慕 情 2

このお話は「春抱き」小説の「古都」「幽鈴」「玉響」の後という設定になっております

 その日、香藤は約束どおり、護衛をする為、茶屋を訪れた。言われた部屋に入るとすでに皆、そろっていた。
 高田と、上司だろうかっぷくのいい初老の男性、と若い男の剣士。名を林と紹介された。
 四人は話もせずに茶屋を出発した。
 香藤と高田らは周りを警戒しつつ人気のない山道を歩き続け、ようやく約束の場所まで辿りついた。そこは小さな茶店で昼の間峠を通る人々を相手に商売をしている場所らしかった。夜の今は店の者もおらず、辺りは静寂に包まれている。高田達も緊張のあまり一言も口を開かない。
『本当にこんなところで?』
 と香藤が疑問に思っていると、遠くから誰かがやってくる気配がした。
「誰だ、止まれ」
 高田が低い声で話かける。
「上松です、書状を持ってまいりました」
 微かに震える男の声がした。
「ゆっくりと近付いて来い」
 言われた通り男はゆっくりと歩き、近付いてくる。近づくにつれ、おぼろげに胸に書状を手にした男の姿が浮かびあがってきた。まだ若い商人風の男である。
「…これです……」
 男は震える手で書状を前に出す。
 高田が受け取り上司に渡した。林に提灯の火を灯させ、素早く中身を確認する。
「……確かに……」
「…私の事はくれぐれも内密に頼みますよ……」
 商人風の男は今にも泣きそうな声であった。
「案ずるな。お前の事は向こうにばれておらん。漏れる事もない」
「……頼みます……」
「ああ、分かっている。協力に感謝する」
 男が素早くそこから去っていくのを確認してから、香藤らは来た道を引き返し始めた。緊張を緩める事なく、皆は無言で歩いていた。時刻はすでに四ツ半(午後十一時)を回っているだろう。
『岩城さん心配してないかな?』
 香藤は少し心配になる。
 高砂の茶屋に行く前、香藤は清水屋に使いを走らせ知人の通夜にいきなり行く事になったから、と伝言を頼んでいた。
 岩城に偽りを言うのは胸が痛んだが、本当の事を言って心配させたくなかったのである。
 その時、香藤の耳に微かに不自然な音が聞こえた。
「……高田さん……」
 出来るだけ小さな声で前にいる高田に話しかける。
「……ん………」
「……左後ろの森の中に誰かいます……」
「なに……一人か……」
「……いえ…多分…複数でしょう……」
「来るか……」
「おそらく……」
 香藤の言葉が言い終わらないうちに、誰かがいきなり前に躍り出て太刀を降り下ろしてきた。
 前にいた上司が間一髪で避けたが、合図のように森から何人か飛び出してくる。皆、香藤達に刀を降り下ろしてきた。
「こちらに!」
 香藤、高田、林は向かってくる刀を躱しつつ上司を取り囲むように走りだした。闇の中の微かな明かりで光る刀身が見える。
『七、八人はいるな……固まっていては不利だ!』
 と判断した香藤は自ら前に立ち、敵を迎え打った。
「行って下さい!ここは俺が引き付けます」
「香藤!」
「早く!」
 香藤は追い掛けようとする敵に太刀を向けて、行く手を阻んだ。何人かは香藤を片付けようと向かってくる。
 香藤はそいつらを引き付けて走りだした。四人程がついてくる。
 暗闇の中では動いた方がこちらに分がある。相手は同士打ちを恐れて、思いきった太刀を放つのをためらう筈だ。左にいる奴らは間合いを大きくとっているが、右側にいる奴は近付き過ぎだった。
 走りながら香藤はいきなり右に飛び、そこにいた奴を切った。

