小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………7

 次の日の朝、果月は小鳥遊の家から朱雀へ戻った。
 今朝の能稽古は近江家で行なわれる事になっていたので、一旦戻っ
て用意をする為である。昨日は夕食の買い物に出掛けたきり帰らず、
夜更けに連絡を入れたきりで何も話していないので、とりあえず訳を
話しておかなければならなかったのだ。
 昨夜から今朝まで、果月は幸せな気持ちで、自分の腕の中で眠る友
弘の顔をずっと見つめ続けていた。
 夜明け頃に少しまどろんだだけで、睡眠はほとんどとっていなかっ
たが、気持ちが充実していたので身体は全然平気だった。
 友弘は自分を一人の男として認めてくれたのだ。そして、想いを受
け入れてくれた………
 これ以上幸せな事があるだろうか………
 昨日まで果月の中にたちこめていた暗雲は無くなり、爽快な青空の
ように心は晴れわたっていた。
 愛する人と気持ちを通じ合えた喜びが全身に満ちていて、どこにで
も飛んでいけそうな心地だった。
 玄関を出て家を振り返り、まだ自分の部屋のベッドで眠っている友
弘を想った。
「……いってきます………」
 果月は囁き、沸き上がる幸福感を押さえ切れずに走り出していた。

 お昼ちかくになって、友弘はやっと果月のベッドから起き上がった。
 ベッド脇の机には稽古に行ってくるという、果月の走り書きのメモ
が残されている。
 だるい身体をひきずって入浴をすませ、食卓の椅子に座り、お茶を
飲んでいると、昨夜の出来事を思い出して恥ずかしくなってきた。
 落ち着きがなくなって椅子の上で膝を抱える。
 自分はなんて事をしてしまったんだろう………
 赤くなって熱を帯びる頬を両手で包み込んだ友弘は大きく深呼吸し
た。
 昨夜の自分はどうかしていた………
 大きな感情に支配されて、止められなかった………
 改めて考えても自分のとった大胆な行動が信じられない。
 果月の熱さや、吐息とともに耳もとで優しく囁きかける声を思い出
して、友弘は身体を火照らせた。
 これからどうなってしまうのだろう………
 そんな風に考える友弘だが、込み上げてくる甘い感覚を拭う事はで
きなかった。全身が風邪でもひいたみたいに熱く、頭がふわふわして
いる。
 身も心も愛されるという事がどんな事なのか、初めて知った友弘は
幸せでたまらなかった。身体にまだ果月の手の感触が残っている………
 本当に一体いつの間にあんなに逞しく成長していたのだろう………
『子供の成長は早い………』
 幼い頃の果月を思い出して、少し淋しい気持ちになるが、同時に誇
らしい気もした。
 あの逞しい男が自分を想っている事に………
『ば、ばかか俺は………』
 自分が優越感に浸っているのが分かって、友弘はさらに恥ずかしく
なる。椅子の上に抱え上げた足を無意識にバタバタ動かす。
『だ、駄目だ……今日の俺は使いものにならない………』
 これからきっと大変なのだろうと予感するが、今だけはこの幸福感
に酔っていたくて何も考えないようにした。
 友弘は自室に戻り、夜具を敷いた。
 行儀が悪いが、今日はもう少し眠ろうと思ったのである。
 身体がだるくてたまらなかったし、微熱もあるみたいだったからだ。
 なにより今日は心が浮きたっていて、何も出来そうにない………
 寝間着の浴衣に着替えて夜具に入ろうとした時、玄関の扉が開く気
配を感じて胸を弾んだ。
 果月が帰ってきたのだ。
 まだお昼すぎだというのに、早い帰りに何か忘れ物を取りに来たの
だろうと友弘は思った。そしてどんな顔をすればいいのかと考えて、
頬が更に赤くなる。
 いつものように接すればいいんだ………
 友弘は自分にそう言い聞かせて、一度深呼吸をすると廊下に通じる
襖を開けた。
 しかし、玄関からのびる廊下に立っていたのは意外な人物だった。
「……十郎………」
 家に入って来たのはスーツ姿の十郎であった。
 鍵はどうしたのだろう、という疑問よりも友弘は驚きで声と思考を
失っていた。十郎がこの家に来るなど、小夜子の葬儀以来である。
「……呼び鈴を鳴らしたが返事がなかった………」
「え……そ、そうなのか………」
 夢心地でぼんやりしていたので、気付かなかったのかもしれない。
と、友弘は恥ずかしくて落ち着きのない態度になった。
 そんな彼の様子に十郎は目を細める。
 友弘の前に歩み寄り、乱暴に襟元を大きく広げると、そこに鬱血し
た赤い痣がいくつもあるのを認めた。
 十郎の胸は鷲掴みされたように痛んだ。
「……十郎……な、なにを……」
 いきなりの十郎の行動に友弘は狼狽した。
「……あいつか………」
「……え………」
「あいつがつけたのか………」
 十郎の言葉に友弘はようやく昨夜の情事の痕が身体に残っていると
気付き、慌てて襟元を隠す。頬に朱を走らせる友弘に、怒りが沸き上
がった十郎は彼の身体を思いきり突き飛ばした。
「あ………!」
 友弘の身体が後ろに倒れ、敷かれていた夜具の上に投げだされる。
 慌てて起き上がろうとした友弘の上に十郎は覆いかぶさり、後ろに
回した手で思いきり髪を引いた。
「痛………!」
 髪を引かれたせいで喉がのけぞった格好になった友弘に、十郎は顔
を突き付けて詰め寄った。
「あいつに抱かれたのか……!」
「……あ………」
「何故だ……どうしてあいつなんだ………!」
 十郎の燃えるような怒りを感じ、友弘は言葉を失う。
 彼になんと言えばいいのだ………?
