小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………9

 近江家を出た果月はふらふらとした足取りで自分の家に帰ってきた。
 もしかして、友弘の行方を示すような手がかりがあるかもしれないと、
縋るような気持ちで戻ってきたのだった。
 だが、何もなかった時の事を考えると、果月は恐ろしさに足がすくむ。
 だから、玄関を開け、廊下に置かれている電話の留守電ランプが点滅
しているのを見た時は、靴を脱ぐのもそこそこに、飛びつくいきおいで
家に上がってスイッチを押した。この御時世に珍しく、友弘も果月も携
帯電話を所持していない。
『果月、留守かい?』
 録音メッセージから友弘の声が聞こえた時、果月は張り詰めていた糸
が切れるように脱力し、床に座りこんでしまった。
『友弘だけど、急にいなくなってごめん。ちょっとした用事で別の所に
移ったんだ。果月が心配する必要は何もないから、余計な事は考えず、
ちゃんと稽古に専念するんだぞ。じゃあ、身体に気をつけて。また連絡
する』
 再生が終わった後も幻ではないと確かめる為に、果月は何度も何度も
繰り替えしテープを聞いた。
 気のすむまで聞いた後、果月は深く息を吐き出した。
 強張っていた心が一気にほぐれて、頭の中までも真っ白になっていた。
 簡単なメッセージで友弘がどこにいるのかいつ戻るのか等、不明事項
だらけであるが、彼の声が聞けたというだけで、果月は精神的に幾分か
落ち着きを取り戻せた。
 少し頭が冷えた果月は今の状況を整理しようと考えた。
 まず、この家に友弘はいない。十郎がどこかに連れ去ったが場所は分
らない。いつ帰るのかも分らない。連絡先も友弘は教えてくれなかった。
『結局分らないづくしか………』
 だが、電話の声を聞いた限りでは友弘は元気そうであった。
 乱暴はされていないようで、もしや十郎に何かされたのでは、と思っ
ていた果月は安心した。それが友弘の空元気をしてみせた結果だとは気
付かなかった。
 気になる点は友弘が『帰る』という言葉を言わなかった事………
 帰るつもりがないのだろうか………
 果月はまた絶望的な気持ちに落ち入りそうになるが
『場所を突き止めて、こちらから迎えに行けばいいんだ』
 現金なもので、友弘の声を聞いた途端、普段の傍若無人な性格が復活
していた。
『だが、どうやって場所を知ればいい………』
 知っているのは十郎だけではないだろう。秘書やここの荷物を運び出
すのに手伝った人物が絶対いる筈。玄雄に頼めば何か情報を得られるか
もしれない。
 しかし果月は横から聞き出すような真似は卑怯だと思った。
 真っ向から対決し、あの男から聞き出したい。
 そして正々堂々と友弘を迎えに行くのだ。
 しかし、十郎は簡単に教えてくれないだろうと、先程の出来事からも
容易に分る。
 自分が土下座した時の彼の言葉を思い出し、果月は唇を噛んだ。が、
その時果月は妙な違和感を覚えた。
 何故、十郎は『二度とこんなみっともない真似はするな』と言ったの
だろう?
 憎い俺がみっともない姿をしているのは楽しいのではないのか?
