るかったので香藤は足早に歩いた。
 そして、商家の並ぶ通りに出た時、前に小太郎が立っているのが見える。
「小太郎」
「あ、香藤さん」
 小太郎は米問屋大黒屋の丁稚である。そこの娘さんが岩城の琴の生徒で、稽古のある時は岩城の送り迎えをしてくれている子だ。目の見えない岩城は、いつもそうしてもらうか、生徒に家に習いに来るかしてもらっている。
「もしかして、ここが米問屋の大黒屋?」
「そうです。もうすぐ岩城さんが出て来ますよ。今から帰るところです」
「今日は少し遅いんだな」
「ええ、旦那様のお客様がいらして、その方の前で演奏をしていましたから」
「そうなんだ。じゃあ俺が岩城さんといっしょに帰るから小太郎はいいぞ」
「でも……」
「同じとこに帰るんだからかまわないよ。もう遅いし小太郎も面倒だろ」
「面倒なんかじゃありませんよ〜それに……」
「それに……?」
 その時、岩城が暖簾をくぐって通りに出て来た。
「岩城さん」
「香藤か?どうしてここに?」
 岩城が香藤の声を聞いた途端、華がこぼれるような笑顔を見せたので、香藤は嬉しくなってしまう。
「道場の帰り道にここを通ったら、小太郎が見えたんだ。岩城さんが出てくるって教えてくれたからいっしょに帰ろうと思って」
「そうか、大分待たせたか?」
「ううん、全然」
「じゃあ、いっしょに帰ろう。小太郎は今日は送ってくれなくていいぞ」
「でも〜」
「例の約束は今度の帰りに行こう。どちみち今日はもう真っ暗なんじゃないのか?」
「そうですけど……」
「じゃあ、今日はあんまり見えないだろう。今度の帰りは絶対いっしょに行くから。駄目か?」
「じゃあ、今度の稽古の帰りは絶対ですよ」
「ああ、約束する」
「分かりました。じゃあ、香藤さん岩城さんを頼みます」
 小太郎がぴょこんと頭を下げる。
「おう、まかしとけ。じゃあな小太郎」
「じゃあ次はよろしくな」
「はい、お二人とも気をつけてお帰り下さい」
 香藤は岩城の手を優しく握ると、共にゆっくりと歩き出した。
 清水屋の離れは修繕が一月程前に終わり、二人はやっと水入らずの生活を取り戻したところである。
 手を繋いで歩いていると、お互いの体温が感じられて二人は幸せな気持ちになった。
「ねえ、岩城さん」
「なんだ?」
「さっき小太郎が言ってた約束って何?」
 香藤は先程の小太郎と岩城の会話が少し気になっていたのだ。
「あれは、紅葉をいっしょに見に行こうって約束したんだ」
「紅葉を?」
「ああ、ここから家までの通り道の途中で小さな稲荷神社があるんだ。その境内の紅葉が今見事らしいちょっと奥まったところにあるので、あまり知られていないから人気もほとんどないそうだ」
「そうなの?」
 岩城は見えないのにそんな約束をしたのか?と香藤は少し不思議だった。
「もちろん俺は見えないけど小太郎は見たいようだったので稽古の帰りにいっしょに行こうと約束したんだ。丁稚奉公している小太郎はほとんど自由な時間がないから好きな時に見に行くなんてできないだろう」
「ああ、それでか〜」
「小太郎は真面目な性格だから、一人で寄り道するのは嫌みたいなので、いっしょに行こうと言ったんだ」
「へ〜、岩城さん優しいね……」
「そんなことないさ。小太郎にはいつも助けられてるからこれぐらいはしてやりたい……」
「岩城さん……」
 岩城は自分の目が見えない為に人に迷惑をかけている、と思っている節がある。出来るだけ一人で処理しようとする為、それが他人との間の壁になっているのだ。優しくて穏やかだが、岩城の心の中に踏み込むのは容易ではない。それが出来たのは今のところ香藤だけである。
『でも、皆岩城さんが好きだから、迷惑なんて思っている人はいないんだけどな……』
 こればかりは香藤がいくら言葉で言っても岩城は理解できないだろう。自分で感じなければならない。しかし、香藤という恋人ができてから、確実に岩城は変わってきている。
 人の好意を少しずつ受け入れるようになったかな、と香藤は感じていた。先程の小太郎の話でも、以前の岩城なら目の見えない自分が行っても仕方が無い、と誰かに頼んだかもしれないのだ。岩城が変わっていくのはとても嬉しいのだが、ちょっと心配でもあった。
『こんなに綺麗な岩城さんに惚れる輩がまた出てくるかもな〜』
 事実、これまで岩城は菊池とお松という人に愛され、とんでもない目にあったのである。三度目がないと誰が言い切れるだろうか。
 時々香藤は岩城を閉じ込めてしまいたいと思う事がある。
 誰の目にも触れさせず、自分だけのものにする、という甘美な想像に捕われる事が……
 もちろん、それが間違っていると香藤は分かっている。それに、閉じ込めたいと思う一方で、見せびらかしたいとも思う。この二つの矛盾した感情が香藤の中で常に沸き起こっていた。
 どちらも源は岩城への激しい想いなのだが。
「香藤ともいつかいっしょに行こうか?」
「え?いいの?」
「ああ、俺もお前と行ってみたい……」
「へへ、素敵だね……」
 紅葉の中に佇む岩城はきっと美しいに違いない。
 香藤はそんな岩城の姿を想像して、顔を緩めるのだった。
「これは、これは香藤殿ではありませんか」
 いきなりの嫌味声に振り返ると、侍の男が遊女を小脇に抱えて立っていた。遊女は提灯を手にしながら今井の胸にしだれかかっている。
「…今井……」
 香藤が少し顔を歪めて男の名前を呟いた。
 今井は香藤が師範代を勤める杉山道場と張り合っている川崎道場の高弟である。
 二つの道場は同じ地区に構える道場で、何かと比較される事が多かった。が、今は世間の見解は杉山道場が上というふうになっている。今までに三度程練習試合を行なったが、どれも杉山道場が勝利しているのが原因である。その事もあって川崎道場の者達は、杉山道場の者を目の仇にしていた。中でも、この今井達の仲間は通りで杉山道場の門弟達をからかったり、侮辱したりと評判は良くない。
「あの有名な杉山道場の師範代様がどこにいかれますのかな?」
 今井は酒気を帯びているらしく顔が赤い。
「……家に帰るところだ…失礼する……」
 こんな奴を相手すると時間の無駄である。とっとと去ろうと岩城の手を引いた。
「おやおや、随分仲がよろしいのですな〜」
 岩城と手を繋いでいるのを見て、今井はからかった。
「そういえば香藤殿は衆道の気があると噂がありますが……もしかしてその念友の相手ですかな〜」
 と、今井は提灯を持った遊女の手を高く上げさせ、岩城の顔を見ようとした。
 岩城は熱が急に顔の近くに寄ってきたのを感じ、驚いて後ろに下がる。岩城の顔を垣間見た今井は一瞬言葉を失っていた。
「……あんた……目が……?」
 岩城の瞳が閉じられているのを見てやっと気が付いたらしい。
「岩城さん、行こう」
 そんな様子が不愉快だった香藤は急いでその場を立ち去った。
「ごめんね岩城さん……嫌な感じだったでしょ……」
 少し離れたのを確認してから香藤は謝った。岩城はふふっと微笑みを浮かべる。
「別に、俺は気にしないさ」
「でも……」
 どこから、そんな噂がでたのだろう?この間の長家のおば様達からだろうか?
「言いたい人にいは言わせておけばいい……」
 と、言いながら岩城は香藤と繋いだ手に力を込める。香藤はそんな岩城の言葉が何よりも嬉しかった。
「岩城さん俺さ〜」
「なんだ?」
「岩城さん大好き!」
「ばか、そんな大声で言うな」
「だって誰にだって言えるもん〜」
「しょうがない奴だな……」
「へへへ……」
 先程、岩城の姿を見た今井の表情が見とれたものになったのを香藤は気付いていた。きっと奴は岩城の美しさに一瞬息をついたのだろう。
 そんな様子を不快に感じる一方で、香藤は誇らしくも思っていた。
『どうだ、俺の岩城さんは美しいだろう』
 と、自慢気に語ってやりたかったのである。

