竹林の郷 7

 岩城は振り上げられた小柄を必死に避けた。しかし、狭い室内で避けるには限界があり、何ケ所か腕を傷つけられてしまう。
「じたばたするんじゃない!」
 松江が隅に追いつめた岩城に、小柄を降り下ろそうとした時
「お母さま!」
 義男が驚いた表情で立っていた。手には絵本が握られていて、おそらく、岩城に読んでもらおうと思って来たのだろう。
「お母さま、岩城さんに何をしているの!やめて!」
「お前には関係ないよ!あっちに行ってなさい!」
「だって、どうして、そんな物持っているの?岩城さん怪我してるよ?」
「あっちに行ってなさい!」
「いやだ!」
 義男は部屋に飛び込み、岩城の胸に抱き着いた。
「岩城さんいじめちゃ駄目!」
「義男君……」
「義男、お前は何も分ってないんだよ!そこを退きなさい!」
「いや!」
「こいつが死ななければ、私達は屋敷を一文無しで追い出され、路頭に迷うはめになるんだよ!」
「え?」
 岩城は松江の言っている事が理解できなかった。
「遺言状にはすべての財産をこいつに譲ると書いてあるんだ!そうなれば、こいつは私達を追い出すに決まっている!」
「な、何を言ってるのです……どうして私に財産が……」
 松江は大声で笑った。
「お前は寅男の子供なんだよ!寅男が奥様を襲って出来た不義の子なのさ!」
「な………」
「奥様はそれは美しい方で、寅男は奉公している間から想っていたんだよ。だから、お前を引き取り、あんなにも可愛がったのさ!唯一愛する女性の産んだ子供だからね!私達親子の事などお前に比べたら、毛ほどの愛情も抱いていなかったんだ!」
「……そんな……」
「さあ、義男、そこをどきなさい!私の今までの苦労を水の泡にする気かい!」
「今までの……?」
 岩城は小声で呟いた。
「そうだよ!どっかの大学の教授も忠男も殺したのは私だよ!」
「な、何故……!?」
 あまりの驚きで岩城の思考が停止する。
「財産を手に入れる為さ!その為なら誰だって何人でも殺してやる!」
「松江さん……」
 松江の姿はますます、恐ろしい鬼女に見えた。
「嘘でしょお母さま?お母さまそんな悪い事しないよね……」
 義男が涙を流しながら松江に尋ねた。母親の顔を見ながら、今度は彼女の足元に縋りつく。
「義男…お前の為なんだよ……」
 そう言い松江は義男を振払って、呆然とする岩城に小柄を向ける。
「やめろ!」
 香藤の声が聞こえた、と思った途端松江の体が畳に倒れた。香藤が後ろから飛びかかり、なぎ倒したのである。その上から、警官と駐在がのしかかった。
「野崎松江!殺人容疑で逮捕する!」
 松江の手首に手錠がかけられ、松江は一気に脱力した。
「岩城さん、大丈夫!?」
「香藤……!」
 岩城は自分から香藤の胸に飛び込んだ。
「岩城さん……」
 香藤は少し驚いたが、その背中をゆっくりと撫でてやる。岩城は命を狙われた事より、今聞かされた事実の方が苦しかった。受けた衝撃があまりに強すぎて、受けとめきれない。何が本当なのか、今まで信じてきた事が足元から崩れ始めている。胸が苦しい……
 今の岩城には、香藤の体温が、撫でてくれる彼の手のぬくもりだけが、信じられるすべてのような気がした。

      *

 松江の自白により、真相があきらかとなった。ほぼ、香藤の推理どおりで、駐在さんは感心していた。この時点で香藤はやっと自分は探偵なのだと、打ち明ける事ができたのであった。
 村人達も事件の真相を知って、初めは動揺していたが、緊張感から解放されて、ほっとした様子であった。
 心配なのは岩城である。事件の真相を知る事は、自分の生い立ちを知る事になるからだ。
『ショックだったろうな……』
 香藤は心配で堪らず、事件の後始末が終わると、すぐに野崎家に顔をだした。岩城はあの後、泣きじゃくる義男を連れてこちらに帰ってきていたのである。
 遺言状は公開され、松江に言うとおり、すべての財産は岩城にゆずると書いてあった。岩城は、これを放棄し、半分を野崎家に、半分を村に寄付したのであった。これで、学校は立派な校舎を建て替えできるし、何人も教師を呼ぶ事ができるだろう。
 訪ねていくと岩城はすぐに出て来て、香藤といっしょに近くの竹林を歩きながら話をした。
「街で警察からいろいろ聞かれて大変だったんじゃないのか?」
「うん、まあね。でも、警察に明智先生を知ってる人がいたから、信頼はしてくれたよ」
「……そうか……」
 香藤の目には岩城は少し淋しそうに見えた。
「松江さんは…どうなる……?」
「……まだ、なんとも……裁判が開かれるだろうけど、馬場弁護士は敏腕だって話だから、死刑は免れると思うよ」
「では、何に?」
「多分、終身刑かな……」
「…………」
「でも、模範囚なら15年ぐらいで出所できる可能性があるから……」
「……そうか……」
「岩城さん……」
「…ん……?」
「大丈夫?」
「……ああ……香藤……ありがとう……」
「何?あらたまって……」
 香藤はその言葉にドキリとした。
「俺が生きていられるのは、お前のおかげだ……ありがとう……」
「そんな……たいした事してないよ……」
「いや、お前は俺を何度も助けてくれた……そしてどれだけ俺を支えてくれたか……本当に感謝している……」

