小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………5

 新年会は大成功のうちに幕を降ろした。
 皆は喜びのうちに新年の宴会に突入して、『黎明会館』の1階に
設けられたパーティー会場で騒ぎまくっていた。
 果月には大勢の雑誌記者がつきまとい、こともあろうに十郎との
ツーショット写真が撮りたいなどどと言い出して辟易した。
 しかし、十郎が
「これから月華流の集会がありますので失礼します」
 と、言って玄雄達と出ていったくれたので、写真は免れた。
 家元や長老達は別の高級料亭で新年会をいつも行っているのであ
る。
 総師範代クラスの幹部がいなくなって、気が楽になったパーティ
ーは大いに盛り上がった。そんな中、ただひとり果月だけがうかな
い顔をしていた。
 果月はパーティーの開かれている広間から離れ、奥まった廊下の
窓から外を眺めてた。マスコミがまだ煩くつきまとってくるし、今
は一人になりたかったのだ。
 胸に黒い塊があって、いつまでたっても飲み込めないでいる。苦
しくて、息が詰まりそうだった。
「果月、どうしたこんなところで?」
 武が偶然見つけて話しかけてくる。
 舞台が終わった時より、幾分か落ち着いていた果月は武の声に耳
を傾けた。
「……ああ…ちょっと気分が悪くてな……」
「大丈夫か?酒の飲み過ぎか?」
「違う……大丈夫だ。すぐに収まる」
「ともかく『二人静』の成功おめでとう。申合の時もすごかったけ
ど、今日のお前はもっと良かったぜ」
「……俺の力じゃない……」
「何?」
「……俺はただあいつの掌で舞っていただけだ……」
「十郎先生の事言ってのか?そりゃあ、あの方は素晴らしい舞手だ
けど、彼についていける能力がなければ駄目だぞ」
「……………」
「今日のお前は本当に良かった……前半から舞台を素晴らしいもの
にしたのはお前の力なんだ。堂々と胸はってろ」
 武が果月の背中をバンと叩く。果月は気持ちが少し楽になった気
がした。
「十郎先生と舞ったらたいていの人は落ち込むんだ。俺の親父もそ
うだって言ってた」
「須藤先生が?」
「十郎先生が二十歳前のことかな?『熊野』をやる事になった時、
親父はツレだったんだけど、名門の力でシテの役がついたんだろう
と、初めはばかにしてたらしい。だけどいざ稽古をしてみると、そ
の凄さに圧倒されたんだってさ」
「……………」
「しばらく落ち込んだって言ってたよ。親父の方がかなり年上だし、
芸暦も長いのにさ。だから、まだまだ若造のお前が落ち込む必要な
んかないって」
「……若造か……」
 それはそれで痛い言葉だが、気持ちは浮上してきていた。
「ちょっと聞いたんだけど、果月、お前朱雀の方に住込もうと思っ
ているのか?」
「ん?ああ……そうしてもいいかな、って考えてはいるんだ……朱
雀に住込んでいる内弟子と同じように修行した方が稽古に集中でき
るかと思ってさ」
「でも、今みたいに家から通ってても差し支えないだろう?」
「ああ、玄雄先生も別にわざわざ住込まなくていい、って言っては
いるんだが……」
「それに、お前が家出て行ったら小鳥遊さん一人になっちゃうんじゃ
ないか?可哀想だろ」
「………………」
 問題はそれなのだ。果月は友弘と同じ屋根の下に暮らすのが苦痛
になってきたのである。
 これ以上彼の側にいたら、自分は何をするか自信がなかった。彼の
元を離れた方がいいのではないかと思うが、一方で、友弘と離れて暮
らして堪えられるのかも自信がないのだ。
 自分がいなくなって彼はどんな生活をするんだろう、今、何をして
いるんだろうか、と一日中気になって仕方がないのでは、とも思う。
 自分でもどうしたらいいのか分らなくて、無理に住込ませてくれ、
とは言えずにいるのだった。まだ、玄雄と須藤にしか話していない。
「あ、そうそう会場に小鳥遊さん来てたぜ」
「友弘が?」
「ああ、お前を探してるんじゃないか?こんな所にいたら分らないだ
ろ」
「分かった。武、ありがとう」
「おう」
 現金なもので、友弘が来ていると知っただけで気持ちが晴れてきた。
