小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………8

 ごめんね…ごめんね………
『小夜子さん………』
 遠い意識の底で友弘は小夜子の声を聞いた。
「……う…………」
 目蓋をゆっくりと開き、見なれない天井をしばらくその瞳に映し
ていたが、自分が何を見ているのか理解するまでに少し時間がかか
った。
 そして、やっと自分がどこか知らない場所にいる事に気がつく。
『……ここは……俺は一体………』
 横たわっている身体を起こそうと動かした途端、鈍い痛みがはし
る。
「いっ………」
 友弘の身体は再び沈み込んでしまった。
 弾んだ息を整え、首を巡らすと自分は小さな寝室のベッドに寝か
されているのを知る。明かりはついていないのでうす暗く、初めて
見る部屋でどこの家なのか分らない。
『ここはどこなんだ……?どうしてこんな所に………?』
 記憶を辿った友弘は自分が自宅で十郎に乱暴された事を思い出す。
『……あ………』
 重い石を飲み込んだように息が苦しくなり、こぼれそうになった
涙を必死に堪えた。
『俺は確か意識を失って……あれからどうしたんだ……?』
 時間の経過がまるで分らない。取りあえずここがどこか確かめなけ
れば、と友弘は慎重に身体を動かし、ベッドの上に上半身を起こした。
 身体全体に倦怠感があり、熱があるせいで内側は熱いのに表面の肌
は寒い。友弘は身震いをして、ベッドから出ようと足を動かした時、
声をかけられる。
「起きたか………?」
 誰もいないと思っていたので、友弘は飛び上がらんばかりに驚いた。
 声の主を探してうす暗い部屋の中で目をこらすと、ベッドから少し
離れた位置に置いてある椅子に誰かが座っているのに気付く。
 そこにいたのは十郎であった。友弘は息を飲んだ。
「……長い間眠っていたな……身体の具合はどうだ……?」
「………あ…………」
 いつから、そこにいたのだろう?もしかして自分が眠っている間ずっ
といたのだろうか?
 そんな考えが浮かびあがるが、思考が定まらない頭ではなんと言っ
ていいか分らず、友弘は口を噤んだまま俯いた。
 十郎が近付いてきたので、友弘は身体を強張らせる。そんな彼の様
子に気付いているのか十郎はゆっくりと動きベッドの傍らに立った。
「……熱があるだろ……まだ寝ていろ………」
「………え…………」
「喉は乾いていないか?何か持ってこようか?」
 友弘は軽く首を振る。
「薬があるから、これは飲め」
 と言って十郎はサイドテーブルに置いてあった薬袋からカプセルを
取り出し、水差から水を注いだコップを添えて友弘に差し出した。友
弘は黙って受け取り、薬を飲んだ。
 口調から感じる十郎はいつもの様子で、優し気な空気に友弘の緊張
が少し解ける。
「喉が乾いたら冷蔵庫に何種類か飲み物が入っているから好きなやつ
を飲むといい。食べ物も好きにしていいぞ」
「……あ……ここは………?」
「……風呂に入りたければ入ってもいいが熱がさがってからだ。タオ
ル類は脱衣所にある」
「……ここは…どこなんだ……十郎………」
「………お前のこれからの家だ……」
「……え………?」
「お前はこれからここで暮らすんだ。仕事道具も衣服も運びこんでい
る。何か足りないものがあったら言え。すぐに用意する」
「……何……言ってる意味が分らないんだが………」
「お前はあの家には帰さん。あの男のいる所にはな……」
 静かだが十郎の凄みを含んだ口調に友弘はまた言葉を失った。
「……ここはあるマンションの二階だ。玄関の鍵はカードキーで私が
持っているが、細工がしてあって内側から開かないようにしてある」
「……………」
「電話は通じているから、かけたい所にはどこにでもかけられるぞ。
何か危険な事があったらベランダに行き、隣との境目にある壁を壊し
て非難しろ」
「……………」
「どこかに出掛けたい時は私に言え。私が連れていく………」
 十郎は友弘の顔を一度も見ずに淡々と話し、まるで事務報告でもす
るような様子であった。
「では、私は帰る。何か用がある時は電話しろ」
 十郎はそう告げると部屋から出て行き、遠くでドアが閉まり鍵のか
かる音がした。
 友弘はベッドの上できりきりと痛む胸を抱えながら、それらの音を
聞いていた。胸のあまりの痛みに友弘は膝を抱える。
 十郎が痛々しくて見ていられなかった………
 自分をここに閉じ込めるつもりのようだが、こんな事長く続かない
だろう。いつかは誰かに気付かれて暴かれるに違いないが、その時彼
はなんと言うつもりなのか?
