秘すれば…(投稿用)1


     一
 それは六年前、果月が14歳の時であった。
 義理の父である小鳥遊友弘と共に、果月は近江の屋敷を訪れた。亡くなった果月の母、小夜子の実家である。この日は近江家の家長である玄雄の還暦の祝事がとり行われる為、招待されたのだ。玄雄は小夜子の父で果月にとって実の祖父にあたる人物である。
 近江家はシテ方月華流に属する能楽家で、室町時代から続く名門である。その由緒ある家柄の屋敷は広大で、初めて訪れた者はまず立派な門構えに圧倒されるのが常だった。果月はその立ちはだかるような門の前で、軽いため息をついた。能稽古に毎日通っている家なのに、今日は親類縁者の冷たい視線を浴びると思うといつもより門が大きく感じる。
「さ、行くぞ果月」
「うん……」
 友弘の言葉に促されて果月は門をくぐった。屋敷の中に入ると親類や招かれた関係者達が、部屋を埋め尽くすように集まっていた。玄関の一番近くの部屋に来客用の居間と大広間があるが、皆はその居間にいる。大広間で宴会の準備が整うのを待っているのだ。集まった人々は思い思いに喋ったり、お茶を飲んだりしてくつろいでいる。何人かは果月達に気付き、ねめつくような目で眺めてひそひそと話しだした。それを見た果月は『言いたい事があるならはっきり言え!』と怒鳴り付けてやりたい気分になる。
「すみません、小鳥遊です。お義父さんにご挨拶したいのですが」
 忙しそうに働いていた女中に、友弘が遠慮しがちに声をかける。
「あ、はい、こちらです」
 女中は丁寧に奥へ案内してくれた。住人用の部屋は大広間より奥にある。さらに奥に稽古場が設けられており、この広い屋敷の中は玄関から入るにつれ、客人用、住人用、稽古用、と居住区が分かれているのである。
「果月、友弘、良く来てくれたな」
 玄雄が小広間で赤い座布団の上に正座して二人を出迎えた。還暦なので頭には赤い帽をかぶり、赤い上着を羽織っている。
「お義父さん、この度はおめでとうございます」
「おめでとうございます、お祖父様」
 玄雄の前に座ると、二人は頭を下げて祝いの言葉をのべた。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今日はめでたい祝いの席だ。ゆっくりくつろいで楽しんでくれ」
「ありがとうございます」
「宴会は大広間で行うから、始まるまで好きなように待っているといい」
「はい、お義母さんにも挨拶をしてきます。十郎さんは?」
「妙子は女中達に支持をだしている筈だから、台所か大広間にいるだろう。十郎は多分親戚達の世話でそこらへんをうろついていると思うが」
 十郎はこの家の嫡男なので、親類縁者の接待に追われているのだろう。彼は小夜子の弟で果月の叔父だが、果月は彼が嫌いだった。
「ありがとうございます。では失礼いたします」
 部屋をでると友弘は台所に向かおうとした。
「祖母さんに挨拶するの?」
「ああ」
 果月はまたため息をついた。近江家の者で普通に接してくれるのは祖父だけだ。祖母には冷たい目で見られると分かっているので気が重くなる。
「どこかで休んでくるか?」
 果月の様子に気付いた友弘は優しく声をかけた。
「え?でも……」
「お義父さんには挨拶したのだし、お義母さんには私が挨拶しておけば大丈夫だ」
「う…ん……」
「いいから、行っておいで。宴会が始まるまでまだ時間があるようだし」
「いいの?」
「ああ」
「じゃあ、どっかで休んでおくよ。ちょっとしたら戻るから」
「分った」
 少し安堵した果月はどこかで寝ようと思いつく。誰にも見つからず邪魔されない場所はどこかと考えて、装束部屋の納戸に決めた。そこは能の装束や小道具、面などが保管されている場所で、屋敷の一番奥にある。今日のような稽古も舞台もない日は誰も来ないだろうと、果月はさっそく装束部屋に向かう。8歳までこの屋敷に住んでいた果月は、どこの廊下が人通りが多いかなど知っているので慎重に歩き、誰にも見られず目的地に到着した。中を伺いながら引き戸を開けると、思ったとおり誰もいない。
『よし』
