慕 情 4

このお話は「春抱き」小説の「古都」「幽鈴」「玉響」の後という設定になっております

  香藤が川崎道場に着くと、稽古が終わったところらしかった。
「失礼する」
 香藤は門で声をかけると、誰のことわりもなく稽古場に向う。
「あ、あの、もし……」
 門下生だろう少年が、どかどかと廊下を進んでいく香藤を慌てて止めようとする。
「あ、あなた様はどなたです?何のご用ですか?」
 頭を下げながら前を立ちふさぐ少年に、香藤は一旦足を止める。
「……今井は稽古に来ているか?」
「今井さんですか?はい来ておりますが……」
 香藤は少年の答を聞く前に立ちはだかっていた少年を避けて前に進んだ。
「あ、お、お待ち下さい!もし!」
 聞く耳もたずで歩いていた香藤の向いから、帰り支度を終えた数人の門弟らが談笑しつつ歩いてくる。そしてその中に今井がいるのを見ると、香藤は心の中に怒りの感情が一気に膨れるのを感じた。歩を止め、じっと今井を睨みつける。
 一方今井は香藤が前に立っているのに気付くと、鬼にでも出会ったように驚愕した。
「か、香藤……!」
「何?香藤?」
 他の門弟らも香藤に気付き、顔を歪める。この道場の者達は練習試合でいつも香藤に負けているので、彼を良く思っていない。
「貴様何しに来た?」
 他の男が喧嘩を売るような口調で話し掛ける。
「今井に用がある……」
「ほほう、今井お前だとよ」
「勝負を挑んできたのなら俺達が助太刀するから受けろよ」
 気まずそうに目を逸らしていた今井が、他の男達に促され前にでる。
「な、何の用だ……」
「……これはお前の紙入れか?」
 香藤は稲荷神社で拾った紙入れを取り出して見せる。口調が乱暴になるのは仕方なかった。香藤は今井の胸ぐらを掴んで詰め寄りたいのを必死に押さえていたのである。
「……知らん……俺の物ではない……」
「だが、中に今井家の紋が入っているぞ…川崎道場の門弟が持つという軍荼利明王の護符もある」
「……それだけで、俺の物かどうか分からんだろう……」
「廃屋で拾ったのだが、心あたりはないのか?お前そこで何をしていた?」
「知らんと言ってるだろう!あんなさびれた神社に何故俺が行かねばならんのだ!」
「俺は廃屋と言っただけだぞ。神社とは一言も言っていない……」
 今井の顔が途端に青ざめる。
「貴様岩城さんに何をした……」
 香藤の怒りを表情を今井に向けた。表情だけでなく、香藤の圧倒的な気迫に他の男達もたじろいだ。
「何をしたんだ!」
 香藤は今井に掴み掛かかろうと、詰め寄った。
「ま、待て!分った、分ったから!」
 今井が必死に叫び、香藤は足を止める。
「今、ここではまずい…今日の四ツ半(午後十一時)に道明寺で落ち会おう……」
「本当だな……?」
「あ、ああ……そこで話す……」
 本当なら、今ここで叩き伏せてでも問いただしたいところだが、岩城にとって不利な話もでてくるかもしれないと、香藤は思い留まった。
「……分った……必ず来い……来なかった時は……ただじゃおかないぞ……」
 香藤は眼光を鋭く光らせながら今井を睨んだ。
「わ、分ってる……必ず行く……」
 今井の返事を聞くと、香藤は無言で道場を立ち去った。