 真実を言えば多くの人が傷つく事になる。
 十郎の妻である千賀子や、父親の玄雄、母親の妙子。世間に露見す
ればそれこそ大スキャンダルである。
 本来なら彼はこんな行動をする人ではない。
 人の上に立つに相応しい人物で、常に周りの調和を考え、人の気持
ちを考えている人だ。その為、自分を犠牲にしてきた人で………
 彼の歯止めが効かなくなるのは自分の事だけだ。
『……俺がここまで彼を追いつめたんだな………』
 乱暴した事を十郎が後悔しているのは、一度も自分を見なかった彼
の様子から伝わってきた。六年前の時も、自分が傷ついた以上に十郎
は後悔し、深く傷付いていると友弘は分かっていた。
『……どうして……お前じゃなかったんだろう………』
 俺の愛した人が………
 彼ならばどんなに良かっただろう……
 愛して欲しい人に愛されなかった時の辛さを友弘は知っている。
 育ての親である早川が病院のベッドで亡くなった時、友弘はずっと
傍らに付添っていたが、彼が最後に呟いたのは、遠い日の記憶に眠る
息子の名前………
 ずっと暮らしてきた自分の名前ではなかった………
 あの時、心の中で痛哭した時の気持ちを友弘は覚えている。
 一言でいい、自分の名前を読んで欲しかった………
 一度でいいから自分を見つめて欲しかった………
 あの時の思いを今度は自分が十郎に与えているのだと思うと、友弘
はやりきれなかった。
 いっそ彼を愛せたらと思う。しかし、駄目だった………
 十郎の気持ちを思ってこんなに胸が痛いのに、心に浮かぶのは一人
の男の顔だけ………
 会いたいと激しい想いが渦巻くのは、愛していると気付いた果月だ
けなのだ。

        *

 稽古を終え、家に帰った果月は呆然とした。
 友弘の姿がないばかりか、作業場から彼の仕事道具がいっさい消え
ていたのである。友弘の部屋に入って調べると服もなくなっていた。
『一体どういう事だ!』
 今朝からの極楽気分は吹き飛び、果月は再び不安の嵐に叩き落とさ
れたような心地だった。
『……友弘はどこにいったんだ……どうして………』
 思い当たる場所を探しまくろうと考えた時、電話が鳴り響き、友弘
からだと思った果月は急いで受話器を取った。
「友弘か?一体どうし………」
『……友弘はもう帰らない……』
「………え…………」
 相手の放った言葉に果月の全身が一気に凍る。
「……誰だ……お前………」
『……彼はこれから別の所で暮らす。もう、お前とは会わない……』
「……お前、十郎…十郎だな……そうだろ……!」
『………………』
「友弘はどこだ!どこに行った!?いや、お前がどこかに連れ去った
のか?」
『……そうだ………』
「……てめ………」
 果月は怒りの為に自分の身体が熱く燃えるのを感じた。
「ふざけるな!何の権利があってそんな事しやがるんだ!さっさと返
せ!」
『貴様、友弘に何をした……?』
「……な……何って………」
『……俺は認めんぞ……絶対に……』
 果月の心臓が大きく跳ね上がった。
 この男は知っている……昨夜、自分と友弘が結ばれた事を………
 いつ気付いたんだ、という疑問がちらりと頭をかすめるが、果月は
そんな疑問よりも、それを知った彼の行動が恐ろしかった。
 『二人静』の彼がすべてを掌握していた舞台を思い出す。あの時の
ように今は十郎にすべてのカードを握られている気がした。
「……友弘はどこだ………?」
『……彼は渡さん………』
「………返せ……友弘は俺のものだ………」
『………違う……認めないと言った筈だ……』
「!返せ……どこにいるんだ!」
 叫ぶ果月をしり目に十郎は電話を切り、残された果月の耳には無情
な通和音が聞こえてきた。
 すべての希望の糸が絶たれてしまったかのような音に感じる。
『いや!諦めるものか、絶対に!』
 果月は拳を握りしめて家を飛び出した。

       *