早く会いたいと、果月はパーティー会場に戻った。
 広間に入ろうとしたその時、果月は入り口付近で友弘を見つけた。
が、綺麗な和装の女性と親し気に話をしていたので、声をかけるのを
ためらってしまった。
『誰だ?知らない女だ………』
 小柄な友弘よりさらに小さく華奢な印象の女性だ。歳は友弘より若干
上に見えるが、友弘は童顔なので同歳ぐらいかもしれない。
『何話してるんだ………?』
 にこやかな表情の友弘に腹がたってくる。飛び出して話の腰を折って
やろうかと思った時、最近帯留の注文を受けたのを思い出す。
『あのお客さんかな?じゃあ邪魔しない方がいいな』
 接客に水を差すのはまずいと、果月はとりあえず身を隠し、話が終わ
るのを待つ事にした。
 女性が友弘と離れるのを確認してから声をかける。
「友弘、来てたのか?」
「果月、どこ行ってたんだ?会場にいないから帰ったのかと思ったよ」
「ちょとね……新年会観れたのか?」
「途中からだったんだけど、お前の『二人静』には間に合ったよ。とっ
ても良かった……感動して涙ぐんじゃったよ」
「泣くなよ、それぐらいで」
「いや〜大きく立派になったな〜って。歳とって涙もろくなっちゃっ
たのかな」
「そんな歳でもないだろう。それよりさっき話してた女の人誰だ?」
「え?…え、そんな人と話してたかな……」
 友弘の目が泳いでいる。
「……さっき話してたろ……」
「あ、えと…道……聞かれたんだ」
 市民会館の中でどうして道聞くんだ?という疑問は取りあえず飲み込
む。友弘は嘘が下手だ。
「帯留の注文した客じゃないのか?」
「そうそう、そのお客さんだ。イラスト通りでいいから製作して下さい
って事だったんだ」
「……………」
 予想通り帯留の客なのは本当らしいが、どうもそれだけではないよう
である。
 一体何を隠しているんだ?
 果月はせっかく晴れかけていた気持ちが、また重く沈んでいくのを感
じた。 

       *

 季節は如月に入り、寒さもいっそう増してきていた。
 果月は足袋を買い足しておこうと、近くの百貨店の呉服屋に来ていた。
足袋は消耗品なのですぐに新しいものが必要になる。靴下のように3足
千円などという安売りもないので、大量買してできるだけ安く仕入れる
ようにしている。特にここの呉服屋は、友弘が着物の下絵をしている馴
染みの店なので融通が聞くのだ。
「はい、今回は50足ね。相変わらず使いが激しいね」
 店の一角にある畳の上にあがり、果月は足袋の入った段ボールの箱を
店の主人から受け取った。
「すり足だからすぐ駄目になるんです。あ、稽古用の扇もついでに買い
たいんですが」
「はいはい、どういったもので?」
「白地に無地で丈夫で長持ちなのがいいです。あんまりチープなのも困
るけど、なるべく安いのお願いします。安いんなら多少絵柄があっても
構いません」
 安い、に力をこめて迫る果月の迫力に主人も後ずさる。
「わ、分りました、何点かみつくろって持って来ましょう。少し待って
て下さいね」
『この季節はなにかと物入りだな〜』
 と果月は所帯じみた事を考えた。
 和装は何かとお金がかかる。質を落とせば安いものはあるが、やはり
能楽師として整えなければならない最低限のラインというものはある。
 高校を卒業した時、果月は大学に進まなかった。
 授業がなくなった時間を使ってバイトでもしようかと思ったが、友弘
に反対された。時間はすべて稽古の為に使うべきだ、と彼は主張したの
である。
 友弘は腕のいい頑固気質の職人で、絶対に手抜きをしない。
 能面の他にいろいろやっているが、創るものはすべて手作りの1点も
ので、納得がいくものが出来なければ売らない。彼の創ったものはどれ
もみな素晴らしいが、その分値段も高くなるので、発注があまりこない
のである。
 大量生産する着物のプリント図案などやれば、コスト的にも時間的に
も楽だが友弘は生活がどんなに苦しくともしなかった。
 温和で物事にうるさく言わない彼であるが、仕事に対してだけは真摯
で頑固だ。
