慕 情 3

このお話は「春抱き」小説の「古都」「幽鈴」「玉響」の後という設定になっております

  香藤がその事を知ったのは、二日後の朝、清水屋に帰った時だった。
 高田の様子が峠を越えたのを見届けてから、もう少し身を潜めていた方がいいという警告を無視しての帰宅であった。
 向こうの屋敷で養生している間、ずっと岩城の事を考えていた。心配してはいないだろうか、最近寒くなったけれど、暖かいお風呂に入っているだろうか、と思い続け、早く会いたくてたまらなかったのである。
 が、帰ってきた香藤は
「岩城さんが行方不明!?」
 ぞっとする恐ろしい事実を女将から聞かされたのだった。
「どうして?!いつ、どこで?!」
 香藤は女将の肩を強く掴んで詰め寄った。
「か、香藤さん落ち着いてください」
 側でみていた番頭が止めに入る。
「あ、すみません…でも……」
 岩城が行方不明だというのに香藤が落ち着いていられる筈もない。
「いつそんな事に?どこでいなくなったのですか?」
「小太郎の話では、二日前大黒屋からの帰り道、紅葉を見に稲荷神社に行ったそうなんですが……」
「小太郎が……」
 ああ、紅葉を見にいく約束をしていたな……
 と、香藤は思い出した。
「その神社で三人の男にからまれたそうです……小太郎は助けを呼びに行きましたが、戻ってきた時には岩城さんの姿がなかったと……」
「じゃあ、その男達にさらわれた?!」
「分かりません……何の連絡もありませんし……」
 女将は暗い表情で視線を下に向けた。
「……小太郎に会いに行ってきます!」
「あ、香藤さん!」
 香藤はその時の詳しい事情を聞こうと大黒屋に向って駆け出した。
 大黒屋につくと、番頭に頼んで木戸の裏に小太郎を呼び出してもらった。
「小太郎、岩城さんがいなくなった時の話を詳しく聞かせてくれないか?」
「…はい……」
 小太郎はその時の様子を詳しく香藤に話して聞かせた。自分が助けを連れて駆け付けたが、男達も岩城もいなくなっていたと。
「男達はどんな奴らだった?」
「面相はよくなかったです。ごろつきって感じでした……香藤さんの事を知っていました」
「俺を?」
『もしかして菊池の手の者では………』
 と、香藤は疑ったのだが、奴がごろつきに頼んで岩城を攫ったりするとは考えにくかった。
『では、一体誰が……』
「香藤さん……」
「なんだ?」
「香藤さんと岩城さんは恋人なのですか?」
「え?」
「そんな風な事を言っていましたから……」
「男達がそんな話をしていたのか?」
「はい………」
「……そうか……」
 岩城と自分の関係を知る者が、岩城に詰め寄っていたのか?一体何の為に?
「…香藤さん……すみません…僕がもっとしっかりしていたら……」
 小太郎は頭を垂れて目に涙を溜めていた。
「小太郎が悪いんじゃないよ……」
「でも……僕が紅葉を見たいなんて言ったから……」
「違う。お前が気にする事なんて何もないんだ……」
 香藤は屈みこんで小太郎の頭を撫でてやる。
「岩城さんはきっと大丈夫だ……すぐに元気な姿で帰ってくる……」
 そうだ、きっと岩城は帰ってくる。自分が見つけてみせるのだ、と香藤は胸に誓っていた。
 小太郎と別れた後、香藤は稲荷神社に手がかりを求めて立ち入った。
 人気はあまりなく、見事な紅葉が境内を赤く染めていた。
『岩城さんは一体どこへ……』
 あてもなく庭を歩き回っていると唸り声が聞こえ、見ると一匹の犬が遠くから香藤に向って威嚇していた。
『この神社にいるという守り犬だな』
 人に聞いた話だが、昔この神社の境内に女狐が住着き、子育てをしていたそうである。子狐の中に一匹の子犬がいて、その犬は母狐が死んで、他の子狐が山に帰った後もこの神社に残り、母狐の死に場所である神社を守ったという話だ。
 以来、なぜかこの神社には代々犬が住着き、守り犬として神社を守っているのであった。
「…お前…何か知らないか……」
 香藤は膝を折り曲げ、自分に向って威嚇する犬を真直ぐに見つめた。
 岩城の居所の何か断片でも掴む為には香藤は何でもするつもりだった。犬にでも縋り付きたい気分だったのである。
「……頼む……」
 香藤は苦しそうに頭を下げると、犬のうなり声がやんだ。
 犬はゆっくり香藤に近付き、袴をくわえて引っ張っりだした。
「え?」
 香藤が立ち上げると、犬が歩きだした。途中で立ち止まり香藤を振り返る。
『付いて来いというのか?!』
 香藤が歩き出すと犬が駆け出した。香藤が必死に後を追い掛けると、犬は荒果てた祠の前で立ち止まった。
「この祠に?」
 香藤がその祠の中に足を踏み入れた。うす暗い中に舞い落ちたのだろう紅葉の赤い色だけが鮮やかに浮かびあがっている。
 そして一枚の着物が床に広がっているのを見つけた。香藤は急いでそれを拾いあげると
「これは、岩城さんの袷?!」
『こんなところになぜ袷だけが?』
 香藤は祠の中を探し回った。そしてひとつの紙入れ(財布)を見つけたのである。
 中を開けて探っていくと今井の物だという事が分った。
「今井なら俺と岩城さんの事も知っている……奴が……」
 岩城さんに何かしたというのか……
「あいつ……次第によってはただじゃおかね……」
 香藤は全身に怒りを漲らせながら、祠を走り出た。

