小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………2

 そして、六年後―――

 近江家所有の朱雀能楽堂の稽古場で果月は汗を流していた。
 この能楽堂は月華流専用の能舞台があり、素人の教室が開かれている
場所である。近江家の演能会の多くはここで開催され、上階は内弟子の
住居にもなっている。
「ありがとうございました」
「はい、お疲れさま」
 稽古が終わり、師匠である須藤に拝礼を済ませると果月は立ち上がっ
て更衣室に向かった。
 霜月の頃、廊下を歩いていると火照った身体に冷たい風があたって心
地良いが、べとつく汗を早く拭いたいと果月は急いだ。
 戸を開けるとすでに着替えを済ませた三人の若い能役者が雑談をして
いた。
 部屋にいたのは須藤氏の息子である武と登兄弟。そして最近通い始め
たお弟子が一人。皆、果月と近い歳頃の青年である。
「新年会の演目、何にするんだろ?」
「この次期になんの噂も入ってこないとは珍しいな。何か特別な演目で
もする気かな?」
「おう、果月終わったのか」
「ああ………」
「新年会の演目で玄雄先生からなんか聞いてないか?」
「いや、何も」
「ふ〜ん。ま、そのうち分るか。あ、果月、これ読んだか?」
「ん?」
 武が一冊の雑誌を持ち出してきた。
「なんだそれ?」
「日本の伝統芸能を取り扱っている雑誌なんだけどさ、小鳥遊さんのイ
ンタビューが載ってるぜ。読むか?」
「ああ、ありがとう」
 むふふ、と含み笑いを浮かべる武を不信に思いつつ、差し出された雑
誌を受け取る。目次を見ると確かに
 対談――――能面師 小鳥遊 友弘
 と書いてあった。
 ページ数を確認してそこを広げると、果月はざっと目を通した。
 最初は普通に能面師としての苦労や素晴らしさなど話していたが、聞き
手が果月の事に話題をふると、その話一色になった。
『そういえば、息子さんは最近注目されている能楽師の小鳥遊 果月さん
なんですね』
『はい、そうです』
『小鳥遊さんの家業をお継ぎにはならないのですか?果月さん自ら能楽師
になりたいとおっしゃったんですか?』
『妻が能楽師の家の出なんです。それで小さい頃から稽古をつけてもらっ
てました』
『能面のお仕事は継がれないのは淋しくありませんか?』
『能面師の仕事は世襲制ではありませんから別に……本人は舞う事が好き
だし、やりたい事をやって欲しいと思います』
『お若いのにとても繊細な舞をなさるとか。どんな息子さんなんですか?』
『とても可愛い子ですよ。思いやりがあって、優しいし……』
『小さい頃からですか?』
『はい、同じですよ。とっても思いやりのある子で…あの子が十二歳の時で
したか、小遣いを溜めて私にプレゼントをしてくれたんです。自分の買いた
いものも買わず、私の為に……』
『まあ、優しいですね』
『ええ。今でも誕生日にはプレゼントをくれます。私の仕事が忙しい時は食
事も作ってくれます』
『良い息子さんですね。男前だという噂も耳にしますが?』
『かっこいいですよ』
『そうなんですか。じゃあ、もてたり?』
『ええ、手紙とかいっぱいもらってるみたいです。私、能面作りの教室で教
えてるんですが、たまに女生徒さんから花束や手紙を預かったりします』
『わあ、すごいですね』
 果月は読みながら恥ずかしくなってきていた。誰が読んでも親バカな父親
による息子自慢ではないか。
「『可愛い子』ってお前の不頂面にこれ程似合わない言葉はないと思うけど
よ」
 後ろから武がからかう。
「うるさい」
「お前昔っからファザコンだったんだな。誕生日プレゼントは知ってたけど、
食事まで作ってるのは初耳だったぜ」
「ほっとけ」
 果月は三年程前からこの能楽堂に能の稽古で通っている。それまで近江家
にある稽古場で、玄雄に稽古をつけてもらっていたのだが、玄雄が三年前に
肺炎で一度倒れ、以来毎日稽古をつける体力がなくなってしまったのだ。
 行けば誰かが稽古をつけてくれるだろうが、近江家の者が果月は厭だった。
 そこで外部で教室を開いている須藤を紹介してもらい、週の半分はここに
通って彼にみてもらっているのだ。もちろん、果月の能は一流なので他の生
