慕 情 8

このお話は「春抱き」小説の「古都」「幽鈴」「玉響」の後という設定になっております

 大晦日の夜、清水屋では店に残った人々が集まってささやかな祝宴を開いていた。
 店は二日前から閉め、三日まで正月休みとしたので、奉行人達の多くは郷に帰っていったのである。残ったのは、清水屋の家族と身寄りのない者や帰るのをやめた者達、そして香藤と岩城であった。
 岩城が清水屋の戻ってきてから二十日あまりが過ぎていた。以前と同じように香藤と離れに住み、まったく元の生活に戻ったかのように表面上は見えた。
 この日は店の広い座敷きに全員集まり、年越し蕎麦を食べながら新しい年を迎え新年の挨拶を交わした。
 二人も皆といっしょに酒を飲んだり、つまみを食べたりして楽しくしおしゃべりをしていていたが、夜もかなり更けてきたので、二人は眠ろうと離れに帰る事にした。
「では、俺達はそろそろ離れに戻ります」
 香藤と岩城がそっと立ち上げり、女将に挨拶をする。
「あら、そうですか。では、今年もよろしくお願いいたします。おやすみなさい」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。おやすみなさい」
 香藤と岩城は頭を下げて部屋を出ていった。宴もたけなわだったので、盛り上がりに水を刺さないようにこっそりと部屋を出る。
「岩城さん、大丈夫でしょうか?」
 二人の姿が見えなくなってから、女中の一人が女将に呟いた。
「大丈夫よ、そのうち慣れて、すぐに元に戻るわ。今はまだ、私達に申し訳なさそうにしているけど……」
 岩城は生真面目な性格をしているから、思い出さない事で自分を責めていないだろうかと、女将は少し心配だった。
 店の者達には、岩城が記憶を無くした事を責めてはいけない、なにげない態度で接するようにと言い聞かせているのだが……
『でも、香藤さんがいるからきっと大丈夫ね』
 以前の香藤が来てからの岩城の変わりぶりを思い出し、女将はきっと大丈夫だろう、と確信した。

「岩城さん大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
 岩城は少し疲れた様子だったが、顔色は良かった。早く休ませてあげたいと香藤は思った。岩城に悟られないように気を配りながら離れに戻る廊下を歩く。
 浅野家の屋敷を出て岩城が頭痛に襲われ気絶した時、すぐさま近くの療養所に運ばれた。医師が診断したが原因が分らず、記憶を失っている事と関係があるかもしれないという話であった。その為、三日に一度は診療所の方に来るようにといわれ通院している。
 それ以外は以前と変わらぬ生活を続けている。岩城の記憶は戻っていないが、部屋の間取りなどは無意識に覚えているらしく、すぐに馴染んだ。琴の稽古も何人からか再開し始めている。表面上は昔に戻ったようだったが、やはり以前とは違っていた。
 岩城の回りに見えない壁があるように感じるのである。清水屋の女将も、ここに来た当初のような態度だと言った。
 その頃の岩城はどこか人をよせつけない空気があった。が、香藤が来てからじょじょにそんな空気はなくなり、皆に心を許し始めていたのだ。だが、今の岩城はまたその強固な壁を形成してしまった。淋しく思う者もいたが、いずれは前と同じようになると分っているのだから、気を落とす事はない、と言って香藤は励ました。そんな香藤の言葉もあって、皆は前と変わらない態度をなんとかとっている。
 実際、そんな皆の態度は岩城にはありがたかった。変に同情したり、気を使ったりする者がおらず、精神的に楽だった。ここでは自分が自分でいられて、とても落ち着くのである。浅野家にいた時は常にどこか回りの者に申し訳なく思う気持ちがあり、気持ちが畏縮していたが、ここではほとんどない。浅野家の外から自分を呼んでくれた皆の声を思い出すと心が暖かくなる。自分が当たり前にここに存在していたのが分る。自分の居場所が感じられる喜びは何にも勝るものだった。
「岩城さん、もう寝る?」
「そうだな。俺は寝るけれど、香藤は?」
「俺も寝るよ。じゃあ布団ひこうか?」
「ああ」
 二人は一階の岩城の寝所に並べて夜具を引いた。
 香藤の住居場所は二階なのだが、岩城の例の頭痛が気になるので側についていたいと、香藤は同じ部屋で寝ている。夜中にあの頭痛に襲われた時、誰か気付く人が必要だからだ。
 記憶の戻らない岩城にはそういう理由を言ったが、二人は恋人になってからずっとこの同じ部屋で眠っていた。しかし、岩城はそれを忘れている……
 香藤は岩城に自分達の関係の事を話していない。どうやって切り出していいか分からないという理由もあるが、香藤は迷っていたのである。
 もし、藤波の言っていたとおり、岩城が凌辱されていたとしたら……
 それが原因で発作的に自害しようとして川に飛び込んだのではないか……?
