慕 情 7

このお話は「春抱き」小説の「古都」「幽鈴」「玉響」の後という設定になっております

 その夜、岩城は眠れなかった。夜具に入り今日会った男の事を思い出す。
 彼の力強い抱擁やせつない声と熱い口付け………
 岩城は自分の唇にそっと触れてみる。思い出した感触に身体が火照った。
『あの人は一体私のなんだったのだろう?もしかして………』
 私の想い人………?
『で、でも彼は同性だ……そんな事が……』
 岩城は夜具の中でみじろいだ。信じられない気持ちだったが、今日妙願寺であった彼は自分にとって大切な人だった気がする。
『やはり彼に会わなければ……』
 浅野に自分が入水したと聞かされ動転してしまったが、自分の過去の事なのだから、それがどんなに辛い事でも受け入れなければならない。なにより、岩城は今日会った男に会いたくて仕方なかったのだ。
 会って、自分とどういう関係だったのか知りたい。
 彼に抱き締められた時、自分の心に灯ったぬくもりの意味を知りたかったのである。
 気持ちの決まった岩城は少し落ち着き、夜明け頃にやっとまどろみだした。
 一方、浅野は夜明け頃、ふと目を覚ました。
 真っ先に岩城はどうしているだろうかと思う。
 昨日、妙願寺で香藤に抱き締められた岩城を見た時は、心臓が止まりそうだった。岩城をさらわれる恐怖で頭がいっぱいになった。
 もし、あの時岩城が記憶を取り戻していたら……
 浅野は不安になり、いてもたってもいられず、岩城の様子を見にいった。
 岩城の部屋の襖を開けると、彼の安らかな寝息が聞こえる。
 ひとまず胸をなで下ろした浅野だったが、岩城の顔を見たくなって、そっと中に入った。
 夜具の傍らに座り、岩城の顔を覗き込む。いつもの変わらない岩城の美しい寝顔があった。おもわず浅野は手をのばす。
 頬に触れると岩城は微かに首を振る。咄嗟に手を引くが、その時浅野の目に岩城の項が飛び込んできた。白んできた夜明けの光の中に浮かび上がる岩城の肌。とても美しいそれに、浅野は触れたいという衝動を押さえられなかった。
 頬から、首筋をたどり項に触れる。浅野は胸を高鳴らせながら岩城の唇に触れた。そして自分の唇に重ね合わせてみる。
「……ん………」
 岩城が甘い声をあげて身を捩る。
 浅野は身体の中に凶暴な衝動が沸いてくるのを感じた。
『岩城さんを誰にも渡したくない!自分だけのものにしたい!』
 浅野は岩城の夜具をめくり、岩城の上に覆いかぶさった。

 岩城は夢を見ていた。
 誰かが優しく自分の身体に触れている。その手の温もりに自分はやすらぎを感じていた。
 触れてくる人が愛しくて、手をのばして背中を抱き締める。
『…………』
 その人の名前をつぶやくのだが、何故か自分の耳には届かない。
『誰だ……?私はなんという名前を呼んでいるのだろう?』
 岩城は必死に思い出そうとする。
『誰だ?私に触れているのは……誰だ……?』
「……だ…れ……?」
 岩城の口から言葉がこぼれた時、岩城ははっと目を覚ました。
 夢ではない。誰かが自分の上に乗り、身体に触れている。単の中に手をしのびこませている。
『違う!』
 岩城は瞬時にして、今自分に触れているのは、夢で自分に触れていた人ではないと悟った。
「だ、誰だ……」
 岩城はなんとかどかそうとするが、着物を押さえられているらしく、上手く身体が動かせない。帯がほどかれている事に気付き、岩城の胸に恐怖がこみあげる。誰かの手が腿をなぞっていく。
「い、嫌だ……!離して……!」
 手をばたつかせて振り切ろうとする岩城だったが、体勢が悪い為一向にふりほどけない。その時、岩城の頭にある記憶が蘇った。
『可愛がってやろうってんだろ、大人しくしてろ』
 え………?
『暴れるんじゃねーよ』
 な、何……誰の言葉だ……?
 言葉とともにほこりとかびくさい匂いまでも岩城の頭に蘇ってきた。そして手足を押さえ込まれた感覚も、頬を殴られた時の痛みも。
 暗闇の中、背後に迫ってくる誰かに恐怖を感じながら走った。風も木も草もすべてが敵に感じた。
『私の過去の記憶だ!誰かに暴力をふるわれた事の記憶だ!』
 一体誰が……!
 そう思った岩城はいきなり強烈な頭痛に襲われ悲鳴をあげた。
「あう!」
 岩城の悲鳴に驚いた浅野は動きを止める。
「秋月さん?」
 岩城は身体を猫のように丸めて頭を押さえた。
「……うう…ああ……!」
『痛い…!頭が割れそうだ……』
 いっそ割れてくれた方がましだ、というぐらいの激しい痛みだった。
「う!」
 あまりの強烈な痛みに、岩城は気を失ってしまった。
「秋月さん?」
 いきなりの岩城の様子に呆然としていた浅野だったが、岩城の肩を恐る恐る揺さぶってみる。だが、返事はない。気を失ってしまった事に気付き、急いで医者を呼びにいった。