 だから、バイトをしながら稽古をするという、いい加減な姿勢が彼は
厭だったのだろう。果月としても本当は稽古を疎かにしたくなかったの
で、友弘の言うとおりにした。
 主人を待っていると、店に女性の二人連れが入ってきた。果月が何気
なくそちらを見ると、その女性の一人は新年会の時友弘と話しをしてい
た人だった。
 果月は咄嗟に背中を向けて顔を隠した。
 店の女店員が対応に出る。頼んでいた仕立てを取りに来たようで、店
員が「少々お待ち下さい」と店の奥に引き返していった。残された女性
達はお喋りを始め、果月にも小さくではあるが聞こえてくる。
「その帯留素敵ね」
「能面師の職人さんに創ってもらったのよ。素敵でしょ」
「ああ、例の縁組みの?」
「そうよ」
「で、どうするつもりなの?息子さんいくつだっけ?」
「二十歳よ。しっかりした子みたいなんだけど………」
「大丈夫なんじゃない?二十歳なら思春期も過ぎているし、親に甘える
歳でもないでしょうに」
「確かにね…でもとっても仲がいいらしいわ。引き裂くような形になっ
てしまうんじゃないかしら?」
「そんな大袈裟な。直接会ってみたの?」
「まだよ。ちょっと怖いし、小鳥遊さんから話してもらった方がいい
でしょ?会うのはそれからにしようかと……」
「そうね、それからの方がいいかもね」
 店員が「お待たせしました」と戻って来たので会話はそこで終わった。
二人は店を出ていったが、話の内容を聞いていた果月は愕然とした。
 ――縁組み?引き裂く形?俺に会う?――
『……友弘……まさか…再婚………?』
 今までに何度か見合いの話が友弘の元に持ち込まれたが、彼は断り続
けていた。果月という子持ちであったしまだ小夜子を想っていたからで
ある。
 話をもってきた人も、さほど裕福でない、でかい息子のいるやもめ男
では相手が可哀想だと考え、無理に進めてこなかった。
 しかし、果月はもう成人したし、朱雀の方へ住込む事になったら……
 玄雄が自分を内弟子にして、友弘が家で一人になると見越して紹介し
たのか?再婚相手の方も子供なしならば、と承知したのではないだろう
か?
『いや、そんな筈ない……だって友弘はまだ母さんを………』
 では、なぜ新年会の時、話してくれなかったのか?ただの客なら無理
に隠す必要はないだろうに………
『俺の住み込みが決まってから話すつもりだったのか……?それとも、
もっと何かが決まってから……?』
 友弘に確かめなければ!
 果月は今すぐ真相を知りたいという激しい衝動に捕われた。
「はいお待たせしました小鳥遊さん、ご注文通りいくつか持ってきま
したよ」
「すみません、また今度お願いいます」
「え?あ、こっちの足袋の方は?お忘れですよ?ちょ、ちょっと小鳥
遊さん〜」
 買いに来た足袋を持っていくのも忘れ、果月は家に向かって駆け出
していた。
 家に戻ると、友弘は作業場の部屋にいた。
 バクバク鳴る心臓を抱えて、果月は部屋に入っていく。
「おかえり果月。早かったな」
 部屋は変わらず檜の清々しい香りがして、友弘の香りのようで、果
月は胸が痛くなる。
『もし、本当に再婚する気だったら……』
 絶対に承知するものか、と果月は意気込んで友弘に声をかけた。
「……友弘、聞きたい事があるんだ………」
「なんだ?そんな怖い顔して?」
 そう言いつつ、ちっとも怖がっていない友弘の不思議そうな表情に、
果月は落ち着きを無くしそうだった。
「…新年会で帯留を注文した客と会ってたろ?」
「え……?う…うん……」
 友弘の視線が逸らされる。
「あの人……何か他の用事があったんじゃないか……?」
「………どうして、そう思う?」
「……縁組ってなんだ……?」
 友弘は少し驚いたように果月を見上げたが、小さく息をついた。
「そうか……知ったのか……」
「じゃあ……本当に……?」
「一応話は頂いたけど………」
 果月はあまりのショックで目眩がした。
 今までなら、迷う事なく即効で断っていたのに……
 本当に、友弘が再婚するのか………?
 この家で俺以外の誰かと暮らすのか?誰かとご飯を食べたり、他愛無
い話をして笑うんだろうか?