 自分が父の子ではなく、不義の子だと知った後、もう一度両親の事を思いかえしてみた。だが、何度考えても両親の愛情は本物だった。本当に自分を愛してくれていた。父が散財したのは、自分の為である。村人に良くしておけば、生け贄に差し出す事を思い留まってくれるだろうと……
 自分は両親の愛情を信じる事ができた。そして、その勇気をくれたのは香藤なのだ。
「岩城さん……」
 香藤はやめてくれ、と思った。そんな最後のような言葉は聞きたくない。しかし、現に別れはすぐそこに迫ってきている。香藤は明日、東京に帰らなければならないのだ。しかし、岩城と別れるのは堪えられなかった。だから…
「……岩城さん…俺は…あなたが好きだ……」
「…………」
「…離れたくないんだ……」
「……香藤……」
「俺…明日、東京に帰らなきゃいけないんだ……」
「…え………」
 岩城は心が黒く染まるのを感じる。
「…もし、岩城さんが俺を少しでも、想ってくれているなら……いっしょに来て欲しい……」
「……な………」
「俺と東京に来て欲しいんだ……」
「…香藤…お…俺は……」
「返事は今すぐでなくていいから、一晩考えてみてくれる?明日、10時のバスに乗ってこの村を出る。街の矢端駅で11時半の列車に乗るから、それまでに返事をしてくれる?」
「…………」
 香藤は歩を止め、岩城の真正面に立つ。岩城の手をそっと手にとり
「本当に好きだよ……」
「香藤……」
「岩城さんとこれからずっといっしょにいたい……なんの力もない財力もない俺だけど、岩城さんに淋しい思いさせたりしない。辛い時も、泣きたい時も、楽しい時も、いつもいっしょにいて、分ち合いたい……」
 香藤に握られた手が燃えるように熱い、と岩城は思っていた。まっすぐに自分をみつめる瞳も……
「…じゃあ…待ってるから……」
 そう言って香藤は去っていった。岩城はしばらく竹林の中で考えていた。
 頭の中が熱くて破裂しそうだ。
 今の香藤の言葉は、まるで求婚のようだった。しかし、心の底から嬉しいと感じている自分がいる。
『俺も…香藤を……』
 いっしょに行く事ができたなら、どんなにいいだろう。香藤と会ってから、自分の世界は180度変わってしまった。あの闇に覆われていた、この竹林でさえも、今の岩城の瞳には木漏れ日が溢れて眩しく見えるのだ。
 もう、闇の中から自分を呼ぶ声はしない筈なのに……
 なぜだろう、岩城の心にはまだ黒い影が残っていた。