            *

 その日、浅野伸之は美しい湖の近くにある別荘に来ていた。このところ近くの木々が赤く色付きだして、見事だと使用人達から聞いたので、気分転換に紅葉狩りでもしようとこの別荘に来たのである。
 夜、浅野は馬に乗り、一人のお供と森の中へ入った。
 浅野は一千石の浅野家の次男で、跡取りでもなく気ままな生活を送っていた。武芸よりも学業の方に才があり、藩校の終日授業を優秀な成績で終えている。
 今はその一段上の寮生になって学問に励んでいるが、最近浅野は悩んでいて気が滅入っていたのである。が、月光に照らされる紅葉の幻想的な美しさを見ていると、心が落ち着いてきた。
「あ、伸之様、あれは……」
「ん?」
 供の男が指差した方に目をやると、湖のほとりに白い物が転がっているのが見えた。
「なんだ?あれは?」
 近寄ってみると、それはうつ伏せになっている人間だと分かった。湖の岸に誰かが流れついているのだ。
「人だ!死んでいるのか?」
「ここでお待ち下さい、見て参ります」
「ああ……」
 共の男は恐る恐る近寄って、その者の身体を仰向けにした。
「生きています!」
「そうか……」
 浅野は馬を降り、二人に近付いていった。
「女か、男か?」
「男です…頭に怪我をしています。ひとまず我々の使用人達の部屋に運んでもよろしいでしょうか?」
「そうだな、そうしてく……」
 あまり興味もなかった浅野だが、その供の男に抱えられた人の顔を見て驚愕した。
「岩城さん!」
「え?伸之様はこの方を御存じなのですか?」
「ああ、知っている!急いで屋敷に運んで手当てしなければ!急げ!」
「は、はい!」
 浅野の豹変ぶりに供の男は驚きながら、急いで岩城を抱き上げた。
 岩城はすぐさま別荘に運ばれ、主治医の手当てを受けた。
 岩城の身体は傷だらけで冷えきっており、高熱を発していた。特に頭の傷が大きく、水に流されている間、かなり出血したのでないだろうか、という話であった。
 意識が戻らず、一時は危ないかと思われたが、二日後の夜になんとか岩城は目を開けた。
 だが、もっと重大な事態になっていたのである。