 想像して果月は吐き気がこみあげてきた。絶対に堪えられないと思っ
た。もし、そうなったら自分はどうなるのか予想もできない。
『絶対に厭だ………』
 いっそ……今ここで……友弘を自分のものに………
 そんなどす黒い欲望が沸き出していた。
「お前が嫌なら断るつもりだよ」
「え?」
 友弘の言葉に、爆発寸前だった果月は夢から覚めたようにハッと気
がついた。
「ど、どうして俺の判断で事を決めるんだよ………」
「だってお前が嫌なら意味がないだろ?」
「な、なんで……俺もいっしょに暮らさせようと思っているのか?」
「え?」
「絶対に厭だぜ……今まで俺達は俺達だけで上手くやってきたじゃない
か!なんで今さら誰かをいれなきゃいけないんだよ!」
『俺の目の前で誰かと暮らしている姿をみせつける気か!』
「果月、ちょっと待て……」
「友弘は母さんが好きだと思ってた!ずっと好きなんだって!それを裏
切る気か!」
 小夜子を引き合いにだして、卑怯な手段で友弘に再婚させまいとして
いる。
 そんな自分に嫌気がさしながら、果月はそれでも叫ばずにはいられな
かった。
「果月……お前勘違いしてないか?」
「勘違い!?何が?」
「俺が再婚すると思ってるのか?」
「………え?……違うのか……」
「違うよ」
「……え……え……だって……縁組って……」
 果月はパニックに落ち入りそうだった。
『どういう事だ?再婚するんじゃないのか?』
「……養子縁組の事だよ」
「養子?」
「……ああ……あの人は能楽師の名門の奥様なんだが、跡継ぎが出来な
いそうなんだ。それでお前を養子にしたいっておっしゃってきたんだよ」
「俺を?!」
 あまりに思い掛けない言葉で、果月は呆然とした。
 これは玄雄と十郎の方から紹介された話であった。帯留の注文は友弘
と話をする為のきっかけ作りであったのだ。
 特に玄雄はこの話に乗り気だった。
 自分が健在のうちはいいが、自分が亡くなった後、近江家の配下にい
たままでは果月はろくな役をもらえないかもしれない、と心配している
のである。
 なんとか十郎と打ち解けて欲しいと願っているのも、後の事を心配す
ればこそなのだ。
 しかし、養子としてちゃんとした能楽師の名門の家に入れば、彼の身
は安泰だ。その家の銘や歴史が守ってくれる。
 果月の為にはいい話だと分かっていたが、家族を失ってしまう淋しさ
から友弘はなかなか言えずにいたのだ。
 けれど、自分達の間にある絆は消える事はあるまい、と信じて友弘は
覚悟を決めた。
「どうする?一度会って話をしてみるか?」
「……でも………」
 いきなりの展開で果月は頭が回らなかった。感情があっちこっちに揺
さぶられて、どう対処していいか分らない。心と身体がちぐはぐになっ
ている気分がする。さっきまで怒りや憤りで渦巻いていた心に、スコー
ンと白い空間が出来たような気分である。
「奥さんは優しくていい人だったよ……俺もお前の将来を考えるとその
方がいいんじゃないかって気もする……もちろんお前が嫌じゃなければ
だけど………」
「友弘……?」
「俺との暮らしじゃ、ろくに着物の仕立てもできないし、足袋買うのだ
って気をつかってるだろ?何のきがねもなく稽古出来るんだから、いい
話だと思うよ……」
「………………」
「俺は……少し淋しいけど…大丈夫だ……気にしなくていい」
「友弘、俺は……」
 養子なんかに行く気はない。友弘を暮らして厭だと思った事など一度
もない。
 そう言おうとした果月だったが、ふいに頭の中にある考えが浮かんで、
言葉を飲んでしまった。
『もし、俺が養子縁組したら……友弘と親子ではなくなる……彼の息子
ではなくなるんだ……』
 心に出来た真っ白な空間に、果月は淡い期待を描いてしまった。
 だが、次の友弘の言葉でその期待は無惨に打ち砕かれる。
「お前と俺とは離れて暮らしていても、いつまでも親子だろ」
 果月はナイフが突き刺さったような衝撃を胸に感じた。
 大きな風穴が開き、血が吹き出し始める。
「名字が変わっても、いっしょに過ごした時間は消える訳じゃないし、
果月はいつまでも俺の息子だと思ってるよ」
「……なん……だって………」
「だから果月は自分の事だけを考えて決めれば……」
「……なぜ……息子でなきゃいけないんだ………」
「え……?」
 駄目だ、駄目だ、と果月は心の奥で警告をするが、一度血ととも吹き
出した言葉は引き戻す術をもたなかった。
「……俺と友弘は……血が繋がってないんだ……赤の他人だろ……」
「果月……?」
「どうして、いつまでたっても息子でなきゃいけないんだ!」
 果月は悲鳴をあげた。友弘は驚いて果月の顔を見つめる。悲し気な、
どうしていいのか分らない表情だった。
『もう、駄目だ………』
 感情の押さえが効かない。果月の裡に封じてあった欲望や、怒りや、
