小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………4

  年が明けた。
「明けましておめでとうございます」
 年末から大掃除の為朱雀能楽堂に泊まり込んでいた果月は、
内弟子らとともに師範に新年の挨拶をして回り、三が日は瞬く
間に過ぎていった。友弘の方も能面師関係の集いなどに招かれ、
急がしく動き回っている。この時期、二人が家でゆっくりくつろ
げるのは、新年会が終わった後と決まっているのだ。
 その新年会の申合(もうしあわせ※リハーサル)は明日に迫っ
ていた。
 果月と十郎は一度も合わせ稽古をしていなかった。果月が近江
家の稽古場にいる時は十郎はいなくなり、十郎が近江家にいる時
は果月の方が来ないからである。
 『二人静』は静御前の霊が憑いた菜摘女と、静御前の霊が同装
で相舞をするというもので、面をつけると視界がほとんど0(ゼロ)
になるので、舞のタイミングは稽古をしまくって合わせるしかな
い。が、二人はお互いそれを拒んでいるのだ。
「果月、いい加減にしろ!」
 と玄雄に何度も怒鳴られたが、行動を改める気はなかった。
『どうしても俺と稽古がしたいなら、あいつの方からくればいい
ではないか』
 そう思ったのである。十郎の方も同じ言い分なのだろうが………
 そのうち玄雄は「失敗して恥をかくのはお前達なのだから、好き
にしろ」と諦めた。彼としては申合で懲りて稽古をする気になるに
違いない、とふんだのである。
 そして当日。近江家の稽古場で開かれた申合で、果月と十郎は初
めて同じ舞台で舞う事になった。
「あれ?武?なんでここに?」
 いつも朱雀能楽堂の稽古場にいる武が近江家の稽古場に来ている。
「今年から、こっちの稽古場で渡辺師範にみてもらうんだ」
「須藤先生じゃないのか?」
「ああ、親父も忙しくなってきたし、俺も親父以外の師範に指導して
もらいたいって希望したんだ」
「そうか………」
 渡辺師範は近江家の分家の能楽師である。
「それにさ〜、この近江家の稽古場にいれば十郎先生の舞が時々でも
拝見できるだろう?少しでも先生の舞を目に焼きつけておきたいんだ」
 月華流の能楽師なら誰でも十郎に憧れを抱くだろう、それ程彼の舞
は内外とわず高い評価を受けている。
 指導してもらいたい、という者も後を立たず、余程の才能あるもの
か、伝手のある者でなければ彼に稽古をつけてもらう事はできなかっ
た。
 家長としての威厳ある風格も、名のある父親にも劣らない才能も持
つ彼に憧れを抱く者は多い。
 多少、高慢な言動はあるにしても、実力がともなっているので誰も
不平は言わないのだ。
『彼は優しい人だぞ………』
「…ちっ………」
 友弘の言葉を思い出し、果月は小さく舌打ちした。
「果月、お前十郎先生と相舞するんだってな、大丈夫か?」
「……どういう意味だ……?」
「いや、だって『二人静』だろ?実力の差がはっきりと分かって……
いやいや…お前なら大丈夫だよな……すまん…すまん;……そんなすご
い目で見るなよ……;」
 果月に無言で睨まれて武は慌てて言い直す。
「でも、いいよな〜。あの十郎先生と稽古できるんだからさ〜何回ぐら
い合わせたんだ?」
「…今日が初めてだ……」
「またまた、御冗談を〜」
「……………」
「……って…マジなの……?」
「……………」
「おい、それってまずいんじゃないのか〜?ど〜すんだよ。新年会は
明後日だぞ」
「十郎先生が来たぞ」
 稽古場に十郎が入ってくると、部屋にいた皆は彼に向かって頭を下
げた。こういった行動は強制されているのではなく、自然にそうなっ
たものだ。皆、十郎を尊敬しているのである。が、果月は彼を睨み付
けただけで、十郎の方も果月に気付いているのかいないのか、一瞥も
くれなかった。
 藍色の着物にグレーの袴を身につけた十郎は堂々とした存在感を漂
わせていて、余計に癪に触る。
「では申合を始めます。皆様よろしくお願いいたします」
 玄雄の言葉で囃子方や地謡の方々が舞台にあがり準備を始める。
 果月と十郎も鏡の間で出番を待ったが、その間二人は目も合わさず、
一言も口をきかなかった。