 その夜、香藤は民宿で布団に入っていた。
 時刻は真夜中、布団には入ったが、目が冴えて眠れず、何度も寝返りをうつ。
「あ〜駄目だ」
 眠れない……
 岩城は自分についてきてくれるだろうか?香藤は不安をもてあまし、気分を落ち着かせようと、窓から外を見ようとした。そして、月明かりの中、民宿の前に佇む人影に気付く。
「岩城さん!?」
 岩城が寒い中、一人で外に立っていたのである。香藤は急いで外に飛び出した。
「岩城さん!」
 岩城が香藤に気付き、体をビクリと震わせる。
「どうしたの?こんな時間に?風邪でもひいたらどうするの?」
「あ………」
 岩城の香藤を見る視線はどこか悲し気であった。見ると、岩城は何も羽織らず、単姿である。
「とにかく部屋に行こう……」
 香藤は岩城を部屋に連れていこうと、肩に手をかけたが、その冷たさから、岩城が長い間ここに佇んでいた事が分った。
「どうぞ」
 香藤は熱いお茶を差し出した。
「ありがとう……」
「春になったけど、まだ夜は寒いから、そんな格好で外にいちゃ駄目だよ」
「……香藤…俺……」
「……何……?」
「…俺……行けない……」
「…………」
「義男君を置いて、行けないんだ……お前と……」
「…そう…か……」
 外で岩城の悲しそうな瞳を見た時、香藤は彼の答えを察していた。胸がつぶれそうな痛みを感じる。
「…すまない……香藤……」
「いいんだ、気にしないで……」
 つとめて明るく言おうとした香藤の目に、涙を流す岩城の姿が映った。
「ど、どうしたの?岩城さん?」
「俺…本当は……」
「ん……」
「……香藤と…行きたい……」
「え……?」
「…香藤……お前が…好きだから……」
「岩城さん……」
 香藤は信じられない気持ちで岩城の顔を見つめていた。濡れたその黒い瞳はまっすぐに自分を見つめている。とても美しく、澱みのない瞳だ。
 香藤は我慢出来なくなって岩城の体を抱き締めた。岩城も手を香藤の背中に回す。
 とても冷たい彼の身体。見た目よりも細い腰。このまま押し倒して、この身体に熱を与えてやりたい衝動が突き上げてくるが、香藤は必死に押さえた。
 このまま連れ去っていけたら……
 香藤は自分の理性をひきづりだして、背中に回していた手を岩城の肩に移した。
「……送っていくよ……」
「…………」
 岩城は香藤の胸に顔をうずめ、軽く頭を振った。
「……岩城さん……?」
「……ない……」
「え………?」
「……帰らない……」
「…な、に……?」
「……帰らない…つもりで来たんだ……」
「……岩城…さ…ん……」
 言葉を失った香藤の顔を、頭をあげた岩城が見つめる。頬が朱色に染まっていた。
「岩城さん…俺、前みたいに何もしないでいるなんて…無理だよ……」
 明日には離れてしまうと分っているのに、別れが迫ってきているのに、想いを押さえるなど出来るわけがない。
「……分ってる……だから…来たんだ……」
 岩城の頬がまた更に赤くなり、恥ずかしいのだろう、俯いてしまう。
 香藤はそんな岩城の頬を両手で包み込んだ。岩城の瞳にはこのうえなく優しい微笑みを浮かべた香藤が映った。
 俺も…本当に…香藤が好きだ……
 二人はお互いに顔を近付け、熱い口付けを交わしたのだった。
 香藤は岩城の身体を、そっと布団の上に押し倒した。優しく髪をかきあげ、また口付ける。
「…ん……」
  着物の襟に手を差し入れ、肩からはずす。胸元を大きく開けると、岩城の白い肌が月明かりの中、真珠のように浮かび上がって見える。香藤はその美しさに息をのみながら、唇を落として触れた。
「……あ……!」
 岩城の身体がビクリと跳ね、緊張しているのだろう、身体が強張っていた。顔を覗き込むと、怯えたような表情をしている。
「岩城さん…大丈夫だから…怖がらないで……」
「……香藤……」
 香藤も余裕があるわけではなかった。岩城の美しい身体を目の前にして、理性が弾け飛びそうになるのを必死に押さえていた。しかし、岩城の怯えた顔を見て、心が凪いでいくのを感じていた。この愛しくてたまらないこの人に優しくしたい……
 とても大切な人だから、傷ひとつつけたくないと思った……
「…あ…あ……か、香藤……」
 香藤の唇が、指が、肌に触れる度、岩城の身体に電流のような快感が走った。香藤はとても優しくて、冷たかった岩城の身体は徐々に熱くなっていく。
 自分の身体がこんな風になるなんて、信じられなかった。熱く濡れて、もっと欲しいと香藤を求めている。もう怖くはなかった。自分に触れているのは香藤なのだ、自分が愛し、愛してくれる人なのだ。そう思ったら、とても神聖な気持ちになれた。他の誰でもない、彼なのだから……
 香藤が少し身を起こし、自分の服を脱ぎ捨てると、逞しい身体が現れる。岩城は思わず目を逸らした。この身体とひとつになるのだと思ったら、恥ずかしくてたまらなくなったのである。
「岩城さん……いい……」
 岩城は微かに頷いた。同時に香藤が自分の内に入ってくる。
「ああ……!」
 あまりの衝撃に背中がしなる。
「岩城さん…力…抜いて……」
「…か、香藤……」
 岩城は目を閉じ、香藤の背中に縋り付いた。
 ゆっくりと自分の内に入ってくる香藤を感じる。深く、深く、自分を貫いていく……
 香藤と一つになって揺れると、岩城は泣きたくなる程の幸福感を感じた。
 愛する人と身体を重ねる事が、こんなにも幸せだなんて、知らなかった。もっと、もっと彼を感じたいと思った。離れていても、さめる事のない熱を与えて欲しかった。
「……あ…あ…香藤……」
「岩城さん……愛してる……」
 二人は熱い口付けを交わし、激しく身体を揺さぶらせた。夜が明けるまで、二人は何度も、身を繋げたのだった。