嫉妬が一度に噴き上げてきている。知られてはならないと誓った己の
醜い心も………
 果月は手をのばして友弘を思いきり強く抱き締めた。
「……果月……?どうした……?」
 友弘が背中をポンと叩く、その仕種にも身体が熱く反応する。
「……………好きだ…………」
「…ん………?」
「……俺は……友弘が……好きだ…………」
「……そ…それは……俺も……」
「……………愛している……………」
「………え………」
 友弘は突然、今自分を抱き締めている人が誰なのか分らなくなった。
 厚い胸板に、自分の腰に回された力強い腕、耳もとで囁く掠れた声。
 以前にも、誰かにこんな風に抱き締められた記憶が蘇り、友弘の背中
がぞくりとする。
「……あ…あの……果月……ちょっと…離し………」
 友弘が身を捩って果月の腕の中から抜け出そうともがくが、果月は彼
の顎を掴んで上に向かせると唇を重ねた。
『………え………』
 友弘は何が起きたのか分らなかった。
 ただ、果月の顔が見えないくらい近付いてきて、いきなり息ができな
くなって、唇の間にぬるりとした感触が入ってきて………
「!」
 何をされているのか理解した友弘は、果月の身体を突きとばして、無
理矢理身体を離した。反動で友弘は後ずさり、背中が壁につく。
『…な……なに……何が起こったんだ………?』
 友弘の頭は混乱していた。唇を右手で覆いながら、目の前に立ってい
る男を見つめる。
『……果月……じゃない……のか……?』
 自分より大きな身体、抗えない程強い腕を持っている目の前の男は……
 あの夜、淋しくて自分の部屋に来た果月じゃないのか……?いっしょ
に布団に入り、抱き締めたあの小さな男の子は………?目の前にいる背
の高い男と同じ果月なのか………?
 六年前、力で自分をねじ伏せた男と重なり、友弘は悪寒を感じる。背
後は壁しかないと分かっているのに、無意識に後ずさってしまう。
「……俺が……怖いのか……?」
「……え………」
 果月の声に友弘の身体はビクリと震えた。
「……どうしようもないんだ………」
「……な、なに…が………」
「……俺は……友弘を…愛してる………」
 友弘は恐怖を感じた。目の前にいる果月の瞳が、六年前に自分を犯した
十郎と同じ瞳をしていたからである。
『………嘘だ……違う………』
 心は必死に否定しようとするが、脅えている自分がいる。聞いてはいけ
ないと思っても、果月の痛みを含んだ言葉が耳に食い込んでくる。
「ずっと、ずっと好きだったんだ……!一人の人として、ずっと愛して
た!」
「……やめ………」
「いつも抱き締めたいって思ってた!口付けたいって思ってた!」
「やめろ、果月!」
 友弘も悲痛な叫び声をあげた。
「……何言ってるんだ……!俺は……俺は……お前の父親なんだぞ……!」
「友弘を父親だなんて思った事は一度もない!」
「………え…………」
 友弘の泣き出しそうな表情が目に入り、果月の胸は痛んだが、言葉は
止まらなかった。
「友弘も自分を陵辱する夢を見る息子が欲しいのかよ!」
「やめろ!」
 友弘は耳を塞いで背中を向けた。その肩は震えていて泣いているのだ
と分る。
 六年前のあの時のように………
「……やめてくれ………」
「……友…………」
「………聞きたくない………」
 友弘の身体は壁に伝ってくずれ落ちた。
 耳を塞いだまま床に蹲る。
 彼の姿を見ていられなくなった果月は、走りだして家の外に飛び出し
ていった。
 果月の足音を聞きながら、友弘はどうする事もできなかった。ただ、
哀しくて、淋しくて涙が溢れる。
 頭がいっぱいで、胸が苦しくて何も考えられなかった………
 なぜ、果月はそんな事を言うのだろう?自分達は仲のいい親子だった
のではないのか?そう思っていたのは自分だけだったのか?
―――父親だなんて思った事は一度もない―――
 果月の言葉が心と耳に痛みもって響いてくる。
 自分達の間には家族の絆があると信じてきたのに………
『俺の一人よがりだったのか………?』
 いつの間にか一人の男に成長していた果月に初めて気づく。
 あんなに背が高くなっていた事も、力強い腕をしていた事も友弘は今
まで考えもしなかった。自分の中の彼はあの10歳の時の果月のままだっ
たのだ。
 いつからあんな熱い瞳で自分を見ていたんだろう………?
 小さな果月はどこにいってしまったのだろう………
 目の前にいたのは、苦し気に愛の告白をする一人の男だった。あの時
の十郎と同じように………
 六年前の出来事を再び体験しているようだった。怖くて身体が硬直す
る。心が悲しみで満ちていく………
 果月の告白を聞いて友弘は初めて彼を怖いと思った………


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