 申合は面や装束を着ていない以外、本番とまったく同じに進行する。
 面は流派にもよるが、本番までつけないのが通例だ。基本的に役者
が面をつける事に『慣れ』をもってはいけないのである。
 背後に立つ十郎の気配を感じつつ、出番がくると果月は舞台へ飛び
出した。
 その日の申合が終わった時、玄雄は二人に何も言わなかった。

        *

「今日の新年会、時間が許すようだったら観に行くよ」
 友弘が朝、出かける果月に言った。
「いいよ、友弘も関係者の人達に挨拶しなきゃならないんだろ?」
「でも、お前が俺の面をつけて舞うのに………」
 確かに友弘に自分の姿を観て欲しいと思うが、自分を観るという事
は、同時に十郎も観るという事である。去年までは友弘は十郎に会う
のを避ける為、わざと他の用事を作って観に来れなくしていたようだ
った。
 しかし、今年は果月が自分の『小面』をつけるので、観に来たいら
しい。果月としては複雑な気分である………
「じゃあ、本当に時間があったらでいいよ。無理しなくていから」
「ああ、分かった。頑張ってな、いってらっしゃい」
「いってきます」
 果月は新年会の会場となる『黎明会館』に向かって自転車を走らせ
た。
 新年会は市と共同主催している毎年の年始行事で、上演される場所
も市民会館の2階にある大劇場を能舞台に特設して行われるのだ。
 流派の者はもちろん、関係者や取材陣も大勢招待されている。
 新年早々の大規模な演能会という事もあって、一般客も多く訪れて
おり、見所はいつも満席だ。
 今年の番組は狂言と日本舞踏をはさんだ三番立てで、初番『老松』
に玄雄、『二人静』が果月と十郎、『望月』は渡辺、という演目が組
まれた。
 特に『二人静』は最高の能楽師と名高い近江十郎に、最近頭角を現
し始めてきた月華流の麒麟児、小鳥遊果月がどこまで迫れるか、で注
目されていた。
「あの近江十郎と相舞とはプレッシャーがきついだろうな」
「ええ、あの若さでは荷が重いでしょうに」
「小鳥遊果月って最近評判になっている子だよな、ルックスがいいの
は認めるけどそれだけって事もありえるから、今日で化けの皮がはが
れるかもね」
 見所でのざわめきが聞こえてはいたが、控え室で出番を待つ果月の
心は穏やかだった。
 心を濁すまい、無心を保とうと、瞳を閉じて座っていた。
「もうすぐ出番だぞ。面をつけておけ」
「はい………」
 玄雄の言葉に果月は傍らに置いてあった木箱を開けて、面を取り出
した。
 洋風の仮面はかぶる、という表現をするが、面はつける、かけると
いう言葉を使う。
 仮面によって変貌するのではなく、能楽師と面が一体になる事を理
想とするからである。面が人の顔よりも少し小さく作られているのは
この為だ。
 友弘の打った『小面』は清楚で美しい。
 自分がこの面と一体となり、命を与え、幽玄の世界を舞うのだ。
 そう考えると果月は胸が震えた。
 いつも言えない自分の秘めた想いを、舞台でなら舞えるからである。
 『能』は踊るのではなく「舞う」のであって、舞う者が感情を爆発さ
せてはならない。
 感情を表現するのではなく、心を解き放つのだ。
 無心の裡に宿る『空』を感じ、沈黙の中に潜む『音楽』が聞こえる
ように……
 桜の花びらが舞散るのを見て、人々は純粋に美しいと思う。純粋な
美しさ故に狂気を孕む。
 『舞う』とは『狂う』事でもある。
 舞台の上では、自分はいくらでも狂えるのだ……
 果月はもう一度、大きく深呼吸してから面をつけた。
 『二人静』のあらすじは、神社に使える菜摘女の前に一人の女が現
れ供養を頼む。神社に戻りその話をするのだが、話しているうちに疑
いの心が生じてきて「まことしからず候ほどに…(本当の事ではない
ような)」と口にしてしまう。途端に様子がおかしくなり「何、まこ
としからずとや」と口ばしる。静の霊が乗り移ったのだ。
 「静御前」に取り付かれた菜摘女が舞っていると、静御前の霊が現
れ、いつしか二人はよりそって舞い、花吹雪にまぎれて消えていくの
である。
 前半はツレである菜摘女が物語を引っ張る。
 「何、まことしからずとや。うたてやなさしも頼みしかひもなく、