 ならば、このまま思い出さない方が岩城の為ではないか……
 そんな考えが絶えず香藤の頭に浮かぶのである。
 岩城が自分を忘れている事は辛い。だが、岩城が辛い思いをする方が香藤は何倍も苦しいのだ。
 岩城が生きて自分の側にいてくれるのなら、この友人関係でもよいのではないか。贅沢を言うな、バチが当る、と香藤は必死に自分の情熱を押し止めていた。
「じゃあ、岩城さん寝ようか?」
「ああ……」
「おやすみなさい」
「おやすみ……」
 二人は夜具に潜りこんだ。
 岩城は横で眠る香藤の気配を感じながら、やすらかな気持ちになっていた。
『不思議な男だな…香藤は……』
 この離れに帰ってきた時、覚えていない筈のこの家がたまらなく懐かしく思えた。間取りや、どこに何が置いてあるのか、身体が覚えていたのである。本当に自分の家に帰ってきたのだと実感した。自分はここに暮らしていたのだと……
 そして、いつも側には優しい人の気配があって……
『それが、香藤なのだな……』
 香藤のさりげない優しさを岩城はいつも感じていた。当たり前のように、それが自然であるかのように、常に自分の傍らに居てくれる。香藤の存在がどれ程岩城の心の支えになったかわからない。
 何も言わず、記憶がない事を責めもせず、励ましたり、さりげなく庇ったりしてくれる。
 香藤が側にいてくれると感じていたから、不安に怯えずにすんだのである。他の人達ともなんとか上手くやっていけた。
『香藤……ありがとう……本当に俺達は仲が良かったんだな……』
 清水屋のおふみらの話によると、自分達はここでとても仲良く暮らしていたそうである。岩城もここにいる時はとても穏やかな気持ちになるので納得できた。
『香藤となら、これからもきっと上手くやっていけるだろう。彼といると、とてもほっとする』
 岩城はそう思っていたが、気にかかる事がひとつあった。
 時折、香藤の熱い視線を感じる事である。
 香藤が真直ぐに自分を見つめている、それも熱く焦がすような視線で……
 その視線を感じた時、岩城はまるで狙いを定められた獲物にもなった気分で、身動き一つできなくなるのである。鼓動が早鐘を打ち、胸の奥底から甘い感覚が湧き出てきて、身体が火照る……
 居心地が悪くて落ち着かなくて、出来るだけ香藤に悟られまいとした。視線が逸らされるとほっとするが、同時に淋しい気分にも襲われる……
 香藤はどうしてそんな瞳で自分を見つめるのだろう?そして、自分はなぜこんなにも胸を高鳴らせているのだろう?
『俺は香藤をどう思っていたのだろう?』
 彼の視線の意味を知るのが、岩城は少し恐い気がした……
『とてもいい友人だった筈だ。それ以外になにがある?』
 岩城はいつも自分にそう、言い聞かせていた。

 その夜岩城は夢を見た。
 岩城は目を覚まし、上半身を夜具の上に跳ね起こした。一瞬自分がどこにいるのか分からない。胸が高鳴って、身体が熱くなっている。
『……あ…私は……』
 なんという夢を見たのだ……あの夢で…自分は……
 抱かれていたのだ、香藤に……!