 戸惑っている友弘の唇を十郎は激しい口付けで奪った。
「……う……うん………」
 そのまま夜具に押し倒し、荒々しく口唇を蹂躙する。唇をようやく
離すと、友弘は苦しそうに息を喘いだ。
 十郎がネクタイを取り去り、シャツのボタンをはずす仕草に気付い
た友弘は恐怖で身体を強張らせる。六年前の悪夢が再び行なわれると
分ったからだ。
「……十郎………」
 友弘が怯えた瞳で十郎を見つめるが、彼は鋭い視線を友弘に向けた
まま帯に手をかける。
「や……やめてくれ……!十郎………!」
 襟をはぎ、十郎は友弘の肌に点在する赤い痕を消そうと、その上に
歯をたてた。
「い……!痛い……やめて………」
「……ここにもある……ここにも……くそ………」
 十郎の手が容赦なく忍び込んでくる。友弘は身を捩って暴れるが、
体格の差に加えて、だるさの残る身体では逃れようがなかった。荒々
しく身体をまさぐる指によってうまれる快感を感じて、友弘は歯を食
いしばって堪えた。涙が滲んでくる。
「…い……いや………」
「どうしてあいつなんだ……小夜子の息子だからか……小夜子の替わ
りにしたんだな……!」
「……ち、違う……俺は本当に果月を………」
 好きなのだ、と言おうとした友弘だったが、十郎に頬を打たれてそ
の言葉は消えてしまった。
「俺の前であの男の名前を呼ぶな!」
『……あ………』
 悲鳴のような十郎の言葉に、友弘は自分がどれだけ残酷な事を言お
うとしていたか気がついた。
 自分を好きだと言った彼の前で………
 頬の痛みがそのまま十郎の痛みのように感じて、友弘の胸は苦しく
なる。だが、再び凌辱される事は堪えられなかった。なにより友弘は
自分が誰を求めているか自覚してしまったのだ。彼以外は誰であろう
と厭だった。
 しかし、十郎の指と唇は容赦なく友弘の身体から官能を引き出して
いく………
 昨夜の名残りが残る友弘の身体は、拒絶する心とは裏腹に十郎の与
える快感に溺れていくのだ。
『どうして………!』
 自分の身体が熱くなっていくのが友弘は信じられなかった。心は拒
否しているのに、身体はそんな自分をあざ笑うかのように反応する。
友弘は心がバラバラに壊れていくのを感じた。
「……やだ……やめてくれ……十郎………!」
 十郎の指が、唇が荒々しく侵入してくる。
「……頼む……から………」
 友弘の涙を伴った哀願も十郎はまったく聞くつもりはなかった。自
分の愛撫に過敏に反応する彼を、もっと痛めつけてやりたいという残
酷な感情に支配されていた。
 初めて凌辱した時、彼は真っ白な誰に知らない所に咲く花を思わせ
る身体をしていて、それ故に感じた陶酔と罪悪感があった。が、今触
れている彼の身体はすでに誰かの手によって手折られたものだった。
男の肉によってもたらされる快美を知っている身体である。自分以外
の誰かの……
 それが十郎の嫉妬の炎を燃え上がらせ、嗜虐性を帯びる愛撫となっ
て友弘を執拗に追いつめていた。彼が苦しんでいる事は分っていたが、
十郎は止まられなかった。勝手だと分っていても、裏切られたという
怒りが沸き上がっていたのである。
 今朝、稽古場にやって来た果月を見た時、十郎は全てを悟った。
 果月は昨日までの鬱積した表情ではなく、清々しい見がいのある男
の顔をしていた。
 昨夜、朱雀の方から果月が戻ってこない事、後に友弘の所にいる事
が分ったと連絡を受けてから厭な予感がしていたのである。そこに果
月の様子………
 自分の思いを否定したくてここへ来たのに、結局は自分の予感が適
中した事を確かめる結果となった。途端に十郎の裡に押し込めていた
激しい想いが吹出したのである。
「……うう………」
 辛そうな表情をした友弘の瞳から、涙がとめどなく溢れてる。
 友弘は知らなかったが、十郎はこの家の鍵を持っていた。それは病
弱な小夜子が友弘が留守の時に何かあった時の用心に、と近江家に置
いていたものであるが、小夜子が亡くなってからも十郎はそれを持っ
ていた。
 友弘の一部を手に入れている気持ちになれたからである。
 それがこんな形で使う事になるとは………
 十郎は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……あ……あ………」
 十郎を受け入れ、翻弄された友弘は抵抗する力を失っていた。
 涙を零し、弱々しい手でシーツを掴んでいる。
「……もう……赦し………」
 何度頼んでも、十郎は友弘を離さなかった。抵抗が無くなり、身を
委ねてきても、腿に赤い雫が流れても止めなかった。
「……友弘………」
 激しく口付けながら、十郎がさらに深く身を沈めたので、友弘の声
にならない悲鳴が喉の奥で凍りつく。
「……友弘…俺を見ろ……」
「……はあっ……あ………」
「今お前を抱いているのは俺だ……分ったな………」
「……う………あっ………」
「……お前を愛している俺だ……だから………」
 お前も愛してくれ………
 そう言いそうになった十郎は言葉を飲みこんだ。そんな嘆願するよ
うな真似は彼のプライドが許さなかったのである。
 代わりに十郎は激しく友弘を揺さぶり始め、高みへと登りだしてい
った。
 友弘の身体がよじれ、背中をそらして熱い息を吐き出す。
 果月の手の感触が残っていた肌に、今度は十郎の怒りと痛みが刷り
込まれていくようだと、友弘は思った。
 今朝まで感じていた幸福感はあっけなく消え去っていた………
 快楽の頂点に無理矢理追いつめられて、欲望の奔流を感じた友弘は、
そのまま意識を失った。