『俺のそんな姿を見たくない?何故だ?』
 同じ能楽師として恥だからか、それとも………
 心が揺れるから……か………
「……まさか………」
 果月は思わず声にだして呟いた。
 彼が自分の嘆願を見て心が揺れるなどあり得ない。あの冷酷な男が……
 そう頭の中で否定しながらも、心のどこかで可能性を捨てきれないの
も事実だった。
『十郎は優しい人だぞ………』
 友弘の台詞を聞いた時はとても信じられなかったが、今はその言葉の
意味が垣間見えるようであった。
 何にしても彼が自分が土下座する姿を見るのは不快らしい。ならば
やってやろうではないか。この状況を打破する為ならなんでも出来る。
 自分に出来る事はこれしかないと思うと我ながら情けないが、する
事がないよりは何倍もましだった。
 果月は絶対に友弘を迎えに行くのだと心に誓った。

 次の日、近江家で果月は稽古場に続く廊下で正座しながら十郎を待
った。
 彼が数人の弟子達と供に現れると手をついて頼んだ。
「お願いです。教えて下さい」
 十郎は足を止め、一瞬目を見開いたが、呆然と立ちつくす弟子を置
きざりに果月の脇を通り抜けてさっさと稽古場に入ってしまう。
 我にかえった弟子達が床に手をつく果月を気にしながらも後を追う。
 果月はまた、絶望的な気持ちに飲まれそうになるが、
『始めからうまくいく訳はない。まだまだこれからだ』
 そう言い聞かせて自分を奮いたたせた。
 これから毎日、状況が変わるまで果月は繰り返すつもりだった。
 そのうち友弘からまた連絡が入るかもしれないではないか。
 いつ爆発するか分らないが、とにかく今自分にできる事をやるしか
ないと思ったのである。
 立ち上がり果月も中に入ったが、その姿を玄雄が遠くから見ていた。

        *

 友弘がマンションに連れてこられてから三日が過ぎようとしていた
ある日、意外な人物が訪ねてきた。
「お義父さん………」
「……友弘……このマンションに住んでいるのはやはりお前だったの
か…」
「どうしてここに……鍵は………?」
 玄雄は十郎と同じく自分で鍵を開けて入ってきたので、鍵はどうし
たのだろうかと友弘は不思議に思った。
「このマンションは元々私のものだ。ある人物に貸していたのだが、
その人が亡くなったので十郎に譲ってやった」
「……そうですか………」
「……小夜子の母親を住まわせていたのだ………」
「……え…………」
「小夜子と母親の妙子とは血が繋がっていないと知っているな?」
「はい……結婚する時小夜子さんから聞きました……」
 その時、妙子の小夜子と果月に対する冷たい態度に納得がいったの
である。
「しかし、小夜子さんの母親は、子供の頃に彼女を近江家に預けてか
ら行方知れずと聞きましたが………」
「そうだ……あれは小夜子を置いていなくなってしまった。だが、果
月という孫ができた事を伝えたいと思って探していたのだ。やっと見
つかった時は末期がんに冒されていてな……もって後一年だと言われ
ていた……」
「………………」
「生活は苦しく、治療費もままならない状態だったので、せめて最後
の時
ぐらいは心穏やかに過ごしてもらいたいと思い、このマンションを貸
して生活の面倒をみていたのだ。亡くなったのは三年程前かな……」
「………ちっとも知りませんでした………」
「ああ、知っているのは私と秘書の上原と十郎だけだ………葬式も略
式だった………」
 玄雄は悲しい瞳をして遠くを見つめた。
 彼と小夜子の母親の間に何があったかは知らないが、きっと大切な
人だったのだろう………
「それから十郎は自分一人のくつろげる場所として、ここを利用して
いたようだ。女を囲う訳でもないので私も黙認していたのだが、最近
誰かが暮している様子だったのでな………ちょうどお前と連絡がつか
なくなった時期と一致するので確かめにきたのだ………」
 玄雄はふっと息をもらし、友弘の立っている前のソファーに腰を
おろした。
 友弘は玄雄と話しながら次第に落ち着かなくなってきた。彼はどこ
まで自分と十郎の事を知っているのだろうか………
「……お茶をお入れしてきます………」
「………いや……いい……用がすめばすぐ帰る………」
「…………用……とは…………」
 友弘は自分の鼓動の音が大きくなっていくのを感じる。
「………お前に聞きたい事があるのだ……答えにくいだろうが………
答えて欲しい………」
「………はい…………」
「…………お前……誰に乱暴された………?」
 いきなり確信をついてきた玄雄の言葉に、友弘は息を止めた。不安
そうに自分を見つめる彼と目が合う。
 くるべき時が……きたのだ………
「……時間にうるさい主治医の藤井が私の定期検診をする日に遅れて
来てな。様子がとてもおかしくて、問いつめたらお前の治療に行って
いたと白状したよ………」
「………………」
「……彼はお前に乱暴した奴は知らないと言ったが、私はそうは思わ
ない。彼は嘘のつけない男なのだ。十郎に聞けば、藤井が私に喋った
とばれてしまうので聞けなかった。だから無礼を承知でお前に確かめ
にきた………」
「………………」
「……友弘……誰なのだ………辛いだろうが答えてくれ………」
 玄雄が問いただすのは、自分は知らなければならないと考えている
からだった。
 藤井が庇う相手という事は、その事実を知る事によって自分が傷つ
くのを考慮しているのだと玄雄は察していた。
 もし、ただの変質者であれば警察に届ける義務を言うだろうし、弟
子の誰かであれば忠告の為に告げるだろう。
 ならば、自分に知られたく無い人物………
『……十郎か……果月か………』
 果月の友弘に対する執着心は知っている。十郎に限ってまさかと思
うが、友弘をここに連れ込んでいる理由が分らない。しかも、果月に
は教えていないらしいのは何故だ………?