 部屋の入り口辺りは廊下と同じ板間だが、少し上段になったところに六畳程の畳が敷いている。ここで装束を広げたり道具類を調べるのである。壁は棚だらけで、畳の奥に納戸があり、その中にも装束や面などが納められている。果月は畳に上がり、納戸の中に入った。中は狭くて人一人がやっと通れるだけの空間しかなかったが、羽織を脱いだ果月は構わず寝転がる。
 ここで隠れていれば誰にも分からないだろう。なんなら宴会が終わるまでここで寝ていたいが、それはできなかった。もし、ここで自分が欠席すれば、義父の友弘に鉾先が向けられるからである。お前の教育がなっていないと、分家の者達が因縁をつけるに決まっているのだ。優しい友弘に嫌な思いはさせたくない。ならばせめてぎりぎりまでここで寝転がっていよう、と果月は目を瞑った。すると、目蓋の裏に先程の親戚どもの視線が蘇ってくる。きっと『あの私生児が』とか『家名に泥を塗った女の子供』等の陰口を叩いていたに違い無い。
 果月の母、小夜子は18歳の時、熊野詣でに行ったまま行方をくらましたのである。神かくしか、誘拐か、などと大騒ぎとなったが二ヶ月後、無事に戻ってきた。なんとその時、果月を身ごもっていたのだ。
 小夜子は行方不明となっていた時の話をいっさいせず、身ごもった子は絶対に産むと言いはった。彼女の態度から駆け落ちしようとしたあげく、男に捨てられたのではないかと皆は噂した。それ以来、家名を汚した親子として親戚者から白い目で見られてきた。
 この家に母と住んでいた時は、人々の無言の眼差しを浴びて、幼いながらも無気味さを感じていた。母は愛情を注いでくれたが、自分達の回りには常に冷たい空気が漂っていたのである。
 果月が自分の出生の秘密を知ったのは、母と近江家御用達の能面師である友弘の結婚が決まった時だ。彼が母と結婚したのは六年前で、名義上、果月は15歳年上の父を持つ事になった。当時果月は8歳だったが、いつも遊んでくれる優しい友弘が父親になると分かって嬉しかった。しかし結婚式の前日、偶然、勝手口で女中達の話を聞いてしまったのである。
「明日の婚儀、小鳥遊さん可哀想ね」
「いつまでも未婚の母では家の体裁が悪いから、彼に押し付けたんでしょ」
「小夜子様はお綺麗だけど、病身だし最近じゃほとんど寝たきりじゃない」
「薬代とか治療費は近江家が持つって聞いたけど?」
「じゃあ、そのお金目あてで結婚するのかしら?」
「にしても、どこの男の子供か分からない子を育てるなんてやっぱり嫌でしょ」
「そうよね〜大体小夜子様が亡くなったらあの子の面倒をずっとみなきゃいけない訳だし」
「今までもどこかへ嫁がせようとしたけど、子供が理由で話がまとまらなかったらしいわ」
「だから、小鳥遊さんに押し付けたのよ。小夜子様とは幼馴染みだし、近江家御用達の能面師が断れる筈ないもの」
「ねえ、本当に小夜子様駆け落ちしようとしたの?」
「多分ね。実はその頃小夜子様に縁談の話が持ち込まれたんだって。で、それを嫌がった小夜子様が男と逃げたって噂よ。まあ結局は捨てられて戻ってきたんだけど」
「その時の縁談は?」
「当然破談よ」
「結局一番貧乏くじひいたの小鳥遊さんね。あの人優しいから」
「本当ね〜」
 聞いた当初、果月は意味が分からなかった。だが、時が経つにつれ、自分の生まれた経緯や家の者達の態度の意味が、なんとはなしに理解できるようになった。これまでにも、何故自分には父親がいないのか母に尋ねようとしたが、身体の弱いか細い母に、そんな辛い話をさせるのは躊躇われたのだ。子供心に自分の出生が辛いものであると感じ取っていたのである。
 母は青白くて、細くて、果月は消えてしまうのではないかといつも怖かった。母が病弱な理由は家の者達の態度に神経をすり減らしているのも原因の一つだと果月は思っていた。だから、近江家の者達が果月は大嫌いだった。この家の中で普通に接してくれるのは玄雄だけで、祖母の妙子は自分達に対してあからさまな憎しみの目を向けていた。そして、叔父の十郎は果月親子を完全に無視していた。何か用事がある時も人に伝言を頼むのである。実の姉と甥に対してあまりにも冷たい態度であった。普段は居ない者であるかのようにふるまわれるが、背中にぞくりとする視線を感じて振り向くと、そこにはいつも彼がいた。
 一体何が言いたいのだ?