まことしからずとや(なんですと、あんなに頼んだのに)」という言葉
によって平凡な菜摘女が、美貌の静御前となる。それはツレがシテの位
へと変化する瞬間でもある。謡の調子が変わると共に面貌までの変化し
なくてはならないので、役者の力量が問われる瞬間だ。
 表面的な変化が大切なのではなく、それ以前にある「間」をいかに結
晶させるかなのだ。
 『能』はあらゆるものを省略化し、抽象化した舞台である。観客の一
人一人が、自分の裡に沸き上がった感情を舞台と一体化させて観る演劇
なのだ。つまり、個別にそれぞれ別の形で働きかける舞台といっていい。
 決して感情を発散させる事なく、感情を蓄積し、心情を表現する。そ
れには膨大なエネルギーが必要となる。
 それ故に『能』の舞台には静かで深い緊迫感に満ちている。
 すべてが沈黙する一瞬、すべてのものが停止する一点、その緊迫を結
晶として満たせるか。
 能楽師はそれができて初めて能楽師足る事ができるのである。
 果月の菜摘女は見事静御前へと変化し、澄んだ緊張感を漲らせてみせ
た。
 十郎の「静御前」が現れ、二人は相舞する。
 見所からは感嘆の息が漏れた。
「信じられん………」
「鏡を見ているのではない…ですよね……」
 『二人静』は「影に形の添うごとく舞え」と言われるが、二人はまさ
しく影のごとく舞っていたのである。
 申合で初めて相舞した果月と十郎であるが、その時、二人の舞は鏡の
ようにぴたりと合っていたのだ。
 運ビ(ハコビ)の歩幅も歩数もお互い知らないにも関わらず、同じだっ
た。※『能」では歩く事を運ビ(ハコビ)と言う
 手の角度、身体を動かすタイミングでさえも同じで、度胆を抜かれた
玄雄は二人に合わせ稽古をしろ、と二度と言わなかった。見ていた弟子
達は二人とも相当稽古をしたに違いないと信じていたが、実際果月と十
郎が合わせたのは初めてなのだ。
 申合が終わった時、玄雄が
「お前達は美しいと感じる感覚が似ているのかもな」
 と、言ったので、果月は不快に思ったのだった。
 二人が揚幕から退出して『二人静』が終演すると、観客のため息があ
ちこちからあがる。
「これは……『井筒』に続いて『二人静』さえも近江家の能役者にとられ
るぞ……」
「あの若者の実力は確かでしたね」
「ああ、十郎殿と相舞してもひけをとらんとはすごい」
 皆、次々と感想を語り合っていた。
 控え室で面の裏についた汗をぬぐっている果月に登が声をかけた。
「すごかったな果月、大成功じゃんか」
「………………」
 果月は何も言わず、黙々と装束を脱ぎ始めた。
「相当練習したんじゃないか?武が心配してたけど杞憂に終わって良かっ
た」
 返事はなく、果月は不機嫌な表情を浮かべながら大急ぎで袴姿に着替
えはじめる。
「果月?聞いてんのか〜?」
 隣で話し掛ける登の言葉は今の果月の耳には届いていない。一刻も早
く、この空間から、今の舞台の余韻の残る場所から飛び出してしまいた
かったのだ。
『いやだ、いやだ………』
 悔しくて、悔しくて何度も心の中で叫んでいた。
「登、何してる?『望月』の小道具の準備は終わったのか」
「はい、今行きます」
 登が控え室から出ていったのと同時に、着替えをすませた果月も外に
出た。
 大劇場では舞踊が始まったらしく、2階のロビーには誰もいなかった。
本当は遠くへ走り出したい気分だったが、完全に姿を消す訳にも行かず、
ロビーや階段周りをウロウロして頭を冷ました。
 少し気分が落ち着くと、ロビーをうろつき、一角に展示してあるガラス
ケースをぼんやり見つめながら考えた。
 今日、初めて十郎と同じ舞台に立ち、彼の実力の凄さを実感した。
 自分の傍らで舞う彼は全てを掌握していた。
 舞台も囃子方も後見や観客達でさえ彼は支配しており、自分もその中の
一人であった。彼の掌で舞っていたのと同じだったのである。
 しかも十郎はいつもより自分の存在感を消していた。自分に合わせたの
だと果月は分かっていた。
 菜摘女を圧倒する程の静御前が登場すれば、演目は台なしになる。どれ
程美しい音でも回りと波長が溶け込んでいなければ、雑音になってしまう