徒とは別の個人指導である。
 ここに通いだしてから果月は初めて歳の近い能役者の友人が出来たので結
構楽しかった。
 特に、須藤の二人の息子は明るく、くだけた性格をしているので話しやす
い。小さい頃から能の稽古をしているという点で分りあえる部分も多く、無
口で無愛想な果月を気にもせずに話しかけてきてくれる。
 果月は武の胸元に雑誌を押し付けて返すと、さっさと着替え始めた。
「なあなあ、果月、先日入り口で待ってた女の子から手紙もらってただろ?」
「登、お前なんでそんなの知ってんだ?」
「うるせーどうだっていいだろ。なあ、あれ、どうなった?」
「手紙はその場ですぐに返した」
「え、話も聞かずにか〜」
「ああ」
「もったいねえ〜可愛い子で俺、タイプだったのに〜」
「じゃあ登が付き合えよ」
「嫌味かよ〜」
 果月は12歳の時に『経正』で初シテを舞い、注目され始めた。
 16歳の時に『葵上』で六条御息所の役を見事に舞って、皆を驚嘆させた。
 果月が凛とした美少年という事もあって、しばしばマスコミから取材の依
頼がくるようになったが、近江の家の者は彼の出生が露見するのを恐れて、
一切応じないようにと命令してきた。
 果月としても騒がれるのは不本意だったので、命じられるまでもなく断り
続けている。だが、舞台に立つ以上、目をつける人はいるものだ。成長す
るにつれ、精悍さを増していく果月に熱をあげる女性ファンが多くなって
きていた。
 ファンレターを送ってくるぐらいならいいが、自宅に訪ねて来たり、この
能楽堂で待ち伏せしたりする女性もたまにいて、果月はわずらわしかった。
「この写真の人が果月さんのお父さんですか?」
 弟子が雑誌に載っている写真を眺めながら聞いてきた。素人筋のお弟子は、
果月を主筋の近江家の者としてみているので、頼みもしないのに敬語を使う。
「ああ」
「優しそうな人ですね。でもあんまり似てませんね?」
「……母親似なんだ………」
 これは本当である。
「へ〜、じゃあお母さん綺麗な人なんですね。会ってみたいな〜」
「十年前に亡くなった……」
「……あ…すみません……」
「別に構わないよ……じゃあ、お先に」
「おう、またな。今度の稽古は来週か?」
「ああ、明日は玄雄先生だから近江家に行く。もしかしたら、新年会の話が
でるかもしれないな」
「なんか分かったら教えてくれよ」
「ああ」
 果月が出て行くと
「あ〜もったいねえな〜めっちゃ可愛い子だったのに〜」
 と登がまたも呟いた。
「お前が決めるこっちゃないだろ。でも、あいつ結構もてるくせに全然誰と
も付き合わないのな」
「昔はちょこっと付き合った女の子いたけど、すぐ別れたみたいだぜ」
「へ〜なんで別れたんだろ?」
「無愛想だからとか。顔はいいし、いい奴はいい奴なんだけど何考えてるか
分らんとこあるし」
「あのファザコン果月の事だから小鳥遊さんと比べたんじゃないのか?」
「小鳥遊さんと比べられたら女の子可哀想でしょ〜」
「やっぱ似てないや。どっちかというと十郎先生の方が似てる」
 弟子はもう一度雑誌を見て呟いた。
「そう言えばそうだな。背の高いところも似てるし、まあ果月にとっては叔
父だもん」
「でも噂では十郎先生と果月、すっごい仲悪いらしいぜ」
「本当に?」
「ただの噂だけどさ〜。でも普通玄雄先生が駄目なら十郎先生に稽古をつけ
てもらわないか?叔父と甥だろ?おまけにあの二人、同じ舞台に立った事な
いんだってよ」
「一度もか?」
「らしいぜ」
「それは変だな〜」
 近江家によほど近い関係者でなければ、友弘と果月が義理の親子だと知ら
ない。まして、果月の出生のいきさつなどは………
 近江家の内弟子だった須藤はある程度知っていたが、息子に言う程口の軽い
男ではなかった。
「お前達まだいたのか?もう閉めるぞ」
「は〜い」
 須藤が入って来たので三人の会話はそこで終わった。
 果月が家に着いた時、友弘はすでに帰宅していた。
「ただいま」
「おかえり」
 友弘も帰ったばかりらしく、台所で夕食の支度をしている。
「手伝うよ」
「ありがとう」
 果月は友弘の横に立ってじゃがいもを切りはじめた。今日の夕食は肉じゃ