 そして、言われた四ツ半(午後十一時)に道明寺で香藤は今井を待っていた。
 事と次第によっては香藤は今井を切るつもりだった。祠の中で沸き上がった想像を、香藤は必死に否定していたのである。岩城が今井に辱めを……
『いや、違う!絶対に違う!』
 香藤は頭を振って自分の考えを振払った。
『落ち着け…何が起こったのか、岩城さんはどこに言ったのかあいつに聞くんだ。嘘をついているかどうか見ぬかなければ……』
 香藤は冷静さをたもとうと努めた。だが、今井はなかなか現れない。
「あいつ…臆したのか……」
『もしや、逃げたのか?』
 郷を煮やした香藤は今井家に直接行ってやろうと、歩き出したその時。
「死ね!」
 寺の裏庭のあたりから数人の人影が飛び出し、太刀を香藤に向って振り降ろしてきた。香藤はなんなく躱すと、自分の太刀を抜き、峰打ちをくらわせてまず一人を気絶させた。
「おのれ!」
 他の者も向ってくるが、香藤は同じように峰打をくらわせ気絶させる。
「ぐわ!」
「うわあ!」
 最後に一人だけ残ったが、それが今井だった。
「ひゃあ〜」
 今井は逃げようと走りだすが、香藤は倒れている男から鞘を抜き取ると、今井の足に向って放り投げた。鞘は見事に今井の足にからみ、今井は地面に転がった。
 今井の正面に立った香藤はその鼻先に太刀を翳した。
「……こんな事を仕掛けてくるんじゃないかと思ったぜ…あきれた奴だ……」
 香藤は今井を見下ろしながら冷たい目で睨んだ。
「ま、待ってくれ!切らないでくれ!お、俺は何もしてないんだ!」
 他の男が殺されたと思っているらしく、今井は震えている。同じ武士として香藤は恥ずかしくなってきた。
「……貴様…岩城さんに何をした……」
「お、俺は何もしてないんだ!本当だ!」
「じゃあ、何故神社の廃屋に岩城さんの袷と貴様の紙入れが落ちていたんだ!」
「ふ、藤波がお前を思いしらせてやりたいって言うから、きょ、協力しただけだ!」
「藤波…聞いたことがある……誰だ?」
「川崎道場の元門弟だ。素行が悪くて破門された……」
 ああ…と、香藤は思い出した。いつかの練習試合で立ち会った事がある、と。
「そいつが何をしたというんだ?」
「お、お前に思い知らせてやりたいって……い、岩城って奴を襲ったらしい……」
「!……んだと……!」
 香藤の身体が怒りのあまりカッと熱くなる。迷わず太刀をふりかざしたが、今井が慌てて喋りだした。
「だ、だけど失敗したんだ!逃げられたんだ!」
「何?……本当か……?」
「ほ、本当だ!嘘じゃねー!」
「じゃあ岩城さんはどこへ逃げたと言うんだ?」
「そ、それは分からねー………」
「貴様……その場にいたんじゃないのか?嘘を言うと……」
「ち、違う俺はその場にはいなかった…後から聞いたんだ……」
「じゃあ何故貴様の紙入れが落ちてたんだ!」
 香藤は再び太刀を今井の鼻先に突き出した。
「藤波にとられたんだ!江戸を離れるか身を隠すかするから金子を貸せって言われて!」
「…………」
「本当だ!博打仲間に声かけたらしい…がらの悪い奴らだ……」
「…………」
 確かに今井の話は小太郎の話と噛み合っている。小太郎の話では武士らしい奴はいたと言っていない。今井がいたのなら一人そういう男がいたと言うだろう。
「……その藤波って奴はなぜ俺に?練習試合の恨みにしては時間がたち過ぎてる……」
「……二日前の朝に藤波が怪我をして俺の屋敷に逃げ込んできたんだ……お前にやられたって言ってた……」
「何!」
『あの夜襲の中にいた奴か!しかし、どうして俺だと分かったのだろう?いや、調べる方法はいくらでもあるかもしれない。まして一度立ち会っているのだから太刀筋などから気付かれたのかも……』
「そして、俺への腹いせに岩城さんを襲ったんだな……」
「そ、そうだ……」
 とすれば勘定奉行の一味である筈。今、城内は勘定奉行の一味の一掃で大騒ぎらしい。その捕われる中にいるという事になる。これまで、そんな政治的な問題に興味はなく、干渉しなかったがそうもいかなくなった。一度どんな奴らがあがっているか確認しに行った方がいいだろう。
「……しかし何故、その男が岩城さんの事を知っているんだ?」
「そ、それは……」
 今井はビクリと身体を震わせる。
「お前が喋ったんだな……」
 香藤は怒りの表情で睨み付けた。太刀を構え今井に迫る。
「ま、待ってくれ……わ、悪気はなかったんだ……ま、まさか本当に襲うなんて……」
 今井は手を振りながら後ずさるが
「問答無用!」
 と、香藤は太刀を今井に向けて横に払った。
「うわあ!」
 香藤の一振りは今井の髷を切り払っていた。今井は自分が切られていないのを確認すると、ざんばらになった髪を振り乱して一目散に逃げ出した。香藤も追い掛けてもしょうがないだろうと追わなかった。
 本当は腕の一本ぐらい切ってやりたかったが、そんな事をしても状況は変わらないと分かっていたので、止めたのである。
「……だが、結局振り出しか……]
 岩城の消息は依然分からぬままである。だが、自分が想像していた最悪の事態は起こらなかったようである。それを知ったので、ある程度は安心できた。しかし、今だに生死が不明な事に変わりは無い。
『いや!岩城さんは生きている!絶対だ!』
 その香藤の強烈な願いは確信になっていた。
 岩城は生きている、絶対に、なぜなら自分が生きているから。
 香藤は岩城が死んだ時、自分も死ぬだろうと思っていた。心も、身体もその瞬間に凍りつくだろうと。それは理屈ではない確信だった。たとえ離れていたとしてもきっと分かる。堪え難い喪失感を味わう筈だ。なぜなら自分の生きる意味を失うのだから……
『岩城さんは無事の筈だ!必ず俺が見つけてみせる!』