       *

 夜が明けた。
 布団の中で抱き合って眠っていた岩城は目を覚ました。そして、香藤がじっと自分を見つめていた事に気が付く。昨夜の情事が恥ずかしくて、岩城は顔を香藤の胸に埋めて隠した。
 香藤は、そんな岩城が愛しくて、強く抱き締めた。
 離れたくない。
 二人互いの体温を感じながらそう思っていた。
 しかし、岩城はそっと布団から出ると、身支度を整え始めた。そして、小さな震える声で帰る、と言った。
 香藤も着物を身に付け、岩城を送っていこうとしたが、岩城はそれを断った。
「……ここで……いいから……」
 これ以上香藤といればきっと決心がにぶってしまう。そう思い、岩城は引き裂かれそうな心を押さえてやっと言った言葉だった。
「……岩城さん……俺……必ず迎えに来るから……」
「香藤……」
「絶対に迎えにくるから、待っててくれる?」
「香藤……!」
 岩城は香藤の胸に飛び込み、二人は激しい口付けを交わした。

 岩城は民宿を出ると、ゆっくりと野崎家に向って歩いた。無意識にあの竹林へと足が向かう。今のこんな気持ちのままで、あの家に帰りたく無かったのである。
 一人になれる場所を探して、あの竹林に辿り着くと、岩城の目は驚きで見開かれた。
「華が……」
 あの竹林が華をつけていたのである。白い小さな華があちこちに咲き誇り、竹の蒼にたくさんの光がこぼれているようだった。
「……なんて……」
 美しいのだろう。
 岩城はこんな穏やかな気持ちで竹の華を見る事ができるなんて……と、思った。
 竹は人の血を欲したりはしない
 香藤の言葉は真実だと岩城は確信した。
 こんな美しいものが、神々しいものが、人の血を求める訳がない。人の血を求めるのは人だけだ……人の暗い欲望だけ……
『本当だな…香藤……』
 その時、岩城は供えられた花に気が付いた。それは香藤が昨日、先生に供えた物だった。
 しゃがみこんで、その花を見つめていると、岩城の瞳から涙がこぼれた。
 本当にこれでいいのか?
 香藤と離れてもいいのか?
 自分はただ怖がっているだけなのではないか?新しい世界に飛び立つ事を、傷つく事を恐れているだけではないのか?義男君にかこつけて、安心なこの場所に留まろうとしているだけではないだろうか?香藤がくれた勇気を俺は無駄にしようとしているのか……
 香藤と離れたくない……!
 身体にまだ彼の香りがのこっている。
 いつか消えてしまうのだろうか?堪えていけるのか?
 岩城は長い間そこから動く事が出来なかった。