 十郎の態度が理解できなかった果月は、彼が一番不快な人物であり、一番嫌いな男だった。

 まどろんでいた果月は、話し声でふと目を覚ました。誰かが部屋に入ってきたようである。
『まずい、誰だろう?』
 果月は納戸の引き戸を少し開けて、誰がいるのか確かめようとした。近江家の者は自分を嫌っているので、こんな所で寝ているのがばれたら怒鳴りつけられるに違いない。自分だけならいいが、友弘が嫌味を言われるのは厭だ。慎重に外を覗くと部屋にいたのは友弘だった。
『なんだ、友弘か』
 出て行ってもいいかな、と思ったがもう一人いた人物を認めて果月は眉をひそめた。彼と話しているのは叔父の十郎だったのである。十郎が自分達に冷たい態度をとるのは、家名を汚した者としてみているからだと果月は思っていた。彼の態度は母が友弘と結婚して、自分達親子がこの家を出てからも変わらなかった。いや、むしろひどくなったような気さえする。自分にとってどうしようもない理由で不遜な態度をとられるのは理不尽だと思うが、抗議しても何も変わらないので必死に我慢した。母や祖父に対する気づかいもあったし、何より自分が騒ぎを起すと友弘が不利な立場にたたされると分かったからである。四年前に母が亡くなった時は、さすがに怒鳴り込みに行ってやろうとしたのだが。
『あいつといっしょじゃ隠れてた方がいいな。でも友弘と何の話だろ?』
 自分の事で何か友弘に言う気じゃないだろうな、と隙間から二人の様子を伺いつつ、果月は聞き耳をたてた。
「今度婚約する事になった…今日、父が宴会の席で皆に伝える予定だ」
「そうか、おめでとう」
 どうやら自分の婚約を友弘に伝えているようである。しかし、なぜこんな所でわざわざ?
「本当にそう思うか?」
 十郎の声がいつになく低いように果月は感じた。
「ああ、良かったな、おめでとう」
「別にめでたくはない」
「え?どうして?気に入らない女性なのかい」
「…月華流の大鼓方のお嬢さんさ…つまり政略結婚だ…」
「…でも…いい娘さんなんだろ?」
「ああ、いい子だ。品があって、控えめで、夫をたてる模範的な妻になるだろうよ」
「…じゃあ…大切にしてやれよ…お前みたいな我の強い男は、ちゃんと後ろに控えてくれる人がいいと思うぞ」
「だが、つまらん女だ」
「…おい…十郎…そんな言い方失礼だろ」
 友弘は十郎と同歳である。小さい頃から小夜子をまじえてよく遊んでいた幼馴染みなので、いつも友達口調だった。果月はその話を聞く度に『本当にこんな高慢な男にも、そんな時代があったのだろうか?』と信じられなかった。唯一、友弘が十郎と対等に話している時に、その話の一旦を垣間見る気がするだけである。友弘は自分に友人口調を許している話をして、十郎を良く言う時があるが、果月はいつも不快に思った。大好きな友弘が自分の嫌いな十郎を信頼しているのが厭なのだ。
「…十郎…もしかしてお前…誰か好きな人でもいるのか?」
「……………」
「そうなのか?だから、結婚したくないのか?」
「…お前…何故小夜子と結婚した?」
「え……?」
 予想していなかった十郎の言葉に友弘は少し驚いた。同じように納戸で話を聞いていた果月も息を飲む。それは自分もずっと感じていた疑問だったからである。あの女中達の話を聞いてから、果月は素直に母と友弘の結婚を喜べなくなった。しかし、いっしょに暮らしてみて、友弘は決して物の損得で動く人ではないと分かった。彼は優しくて思い遣りのある心の綺麗な人だ。なにより、母が亡くなった時の友弘の落ち込み様は、見ていて痛々しい程だった。本当に友弘は母を愛していたのだと思うが、彼に直接確かめた訳ではない。