       *

 夜が明けた。
 香藤達四人は高田の遠縁にあたるという屋敷に逃げ込んでいた。
 奇襲を受けたが、香藤と林の活躍もあって四人はなんとか振り切る事が出来た。江戸町のはずれにあるこの屋敷に駆け込み、傷の手当てをしてもらったのである。
 高田は何ケ所か切られ重症を負った。香藤と林も手や足に傷を負ったがたいしたものではない。香藤は高田が心配で動けずにいた。それに高田の上司に香藤が手を貸した事を勘定奉行らは知らないだろうが、なりを潜めている方がいいからしばらくここにいろと言われたのである。
 例の書状は彼が供をつれて持っていった。今日の老中会議でこの書状を公開して、勘定奉行の悪行を暴くつもりだと言う。そうなれば勘定奉行派の一掃が始まり、今回闇討ちに加担した者も見つけだされるだろう、それまで大人しくしていた方が得策である。逆恨みする奴もでてくるであろうから。
『一体誰があの襲撃に加わっていたのだろう?』
 昨夜、香藤は襲ってきた敵を何人か切った。暗闇であった為、どの程度の傷を負わせたのか、誰か死んだ者がいるのかまったく分からない。
「誰も…死んでないかな……」
 香藤は思わず呟いた。
 いくら向こうから襲ってきたとはいえ、恨みもない人物を殺すのは気が咎める。いつもの香藤なら峰打ちにするところだが、今回は人の命を守るという責任があった。相手は完璧にこちらを殺す気なのだから、自分の情けの為に上司の命を危険にさらす訳にはいかなかったのだ。
『…岩城さんに会いたいな……』
 香藤は一日も早く、岩城の微笑みが見たかった。

「畜生!」
 男は持っていた湯呑みを力いっぱい放り投げた。湯呑みは柱にあたって無惨に砕け散る。
「藤波さん落ち着いて下さい」
 向かいの座っていた今井が藤波と言う目のギラギラした男を落ち着かせようと手をさしのべた。
「落ち付けだ?これが落ち着いていられるか!」
「…………」
「分かっているのか今井?!これで俺はおしまいなんだぞ!」
「まだ、見つかると決まった訳では……」
「本気で思っているのか?調べが始まれば俺が勘定奉行の手となり足となって邪魔な奴らを葬ってきた事などすぐにばれる……」
「…………」
「くそ!あの書状さえ奪っていれば……」
 藤波は吐き捨てるように言うと、瓶の口から直接酒を飲み出した。
 この藤波は今井の川崎道場の先輩である。昨夜、いきなり今井の屋敷に駆け込んできて、かくまってくれ、と言われたのだ。あちこちに傷を負っていた。
 彼は剣の腕はいいが素行が悪く、破門を食らってしまう程だった。その後もいろいろと悪い噂が耳に入ってきていたのだが、まさか奉行と通じていたとは思わなかった。
 今井としても面倒に巻き込まれるのはごめんだが彼には貸しがあった。数年前、今井の好いていた女が祝言をあげる事になり、腹がたった今井は相手の男を藤波に殺してもらったのである。それから藤波はたびたび小銭を要求してくるようになった。今回もそんな秘密を握られている為、無下にはできなかったのである。
「…香藤さえいなければ……」
 藤波につぶやきに今井が反応した。
「香藤が?あいつがいたのですか?」
「ああ…暗くて顔は見えなかったが、誰かが呼ぶのを聞いた。それに俺に傷を負わせる程の奴はそうざらにはいない。間違い無く香藤だ……」
 藤波がまだ破門される前、川崎道場と杉山道場は練習試合を行っているのだが、その時藤波は香藤にあっけなく破れ、彼は香藤に恨みを抱いていた。そこに来て今回の事件であるから、藤波の腹は煮えくり返っているだろう。
「……あいつがいたのか……」
「くそ!今井、俺は江戸を離れる。だが、その前に香藤の奴に思い知らせてやらねば気が収まらん!」
「どうするつもりです?」
「決まっている!あいつの潜伏場所を見つけだし、殺してやる!」
「しかし、香藤はどこかにかくまれているのでしょう?そう簡単には見つかりませんよ」
「構わん!このままでは気が収まらねえ!」
 今井は、まったくこの単細胞が、と心の中でため息をついた。仮に香藤の居場所が分かってとしても、藤波の腕では香藤にかなわない。殺されに行くようなものである。死ねばいいが、捕まったりしたら自分にも危害が及ぶではないか。もしかしたら、数年前のやってもらった殺しの事も話すかもしれない。今井はなんとかして止めさせようと考え、そして妙案が浮かんだ。
「藤波さん、もっといい考えがあります……」
「なんだ?」
「香藤に男の恋人がいるのを知ってますか?」
「香藤が?あいつ衆道に走ったのか?」
「ええ」
「あんなに女にもてて、何考えてんだ?」
「しかし俺も一度その男を見ましたが、これが薫りたつような色気のある男で……」
「ほう……」
「俺には衆道の気はありませんが、そんな俺でもこいつならいけるかもと思った程です」
「女みたいな奴なのか?」
「いえ、それが全然……女にはない艶があってしかも盲目なのです」
「……それはそれは…ぜひ香藤のかわり挨拶に行ってやらねばならんな……」
 藤波は歪んだ顔で笑った。