         *

 妙願寺で意識を取り戻した香藤は高田から思いきり怒られてしまった。
「寺の僧に向って抜刀するとは何事だ。殺されなかった事に感謝しなければならんぞ」
 寺の僧正はこちらも非があったと詫びをいれてくれたので、大事にならずにすんだ。もし、寺側が御上に訴えるような事になれば、高田の上司にも害が及ぶかもしれなかったのである。
 そんな事情など、どうでもいい香藤は、すかさず岩城と浅野の事を尋ねた。
 そして、岩城といっしょにいた男が浅野家の次男で、近くの別荘に遊びに来ているという事を知った。
「いっしょにいた目の見えない男性は誰です?この寺に所縁の方ですか?」
「いえ、初めて来た方です。秋月とおっしゃっていましたな。その浅野家の別荘にいるらしいですよ」
「そうですか………」
『秋月……では岩城さんではないのか……いや、そんな筈はない!あの人は岩城さんだ!俺が見間違える筈がない!』
 そう確信する香藤だったが、ひとつ気にかかる事があった。
 岩城を見つけて抱き締めた時、岩城からは何の反応も返ってこなかった事である。
 驚いた表情をして、まるで自分に初めて会うような反応だった……
 それに、無事なら何故今まで知らせてくれなかったのだろう?
『どうしてなんだ……』
 分らない事だらけだ。やはり似ているだけの別人なのだろうか?と香藤は考えてしまう。
 そんな疑問を解く方法はたった一つ、秋月と呼ばれていた岩城に会う事である。
 高田達の件は藤波も捕まったし、後はまかせておけばいいだろう、ともう手をひかせてくれと頼んだ。高田はそれに承知して今まで協力してくれた事に礼をのべた。彼等は早々に藤波を連れて寺を出ていった。
 肩の荷が降りた香藤は少しほっとした。