「何故、小夜子と結婚したんだ…?」
「な、何故って……」
「同情か?義理か?」
「…違う。俺は小夜子さんが好きだったからだ…」
「…そうだったな…お前は小さい頃から小夜子に憧れていたな…」
「……………」
「一度小夜子の縁談が持ち上がった時のお前の落胆ぶりは今も覚えている…」
「……………」
「ところがあの騒ぎで縁談は消えた…嬉しかったか?」
「…何が言いたいんだ…?」
「一度諦めたものが、自分のものになるというのはどんな気分だ?」
 十郎が友弘に迫ってきたので、友弘は身体を少し逸らした。十郎はよくも悪くも人を圧倒させる雰囲気をもった人物である。背も高く体格に恵まれているので、28歳にして近江家の跡取りの風格を備え始めていた。それは能楽師としての才能も備わっている自信も加わっている。その十郎が友弘の前に威圧的に立ちはだかったので、果月の目には小柄で細身の友弘が余計に小さく見えた。
「嬉しかったか?歓喜したか?」
 十郎の手がのびて、友弘の両肩を掴むと自分の方へ引き寄せる。
「どこがよかったんだ、あんなあばずれ…」
 十郎の言葉に友弘の表情が曇った。
「…よせ…」
「どこの馬の骨とも分からない男と子供まで作りやがって…」
「…離せ…帰る……」
 友弘は十郎の腕を払って降りほどいた。普段の彼らしくない仕種に怒っていると分かる。
「今日のお前変だぞ。ちょっと頭冷せ」
 部屋を出ようとした友弘の腕を十郎は再び掴み、乱暴に自分の方へ引き寄せた。
「まだ、愛しているのか?!」
「…………!」
「結婚生活はたった二年間。その間小夜子はほとんど寝たきりだった…そんな夫婦生活で幸せだったのか…?」
「……十郎……?」
「……小夜子と寝たのか……?」
 突然、十郎は友弘の身体を抱き寄せ、彼の唇を吸った。友弘は呆然としてしばらく動けなかった。
「な、なにする十郎……」
 やっと我にかえった友弘が十郎を突き飛ばして身体を離した。が、次の瞬間、十郎に身体を押され畳の上に倒される。背中をしたたかに打って、友弘は息がつまった。痛みがはしって動きが止まると、十郎が身体の上にのしかかり、友弘の着物の襟元を大きく開いてきた。
「……十郎……?」
 友弘の問いに答えず、十郎は腰紐も解いてくる。友弘は正装の紋付袴で近江家に来たが、この部屋に入ってきた時、羽織りは脱いでいた。
「な、何してる?おい十郎……!」
 友弘はなんとかして十郎を止めようと手を掴んだが、逆に手首を掴みかえされてしまう。
「…痛……」
 取られた手は畳の上に押さえ付けられた。
「お前が小夜子と結婚した時、俺がどんな気持ちだったと思う!?」
 十郎が震える声で悲鳴のように叫ぶ。
「……十郎……」
「お前が小夜子を見ていたように、俺もずっとお前を見てきた…なのにお前はまるで気付かなくて…」
 友弘はその言葉に呆然となりながら、自分の上に覆いかぶさる十郎を見つめていた。
「…絶対お前は俺のものにならない…分かってた…諦めてた…だが…」
 十郎の瞳に妖しい光を見て、友弘の背中にぞくりと冷気が走る。友弘の着物を脱がせようと十郎は乱暴に裾を引いた。
「よせ!十郎やめろ!」
 十郎は友弘の声など聞こえていないかのように、表情も変えずに手を進めていく。友弘は逃げ出そうと必死にもがくが、体格が違う上に不利な体勢なので上手く動きがとれないのだ。そのうち、はだけられた着物が肘にたまり、腕があがらなくなる。それに気付いたのか、十郎はいきなり友弘の身体を後ろに返し、着物ごと手を後ろに回して縛ってしまった。