 自分の知らない所で、この三人の間に何があったのか………
 どんな事実であろうとそれを自分は知らねばならない………
 友弘は玄雄の苦悶を写した表情を見て辛くなった。平然とした態度
を装っているが、声と手が微かに震えている。普段の厳格な態度の彼
からは考えられない事だった………
 実は友弘はこの時の為に用意していた答があった。
 軽く息を吸い、友弘は頭を下げる。
「……申し訳ありません………」
「……何故謝る………?」
「……私は乱暴されたのではありません……合意です………」
「……なんだと……?では誰だ………」
「……そういった商売をしている男性です………」
「………なに…………?」
 玄雄は眉を顰める。
「……私の醜い欲望のせいです……金で情交を行なったのです………」
「…………では何故藤井が………?」
「………初めての行為だったので、勝手が分らなかったのです……無
理をしすぎて十郎に助けを求めたところ、彼が藤井さんを寄越してく
れたのです……藤井さんが黙っていたのは、私を貶めたくなかったか
らでしょう……お義父さんが知れば、私を軽蔑するでしょうから…」
「………友弘……私はお前がどんな人物かよく知っているぞ。それな
のに、そんな事を言うのか?もしそれが本当なら、お前の言うとおり
私はお前を
軽蔑するぞ………」
「………事実ですから仕方ありません………」
「………十郎がお前をここに住まわせたのは何故だ……?」
「甥の近くに下劣な男を置いておきたくなかったからだと思います…」
 二人の間に重い沈黙が降りてくる。
「……分った……それが事実なのだな………」
「………はい………」
「私はそれを事実として受けとめ、対処して良いのだな………」
「………はい………」
「……では友弘、私としてもそんな男の側に可愛い孫を置いておく訳
にはいかん。例の養子の話を進めさせてもらう」
「………はい………」
「近江家への出入りも以後、控えてもらいたい………」
「……分りました………」
 本音を言えば、十郎でも果月でも玄雄は聞きたくなかった。
 真実を知らなければならない立場なのに逃げようとしている。
 彼にすべてを負わせている自分が卑怯だと玄雄は承知していたが、
友弘が用意してくれた都合のいい答に縋り付いた。
「……最近、フランスにいる友人から相談を受けてな………」
「……え………?」
「ある大学で日本美術の専攻を新たに加える事になったのだが、日本
の伝統芸能に詳しい人を助手に欲しいが紹介してくれないか、とな…
…友弘……お前やってみる気はないか………」
「……フランスに…行くのですか……」
「ああ……一年ごとの契約更新なので、嫌だと思ったら更新しなけれ
ばいい……お前なら能面だけでなく、着物絵も彫刻もできるだろ……
考えてみてくれないか………」
「………お引き受けさせて頂きます………」
「……もっとよく考えてみた方がいいのではないか………?」
「必要ありません……お願いいたします………」
「……分った……詳細は追って知らせる………」
「ありがとうございます………」
 玄雄はゆっくり立ち上がり、玄関に向ったので、見送る為に友弘を
後をついていく。
 外に出ようとしたが、ドアが開かないので玄雄は首をかしげた。
「開けるのにも鍵が必要なのです」
 友弘の説明で鍵を差し込み、ドアを開けた玄雄が一瞬考え込み、
友弘に尋ねる。
「お前は鍵を持っているのか?」
 友弘は首を横に振った。
「……この鍵を置いていこうか………?」
「………いいえ…………」
 ここで鍵を受け取れば、十郎を裏切る事になる。友弘は二度と彼を
傷つけたくなかった。
「………十郎には私から話そう……では………」
「はい、ありがとうございます………」
「………友弘…………すまん…………」
「…………………」