 次の日の朝、十郎はいつも通りに起き、朝食をすませてから今日の
スケジュールを確認した。
 午前中の稽古の前に、演能会の装束を調べておこうと奥の装束部屋
に入った。
 棚から何種類かの装束を取り出し、畳の上に広げて紋様や色を眺め
て簡単に頭にいれる。
 春は『羽衣』や『熊野』『桜川』といった華やかな演目が好まれる
ので、装束もおのずときらびやかなものになる。
 紫地に金糸で鳳凰の紋様のはいった長絹や、藤に扇面、白地に金糸
の曾扇の唐織等々、十郎の手元には美しい紋様の入った色とりどりの
衣装が広がる。
 美しい装束は観る者の想像力をかきたて、『能』という世界へ誘う
重要な要素であるが、演目だけでなく演者の力量にも合ったものを選
ばなくては舞台を台なしにしかねない。
 例えば『羽衣』は鳳凰の紋様の入った装束を着ると決まっているが、
いくつか種類がある。
 長絹全体に五色の尾をもった鳳凰が大きく描かれているものがあり、
これは『能』という世界を壊さないギリギリの紋様で、着る者を選ぶ
装束である。
 あまりに大胆な構図なので『能』という極めて動きの抑制された舞
台では、演者が舞っているというより衣装が動いているという印象を
もたれかねないのだ。
 この装束に飲まれないほどの存在感と表現力をもった演者しか着衣
できず、もちろん十郎はそれを着こなす事のできる数少ないうちの一
人である。
 着る者を装束が選ぶ。
 十郎はどんな装束をも着こなせる才覚を持っているが、他の者はそ
ういう訳にはいかない。
 どの演目をどの演者が舞うかを見極めて装束や扇を選ぶのである。
 十郎が一つ一つ丁寧に見比べていると、戸が開き玄雄が入ってきた。
「装束選びか?」
「はい」
 どのような紋様のものがあるか確認したので、後は演目が確実に決ま
ってからにしようと、十郎は広げた装束をなおし始める。
「十郎、お前……あのマンションの部屋をまだ所持しているのか?」
「……お父さんが好きに使っていいとおっしゃったのですよ」
「ああ、確かにな……お前も自分独りのくつろげる場所として使ってい
たようだから今まで何も言わなかったが………誰かを住まわせる気なの
か?」
「あなたのように女性を……ですか……?」
 十郎は手を止めて、玄雄を見つめながら言葉を放った。しばらく二人
は無言で睨み合っていたが、十郎の方から視線を逸らしてふたたび手を
動かしだした。
「……十郎……昔、獅子の話をしたのを覚えているか?」
「……はい………」
「家長は獅子のようにいるべき場に留まり、楯となって家を守らねばな
らん、とな。お前はその獅子にならなければならない………」
「………………」
「獅子が去るのは新しい家長に譲った時だけだ。それまではいかなる事
があろうとも、その家を守り通すのが使命だ………」
「……分かっています………」
「……獅子に翼はいらん。あったとしても飛び立つ事は許されん………」
「……分かっています……だから六年前に結婚したのです」
 あの日、婚約を告げられた時、十郎ははっきりと自覚したのである。
 自分は家長として、月華流を支えていくしか生きる意味を与えられて
いないのだと。
 家長はすべてを手に入れているように見えて、実は何も手に入れられ
ないのだと………
 そんな事は幼い頃より分かっているつもりだった……
 どんなに見事に舞っても『近江家の跡取りなら当たり前』とみなされ
るのだ。影で自分がどんなに血の滲むような努力をしていたとしても、
皆は結果しかみようとしない。反対に平凡な出来の舞を披露しようもの
なら『跡取りのくせに腑甲斐無い』と非難される。
 誰もが自分を『近江家の跡取り』としてのフィルターを通して見るの
だ。
 そんな中、友弘だけが自分をただの『近江十郎』として見てくれる人
だった……
 彼だけは『跡取り』として接してこない唯一の人で、いつしか十郎は
彼を心のよりどころにしていた。