        *

「具合は?」
 廊下で待っていた十郎が尋ねると、白衣姿の初老の医師が小さな声
で答えた。
「鎮静剤を打ちましたので、今は眠っています。それと傷の方もざっ
と手当てをしておきました」
「……………」
 十郎は気を失った友弘の手当てをさせる為に、近江家の主治医であ
る藤井を喚んだ。
 藤井は開業医だったが最近息子に院長の座を譲り、今は補佐的な立
場で病院を支えている医師である。
 玄雄は二十年以上も藤井の病院を贔屓にしていたが、その腕と口の
固いのを見込んで三年前に寝込んだのを機に主治医になってくれと頼
んだのであった。
 毎月の玄雄の定期検診を行っているのも彼である。
「……それとですね……十郎さん……たいへん言いにくいのですが…
……」
「……………」
「……その……彼はどうも……性的な暴行を受けたように思われるの
ですが………」
「……ああ……俺がやった………」
「……え…………?」
 藤井は十郎が何を言ったのか分らない、という顔をしたが、徐々に
眉値をよせた苦悶の表情になってきた。
「……御苦労だった……急に呼び出して悪かったな……父の定期検診
だろ……早く行ってやってくれ……」
「……あ…は、はい………」
 十郎にそう言われたものの、どうしようかと藤井はおろおろした動
作で帰り支度を始めた。しかし、荷造りがすむと診療かばんを持って
何度も振り向きながら家を出た。彼が出るのと同時に、家の前に十郎
が呼んでいたタクシーが止まる。
 十郎は待っているように運転手に告げると家の中に戻り、友弘の寝
ている部屋に入った。
 青白い顔色をして眠る友弘の身体を、静かに、ゆっくり抱き起こす。
 身体に薄いシーツを軽く巻き付けてやると、そのまま抱えて家の外
に運び出した。
 外は最近では珍しくうすら寒かった。
 十郎は大事な壊れ物を扱うように友弘の身体を抱え、待たせていた
タクシーに乗り込む。
 膝の上に友弘の身体を乗せて行き先を告げた。
「病人さんですか?」
「……ああ……できるだけ静かに走ってくれるか?」
 分りました、と返事をして運転手は車をだした。
 ゆっくり走る車の中、自分の腕の中で眠る友弘を十郎はじっと見つ
めた。そっと彼の頬に触れ、かすかに残る涙の跡を指でたどる。
 そして、自分がずっとこんな風に彼をこの手に抱き締めたかったの
だと気がついた。
『こんな簡単な事だったのか……もっと早くこうしていれば良かっ
た……』
 自分は何をとまどっていたんだろう………
 愛しい人を捕らえた十郎は幸せな気持ちで友弘を抱き締める手に力
を込める。
 もう、絶対に離さないのだと思いながら………
 

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