 玄雄に後姿が扉の向こう側に消え、鍵の掛かる音がやけにはっきり
と耳に響く。小夜子の言葉が玄雄のそれと重なり、こちら側に一人取
り残された友弘は『また謝られた………』と、思った。
 すべて自分が決めた事だ………
 誰かに強制されたのでもなく、自分で考え、だした答え。
 自分が犠牲になっているとは思わない、誰かが悪い訳でもないのだ。
 だが、時折堪らなくなる時がある………
 淋しくて堪らなくて、心の奥底から叫びだしたくなる時が………
 作業場にしている部屋に行き、ここに来てから打っている面を手に
とって眺める。
 それは美しい『小面』の面。
 はっきりと愛しい人の面影を写したそれを見つめながら、友弘は狂
おしい程果月に会いたいと思った。
 もう一度来てくれるか………
 あの夜、小夜子を失った悲しみの暗闇にいた自分を救ってくれた時
のように………
 けれど………
『……駄目なんだな………』
 友弘の瞳から涙が溢れ、頬を伝って面に落ちる。
『……果月……俺はもうお前に会えない………』
 涙がとめどなく流れ、友弘は面を胸に抱き締めた。
『………会えないんだ………』
 面を抱き締めながらその場に座り込んだ友弘は、小さな肩を震わせ
て涙を零した。

        *

 その日の稽古は一日中十郎が不在だったので、弟子達はいぶかし気
であった。
 どんなに忙しくても出張でもない限り、一度は稽古場に顔を出すのが
十郎の常だったからである。
「先生、今日はどうしたんだろうな。玄雄先生も忙しいらしくて、ここ
んとこずっと来ないし………果月、お前何か聞いてないか?」
 後片付けを始める武の問に、隣にいた果月は無言で首を振る。
 ここ数日間、稽古場は果月の土下座の話でもちきりだった。
 訳を聞いても何も言わず、彼から漂う気迫に詳しく詮索出来る雰囲気
ではないのだ。
『何があったんだろう………?あの果月が嫌っている十郎先生に手をつ
くなんて、余程の事なんだとは思うが………』
 気にはなっているのだが、果月の無言の拒絶を感じて聞けずにいる。
『でも、果月も相当煮詰まってきてるようだし……やばいんじゃないの
かな………』
 最近の果月は殺気を漲らせているかのような邪の空気をまとっており、
顔つきも悪くなって誰も怖くて近付けない。稽古場で話かけられるのは
武と玄雄だけになってしまっている。
『このままじゃ……良くないよな………』
 やっぱりどういう事情があるか聞こうと武が口を開きかけた時、十
郎が稽古場の戸を開けた。
 いきなりだったので、武や他の弟子達は一瞬あっけにとられてから
慌てて会釈をする。
 だが、十郎はそれには目もくれず、自分に鋭い眼差しを向ける男を
凝視していた。
「来い」
 一言だけ言うと十郎は立ち去ったので、果月は急いで後を追う。
『……なんの用だ……何が起きるんだ……何か話すのか………』
 果月の胸は不安と期待で高鳴り始める。
 屋敷の一番奥にある十郎の私室に行くと、二人は座卓を挟む形で腰
を降ろした。
 果月はいつもの落ち着き払った十郎の顔が、心持ち青ざめているよ
うに見える。
 その十郎が座卓の上に一通の封筒を置き、果月の方へ差し出した。
「お前に手紙だ………」
 果月は急いで手に取り、中にある便箋を取り出して広げた。
 思った通り、それは友弘からの手紙であった。
『果月へ
 果月、元気にしているかい。俺の方は大丈夫だよ。実は今度フラン
スへ行く事になった。お義父さんの紹介で大学の日本美術科で教える
教授の助手を勤める為だ。
 いきなりこんな話をしてすまないと思っている。
 会えないまま旅立つ事を許して欲しい。
 お前に会うと決心がぐらつきそうで怖いんだ。本当にすまない。
 お前と暮らした十二年間は夢のように楽しかった。その想い出は俺
の心の一番美しいところにある。決して忘れない。離れていても、い