          *

「秋月さん、起きていて大丈夫なのですか?」
「あ、浅野さん……おかえりなさい……」
 自分の寝起きしている部屋の間取りを覚えておこうと、岩城は立ち上がって部屋の中を歩いていた。そこへ浅野が入ってきたようである。
「またー敬語はやめて下さいよ。私は秋月さんより年下に違い無いんですから」
「でも……」
 秋月とは記憶を失った岩城に浅野がつけた名前だった。浅野は岩城を知っているにも関わらず、初対面だと言ったのである。名前の由来は秋は今の季節だから、月はあなたの容貌が月を連想させるから、と岩城に説明した。浅野は湖で助けた時の話しかしていなかった。自分が岩城を知っていると話せば身元が判明し、当然岩城は清水屋に帰ってしまうだろう。浅野はそれが嫌だったのである。
「浅野さんは見知らぬ私を助けて下さった恩人です。それに、記憶のない私にこんなによくしてくださって……」
「そんな事はしごく当然の事ですよ。それより身体もまだ回復していないのですから、無理はなさらないで下さい。さ、横になって」
 浅野はやさしく岩城の手を取り、夜具へと誘った。
「…でも早く身体を回復させなければ…いつまでも御厄介になっている訳にもいきませんし……」
「だから何度も申し上げているように、そんな事は気にしないで下さい。焦りは回復のさまたげにもなりますから……」
「はい、すみません……」
 岩城は浅野の言う通り、夜具に潜り込んで座った。
「でも、かなり元気になってきたようですね。今日は顔色もいいですし……」
「はい、今日は気分もいいです……」
 岩城がここに来てから十日が過ぎようとしているが、怪我も体力も順調に回復しつつあった。
「良かった。何か不自由している事はありますか?遠慮なくおっしゃって下さいね」
「不自由な事など何もございません、皆様よくして下さってますし、ここはとても静かでゆったりとした気持ちになれます…」
「そうですか…ここは狩り好きの祖父が建てた別荘なんです。町からも程よく離れていて、景色も最高なんですよ。あ、失礼しました……」
「構いませんよ。音を聞いているだけでも、それは伝わってきます。木々の揺れる様子や葉の擦れる音。風の薫りからのここがとても美しい所なのだと分かります」
 岩城の感覚の鋭さは記憶を失っても変わらないようである。その美しさと同じように……
 瞳を閉じているところも、無意識にしているらしく変わっていない。
「……何か思い出しましたか?」
 岩城の表情が途端に曇り、小さく首を振った。浅野はそれを見て心の中でほっと息をつく。
「あの……誰か私を知っている人は来ませんでしたか?」
「ええ、奉行所に一応届けてはいるのですが……岩城さんの事を尋ねて来た人はいないようです……」
「そうですか……」
 岩城は寂しそうに首を垂れる。奉行所に届けを出しているというのも、浅野の嘘だった。誰かが奉行所に届け出をだしていたりしたら、自分が届けた途端一発で岩城の居所がすぐに分かってしまうからである。事実、清水屋の女将は届け出をだしていた。
「岩城さんはまず身体を治す事だけを考えて下さいね」
「は、はい…ありがとうございます……」
「では、食事の膳を持ってくるよう言いつけますね。いっしょに食べましょう」
「はい……」
 岩城は少し微笑みを浮かべて頷く。
 どこまでも透明なその笑顔に、浅野は胸を弾ませずにはいられなかった。今、この美しい人を一人占めしているのだと歓喜を感じるのである。そして、岩城が知っているのも自分だけ。岩城にとって自分が唯一見知り合った人物なのだ。
 浅野は幸せな気持ちで岩城の部屋を出た。
 岩城は浅野が行ってから軽くため息をついた。
 どうして自分は忘れてしまったのだろう?なぜ思い出せないのだろう?
 意識がはっきりしてきてから、岩城は目をつぶって少しでも思い出そうと頭の中を探ってみるのだが、何も出てこなかった。頭の中にぼんやりとした霞がかかっているような感覚である。時々輪郭が見えそうになるのだが、像を結ぶ前にそれは消えてしまう。その度に岩城は悲しさと寂寥感に襲われた。
『一体自分は何者なのか?何故怪我をしていたのだろう?何故湖に落ちたのだ?』
 分からなくて、怖かった。不安で夜中に何度も目を覚ますのだが、起きてもそこは眠っている時と同じ暗闇が広がっているだけである。恐ろしいまでの喪失感を感じて岩城は心が寒くなる。
 意識が戻ってからも目が見えない事に恐怖は感じなかった。
 忘れてはいるが、自分は大分前から盲目だったのだと分かる。
 だけど、これ程闇を感じていたのだろうか?
 岩城は目が見えないにも関わらず、とても明るい世界にいたような気がするのだ。
 何かを自分は持っていた。
 支えのような、かけがのない光のような何かを。
 だけど、それが何なのか分からない。思い出せないのである。
「どうしてだ……」
 焦ってはいけないと分っている。けれど岩城はその光のような何かを思い出そうとすると、自然に涙が溢れてくる。
 悲しいのではなく、愛しいような、暖かいような感情で胸がいっぱいになってしまうのだ。
 自分は何にこれ程までの思いを持っていたのだろう?
 いくら考えても思い出せず、岩城は苦しくなった胸を押さえた。

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