 香藤はその夜を寺に泊まらせてもらうと、次の早朝、教えてもらった浅野家の別荘を訪れた。
 浅野家の別荘はこじんまりとした屋敷だが、高い塀に囲まれた立派な造りである。回りには樹木や湖があり景観のいい所に建っているらしい。
「香藤洋二郎といいます。ここに秋月という人がいると聞きましたが、彼にお会いしたいのです」
 門番に取りつぎを頼んだが、すぐに断ってきた。
「何故だ!?何故会えないのだ!?」
「誰にも面会させてはならないと聞いているのです。お帰り下さい」
「誰の命令だ?」
「ご主人様です」
「浅野伸之殿か?」
「……お答えできません」
「会わせてくれ!頼む!俺の探している岩城という人かどうか確かめたいのだ!」
「できません……」
 この……!
 香藤は怒りの気を漲らせて門番を睨んだ。門番は香藤の気に少したじろいだ様子だった。
『昨日の僧といい、皆どうしてこう邪魔ばかりするんだ!』
 香藤は見えない壁が自分と岩城の間に立ち塞がっているような気がした。高い高い見えない壁が……
 だが、どんなに高い壁だろうが、越えて見せる。
『こうなったら、忍び込んででも岩城さんに会ってやる!』
 香藤は門から立ち去ると、別荘の回りを歩きだした。どこか忍び込めそうな所はないかと探ろうと思ったのである。しかし、塀はどこも高く、素手で登れそうもない。回りは森なので高い木がいくつも生えている。
『木にのぼって縄をかけてやろうか』
 忍びの真似をしようかと考えていると、誰かが自分を遠目に見ているのに気がついた。人影はないが、何者かの視線をはっきり感じる。
『浅野家の奴か?』
 自分を見張っているのだろうか?腹だたしく思った香藤は語気も荒く叫んだ。
「見ている奴、何の用だ!言いたい事があるならここに来てはっきり言ったらどうだ!」
 香藤の声に堪忍したのか、木々の間から一人の男がこっそりと出てくる。まだ若く、使用人らしき風体である。
「何者だ!何故俺を見張っているのだ!」
「……いえ見張っている訳では……」
「では何の用だ!」
 香藤はいらいらしながら尋ねた。
「あ、あの…さっき門番に岩城という名前を口にしているのを聞いて……」
「何!岩城さんの事を知っているのか!?」
 香藤は顔色を変えて男の前に走っていった。
「あ……は、はい…知っているというか……ある方をそう呼んでいるのを一度聞いたので…気になって……」
「誰が誰を岩城と呼んでいたんだ!?」
「……な、内緒にしてていただけますか?」
「分った、他言は絶対しない」
「浅野伸之様が秋月様の事を一度そう呼んでらっしゃいました」
「!」
 秋月という人物が岩城と呼ばれていた!やはり昨日会ったあの人は自分の思ったとおり岩城だったのだ!
 香藤の胸が熱くなる。
 無事だった!岩城は生きていてくれたのだ!
「では何故秋月なんて名前を?」
「はあ…実は一月程前、湖のほとりで倒れている秋月様を、私と浅野様が発見したのです」
「湖で?」
『藤波が言った岩城さんが川に飛び込んだという話は本当だったのか?』
 と香藤は思い出してぞっとする。よく生きていてくれたと感謝した。
「その時浅野様は秋月様のことを岩城さん、と呼んでいらっしゃいました。しかし、別荘に運び、手当てをした後、自分達使用人に彼の事は秋月と呼ぶようにとおっしゃったのです」
「何故だ?その訳は?」
「実は秋月様は記憶を失っていまして……」
「!なんだって!」
 香藤は男の言葉に愕然とした。
『そんなばかな!』
 岩城が記憶を失っている!?では俺の事も忘れている………?
 香藤はあまりの衝撃にしばらくぼうっとしてしまった。
「……あの………」
 男の声にやっと香藤は我に返る。
「あ……すまない……びっくりしてしまって……だけど何故別の名前を?」
「訳は知りませんが、無理に思い出させないようにと言われました。岩城と言う名前も何故黙っていなくてはならないのかずっと不思議だったのです」
「……………」
 何故浅野は岩城の名前を知りつつ黙っていたのだろう?香藤は分かる気がした。
 自分でも岩城を誰の目にも触れさせずにおきたい。閉じ込めて自分だけのものにしておきたい、という欲望にかられる事がある。浅野もその欲望に取りつかれたのではないだろうか?
 岩城を知っている人物なのだから、もしかして岩城に横恋慕していた奴かもしれない。
「では、私はこれで……見つかるとちょっと……」
「あ、すみません……ありがとうございます……」
 彼にしてみれば主人の意に背く事をする訳だから、相当勇気がいっただろうに。香藤は彼に頭を下げて感謝した。
 男が去った後、香藤は一人考えこんだ。
『岩城さんは記憶を失っているのか……だから何の知らせもよこせなかったんだ……』
 これですべての辻褄が合う。
 今まで岩城が無事をしらせてこなかったのも、昨日の岩城の態度も……
『俺を…忘れていたんだ……』
 岩城が無事だった事はこのうえなく嬉しい。だが香藤の心中は複雑だった。
 一体どこまで忘れているのだろう?何か覚えてくれている事はあるのだろうか?
 二人で過ごした月日を、思い出を忘れていると考えると、香藤はたまらなく淋しい気持ちになった。だが
『何贅沢いってるんだ!岩城さんが生きていてくれただけで十分じゃないか!これ以上望んだらばちがあたる!』
 そうだ、あの岩城が死んだかもしれないと恐怖に包まれた日を思い出してみろ!今、どれだけ幸せか!
「さて、問題はどうやって岩城さんを取り戻すかだな……」
 昨日会った素振りや今の門番の様子では、あの浅野という男が簡単に岩城を帰すとは思えない。
『とにかく岩城さんに会わなければ』
 申し入れたとしても、先程のようにすげなく断れるだろう。こうなったら……
『こうなったら長期戦だ!門前に座り込んでやる!』
 なんとしてでも岩城に会う!
 自分に喝を入れて、準備を整える為、一旦清水屋の家に戻る事にする。
 悩みがふっきれ、自分のすべき行動を決めた香藤の目は以前の輝きを取り戻していた。岩城を探していた時に巣くっていた闇が消え、晴れ晴れしい気持ちで道を駆け出した。