 愛撫する指、熱い吐息、耳もとで囁く優しい声は間違いなく香藤だった。そして自分は彼に触れられ感じていたのだ……
『どうして、そんな夢を……』
 あれは本当に夢なのか……それとも、過去の記憶………
 岩城の身体がまた、カッと熱くなった。
『香藤が俺の恋人……?朧げに感じていたあの大切な人なのか……?』
「岩城さん、どうしたの?」
 横で眠っていると思っていた香藤にいきなり声をかけられて、岩城は心臓が飛びあがるぐらいに驚いた。
「え……あ、な、なんでもない……」
「?」
 岩城の慌てた態度を香藤は不思議に思う。岩城の頬が真っ赤になっているのが、闇の中でも分かった。香藤は布団からでると、ゆっくりと岩城に近付いた。
「どうしたの?何か嫌な夢でもみたの?」
 岩城の頬がまた更に赤くなる。
「もしかして!何か思い出したの!?」
 香藤は思わず岩城の肩を掴んでしまった。
「……あ………」
 岩城は静かに首を横に振る。
「……そう…か……」
 香藤はがっくりと肩を落とした。
「……香藤……」
「何?」
「……俺達は……その……どんな風にここでいっしょに暮らしていたんだ?」
「どんなって……」
 今度は香藤の鼓動が跳ね上がる番だった。
『岩城さん……もしかして……何か感じた……?』
 香藤は考えてしまった。
『どうしよう……今、ここで俺達の事を話すべきなんだろうか?でも、不安にさせるかもしれないな……すぐに信じてもらえなかったら……』
 そんな事をぐだぐだと香藤が考えていると、黙って座っていた岩城の瞳から、大粒の涙が溢れだした。
「岩城さん!?どうしたの、どこか痛いの?また、頭痛?」
 慌てた香藤だが、岩城はまた首を横に振る。
「……すまない……香藤……」
「…え………」
「……思い…出せなくて……」
「岩城さん……」
「なんで…思いだせないんだろう……こんなに……思い出したいのに……」
「……………」
「香藤……お前が俺にとってどういう人だったのか、思い出したいんだ……なのに……」
 どうして思い出せないんだ!毎日思いだそうとしているのに……!
 岩城は苦しかった。皆の暖かい気持ちに囲まれて、自分は本当に幸せだったのだと分かる。その皆の気持ちに応えたいといつも思ってなんとか思い出そうと記憶の底を探るのだが、そこはいつも深い霧が立ち込めていて何も読みとれないままであった。
 誰かいた大切な人……
 自分にとって光りのような存在だった人は誰なのか……
 その人は香藤なのか、思いだして確かめたいのに……
 自分がくやしくて、腑甲斐無くて、岩城の瞳から涙が溢れたのだった。
 そんな岩城の姿を見て、香藤は手をのばした。そして、岩城の手をそっと優しく握りしめた。
「香藤……?」
「いいんだよ……岩城さん……」
「え………」
「思い出さなくてもいいんだ……」
 岩城は香藤の言葉に驚いた。
「で、でも………」
「思い出せない事で苦しんで欲しく無い……そりゃ自分の記憶がないのは悲しいだろうけど、その事で自分を責めないで……記憶があろうとなかろうと、皆岩城さんが大好きなんだ。だからみんな迎えに行ったんだよ」
「……………」
「ちょうど今日から新しい年が始まるんだから、今、この時から始めようよ。新しい思い出をいっしょに作っていこう」
「…香藤……」
 もう、いい……。と香藤は思った。岩城が苦しむのなら、今迄の思い出などいらない。自分が大切に胸にしまっておけばいいのだ。そして、また岩城と暮らして新しい思い出を作って、岩城に告白するのだ。
「じゃあ、自己紹介からしようか」
「え……?」
「俺は香藤洋二郎といい、貧乏旗本の次男です。道場で師範代を努めています。性格は明るく、物事を深く考えないほうだと言われます。ちょっと慌てん坊でおっちょこちょいな所もあるけど、気をつけようと思っています。今はこの清水屋の離れに岩城さんと暮らしていて………」
「香藤……」
「……岩城さんが好きで、好きで、大好きです……」
「……かと……」
 岩城は顔を更に真っ赤にして俯いてしまった。そんな岩城が香藤は愛しくてならなかった。
『そうだ……また…岩城さんの恋人になれるように頑張ればいいだ……岩城さんに対する想いはまったく変わらないのだから、正直にぶつかっていくだけだ……』
「じゃあ、次は岩城さんだよ。俺に紹介してくれる?」
「え……」
「分かっている事や、言いたい事でいいから」
 分かっている事?