「なっ!やめろ、解け!」
「断る……」
「十郎……!」
 再び友弘の身体を仰向けにすると、彼の顔を掴んで髪をかきあげる。友弘はびくりと震え、怯える瞳で十郎を見つめた。こんな表情を自分に向ける彼は初めてで、十郎の中に今まで押さえていた強烈な想いが突き上げてくる。
「お前を俺のものにする……」
 十郎は友弘に激しく口付け、彼の首筋に歯をたてる。
「いやだ……十郎……」
 掠れた悲鳴を無視し、手を中に入れて触れると、友弘の身体が大きく震えた。
 果月は微動だにできなかった。驚愕と戦慄の為、ただ、その光景を見つめるしかなかった。目の前で起きている事がすぐに理解出来ない。混乱していた頭がやっと起きている事態を把握する。
『友弘が十郎に凌辱されている…!』
 どうすればいい?出て行って十郎を殴りつけて止めればいいのか?誰かに見られていたと知ったら、二人はどういう態度をとるのだ?友弘は傷つくだろうか?
 頭の中で大きな渦がぐるぐると回っている気分だった。
 どうすればいい?
 動揺しながらも、一方で冷静に二人の様子を見ている自分がいた。身体が硬直して動かず、見てはいけないと心のどこかが警告するが、その光景は容赦なく果月の網膜に焼き付いていく。
 十郎が友弘の左足を肩に抱え上げたので、彼のむき出しになった腿が目に飛び込んでくる。その時果月は友弘の足が白くて綺麗だと初めて気がついた。滑らかなその腿は、妖艶な香りを放っているようで果月の目は吸い寄せられる。うす暗い部屋の中でやけにその白い腿が浮かんで見えて、痛々しいが、同時に艶かしくも感じた。
「あ!…あ…う……」
「…友弘…俺のものになれ……」
 十郎が熱い吐息とともに友弘に囁きかける。こんなに余裕のない十郎を果月は初めて見た。彼はどんな時も常に落ち着き払っていて、感情を表にださない冷徹な男だと思っていた。そして、母と自分への態度の理由を初めて知った。彼の冷たい視線の意味は、愛する人を手に入れた者に対する嫉妬だったのか。
「や、やめ…駄目だ…十郎…あ!」
 友弘の声に果月は突然我にかえった。
『俺は…なにしてる……?』
 自分を浅ましく感じた果月は引き戸から離れ、納戸の奥に蹲った。見ているしか出来ないばかりか、果月は友弘の声に身体が熱くなってしまったのである。自分が醜い人間になってしまったようで、情けなくて涙が滲んだ。友弘の声がまた聞こえる。今迄聞いたことのない甘い響きをもった声だ。同時に衣擦れの音、揺さぶられて軋む板の音、十郎の熱い息遣いが聞こえる。初めて聞く媾合の波に、二人の燃える熱までも伝わってくるようだ。その波にまた果月の身体が反応する。自分の奥底から滲みでようとしている獣欲を果月は必死に押さえ付けた。耳を塞ぎ、できるだけ聞こえないようにする。自分の中で何かが変わっていくのを、嫌悪しながら感じていた。

 どれぐらい時間がたっただろう…
 部屋から物音がしなくなっている事に気付く。固まっていた手足をなんとか動かし、果月はそっと隙間から部屋の中を覗いた。十郎の姿はなく、着衣の乱れた友弘が白い背中を向けて横になっているのが目に映る。
 彼の背中が小刻みに震えている。泣いているのだ…
 果月は見ていられなくて、また納戸の奥へ引っ込んだ。自分に対する罪悪感で胸が苦しい。
 しばらくすると、身支度を整えているのだろう友弘の動く気配がして、引き戸の音とともに出て行ったのが分かった。果月は暗闇の中に蹲りながら、長い間動けなかった。