がにするつもりのようだ。
 二人の並んで共に夕食を作る姿は、どこから見ても仲良し親子だった。
「そうだ、友弘最近雑誌の取材受けたって言ってたよな。それ今日読んだぜ」
「ほんと、どうだった?」
「なんで俺の事ペラペラ喋ってんだ?」
「喋ってたか?」
「ああ、自分のインタビューなんだからもっと自分の事喋れよ」
「喋ってただろ」
「俺の話の方が長い」
「別にいいじゃないか。インタビューしてくれた人も喜んでたぞ」
「読んでて恥ずかしくなっちまったよ」
「なぜ?」
「自慢話だったから」
「へえ、そう?」
 友弘はくすりと微笑んだ。
「これからはあんまり喋るなよ」
「駄目なのか?」
「駄目」
「自慢の息子なんだから、喋りたくなっちゃうんだよ」
―――自慢の息子―――
 友弘は楽しそうに話したが、果月は胸に焦げ付くような痛みを感じた。
 彼にとって自分は息子以外の何者でもないのだと思い知る瞬間だからである。
他の誰でもない彼に言われた時だけ思い知るのだ。
 果月にとって友弘はもう義父ではなかった。
 六年前のあの日から、一人の愛する人になっていたのである。
 果月とて、自分のこの気持ちを認めるには、かなりの時間を要した。
 初めはただ守りたいと思っていた。彼を守る為に強い大人に早くなりたかっ
た。そして彼を傷つける人は許さない、と近付く人々を牽制した。
 しかし、ある日それは独占欲だと分ってしまったのだ。
 自分が友弘を十郎のように凌辱する夢を見たからである。
 果月は自分の裡に潜む友弘への激情に気付いて驚愕した。
 きっと勘違いなのだ、あの出来事を目撃してしまったので、そのせいだと自分
に言い聞かせ、忘れようと何人かの女性と付き合ったりもした。
 結局それは友弘への想いを再認識させただけだった。
 自分は他の誰でも無い、友弘が好きなのだと………
 彼でなければ駄目なのだと………
 自覚してから友弘と普通に暮すのはかなり忍耐のいる仕事だった。
 何しろ相手は義理の父。自分に向けられる好意には鈍感なお人好しで、繊細な
人。果月が自分に対して欲望を抱いているなど考えた事もないだろう。
 しかも、過去に十郎に凌辱された過去を持っている………
 十郎は五年前に千賀子という大鼓方の名門のお嬢様と結婚した。
 結婚式は盛大に開かれ、友弘、果月も招待を受けたが欠席したのだ。
 親類らは、めでたい席に不吉な子が来なくてほっとしたらしく、なんの嫌味
も言われなかった。おそらく、その辺の事情を察して辞退したと思っているの
だろうが、果月は友弘が欠席をした本当の理由を知っている。
 十郎に会いたくなかったのだと………
 あの事件の後、友弘は何も変わっていない風に装っていたが、近江の屋敷に
余程の事がなければ決して出掛けなくなった。玄雄が肺炎で倒れた時も病院の
見舞いだけに留めたのである。
 もちろん、こんなささいな友弘の変化に気付く者はいなかった。
 彼の心の傷の深さを果月は誰よりも分っているつもりだった。
 それなのに、その自分が十郎と同じ目で友弘を見つめているなんて………
 絶対に知られる訳にはいかない。
 友弘の気持ちを、信頼を裏切りたくないのだ。
 果月は自分の気持ちを必死に押さえ付けた。彼の望むいい息子でいよう、その
枠の中から決して出まい、と。しかし、時折堪らなくなる時があった。
 今のように友弘の無邪気な信頼に触れた時や、無防備な姿を自分にさらけだし
ている時である。
 いつだったか、能面の作業場で友弘がうたた寝をしているのを見た時、気持ち
が溢れて我慢できなくなったのだ。
 気付いた時には、友弘の唇に触れるだけの口付けをしていた。
 だがその直後、果月は後悔に襲われた。
 口付けてしまった事への自責の念ではなく、その行為によって欲望の渦が激し
く沸き上がったからである。
 柔らかな唇の感触、かすめる吐息が頬をくすぐる。
 唇を辿らせて彼の頬に触れると、艶やかな皮膚があの日見た彼の腿の白さを思
い出させるのだ。
『駄目だ……』
 必死に自分を押さえようとするが、目の前に横たわる彼を思うまま蹂躙したい
という欲望は膨らんでいく。
 このままあなたを力づくで犯したら………?