「香藤さん、おかえりなさいませ」
 清水屋に戻ると女将が香藤に声をかけてくれた。
「ただいま戻りました。女将、すみませんが、にぎり飯を何個か作っていただけませんか?」
『少し食料を持っていき、それでもたせよう。尽きれば絶食すればいいのだし、何日か食べなくても死にはしない』
「は?おにぎりを?どこか遠出でもなさるのですか?もしかして岩城さんの行方が!?」
 香藤は話すべきか一瞬迷うが、女将やこの清水屋の人たちは岩城の安否をずっと気にかけている。これ以上苦しめるのは酷だった。
「……ええ、居所が分かりました……でも……」
 香藤は岩城が記憶を失っている事を話した。
「そうだったのですか……でも、どうしてその浅野家の人は岩城さんに会わせてくれないのですか?」
「分かりません…私の話を信用していないのだと思います……」
 とりあえず、自分の憶測は黙っておいた。
「お武家様は頭が固い人がいらっしゃいますものね……町人の話など聞く必要はないと思っているのかしら……」
「……そうかもしれません……」
「それで香藤さんは座り込むとおっしゃるのですか?」
「はい、岩城さんに会わせてくれるまで一歩もどかないつもりです」
「でも、最近かなり寒くなってきましたよ。身体でも壊したら……」
「大丈夫です、俺は丈夫ですから、ばかは風邪ひかないっていうし。それに……」
「それに……?」
「これ以上岩城さんに会えない方が身体を壊しますよ……」
「香藤さん……」
「無茶はしませんから、心配しないでください。きっと岩城さんを連れて戻ってきます」
「……分かりました……では私もお手伝いさせていただきます」
「え………」
「食事を毎日お届けしますわ。暖かい茶や暖をとれるものも……」
「え、そんな事をしてもらっては……」
「お願いです。私も岩城さんにお会いしたいと思っているのです。会って無事な姿を見届けたいのです……」
「女将……分かりました……ありがたくお受けします!」
 こうして香藤はその夜から浅野家の別荘の門前に座りこんだのであった。

       *

「まだいるのか?」
「はい、梃子でも動きそうにありません」
 浅野は屋敷の中からいまいまし気に門を見つめた。
「絶対に入れるなよ」
「はい」
 香藤が座り込みを初めてから五日が過ぎようとしていた。その間香藤は一歩も動かず、岩城さんに会わせろ、と言い続けている。
 岩城はあの日から、無理矢理床につかせていた。浅野のした事は夢と現実が混ざって混乱しており、何があったかよく分っていない。しかし、あれから岩城は時折強烈な頭痛に襲われるようになった。その名目で大事をとって床につかせているのだが、本当は香藤が座りこんでいるのを悟られない為である。
 今、香藤に会わせれば岩城はきっと行ってしまう!
 浅野は岩城がこの手元から去っていくのが我慢ならなかった。このまま彼を自分のものにしておきたいのだ。どうしても。
 家来に命じて力づくで香藤をどかせようとしたが、香藤の腕には誰も適わず失敗してしまった。
 裏口からこっそり岩城を運びだそうかとも考えた。が、森に囲まれたこの別荘には道が一つしかなく、出る場所は違っても結局香藤の後ろにある道を通らねばならないのである。気付かれずに行くのは不可能だ。それに、裏口の方にも香藤の仲間かと思われる町人が見張っている。こちらは怒鳴ればすぐに逃げていくが、すぐまた違う人物が立つのである。浅野は知らなかったが、彼等は清水屋で働いている者達で、自ら番をかってでたのであった。
「こしゃくな奴らだ……」
 浅野は吐き捨てるように呟いた。