 これからどうすればいいのかと思うが、頭に浮かんでくるのは友弘との思い出ばかりだった。四年前に母が亡くなり、それからずっと二人で寄り添うように生きてきた。友弘の能面師としての評価はかなり高く、この歳で打った面とは思えないと絶賛されている。しかし、四十年で一人前と言われる世界なので、まだまだ修行中の身ではあった。果月は近江家の能役者として修行中であるし、小夜子が亡くなってから援助も断ったようで生活は苦しい。だが、果月の心はいつも満たされていると感じていた。友弘は果月が甘えられる唯一の人だった。幼い頃から甘えるという事ができない境遇で、それが当然だと思っていた。しかし、小夜子の葬式が終わった日の夜。真夜中に突然目を覚ました果月はいいようのない淋しさに襲われた。母を失った不安が一度に溢れ出てきたのである。胸が痛くて堪えきれず、布団から起き上がった。周りを見渡すと、辺りは暗闇ばかりである。暗闇に一人ぽつんと、取り残されたような気がして怖くなる。泣きそうになった果月は部屋を飛び出し、友弘の部屋の前に立った。が、襖を開けるのは躊躇われた。今までそんな行動をとった事がなかったのだ。淋しさを感じても、くやしくても、いつも奥歯を噛み締めて耐えてきた。自分は堪えられると思っていたが、それは母という支えがあったからだった。母はもういない…
 暗い孤独感が胸に迫り、果月はまた泣きそうになる。すると気配に気付いたのか、友弘が襖を開けた。
「どうした?」
「…え……あ…その…」
 なんと言っていいか分からず、果月はしどろもどろになる。友弘はそんな果月の前に屈み込み
「いっしょに寝ようか?」
 と言った。
「え?」
「おいで……」
 友弘は果月の肩に手を回し、部屋に入れた。そのまま布団にいっしょに入ると、果月を柔らかく抱き締めたまま眠ってしまった。果月は母以外の人に抱き締めてもらうなど初めてだったので、恥ずかしくてどきどきした。でも、友弘の暖かさに包まれていると、次第に心が落ち着いて不安が消えていったのである。友弘の胸に身体を預けて目を閉じると、檜の香りが微かに漂う。大切されていると実感する事が、こんなにも幸せなのだと初めて知った。
 苦しい時、泣きたい時、嬉しい時も、友弘はいつも自分の側にいて分かち合ってくれる。果月は友弘と暮らし出して、言いたい事を言えて、感情も表にだせるようになった。彼は全部受け入れてくれるからだ。面を打つ仕事場に入ると、檜のいい香りが漂っていて、果月はいつも清々しい気分になる。その清らかな空気の中で面を打つ友弘は透明で澄んだ存在だ。能面は彫ると言わずに日本刀と同じく打つと言う。神聖な魂を込める作業とみなされているからである。
 友弘が、ただひたすら面を打つ。無心に魂を込めて打っていく。果月はその光景を眺めるのが好きだった。見ているだけで心が穏やかになる。飽きる事無く長い間見つめ続け、幸せだと思った。果月は友弘を父と呼ばない。それよりも、歳の離れた兄や友人といった感情を彼にもっていたからである。しかし、父親が欲しいと思った事はなかった。誰が父なのか気にはなるが、母が亡くなった以上永遠の謎となってしまったし、果月は友弘さえいてくれれば良かったのである。血は繋がっていなくとも、自分達は親子として上手くやっていた。それはずっと変わらず続くものと信じていた。しかし、この時、果月が友弘に対して持っていた感情は違うものへと変化してしまった。彼を軽蔑するような感情はまったくなかったが、自分でも知らなかった熱い想いが沸きだしていた。