 あなたは一体どんな瞳で俺を見るんだろう………?
 甘い声をあげるんだろうか……あの時と同じように………
 果月の理性がはじけようとした時、電話の音が鳴り響き、果月は思い留まった
のである。
『あの時は心臓が口から飛び出るかと思った……』
「切ったじゃがいもこの鍋に入れてくれるか、果月?」
「え、あ、ああ………」
 果月は友弘の言葉で我に返った。
 思い出していた内容が内容だけに、落ち着かない気分になってしまう。
「きょ、今日帰ってくるの遅かったのか?」
「早川さんの墓参りに行っていたから………」
「…今日……月命日だったか………」
「ああ………」
「そうか…忘れてたな……ごめん……」
「別に果月が謝る事じゃないよ」
 早川とは友弘の師匠である能面師だが、小夜子と友弘が結婚する前に亡くなっ
た。今二人が住んでいる家は元は早川の物で、遺言により友弘の所有となったの
である。
 友弘は孤児で、小さい頃から手先が器用なのを見込んだ早川氏が、5歳の友弘
を預かっていた親戚方から引き取ったのである。
 弟子にするには小さかった友弘を早川が引き取ったのは、亡くなった息子に面
影が似ていたからだった。
 事故により妻子を一度に失った早川が、心の隙間をうめる為に友弘を手元に置
いたのだ。
 早川は優しく、修行も丁寧に指導してくれたが、決して自分を愛さなかったと、
友弘は気付いていた。
 彼は時々亡くなった息子の小さな靴を手にとって、ぼんやりと座り込んでいる
時がある。うつろな哀しい瞳をして、何も見ていない、遠い昔の思い出に想いを
馳せている瞳だ。
 そんな時友弘は、彼が振り返って違う名前で呼んだらどうしよう、と怖かった。
いつも離れた場所で彼が自分を探してくれるまで待っていた。
 彼にとって自分は最後まで弟子以上の存在にはなれなかったのだ。
 彼は決して癒される事のない哀しみがあると教えてくれた………
 友弘は自分を必要とする人が存在しないのがいつも淋しかった。
 小夜子が自分との結婚を決意したのは、自分の死期が近いと悟っていたからで
ある。
 果月をあの近江家に置いたまま死んでしまう訳にはいかなかった。つまり、果
月をちゃんと育ててくれる男なら誰でも良かったのだ。
『ごめんね、ごめんね友ちゃん………』
 いつも小夜子は謝ってばかりいた。
 友弘は謝ってなど欲しくなかった。小夜子が誰でも良かったとしても、彼女の
力になれるのなら良かったのだ。昔から憧れていた彼女が自分の家族になってく
れたのだから………
 昔、早川に「お前の打つ女面は小夜子さんの面影がある」と言われた。
 『能』は奈良時代に中国から伝来した『散楽』『猿楽』を源とした芸術である。
神社で「五穀豊穣」や「寿命長延」などの祝に奉納される舞として発展したが、
当時の能面は『翁面』の種類しかなかった。
 十四世紀後半に観阿弥と世阿弥親子によって『能』の一大飛躍がとげられ、新
作があいついだ。それに伴い演目に相応しい能面が次々と創造されていったので
ある。
 まず、超自然力の溢れた鬼神面、ついで神の化身とされる尉面。そこから人間
味の溢れる老人、幽玄味の強い男面、女面と誕生していった。
 江戸時代から今日までの能面は模写の時代で、過去の先人達によって完成され
たそれらの面を見て、能面師は「写す」のである。
 いかにして本面に近い面を打てるかが研究されるようになった。
 だが、すべてが手作業である為、寸分違わぬ面を打てるのは不可能である。ど
うしても打った者のくせや色が無意識に滲みでてしまう。