 幼い頃はそれがこんなにも激しい恋心になるなど考えもしなかった………
「婚約を決められた時、小夜子の気持ちが初めて理解できましたよ……」
「…………」
 小夜子の婚約の相手は二十歳も年上の男で、結婚を決められた小夜子
は行方をくらましてしまった。
 彼女の感じた絶望を十郎は初めて知った。
 そして何故あの日、彼女が自分の部屋に来たのかも………
 自分は家長として生きるのが使命だと子供の頃から悟っているつもり
だったのに、実は心のどこかで希望を抱いていたのだ。
 望めば、手に入れられるものがあるのではないか。自分のもつ翼を広
げられる時がくるのではないかと………
 そんな日は決してこないのだと、結婚を言いわたされた時にはっきり
と分かった………
 だから、六年前のあの日、友弘に告白し、ここで彼を抱いたのだ。
 もう沈黙の悲鳴を身の裡にとどめておくのは不可能だった。自分の叫
びを彼に聞いて欲しかった………
「……けれど私は小夜子と違い、決められた通り結婚しました。近江家
の家長として生きていく決意をしたからです………」
「……十郎……」
「私は誰の期待も裏切った事はありません………」
 まるで『近江家の跡取り』という入れ物にはまる型のように………
 その入れ物を満たす水を絶えず注がねばならない下僕のように………
「心配せんでもよいのだな………」
「御心配なく………」
「……そうか……」
 答えながら十郎は冷静な自分を滑稽に思う。
 なぜこんなにも自分は落ち着いているのだろう?
 昨日から今までとはまったく違う世界を過ごしているようで、妙に現
実感が欠けている。
 頭の一部が凍ってシンと冷めている感覚があった。しかし、心の裡で
は燃えたぎっている何かがあるのが分る。それはずっとくすぶり続けて
いたもので、いつか自分自身をも焼き付くすのではないかと恐れていた
ものだったが、今は何も感じない。
 燃やし尽くされる覚悟ができた為かもしれなかった。
 十郎の口元がふっと緩む。
 自分に歪みが生じているのを自覚していたが、それはむしろ心地よい
ものだった。
 堕ちていく事に、もはや迷いも躊躇いもなかった。
 彼といっしょなら………
 倒錯した甘い陶酔を感じる。
 装束をしまい終え、十郎と玄雄はいっしょに部屋を出た。すると廊下
の方からなにやら騒がしい声が聞こえる。
「はて……どうした……?」
 玄雄は首をかしげたが、十郎の察しはついていた。
 思ったとおり、廊下を乱暴な足取りで歩いてくる果月が目に飛び込ん
でくる。いきなり上がり込んで来たのを、女中が止めようとしていたら
しい。
「申し訳ありません……お止めしたのですが……」
 気まずそうに謝る女中を玄雄が、いいからと下がらせる。
「果月、どうした?随分悪い人相だな」
 玄雄の言葉とおり、果月の瞳は充血して目の下には隈ができている。
何よりその形相は憤怒のせいで凄まじいものとなっていた。
 昨夜、十郎からの電話の後、果月は友弘の行き先で思い当る場所を片っ
端から訪れた。
 朱雀能楽堂にはもちろん、着物絵付けの職人、能教室の関係者、雑誌
出版社の担当にも電話したが、友弘はどこにもいなかった。
 最後に朱雀能楽堂に帰り、一睡もせずに夜を明かした。
 いの一番に十郎に問いつめる為にここに訪れた果月は、彼への怒りで
爆発しそうだった。
「果月、どうしたのだ?」
「……………」
「果月?」
 玄雄の声も姿も果月の耳には入っていないようで、その視線は真直ぐに
十郎に注がれている。玄雄を無視して歩を進め、十郎に前に立つ。
 微かに身体を震わせ、憎しみを映した瞳で睨んでくるが、十郎からは一
片の動揺も怯えも見えなかった。
 十郎の心はむしろ優越感にほくそ笑んでいた。この男のもっとも大切な
ものを自分は掴んでいるのだ。
 長い間、靴の中に入った石のように、忌々しい存在でしかなかったこい
つの首をやっと捕らえた嬉々とした気分だった。そして、永遠に離すつも