つもお前を想っているよ。ずっと、愛している。
 どうか幸せになって下さい。
 小鳥遊 友弘』
 果月は意味が分らなくて、何度もその短い手紙を読み直した。
 だが、何度読んでも自分が望んでいた言葉は書かれていなかった。
 戻るも、帰るも、会えるとも書いていない。
『……なんだ…これは……友弘は何を言っている………つまり……』
 これは……別れの手紙なのだ………
「……まさか……どうして…………」
 果月の頭の中は混乱して何を考えたらいいのか分らなかった。
 こんな事が起こる訳がない。友弘がいなくなってしまうなど、まっ
たく予想していなかった。会えないのは今だけ、この事態を打破する
ば、きっとすぐに会えるのだと信じてきたのに、その彼から別れを告
げられるなど………
 なぜだ………!
 果月は全身を震わせながら手紙を食い入るように見つめる。
 そんな彼の様子を十郎は黙ってじっと目に映していたが、心は他の
ところにあった。
 十郎は昨夜の出来事を思い出していたのである。
 昨夜の深夜、十郎は友弘のいるマンションを訪れていた。
 玄雄から話を聞き、もう二度と離すまいと誓った友弘を自分のもの
にする為に………
 予想していたのか友弘は驚かず、落ち着いた様子で十郎を出迎えた。
 和室に正座する形で二人は向い合った。
 十郎の射ぬくような視線を友弘は痛い程感じていた。
「……昨日父から聞いた………お前がフランスに行くとな………」
「ああ…………」
「……俺が許すと思っているのか………?」
「……………」
「絶対に行かせない………」
「……十郎………俺は行かなきゃ………」
「駄目だ………」
「……俺はここにいてはいけないんだ………」
「お前が決める事じゃない」
「………十郎は俺にどうして欲しい………?」
「………………」
「……俺は……何をすればいい………?」
 十郎は懐から小柄を取り出し、二人の間に置いた。
「……お前の命が欲しい………」
 愛されないのなら、彼の全てを、命を自分のものにしたかった。
 そして友弘を永遠に自分のものにするのだ………
 昨夜、玄雄から話を聞いてすぐにここに駆け付けなかったのは、後始
末をする為だった。
 自分がいなくなってからの混乱を最小限に食い止める手筈を済ませて
きたのである。
 未練も戸惑いもなく、裡に秘めた炎に飛び込む事を想像すると、甘美
な震えがはしった。
「………分った…………」
 友弘は動揺もみせず、まるでいらなくなったものをあげるかのように
簡単に答えたので、十郎は一瞬耳を疑った。
 友弘の手が伸び、小柄を掴んで鞘を抜く。十郎は黙ってその姿を見つ
めていた。
「……お前は……駄目だぞ………」
 少し淋しそうに微笑んで言った友弘の声に、十郎は全身がぐにゃりと
歪んだような衝撃を感じる。
 今、自分が見ているものがいきなり現実のものとなって目に飛び込ん
できた。
 冷めていた頭に急速に熱が戻ってくる。
『………本気だ…………』
 彼は本気で自分に命を捧げようとしているのだ………
 目の前で友弘が死のうとしている………
 本当に自分は彼の命が欲しいのか………
 彼を自分のものにするというのは、こういう意味なのか………
 十郎の心が散り散り乱れ、激しい痛みを胸に感じる。
 友弘が深呼吸をして両手で小柄を持ち直す。
 彼も今日一日であらかたの後始末はすませていた。能面教室には新し
い能面師を紹介したし、仕事はちょうど区切りの時で、未完成のものは
ない。自分がフランスに行く事になるにしろ、何かが起きるにしろ、こ
こからいなくなる事は確実だったから………
 瞳を閉じ、友弘は喉に刃を突き立てようと手を出来るだけ遠くに離す。
 もう会えない果月の姿を思い浮かべて、無意識に微笑みがもれる。
 最後に深呼吸をして覚悟を決めた友弘は、小柄を刺そうと喉元に刃を
向けた。