 岩城は考えながら喋りだした。
「…あ……俺は岩城京乃介……目が見えないけど、琴の教えていて……この清水屋の離れに住んでいて……もうすぐ二年近くなるらしくて……」
「それから?」
「稽古に行く時は迎えが来てくれる……皆、いい人達ばかりで……とても楽しくて……」
 岩城は記憶を失ってから、こんなにも感じている事があったのだと改めて気が付いた。失った記憶にばかり気を取られていて分からなかった。
「それから?」
 それから……?
「……俺は香藤が……」
 いつも香藤が側にいてくれた。いつも自分を支えてくれていた。香藤の存在を感じていたから、自分はここにいられたのだ。光があったから……
「……大好きで……」
「…岩城さん……」
 香藤が驚きの表情を浮かべていると、岩城が手をのばして、香藤の顔に指で触れる。確かめながら指でなぞり、唇の位置を確かめるとそっと自分のそれを重ねた。それは岩城が記憶を失う前と同じ仕種だった。
 香藤が岩城が思い出したのかと錯覚してしまう程、自然な動作だった。まるで時が戻ったかのように感じる。
「…香藤……俺はお前との思い出を覚えていないけど……想いは……香藤への想いだけは……感じる……」
「…岩城さん……」
「……俺達は……恋人だったんだろ……」
 でなければ、いっしょにいてこんなにも心が満たされる訳がない。
「……香藤……お前を愛しいと想う……」
 香藤なのだ、かけがいのない人は……自分にとって大切な人だったのは……以前も今も……
 ここで香藤と暮していて、岩城ははっきりと確信した。
 香藤は込み上げてくる歓喜を止められずに、岩城を強く抱き締めて布団に押し倒してしまう。
「……岩城さん……岩城さん……」
 香藤は苦しそうに岩城の名前を囁く。泣いているような声だった。
「…香藤すまない……お前を苦しめて……」
 岩城の肩に埋めていた香藤が頭を横に振る。
「……いいんだ……いいんだよ……」
 最後に手を差し伸べてくれたのは岩城だった。自分が最後にとまどっていた場所に岩城は自ら入ってきてくれた。自分のところに帰ってきてくれた……
「岩城さん……」
 香藤は顔を上げ、岩城の顔を覗き込んだ。髪をかきあげると岩城の瞳がゆっくりと開く。
 濡れた、たくさんの星をまとったかのような美しい瞳は以前と変わらず美しかった。愛しく想う気持ちが溢れ出て、香藤は岩城に口付けた。
「……ん………」
 岩城はくぐもった声をもらす。唇を離すと大きく息をするが、香藤はまた激しく唇を吸ってしまった。
「…うん……あ……!」
 香藤が軽く項を噛んだので、岩城は甘い声をあげた。
「……香藤……」
「……岩城さん……いや?…いやなら止めるよ……」
「……いや…じゃ……ない……」
 香藤を全身で感じたい。あの夢のように……
 二人はもう一度熱い口付けを交わす。
 香藤がゆっくりと岩城の浴衣の帯を解いた。

「岩城さん……寒くない……?」
「……ああ……全然……身体が燃えるかと思った……」
「岩城さん……」
 香藤は腕の中にいる岩城を強く引き寄せる。二人は産まれたままの姿で夜具の中で抱き合っていた。ひとつになった後の心地よい余韻を感じながら……
 岩城は香藤の腕の中に包まれてとても幸せな気持ちだった。
 愛しいと想う人から想われる。必要とされる事がこんなにも幸福な事なのだ。こんなにも自分を強くしてくれるのだ。他には何もいらない程、幸せだった。
「……香藤……雪が降っているのか……?」
「ん……?」
 香藤は夜具から手を出して、縁側の障子を少し開けて外を見た。
「本当だ……雪が降っているよ……なんで分ったの?」
「雪が降る時は音が違うんだ」
「音が?」
「……雪が降ると、辺りの空気がまるで音のない音楽を奏でているように感じるんだ……」
「そうなの……」
「……ん……」
 香藤が離れたので少し寒くなったのか、岩城の身体が少し震える。香藤は障子を閉めると、夜具に潜り込んで岩城を抱き締めた。