            *

 夜、一つの夜具の中で二人は身体を繋げていた。
「…ああ……香藤……」
 香藤はゆっくりと岩城の中に入れると、深く口付ける。そして、身体をくるりと回転させて岩城が上にくる格好にしてしまう。
「……え……香藤………?」
「…岩城さん……動いて……」
「……え……で、でも……」
 岩城は初めての格好にとまどっていた。どうしていいか分からないようで、身体を捩る。
「大丈夫…ほら…身体を起こして……」
「…だ…駄目だ……」
 岩城は香藤の首に手を回して抱きついている。目の見えない岩城は香藤に触れて香藤を感じていたかった。だが、中途半端に抑えられた熱を早く燃やしてしまいたくもある。
「大丈夫だよ。俺はここにいるから……」
 香藤が岩城の手を握り、自分の頬に触れさせた。
『あ………』
 岩城は香藤の顔に触れながら、ゆっくりと身体を起していった。香藤の目や、鼻、唇と指で辿っていき、胸へと手を滑らせる。
 胸に香藤の鼓動を感じた。
『香藤の…鼓動だ……』
 その鼓動を感じていると不思議なくらい心が暖かくなっていく。
 自分を愛してくれる人、自分が愛している人の命を感じているようで……
「…ん……岩城さん……」
 岩城の指が香藤の胸の突起に触れ、香藤は感じた。
「あ……!」
 岩城の中にいた香藤も反応してしまい、岩城にもそれが伝わる。
「……香藤……」
 岩城は香藤の鼓動に合わせながら、静かに腰を動かし始めた。
 自分の上で動いている岩城の姿を見て、香藤はなんて綺麗なのだろう、と思った。
 冷たい空気が二人の熱く燃える身体に心地よい。
 障子から差し込む月光を浴びる岩城の身体が、暗闇の中白く浮かび上がって見える。まるで、ほのかな光を放っているかのようだ。
「あ…ん……はあ……!」
 時折、感じるところを触れられて、岩城の身体が大きく跳ねた。もっと香藤を感じていたくて、岩城の動きは次第に激しくなっていく。
 誰も見る事の出来ない岩城の妖艶な姿である。
「……岩城さん……」
 香藤を見下ろす岩城の濡れた瞳が香藤の目に入る。
 愛して止まない岩城の美しい瞳。自分だけを映し、自分だけを感じている事が分かる瞳の色。
『この瞳は俺だけのもの、俺だけの岩城さんだ!』
 我慢できなくなった香藤は身を起し、岩城の背中に手を回した。そのまま岩城の身体を後ろに押し倒し、激しく突き上げる。
「ああ……!」
「……岩城さん……綺麗だ……すごく綺麗だ……」
「……香藤……」
 二人は熱く燃える身体を更に深くからみ合わせた。

               トップへ    次へ