 だが、刃が喉を貫く寸前、十郎の腕が友弘の手を止めた。
 渾身の一刀だったので、止まられても友弘はすぐに力を抜く事が出来
なかった。十郎は慎重に小柄を友弘の手から離させ、遠くへ放り投げる。
小柄は壁にあたって畳へ落ちた。
 身体の緊迫が溶けた友弘は畳に手をついて、がっくりと項垂れる。
 二人は止めていた息を吐き出し、荒い呼吸を繰り返した。
「……どうして………」
 十郎が苦しそうに声を出す。
「……どうして……そんな簡単に俺の言う通りにするんだ………!」
 友弘の肩を掴んで十郎は激しく揺さぶった。
『どうして抵抗しない!どうして俺を罵らない!』
 もし、友弘が抵抗し自分を罵ってくれれば、なんのためらいもなく彼
の命を奪えただろう。そして、自分も狂喜の中、いっしょに堕ちる事が
できたのに………!
「……十郎……俺がお前にしてやれる事はこれぐらいしかないからだ…」
「………友弘…………」
「……お前にどんな辛い思いをさせたか分っているつもりだ……お前は
俺にとって大事な人なのに………」
「……どうして…そんな風に思えるんだ………」
 自分が彼にした事を考えると、十郎は友弘の言葉が信じられなかった。
「……小さい頃、俺が孤児だっていうので虐められたらいつも庇ってく
れたろ………」
「……その程度の事で………」
「俺はお前の友人なのが誇らしかったよ……お前はいつも大勢の人に囲
まれて頼りにされていたな………」
「……それは俺が跡取りだからだ………」
「……でもお前はそれにふさわしい人だよ………」
「………………」
「不思議だったんだ……俺と十郎とじゃ家柄も違うし環境も性格も違う
のに、俺は誰よりも十郎を身近に感じてた………俺の気持ちを誰よりも
理解してくれているって………それがどれだけ俺のやすらぎとなったか
分らない……だから、十郎……お前は大事な人なんだ………」
 それは俺も同じだった、と十郎は心の中で呟いた。
「……ある日気がついたんだ……十郎と俺は同じだって………」
「………………」
「心の根底で孤独を抱えているんだって………」
「……友弘………」
 頂点に立つ者は孤独である。
 どれだけ大勢の人が自分の周りにいようとも、どれだけ賛辞を送られ
ようが決して癒される事のない孤独………
 家長となる十郎は一生その孤独の中で生きねばならないのだ。
 十郎にとって更に不幸だったのは、彼にはそれに堪える度量も、才能
も備わっていた事である。
 友弘だけが拠り所だった………
 あの頃はお互い大切な友人で、同じ想いを抱えていたのに、一体いつ
から違い始めていたのだろう………
「……だから……少しでもお前の力になりたかった………お前が俺にや
すらぎを与えてくれたみたいに………」
「………………」
「……なのに俺は……お前を苦しめてばかりだった………」
「お前が……俺を……?逆だろ………」
「……十郎……お前をいつも追いつめていたのは俺だった………」
 彼が爆発するのはいつも自分に対してだけだ。
 六年前の時も、このマンションに連れて来た時も………
 原因はいつも自分だったと友弘は知っている。
「………一番…お前を苦しめる人を……想った…………」
 十郎は自分を見つめる友弘の澄んだ瞳を覗き込んだ。その奥にある光
を………
 淋し気で、すべて悟っている美しい瞳………
 一番お前を苦しめる人、と言った彼の言葉に十郎は戦慄を覚える。
「………お前……知っているのか………あいつの父親が誰だか………」
 友弘は何も言わなかったが、沈黙は答えだった。
「……知っていて……知っていてどうして小夜子と結婚した。どうし
てあいつの父親になったんだ!」
「…お前の子供なら果月は優しくていい子だと分っていたからだ……」
 十郎は苦しくなって双眸を閉じた。
 彼の残酷な優しさが身体中に突き刺さるようだ。