 どれ程たっただろうか、突然名前を呼ばれて、岩城は驚いて顔をあげた。
「岩城さん、どうしたの?こんな所に?」
「義男君……」
 義男がきょとん、とした顔で岩城を見下ろしていた。
「…あ……ああ。なんでもない……」
 岩城は泣き顔を隠しながら立ち上がる。
「さっきね、久子さんといっしょにあの探偵さん見送ってきたの。バスに乗っていっちゃったよ」
「……そう…か……」
 痛い……
 心が悲鳴をあげている……
「岩城さん、あの人のとこに行かなくていいの?」
「え!?」
 義男の思い掛けない言葉に岩城は驚いた。
「探偵さんね、岩城さんが見送りに来ないって言ったら泣きそうな顔してたよ?岩城さんに来て欲しかったみたいだよ。なんか淋しそうだったけど」
「……そ…れは……」
「あの人岩城さんを助けてくれたでしょ。今度は岩城さんが助けてあげなきゃ」
「え………」
「僕ね、考えたんだ。お母さまずーと僕を守ってきてくれたから、きっと疲れちゃったと思うんだ。だから今度は僕がお母さまを守ってあげるの」
「……義男君……」
「あの人きっと岩城さんにいっしょにいて欲しいんだよ。僕、そう分った。だって僕もそう思ってたもん」
「…………」
「でも僕強くならないと駄目なんだ、男の子だから。お母さま守る為に強くなるの。だから、岩城さんはあの人助けてあげて」
「…義男君…でも……」
「僕なら大丈夫だよ。皆がいるし、それに岩城さんと僕は家族なんでしょ」
 岩城はハッと顔をあげた。
「家族だから、大丈夫だよ。ほら、なんだっけ〜え〜と、絆だったけ?あれがあるから離れててもきっと大丈夫だよ」
 義男はにこにこしながら、話をしている。彼がこんなに逞しくなっているなんて、今まで気付かなかった。
「……義男君に…教えられちゃったな……」
 そうだ、自分にはこんなかわいい、素晴らしい弟がいたのだ。彼なら大丈夫だ。今まで、彼に思いやりをもって接していたつもりだったけど、信頼していなかったのかもしれない。
「俺は…行ってもいいのかな……?」
「うん、岩城さんが行きたい所に行っていいんだよ。僕なら大丈夫だから」
「……ありがとう…義男君……」
 岩城は、走りだした。その背中に義男が声をかける。
「いってらっしゃい、岩城さん」
 岩城は振り返り、今までみた事もない明るい笑顔で返事をした。
「いってきます……」
 岩城は分った。自分の心の中にあった黒い影の正体が。
 それはもう一人の自分だったのだ。
 ここを離れる事を恐れている自分、新しい場所に行く事に不安を感じ、殻に閉じこもろうとしていた自分だったのだ。
 だけど、岩城は自分の意志で、その弱い自分を断ち切ったのだった。

『本当にこれでいいのだろうか?』
 香藤は列車の最後尾のデッキに立ち、思いを巡らせていた。
『岩城と離れて、後悔しないか?いや、後悔ならもうとっくにしている!離れたくない!無理矢理にでもさらってくるべきではなかったか?でも、残りたいと言っている以上……』
 いくら、考えても応えはでない。
 そして、発車をつげる汽笛がホームに鳴り響き、汽車がゆっくりと進みだした。
 岩城がこの地を離れられないというのなら、自分が残ればいいのではないのか……!?
『そうだ、俺はやっぱり、岩城さんと離れたくない!』
 香藤がそう思って顔をあげた時、ホームに走り込んできた人影が目に入る。
「…!岩城さん……!?」
「香藤……!」
 ホームを見渡していた岩城が香藤に気付き、走りだした。あまりに信じられない光景で、香藤は一瞬夢かと思うが、すぐに我にかえる。
「岩城さん!どうして!」
「香藤!」
 走りだした汽車に追い付こうと、岩城は必死に走った。香藤はそんな岩城に手をのばす。
「岩城さん!掴まって!」
 岩城も手を伸ばすが、汽車のスピードは徐々にあがり、ホームが残り少なくなってゆく。
 ホームがとぎれる寸前で二人の手は繋がり、岩城は力一杯ホームを足で蹴った。
 香藤は掴んだ手を思いきり引き寄せ、二人はそのままデッキに倒れこんでしまった。
「岩城さん!どうして……」
 香藤は胸に飛び込んできた岩城が夢でない事を祈りながら顔を見た。確かに、自分の愛する人だった。
「香藤!俺は、やっぱりお前とずっといっしょにいたい!離れたくないんだ!」
「岩城さん……」
「連れていってくれ……お前といっしょなら、どこへでも行けるから……」
「岩城さん!」
 二人はお互いの存在を確かめるように強く、強く抱きしめ合った。
 香藤は先程、自分の胸に飛び込んできた岩城の背中に、翼が生えているように見えた。大きく、強く、白い翼が……
 今まで広げる事の出来なかった美しいそれが、やっと広がったのだ。彼はその翼できっとどこにでも飛んでいけるのだろう。そして、俺はずっとその横を飛び続けるのだろう。
 二人は身体を少し離して、見つめあった。何も言葉を交わさなくても、お互い分っていた。きっと二人でなら、どこへでも、どんな大きな世界にだって羽ばたいていけるのだと。
 そして二人は自然に顔を近付け口付けを交わした。それは、これからの生涯を共にすると言う誓いの口付けだった。
 二人は、もう一度、優しく抱き締めあった。香藤の胸に顔を埋めた岩城は離れゆく故郷に思いを馳せる。
 小さな頃に怯えていた、あの闇が広がる竹林ではなく、香藤の教えてくれたあの光りに溢れる竹林だった。
 この美しい竹林の郷の映像は、心の一番大切な場所にしまっておこう。
 いつか帰る、その日まで……

            戻る      トップへ