りはない………
「…どこだ………」
「……………」
「……どこにいる………」
「……………」
「答えろ!」
 果月が十郎の襟首を掴んで顔を突き付けたのを見て、慌てた玄雄が側に
駆け寄る。
「ど、どうしたのだ果月!やめなさい!」
 だが、やはり果月には玄雄の声も姿も入っておらず、目の前に平然とし
た顔をして立つ憎い男の姿しか映っていなかった。
「……お前が俺なら教えるか……?」
 十郎のその言葉に果月は硬直した。襟首を掴んだ手を震わせ、十郎を睨
み付けたまま動けなくなる。
 そんな果月の手首を掴むと十郎はひねりあげて襟元から離させると、彼
の横をすり抜けて廊下を悠然と歩き出した。
「十郎!」
 後ろから大声で呼ぶ果月に、殴りかかるつもりか、と十郎は警戒しつつ
も振り返える。するとそこにいたのは膝を折り、廊下に手をついて土下座
をする果月の姿だった。
「………な………」
「……頼む……返してくれ………」
 果月の姿に十郎はしばし我を忘れた。
 あの男が自分に手をついている。決して自分から話しかけもせず、会釈
もした事のない男が、友弘の為になら地面に這いつくばってみせるのだ。
 消えた筈の忌々しいざわざわとした気持ちが胸元からせり上がってくる
のを感じる。
「……やめろ…立て………」
「……頼む……どこにいるのか教えてくれ……」
「立てと言っているんだ。そんな事をしても私は教えんぞ」
「……………」
「貴様を認めないと言った筈だ。どんな事をしようと心は変わらん。だか
ら無駄な事はするな」
「……頼む………」
「無駄だと言っている。二度とこんなみっとない真似はするな!」
 吐き捨てるように叫んだ十郎は、今度こそ振り返らずに廊下を歩き去っ
た。
 こちらに向かってくる果月を見た時の歓楽はもうなかった。
 着ている着物に小さなシミを見つけた時のような胸の悪さがあり、一瞬、
羨望にも似た気持ちが十郎の裡を走りぬけた。
 友弘の為にあんなにも簡単に膝をつき、自分の弱点を惜し気もなくさら
し、自分にはできない事を簡単にやってのける彼に………
『……ばかな………』
 優位なのはこちらであり、すべてを掌握しているのは自分なのだ。
 それなのに、何故あの果月の姿を見ただけでこんなにも心が乱れるのか。
 愛して欲しい………
 その一言さえ友弘に言えなかった自分を十郎は思い出していた………

 廊下に残された果月は額を板の間にこすりつけて全身を震わせていた。
遠ざかる十郎の足音が手をついた床を通して伝わってくる。
 怒りや憎しみよりも、二度と友弘に会えないのではないか、という恐怖
心と哀しみに心が張り裂けそうだった。
 その恐怖から逃れる為なら土下座でもなんでも出来た。
 恐怖の中には不安も含まれている。
『もしかして、友弘が自分との関係に後悔して自ら出ていったのではある
まいか………』
 下げた瞳が涙で溢れ、視界がぼやける。
「……果月……一体どうしたのだ………」
 玄雄が心配そうに傍らに座って声をかけてくれるが、果月は何も答えら
れなかった。
 友弘の笑顔が脳裏を横切り、胸が苦しくて、息が詰まる………
 何をしようと無駄だと十郎の吐き捨てた言葉は、果月に絶望を与えてい
た。
 十郎が何をするかなんて想像もしていなかった。しかし、今、現実となっ
て自分の目の前で起きているのだ。
 自分が十郎だったらどうする?
 誰かが友弘を手に入れようとしたら?
 おそらく自分が一番理解できるだろうその答えを、果月は恐ろしくて考
える事ができなかった。
 涙で霞んだ視界が暗い沼の底の色のようにどす黒く染まっていく。
 持って行き場のない恐怖と哀しみに苛まれ、無意識に果月は木の床に爪
をたてていた。
 自分の胸を掻きむしる代わりに………
 

 

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