 二十年前、小夜子が失踪する前の日の夜、眠っていた十郎の部屋に
来たのである。
 そして、自分が好きだと言った。
 だから結婚する前に一度でいいから情けをかけて欲しいと言われて
十郎は驚愕した。
 どうして小夜子を抱いたのか自分でも分らない。
 その時はまだ友弘への想いは自覚しておらず、ただ、小夜子の縁談
に落胆している彼を見て、苛立たしく思っていた。
 頭の中で友弘の事や、小夜子の言葉と涙がぐるぐる回り、混乱して
どうしていいのか分らなかった。
 彼女を哀れに思ったから抱いたのか………
 家に対する反抗からなのか………
 理由はそのすべてであり、どれでもないような気がする。
 もしかしたら友弘の代わりにしたのかもしれない。
 小夜子を抱いている時、十郎は友弘の事ばかり考えていて、その時
自分の想いが恋だと初めて気付いたのだから。
 後悔した十郎は彼女が失踪した時ほっとした。もう、このまま戻っ
てくるなと願いさえした。
 しかし、彼女は帰ってきた………
 あの夜の子を宿して………
「…………いつ……知った………?」
「……俺との結婚話が持ち上がった時、小夜子さんが話してくれた…
だから結婚なんかしなくていいって……でも俺は彼女がいなくなった後、
自分と同じような孤独を果月に感じて欲しくなかった………」
 きっと優しくていい子だから………
 自分が早川に愛されなかった時のような痛みを感じて欲しくなかった。
 十郎と小夜子の子供だから………
『ごめんね、ごめんね友ちゃん……私、十郎が好きなの……ずっとずっ
と好きだったの………』
 彼女は何度も何度も謝った。
 小夜子は一度きりの十郎との逢瀬を胸に死ぬつもりだったらしい。
 だが、熊野の森の奥にある寺の住職に見つかり、止められてしまった
そうである。
 しばらく寺に御厄介になり、このままここにいようかと考え始めてい
た矢先、懐妊に気付いた。
『私、嬉しかった……これで、結婚せずにすむ。十郎の側にいられるっ
て……きっと神様が味方してくれたんだと思った……でも駄目ね……
十郎は決して私を許さないわ……きっと心の底から憎んでる……それで
も……彼の側にいたかったの………』
 小夜子が私生児を産み、家名に泥を塗った女として蔑まれながらも近
江家にいたのは、一途に十郎の側にいたいからだった。
 しかし、自分の寿命があまりないと悟った時、果月の行く末が心配に
なったのである。
 本来なら十郎は私生児というぐらいで、甥に冷たい態度をとるような
狭量な人間ではないが、自分に対するの憎しみを代わりにぶつけられる
のではないかと恐れたのだ。
 家名を重んじる親戚筋の者は追い出そうとするかもしれない。その時
の小夜子はわが子を愛するただの母親だった。
 友弘は母親の顔をしている小夜子に、知らない自分の母の姿が重なっ
て見えた。
『俺が果月の父親になるよ……父親としてあの子を愛して大切に育てる
よ…』
 そう約束したのに………
「……俺は父親になれなかった………」
「………………」
「………十郎……お前も苦しめた………」
「……俺は……友弘……お前を利用したんだな………」
「………十郎…………?」
「自分の罪を消す為に………」
 十郎は小夜子と果月の存在を徹底的に無視した。いない者達と思い込
むことで、自分の罪から目を逸らしたのである。
 友弘が小夜子と結婚した時はショックだった。
 一瞬、小夜子が自分に気持ちに気付いて復讐したのかと疑いもした。
 だが、心のどこかで、果月に父親ができるという事に安堵している
自分がいた。
 これで果月に私生児という負い目はなくなる。小夜子も未婚の母で
はなくなるのだから、自分が罪の意識をもつ必要はもうないのだと……
「………小夜子がお前を利用するなんて言っておきながらな………」
 なんて卑怯な男だと十郎は自分を激しく罵った。