「香藤さん」
 清水屋の女将の声に香藤は振り返る。いつものように食事と温かいお茶を持ってきてくれたのだ。
「ありがとうございます。いつもすみません」
「どうですか様子は?」
「変わり無いですね。他の皆はどうです?無理しないようにして下さいね」
 香藤の心は穏やかだった。女将や清水屋の皆の気持ちに支えられて、いつかきっと岩城さんに会える、会ってみせるのだと自信に満ちあふれていた。
『俺の声、岩城に届いているかな?』
 なんの変化もないが、香藤は焦らなかった。
『皆のおかげだな……』
 絶望に支配されようとしていた日々を思い出して、今の充実感に感謝する。
「それがですね……香藤さん……」
「はい……?」
「皆がしびれをきらしてしまって……」
「ああ………」
 皆仕事の合間を縫って手伝ってくれているのだ。何の変化もないし、嫌になって当然である。
「今まで手伝ってくれて本当に助かりました。俺一人でも大丈夫ですから気にしないで下さい」
「いえ、そうじゃなくてですね………」
「はい?」
「もっと大勢でやろうって、町の人達に声かけたんです」
「え!」
 その時、大勢の人の気配がして香藤は立ち上がった。すると、こちらに向かって何十人もの町人が歩いてくるのが見えた。知っている顔もあるが、知らない人もいる。
 清水屋の皆の他に、近所に住む商人達、岩城に琴を習っていた生徒からその家族らが二十人以上も集まってこちらにやってくるではないか。
「皆………」
「香藤さん、私達にもお手伝いさせてください。岩城さん捕まってるんでしょ?」
「いや捕まっているっていうか……」
「私達の事を忘れてしまっているって聞きましたけど、本当ですか?そんな事あるんですか?」
「それは……」
 矢つぎ早の質問に香藤が答えを迷っていると、横にいた魚屋の助六が口を挟む。
「診療所の先生に聞いてみたけど、頭に大きな衝撃を受けたりするとあり得るらしいぜ」
「そうなんですか……岩城さん、私達の事忘れているんですか……」
 皆の首がうなだれていると
「こら、みんな何しょぼくれてるんだ!しっかりしねえか!」
 後ろから大工の棟梁が激をとばした。
「棟梁………」
「俺達はその岩城さんを助ける為にきたんだろうが!そんなんで悪人どもと戦えると思ってるのか!」
「そうですね!俺達がしっかりしないと!」
「そうだ、人さらいなんぞに負けてたまるか!」
「え?」
「香藤さん、安心しろ!悪人にさらわれたっていうあんたの恋人はきっと助け出してみせるぜ!俺達がついてるぜ!」
「え?」
「よし、みんな俺達も座り込むんだ!」
「おう!」
 棟梁を先頭にして皆は浅野家の門の前に座りこんだ。
「すみません香藤さん……うちのおとっつぁん、何回言っても分かってくれなくて……」
 棟梁の娘のおさえが香藤に小声で囁く。
 どうやら人伝いに噂が飛び交い、話がいくつかに分離してしまったらしい。ここに集まっている何人かは、人さらいが岩城をさらってこの屋敷に閉じ込めた、とでも思っているのだろう。
「いえ……」
 香藤は知らずに微笑んでいた。
「香藤さん!」
「小太郎!どうしてここに!」
 皆の中にいた小太郎が香藤の前にかけて来る。香藤は小太郎の前に屈んだ。
「話を聞いて、いてもたってもいられなくて……御主人様に話して時間をもらったんです」
「そうか……」
「岩城さん……病気なんですか?忘れてしまったって聞きましたけど……」
「……ああ……どうもそうらしい……」
「そうですか……もしかして…あの時のせいで……」
 小太郎の目に涙が浮かぶ。
「小太郎。何度も言うがお前のせいじゃない。誰にもどうにもできない事だったんだ」
「…僕…岩城さんに会いたいです……」
「…小太郎……」
「僕の事覚えてなくてもいいんです……会いたいです……」
「きっと会えるさ」
 岩城を思う者がこんなにもいる。皆、岩城にもう一度会いたいと思っているのだ。
 どこか人に対して一線を引いたところがあった岩城。人に迷惑をかけてはいけないと、いつも遠慮していた。
『でも、誰も迷惑だなんて思っていないんだよ…岩城さん……』
 皆、岩城が大好きで……
「香藤さんに会えば、岩城さん記憶が戻るんじゃないですか?」
「え………?」
「だって……岩城さんと香藤さん恋人なんでしょ?」
 小太郎の言葉に、ませた事を言う、と香藤は一本とられた気がした。
「……だと……いいんだけどな……」
 妙願寺で会った事は黙っておいた。香藤はあの時の岩城の様子を思い出してせつなくなる。
 岩城は自分と会っても思い出さなかったのだ。それが岩城のせいではないと分かっていても、心のどこかで苦々しく思っているのも事実だった。
「そうだ、棟梁呼んでみましょうか!」
「おう、助六いい思いつきだな!よし皆で名前を呼ぶんだ!一、二、三!」
 岩城の為に集まった皆の声は、冬の空に大きく響いた。