      *

 その日は小太郎と約束した日だった。岩城と小太郎は大黒屋を出て、清水屋までの帰りの途中で例の神社に立ち寄った。
「日が暮れるまでに間に合いました」
 小太郎が嬉しそうに話す。
「そうか、良かった」
「うわ〜すごく綺麗です……」
 小太郎がため息まじりに呟く様子から、相当見事な紅葉なのだろう。岩城の瞳は見る事は出来ないが、寂しいとは思わなかった。
 たとえ瞳に映らなくてもそれを見ている人を通して岩城はその美しさを感じる事ができた。それは香藤が教えてくれた事だった。香藤が自分を愛してくれたから気付けたもう一つの岩城の瞳だった。
 風に揺れる紅葉の音、ときおり舞い落ちる紅葉に触れられながら、岩城の瞳には美しい紅葉が見えていたのである。
「…美しいな……」
「…はい……」
『感じる…お前がくれた光りで俺は見る事ができる……』
 岩城は香藤の事を想った。
 今朝、香藤は帰って来なかったが、どうしたのだろう?通夜が長引いているのだろうか?だが、もう家に帰っているかもしれない、と岩城は帰宅に胸が弾んだ。
「岩城さん……」
 突然小太郎が不安げな声をあげる。
「どうした小太郎?」
 尋ねると同時に岩城は人の気配を感じた。こちらに向かって歩いて来る。一人ではなく、背後と左斜めからも誰かが近付いてきている。皆、笑いを浮かべているようだった。
『囲まれた?』
 岩城が不信に思った時
「おまえか……」
「どなたです?」
「なる程な〜確かにお前ならいけそうだ……香藤がはまる訳だ」
「?香藤の知り合いですか」
「あ〜あ〜いつも世話になってるぜ!お前あいつの恋人なんだろ、念友の仲なんだってな?その身体で香藤を喜ばせてやってるのか」
「……………」
 下品な言い方に岩城は不快な気分になる。
「何かご用ですか?」
 自分と香藤との関係を知ってからかいにきたのだろうか?と岩城は思った。
「そうそう、お前に用があるんだ。その身体にな!」
「!」
 男達は岩城に飛びかかり、身体を引きずってどこかに連れて行こうとする。
「何をする!」
 岩城は必死になって抵抗を試みるが、相手は三人がかりでしっかり身体を掴んで離さない。
「こら!岩城さんを離せ!」
 小太郎も男供に立ち向かうが簡単に突き飛ばされてしまう。
「あ!」
 小太郎は地面に倒れたが、すぐに起き上がって今度は男の臑を蹴飛ばした。
「いて!このガキが何しやがる!」
「痛めつけてやれ!ぶった切ったって構わねえ!」
「小太郎!逃げろ!」
「でも、岩城さん!」
「いいから早く!助けを呼んでくるんだ!」
「は、はい!」
 小太郎の駆け出す足音が聞こえて岩城はひとまずほっとする。自分もなんとか男達をふりほごこうと腕を回した。
「くそ!暴れんな!」
 男の一人が岩城の鳩尾に拳を叩きつける。
「う!」
 岩城は息がつまり、くの字に身体を折り曲げた。手足がしびれて抵抗できなくなった岩城を男達は引きづってボロボロの祠の中に投げ入れた。
「あ!」
 岩城の身体は板間に転がった。ほこりとカビくさい匂いから、どこかの廃屋の中だと分かる。
 まだ、息が苦しいが岩城は無理にでも立ち上がろうとした。しかし、男が岩城の身体にのしかかってきたので、また板間に仰向けに倒されてしまう。
「おい藤波、俺が先だぜ」
「うるせ、お前は手を押さえてろ!」
 誰かがそう言うや否や岩城の両手は誰かに捕まれ、頭上に束ねられる。そのまま板間に縫い付けるように押さえられてしまった。
「何をする!離せ!」
 岩城は叫びながら必死に身をよじる。
「可愛がってやろうってんだろ、大人しくしてろ」
「な、なんだと!離せ!」
「黙らせろ!誰か来るだろ」
「分かってる」
「うう!」
 岩城の口に布が押し込まれてきた。全身が恐怖に包まれ、岩城はなおも暴れた。
「暴れるんじゃねーよ」
 藤波は思いきり岩城の頬を殴った。岩城はものすごい衝撃を感じて気が遠くなる。口の中が切れたらしく血の味がした。
 岩城の抵抗が弱くなった隙に藤波は岩城の足の間に身体を入れて、右腿に膝を乗せて押さえた。
「そっちの足首押さえておけ!」
「おう」