 友弘も女面を打つ時、自分が美しく愛しいと思っているものが現れてしまった
のだ。
 それが小夜子だった………
 もしかしたら、自分は小夜子に「母」を重ねていたのかもしれない、と友弘は
思う時があった。
 まったく知らない「母」の姿を………
 しかし、彼女も逝ってしまった………
 友弘は一人取り残された空虚な気持ちを今も覚えている。
 哀しくて、孤独で、一人でぽつんと暗闇の中に立っているような気分だった。
 小夜子が亡くなってしばらくたったあの夜も、孤独を抱えたまま布団の上に
座り込んでいた。すると、襖の外に気配を感じ、開けてみると果月が立ってい
たのだ。自分と同じく孤独を感じていたのだと分かり、いっしょに布団に入っ
て目を閉じた。
 果月を抱き締めながら友弘は、心が暖かい想いに包まれていくのを感じた。
『私はこの子を愛する事が出来る………』
 自分には誰もいない、父母もいない、愛した人も逝ってしまった、けれどこ
の子がいる………
 小夜子が残してくれた、たった一人の自分の家族なのだ………
 腕の中の小さな男の子がとても愛しかった。
 彼が甘えられるような存在になろう。喜びも哀しみも分け合っていける、お
互いが大切な存在で、お互いの幸せをいつも願っている、そんな家族になりた
い……
 父親でなくても兄弟や親友のような、大切な家族になれたら……
 そう思ってきた。
 以来、彼の為にしっかりした大人にならなくては、と頑張っているのだが。
「友弘、炊飯器のスイッチ入ってないけど、飯あんの?」
「あ!スイッチ入れるの忘れてた……」
「まったく……早炊きにするぞ」
「ごめん、ごめん」
『父親がおっとりしていると息子がしっかりするって本当だな』
 いつの頃から果月はぼんやりした自分と違ってしっかり者になったな、と友弘
は優しい気持ちで笑みがこぼれる。
「そうだ明日の能稽古は近江家かい?」
「ああ」
「……明日、近江の家に注文があった面を届けに行くから、もしかしたら会うか
もしれない」
「近江の屋敷に来るのか?」
「……そうだよ……」
 近江家には十郎がいる………
 友弘が十郎と会ってしまうかもしれない、と果月は不安になる。
「俺が持って行こうか?どうせ行くんだし………」
「そんな失礼な真似できないよ。前にも言ったろ」
 近江の屋敷には行かないようにしているが、面を納める時などは行くしかなか
った。
 果月に持っていかせるようでは能面師として失格である。友弘は何よりも自分
の仕事に誇りを持っていた。
「なら午前中に来た方がいいかもよ。確か朝から十郎先生が出掛けるって行って
たから。彼が帰ってくると、家の人が忙しくなるから、その前に来た方がいいん
じゃないか?」
 果月は午前中に十郎が出かけるのを思い出し、さりげなく友弘を促した。
「そうか、じゃあそうするよ」
 心無しか友弘はほっとした様子だった。果月もこれで十郎と会わずに済むだろ
うと安堵した。
 果月のこういった言動は、近江家に疎まれている自分のせいで、嫌味を言われ
るのを避けさせようとしているのだろうと、友弘は思った。
『優しい子だな………』
 少しぶっきらぼうだけど、思いやりのある子に育ってくれた………
 友弘は自分と果月に中に絆があると信じ、幸せだった。
 二人の互いを大切に想う気持ちは同じだったが、六年前のあの時から狂いはじ
めている事に、友弘はまだ気付いていなかった。

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