 床についていた岩城は誰かを呼ぶ大きな声に気がついた。
『なんだ?』
 起き上がり耳をすませると、それは大勢の人が「岩城さん」と呼んでいる声だった。
『岩城って……あの時男の人が私を呼んでいた名前だ……』
 妙願寺で抱き締められた時の記憶が蘇る。あの強く、熱い腕を……
『彼が来ている!?』
 岩城は急いで飛び起きた。もっと聞こえるように縁側に駆け寄る。
「岩城さん清水屋のおふみです〜聞こえてますか〜」
「小太郎です岩城さん。お願いです、会わせて下さい」
 子供の声もまじって聞こえた。それらの声はとてもせつない色を持っていて、彼等がどれだけ「岩城」に会いたがっているのかが伝わってくる。
『あ………』
 岩城は胸がいっぱいになって、両手で押さえた。
『彼等は私を呼んでいるのだ。私が『岩城』なのだ。でなければ、これ程までに嬉しい筈がない』
 こんなにも、胸が暖かくなる筈がない………
 こんなにも優しい人達の中に自分はいた……きっと幸せだった、楽しかったろう……
 目が見えなくてもとても明るい場所だった、その意味が分る……
 あの、彼のぬくもりを今も感じる……
 岩城は自分の帰るべき場所をやっと見つけたのだった。

「なんの騒ぎだ!はやく黙らせろ!」
「は、はい……」
 門の外の騒ぎに焦った浅野はすぐに家来に命じて止めさせようとしたが。
「浅野さん」
 いつのまにか後ろに立っていた岩城に声をかけられる。彼は寝間着の単ではなく、普段着を身に纏っていた。
「秋月さん……」
「浅野さん、私は行きます。今までお世話になりました。本当にありがとうございます」
「!秋月さん、何を言うんです!」
「今、屋敷の外にいる人達は私の知人達なのでしょう。私を迎えに来てくれたのです。行かなければなりません」
「秋月さん!駄目ですあなたは……」
「大丈夫です。浅野さんの助けてくれた命を無駄にするような事は決してしません」
「でも……!」
「浅野君」
 岩城の言葉に浅野ははっとした。記憶を失ってから岩城が自分を『浅野君』と呼ぶのは初めてである。
「私は行きます。彼等のところに……」
「……………」
 目の前に立っているのは、記憶を失う前の岩城と同じだった。
 凛としたまっすぐな威厳と、誇りをもった以前の彼だ。美しく強い意志をもった笑みを浮かべて立っている。その彼を止める事は誰にもできない。
「本当に今までありがとう。また改めて会いにきます」
 岩城は深く頭を下げると、門に向って歩きだした。通り過ぎた岩城を浅野は振り返り、その後ろ姿を見送る事しかできなかった。
 今、彼を無理矢理引き止めるのはたやすい。ここに力づくで閉じ込めておく事も出来る。しかし、それをすれば岩城は二度と自分に笑いかけなくなるだろう。永遠に彼の笑顔を失うだろうと気付いたのである。
「くそ……」
 浅野は悔しくて、拳を強く握りしめた。