 納戸の中で、急に果月は友弘がどこに行ったのか不安になった。装束部屋を飛び出すと、果月は彼の姿を求めて走り出した。家の中は、まだ女中が忙しそうに廊下や部屋を行き来している。大広間の方では宴会が始まったようで、にぎやかな声が聞こえる。近江家の跡継ぎである十郎はそこにいる筈だから、大広間の方に友弘はいないと果月は確信した。あんな事の後で、平気な顔をして人前に出て来られる程彼の神経は太くないのだ。果月は人の少ない部屋を探したが、どこにも友弘の姿は見当たらない。
『もしかして庭かもしれない』
 果月は屋敷の中庭に向う。すでに日は落ちていて、家から漏れた明かりが庭を照らしている。その微かな光を頼りに果月は庭を探し歩いた。この庭は有名は庭師の作で、四季のそれぞれの美しさが感じられる素晴らしいものだった。春は梅、桜、桃、山吹、と色鮮やかな花が庭を飾り、夏は竹の青々しい緑が涼し気な情緒をかもしだす。秋は木々の葉の紅葉が燃えるように美しく、冬は岩に積もる雪が神々しいまでの純白の光を放つのである。友弘はこの庭が大好きだと言っていた。小さい頃はこの庭で、十郎と母とかくれんぼをして遊んだと。果月も美しいこの庭は好きだった。この家に暮らしていた間、一人になりたい時はいつもこの庭に来たものである。
 冬の手前となる今の季節、庭は茶と濃緑がほんの少し色彩を添えているセピア調の雰囲気で、眺めていると訳もなく淋しくなる。そのせいか、果月の不安はどんどん膨らむばかりであった。
 もし、このまま友弘に会えなかったら…
 そんな考えが頭をよぎり、果月はぞっとする。だがしばらく歩くと、小さな池のほとりに立っている友弘をやっと見つけた。少し項垂れて、空虚な表情で池の中を覗き込んでいるが、何も映っていない瞳だった。うす暗く寒い空気の中、淋しそうに立っている。顔色が悪く見えるのは気のせいではあるまい。今にも消えてしまいそうなほど儚気に感じる…
「……友弘……」
 小さく声をかけたが、彼は身体を大きく震わせ顔をあげる。怯えの含んだ瞳と一瞬合うが、すぐに安堵した色に変わった。
「果月か……」
「ああ……」
「…こんな所にいてすまなかった…探したんじゃないか?」
「……そうでもない……」
「…あの…気分が悪いんだ…帰らないか…?」
「……いいよ……」
 友弘は立ち上がリ、ゆっくりとぎこちない歩みで果月の側まで来た。事情を知らなければ、歩き方がおかしいがどうかしたのか、と尋ねるところである。果月は無意識に握っていた拳に力を込めた。
 中庭を抜けて、裏口の小さな勝手口から屋敷を出る。帰り道を歩いている間、二人は始終無言であった。友弘は先程庭で見た時と同じ表情で、少し足を引きずるようにゆっくり歩いている。果月もそれに合わせて歩いた。果月は何か気をそらす為に喋った方がいいかと考えたが、すぐに友弘にそんな余裕がないと気がつく。彼はうつろな瞳をして、荷を背負っているかのような重い足取りである。瞳には怒りや憎しみでもなく、ただ哀しみだけが漂う。凌辱の場面が頭の中に蘇り、果月の胸は痛んだ。何も出来なかった自分を激しくなじる。
『…守りたい…今まで友弘が自分を守ってきてくれたように…今度は俺が…』
 大切な彼が二度と悲しまないように自分が守るのだ。果月は隣を歩いていた友弘の手を思わず掴む。彼の冷たい手を果月はたまらなく愛しく感じる。友弘は少し驚いた表情で果月を振り返ったが、微笑むとそのまま何も言わずに歩いた。体調の悪い自分を気づかっていると思ったのである。果月はそんな彼をずっと見つめ続けていた…
 この日から果月は急速に大人になる。そして友弘が彼にとって、完全に義父ではなくなった日でもあった。