のと同じだ。
 彼は自分をコントロールして舞台を完璧なものにした。
 十郎が周りから尊敬され、天才と呼ばれる意味が分かったような気がす
る。
 だが、もう一つ、認めたくない事を知ってしまった………
 なぜ、自分と十郎の舞が鏡のようにそっくりだったのか………
「その刀の言い伝えを知っているか?」
 後ろから十郎の声が聞こえ、果月は驚いて振り返った。
 彼が稽古以外で果月に話しかけたのは初めてだったので、果月は自分の
周りにいる他の誰かに対して言ったのかと辺りを見渡した。だが、ロビー
には自分達だけしかいなかった。
 十郎の言っている刀は、今、果月が見ていたガラスケースの中に展示し
てある日本刀の事であろう。
「この地に伝わる伝説の刀だ」
「………………」
 伝説とは、刀鍛冶の娘と結婚する為に、弟子が一晩で千本の刀を打とう
とする昔話である。
 弟子は鬼に変貌し刀を打つが、鍛治師の策にはまって999本の刀を打っ
たところで絶命するのだ。
 地元に住む者なら誰でも知っている話である。
 ガラスケースの中には鬼の打った999本の刀のうちの一本、と言われ
ているものが収まっていた。
「果たせぬ約束なら、初めからせねばよいものを………」
 果月はなぜかカッと頭に血が上って反論した。
「鍛治師が卑怯な真似をしなければ、千本の刀を打ち終わっていたかも
しれない」
「それはあくまで仮設だ……どんな言い訳をしようと、男はできなかっ
たのだ」
「………………」
「『恋重荷』と同じだ……分不相応な夢を抱くと破滅する……」
 庭師に持ち上げられない荷を持ち上げろと命令するのは、女御殿に恋
心を抱いた老人を戒めようとしていたという説がある。自分の立場をわ
きまえろ、という………
「……俺の事を言っているのか………」
「………………」
 果月は今日の舞台で分かってしまった。なぜ、自分と十郎の舞が鏡の
ようにそっくりだったのか………
 それは同じ心を解放していたからである。
 同じ『狂い』を舞っていたからこそ、あそこまで同調したのだ。
『お前達は美しいと感じる感覚が似ているのかもな』
 玄雄の言葉通り、自分達は同じものを愛しいと想っている。
『この男は友弘を愛しているのだ………』
 舞台で十郎の想いが痛い程伝わってきた。彼がどれ程深く、美しい華を
秘め事としているのか分かってしまった。
 彼の『井筒』がなぜあんなにも人々の心揺さぶるのかも………
 死してなおも慕い続ける女の舞………
 だが果月はそれを認める訳にはいかなかった。
 友弘をあんなにも傷つけた彼が、苦しい程想っているのを。自分と同
じ位愛しているのを、否定しなければならなかった。でなければ………
 この男と同じ血が自分には流れている。
 同じ人を愛し、同じ想いを胸に秘めて舞う………
 『影に形の添うごとく舞え』
 では、影は俺か?俺がこの男の影か?この男が自分の影か……?
「………俺は愛する人を手に入れる為なら千本の刀を打ってみせる」
 果月は十郎の前に立ち、言い放つ。
「……鬼になってか………?」
「………鬼も蛇にもなれる………」
 果月は十郎にまっすぐな熱い視線をぶつけたが、彼は涼し気な表情で
あった。
『俺が分かったのだ。こいつが俺の気持ちに気付かない訳はない』
 十郎は自分に牽制している。
 果月は十郎の脇を通り抜けて、彼から離れた。
 背中に十郎の存在を感じながら、この男にだけは絶対に負けたくない、
と心の底から思った。
 男としても………能楽師としても………
 十郎は果月の熱い視線を平然と受けたが、心はざわめいていた。
 あの瞳は、先日近江家の中庭で向けられていたものと同じ瞳だった。
 自分に対する憎しみと嫉妬が入り混じった瞳。
 父親を独占したい子供のものではなく、熱い男の視線だ。愛する人に
触れた者に対する憎しみが滲みでていた。
 そして、今日の舞………
 あいつは男として友弘を愛している………
「……餓鬼が………」
 十郎は死んだ小夜子の亡霊が、また自分の前に立ちふさがった気がし
て忌々しかった。
 いつまでも自分に影を落とす彼女の……


        3へ       5へ