 外では、大声で呼んでいる人達をどうしようかと、門番がおろおろしているところだった。門の勝手口が開いたので、皆は黙って見守っていると、岩城が出てくる。
「岩城さん!」
 香藤は目頭を熱くしながらその光景を見つめた。
 愛しい岩城が目の前にいる。自分の所に帰って来てくれた。
 二人の間にあった高い壁。それを岩城は自ら越えてきてくれたのだ。
『やっと……やっと……会えた……』
「良かった!岩城さん!」
 香藤と皆が一斉に岩城に駆け寄る。
「岩城さん、大丈夫ですか!怪我してませんか!」
「本当に大丈夫ですか?気分は?」
「良かった…無事で……」
 皆が声をかける中、小太郎は我慢しきれず泣き出してしまった。
 子供の泣き声を聞いて岩城はそっと膝を折って、声のする方に手を伸ばす。
 泣いている子供の顔を包み込んでやる。
「岩城さん……僕……ごめんなさい……」
「何故謝るんだ?」
「だって……」
「心配してくれてたんだね。ありがとう……」
「岩城さん……」
 小太郎は岩城の胸に飛び込み再び泣き出した。岩城はそんな小太郎の頭を優しく撫でてやる。
 その光景に、記憶を失っても、岩城はまったく変わっていないのだと、回りにいた全員が感じとった。
「お元気そうで本当に良かったです」
「まったくだ、ひどい目に合ってなかったかい?」
「いえ、そんな…この屋敷ではとても大事にされていましたから大丈夫です……でも私は……」
「岩城さん」
 香藤の声に岩城は顔をむける。彼の声だと気付いた岩城の胸は訳もなく高鳴った。
「あなたは……妙願寺にいた人ですね……」
「……そうです…香藤洋二郎といいます……」
「……私の名前は岩城なんですね……」
「ええ……岩城京乃助さんです……岩城さんの記憶がない事は知っています……これからゆっくり思いだしていけばいい……まずは帰りましょう…俺達の家に……」
「そうですね、それからゆっくり話しましょう」
 清水屋の女将がほっとした口調で話し掛ける。
「岩城さんの家は、私達の呉服問屋清水屋の離れですよ」
「ありがとう、みなさん」
「岩城さん、手をとるね」
 香藤がそっと岩城の手をとり、静かに歩き出した。岩城は暖かい香藤の手を感じて身体が熱くなるのを感じる。
『彼は一体私のなんだろう?……どうして、こんなに胸が高鳴るのだ?』
 香藤と岩城の回りを取り囲み、皆は良かった良かったと呟きながら歩き出した。
「なあ、おさえ。香藤さんの恋人って男だったのか?ちょっとびっくりだけど綺麗な人だからそれもありかな〜」
「もう〜おとっつあん、ちょっとは人の言う事聞きなさいよ。岩城さんは香藤さんの同居人なの。何度も言ったでしょ」
「え……」
 おさえの言葉は岩城に聞こえた。
「そうそう、岩城さん、この香藤さんは岩城さんといっしょに暮しているんですよ」
「そうなのですか………?」
「はい、そうです」
『同居人?想い人ではないのか?』
 岩城の隣を歩いていた小太郎が、ちらりと香藤を見るが、香藤は目配せをした。
 恋人だと誰にばれても香藤は構わないのだが、記憶の失っている岩城を混乱させたくなかったのだ。少しずつ分ってくれればいい……そう思っていたのである。
『そうだな……彼は同性だし……思い違いか……』
 そう思った時、岩城にまたあの頭痛が襲い掛かった。
「あう!」
 岩城はいきなり頭を押さえて地面に蹲った。
「!どうしたの!岩城さん!」
 驚いた香藤が岩城の身体を支える。
「あ、頭が……」
「え!痛いの!岩城さん!」
「あう!」
 そして、またしても激痛の為、岩城は気を失ってしまったのである。

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