「……岩城さん……愛してる……」
「……俺も………」
 二人は抱き合い、音のない音楽を聞きながら眠りに落ちた。

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 正月休みも終わり、慌ただしい日常が戻ってきた。清水屋も店を開店し、香藤も道場での稽古が始まった。道場へ行く前、香藤は岩城といっしょに診療所に出かけた。三日に一度は診察に来るようにと言われたが、今回は正月休みがあったので、七日程開いてしまった。ちょっと心配だった香藤はどうしても付いてきたかったのである。「早く道場に行け」という岩城の声を無視して付き添った。岩城はしぶしぶ帰りは診療所の人か、誰かに頼むから、という条件でなんとか許してくれた。
 診療所につくと、いつもの看護士と医師が迎えてくれた。
 清水屋に戻ってきてから岩城は一度もあの頭痛を起こしていない。しかし、原因が分らないので心配である。
「やあ、岩城さん具合はどうですか?おや、香藤さんも今日はいっしょですか?」
「はい、心配だったので」
「変わりはありません。あれから頭痛は一度も起きていません」
「そうですか。なら、あまり心配する事はないかもしれませんな。そうだ、この診療所に新しい看護人が入ったので紹介しておきましょう。浅野君、来てくれ」
「え!?」
 医師の言葉に香藤は耳を疑った。入ってきた人物は思ったとおり浅野伸之であった。
「あ、浅野!?な、なんでお前がここに!?」
「香藤さんとお知り合いかね?」
「ええ、岩城さんともです」
 浅野の声に岩城も気付いた。
「浅野君なのかい?」
「はい、岩城さんお久し振りです。また会えて嬉しいですよ」
「どうして?!」
 香藤が目をくりくりさせながら叫ぶと
「医師の勉強がしたいと言ってきてね、今年からここで弟子として働いてもらう事になったのだよ」
 と、医師が説明してくれた。
「はあ〜?弟子〜?」
「実は医学に興味があって勉強はしていたのですが、本当になるべきかどうか悩んでいたんです。でも決心しました。それでこの診療所で勉強させてもらおうと弟子にしていただいたのです」
「他のとこだっていいだろう!」
 香藤が浅野を睨みながら言い放つ。
「香藤、何失礼な事言ってるんだ」
「だって岩城さん……!」
「香藤……浅野君がお前を俺を会わせなかったのは、俺の事を心配するあまりだったんだ。根にもつのはやめてくれ」
「でも……」
「頼む…香藤……」
「……………」
 岩城はそう言うが、香藤はあの時の浅野の態度はそれだけが理由ではないと思っている。おそらく、浅野は岩城をひとりじめしておきたかったのだ。自分でさえ岩城を誰の目にも触れさせたくないと思う時があるのだから、あの状況で浅野が思わない筈がない。
 しかし、浅野を恩人として感謝している岩城に、それは言えなかった。
「浅野君。俺もまた会えて嬉しいよ……なかなかお礼に伺えずに悪かったね」
「いいえ、お元気な様子なので安心しましたよ。これからはちょくちょく会えますね。あ、帰りは送らせてくださいな。道すがらいろいろとお話聞かせて下さい」
『なんだと〜!?』
 香藤は頭に血が登りそうだった。
「いいのですか?」
「ああ、構わないよ。患者さんの送迎も大事な仕事だ。じゃあ浅野君頼むよ」
「はい」
「香藤、帰りは浅野君が送ってくれるそうだから早く道場に行け」
「いいよ、ちょっとぐらい遅れたって!」
「何言ってる、今日は初出だろ。師範代が遅れてどうする!」
「岩城さんの方が心配だよ」
「な!」
 こんな人のいるところで恥ずかしくなった岩城は顔を真っ赤にした。
「早く行け!もう絶対お前に付き添ってもらわないからな!」
「そんな岩城さん〜」
 香藤の受難はまだまだ続きそうである。

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