 本当に結婚を止めたければ、事実を言えば良かったのだ。
 果月の父親は自分だと………
 言わなかったのは罪の意識から逃れたかったからだ。
 なにより、友弘に軽蔑されるのが怖かった………
 彼に対して誠実であるより、自分の矜持を捨てられなかった………
「……罰だと……思ったよ………」
 自分の罪の証である果月が友弘を愛したのも、彼の心を手に入れた
のも……罰なのかと………
 だから、認めたくなかったのだ。
「……十郎…お前は優しくて強い人だよ………」
「俺が……優しい………?」
「本当に冷たい人間ならどんな手段を使っても、小夜子さんと果月を
追い出しただろう……でも、お前はそれをしなかった………蔑みもしな
かった……責任を彼女に押し付けたりもしなかった………」
 誤魔化しもせず、自分の過ちを受けとめていた………
 だからいつも苦しんでいたと、友弘は知っている………
 それなのに、彼の苦しみに気付いておきながら、自分は果月を想って
しまった………
「……友弘………」
「俺は……お前を憎んだ事はない……罰を与えようなんて思った事
も……」
「………………」
「……苦しめるつもりもなかった……なのに…俺は………お前を追い
つめてばかりで………」
「………友弘………」
「……俺に出来る事があるなら……したいんだ………」
 ………自分の命が欲しいのなら、あげても良い………
 友弘の瞳が十郎にそう訴えかけてくる。
 その為だけに、命をくれようとしたのか……俺の為に………
「……あいつを………愛しているのか…………?」
 十郎の問いに友弘は顔を少し伏せた。
「……果月は……俺のずっと欲しかったものをくれた………」
 小さな果月が自分の所にやって来たあの夜、果月はなんの躊躇もなし
に自分がずっと求めていたものを与えてくれたのだ。
 自分の名を呼び、抱き締めてくれた………
「………愛しかった………」
 そしていつの間にか彼を一人の男として………
「……幸せになって欲しいと願ってる……そして……十郎……お前も幸
せになって欲しいんだ………」
「……許して……くれていたのか………」
 友弘の頬にそっと手を触れ、もう一度彼の美しい瞳を覗き込む。
 どうして彼は人の弱い心をそうも簡単に受けとめてくれるのだろう……
『こんな人だから………』
 自分は愛したのだと十郎は思った………
 十郎はゆっくりと友弘の身体を抱き締める。
 腕の中に収まってしまう、小さな身体をした彼………
 本当に欲しかったのは彼の心だ………
 それだけしか欲しくなかった………
『……けれど………違うんだな………』
 友弘が求めているものを与えてやれなかった………
 自分にもう翼はないのだと十郎は気がついた。
 六年前のあの日、結婚を決意した時、彼を凌辱した時、自ら翼を引き
千切っていたのだ。
『……いや……もっと前だ………』
 小夜子を抱いた夜。
 あの夜、自分は友弘に愛される資格をすでに失っていたのだ………
「……友弘………」
 自分はどれ程彼を愛しただろう………
 十郎は友弘を抱き締める手に、再び力を込める。
 無理矢理肌を合わせた時よりも、今、彼を抱き締めているこの時に、
彼のぬくもりを痛い程感じる……
 このぬくもりを奪う事は、もはや十郎には出来なかった………
 たとえ自分のものにならなくても………
 すべてを知りながら、許していてくれた彼だから……奪えなかっ
た………
「………友弘………お前に………愛されたかった…………」
「……十郎………」
 友弘は十郎の腕の中で、彼の声にならない叫びを聞いた。
 十郎の抱擁はいつしか息も出来ぬ程強いものとなっていたが、友弘は
黙って彼の無言の叫びを受けとめた。



 

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