 浅野が別室で待っていると医師が現れた。
「どんな具合ですか?」
「…そうですな…身体の方はなんとか持ち直したようです。このままゆっくり静養し、滋養のある物を食べていればいずれは良くなりましょう。だが例の事は……」
「駄目ですか?」
「なんとも言えません…明日思い出すかもしれませんし、一生思い出さないかもしれません……」
「そうですか……」
 目を覚ました岩城は今までの記憶を失っていたのである。
 自分の名前も、生まれも、家族の事も、何をしていたのかもまったく覚えていなかったのだ。
 浅野は岩城の事を知っていた。
 姉が岩城に琴を習っており、岩城は屋敷に教えに来ていたのである。何度か練習風景を見学させてもらい、話もした。琴に興味があったのではなく、浅野は岩城に会いたかったのだ。
 岩城の指から紡ぎだされる美しい琴の調べ。その唇から発せられるまろやか声。彼の美しい横顔をずっと眺めていたいと思ったものである。
 優雅で優しい岩城に浅野はずっと憧れていた。
 寮生になってからも、岩城の稽古の日を見計らって実家に帰る程だった。
 だから、彼が清水屋の離れで香藤と暮らしていると知った時は心底驚いた。
 浅野の友人には川崎道場に通う者が多くいて、香藤の話を聞いていたが、いい印象は受けなかったのである。最も折り合いの悪い道場の門弟らの話す事なのだから、いい事は言わないだろうが……
『粗野で乱暴な男と聞きましたが……そんな奴と暮らしていて大丈夫なのですか?』
『香藤が?乱暴なんかじゃない。とても優しくて明るい人だ』
『そうなんですか?』
『ああ…香藤が来てから楽しいよ…部屋がとても明るくなったように感じるんだ……』
 香藤の話をする時の岩城はとても幸せそうな顔をする。岩城はいつも優しいが、一線を引いたところがあった。心を許しているように見えても、まだ岩城の心の内に入っていないのだと常に感じていた。
 浅野は直接香藤に会った事はないが、いやな奴だと思っていた。
 岩城に特別扱いされて、心を許してもらって……
 憎らしい男だと嫉妬さえしていたのであるが。
『その香藤の事も忘れてしまっているのか……』
 浅野は心にある欲望が燃えあげるのを感じた。身体が興奮の為に熱くなり、鼓動が早くなる。
「目が不自由なのは元々でしたな?」
「そうです」
「今は眠っているからそっとしておいてやって下さい。あまり無理に思い出させないように。思い出さない事を責めてもいけません。本人は盲目の上に自分の事を忘れてしまって不安なのだから、安心させてやるのが一番です」
「分かりました」
「それに、発見された時、襦袢姿だったというのが気になります」
「というと?」
「過って湖や川に落ちたのなら着物は着ているでしょう」
「では、どういう事だと?」
「もしかして、入水かも………」
「自害しようとしたと?!」
「可能性はあります…ですので、あまり思い出させない方がいいかもしれませんな……」
「…………」
「……では私はこれで。薬は後で届けさせます」
「ありがとうございました……」
 医師が帰った後、浅野は岩城の眠る部屋に入った。
 夜具に横になっている岩城はあちこちに血止めの帯が巻かれていて痛々しかった。特に頭にはとても大きい帯が何重にも巻かれている。浅野はそっと傍らに膝をつき、岩城の顔を覗き込んだ。
 白い肌に朱色の線がいくつもついている。湖の中の石や流木で傷つけられたものらしい。
『なぜ、あんな湖の岸に流されていたのだろう?』
 あの湖には小さな河が三つ流れ込んでいるから、そのどれか一つに落ちたのかもしれない。岩城は目が不自由なので過って落ちたと考えていたが、彼の慎重で鋭い感覚を知っているので不思議に思っていたのである。確かに事故ならば着物は来ている筈だ。
『やはり医師の言うように……』
 入水……
 岩城は自ら命を絶とうとしたのかもしれない、だから記憶も失っているのではないだろうか?忘れてしまいたい事があるから……
 辛いなら忘れてしまえばいいのだ……今までの事を全部……これからまた新しく始めればいい…自分がついているから……
「岩城さん、これからは私がついています……きっとあなたを支えてみせます……」
 浅野は夜具から出ていた岩城の手を握りしめる。浅野の目は熱く岩城を見つめていた。

               前へ    次へ