「うん、ん!」
 意識が戻ってきた岩城はまた暴れようとするが、押さえられた身体はほとんど動けなかった。誰かが帯を解く音がする。
 身体中が恐怖と嫌悪感の為に寒くなっていく。手が身体のあちこちを這い回る感触に岩城は虫酸がはしった。
 自分は下衆な男達に凌辱されようとしている!
『い、いやだ!やめろ!』
 岩城は必死に首を振る。
「は……あんた綺麗な肌してんな……」
 襟元を大きく広げた男が岩城の胸に触れてくる。岩城は吐き気が込み上げてきた。
『やめろ!』
 いっそ舌を噛み切ってやろうかと思うがそれも出来ない。
「おい、はやくしろよ」
 手を頭上で押さえている男が喉を鳴らした。
「慌てんなよ……」
 藤波がゆっくりと襦袢を脱がそうとする。
『い、嫌だ!香藤!』
 岩城は血の涙を流しながら心の中で叫んだ。
 祠の扉が風に煽られ大きな音をたてていた。
「うるせーなー、扉ちゃんと締まらねえのか」
「そうは言っても廃虚だしよ〜」
 と男がぼやいたと思った瞬間、扉が開く音と共に獣のうなり声が飛び込んでくる。
「うわあ!」
「なんだこの犬!」
 岩城に覆いかぶさっていた男が一斉に飛び退く。周りに男供の悲鳴と犬のうなり声が響きだす。どうやら野犬が飛び込み、男達に襲いかかっているようである。
 岩城は急いで飛び起きると布を口から吐き出した。空気の流れから出口を察知し、祠から走り出る。
「あ!待ちやがれ!」
 外に飛び出し、岩城は手をのばして走り続けた。どこを走っているのかまったく分からないが、今の岩城はあの男達から逃げる事しか頭になかった。
『早く、早く逃げなければ!』
 岩城は必死に走ろうとするが、前にのばした手に何度も木がぶつかり、その度に右へ左へと身体の向きを変えて進まなくてはならなかった。足にも低木や鋭い葉があたり、思うように走れない。
 風に舞った紅葉の葉が岩城の顔を叩いていく。
 岩城は暗闇にこれ程の恐怖を感じた事はなかった。
 先程まで感じていた美しい景色。そのすべてが、草や木が、風が、行く手を阻むすべてのものが、岩城に敵意をもっているかのようだ。
『香藤!』
 岩城は香藤を心に思い出して必死に走った。そして
「岩城さ〜ん!」
 遠くから名前を呼ぶ声がする。小太郎だった。小太郎が助けを連れて戻って来てくれたのだ。
「小太郎!」
 岩城が大声をあげて声のする方へ足を向けた。その拍子に木の根っこに足をとられ、岩城は地面に転がり斜面を滑ってしまう。
「あ!」
 痛みを堪えて上半身を起した時、微かに分っていた方向が完全に分からなくなってしまっていた。そんな岩城に追い討ちをかけるように冷たい風を頬に感じる。
『なんだ?この冷たい湿った風は?』
 岩城が五感をすませると水の匂いがした。
 そして、指先で地面に触るとある律動が伝わってこないのに気付く。
『地面がない!?』
 この先は地面がないのだ。下から吹き上げる風から、おそらくこの先は崖で川か湖が下にあるのだ。
 岩城はゆっくりと立ち上がり、反対側に歩こうとしたが
「いたぞ!」
 男の声に、岩城の身体は硬直する。
「見つけたぞ、もう逃げられねえぞ、その先は崖だ」
 三つの足音が岩城に向って歩いてくる。
「ひとまずこの場所から離れるぞ、別の場所でこいつを散々慰めものにしてやろう」
 岩城は恐怖におののいた。
 心臓が破れそうに痛い。息が上手くできなかった。
「安心しろ、飽きたらちゃんと香藤のとこに返してやるからよ」
「その時のあいつの顔が見物だな」
 と、男達が笑い声をあげた。
 その笑い声が岩城の頭にガンガン木霊して響いてくる。
『こんな…こんな奴らにいいようにされるくらいなら……』
 決心した岩城は身体を反転させて崖に向かう。
「おい、何をする気だ?やめろ!」
 背中に男の声がして、走りよってくる気配がする。
『香藤!俺に勇気をくれ!』
 岩城は香藤の事だけを頭に思い描いていた。
 そして岩城は思いきり地面を蹴り、闇の中に身を投げ出した。

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