桜雨

ふいに目を覚ます。
部屋を見渡し、窓から差し込んでくる光り加減から夜明け近くだと推測する。
伊達は身を起こして、自分の目を覚まさせた源へと足を向けた。
渡り廊下に出ると、春先の少し冷たい空気が頬を撫でる。
新緑の香りと朝霧に濡れた湿気が肌にまといつき、早朝の清々しさを気持ち
良く感じた。
伊達は療内でも入口から一番遠く、稽古用道場に近い一人部屋を陣とってい
た。
この道場は寮内の一番奥にある道場という事もあって、授業でもほとんど使
用されず、稽古に使う者もあまりいなかった。学校の校舎内にある道場の方
が利便があるので皆はそちらを使う。
伊達としては、この人気の無い道場が気に入っている。
その道場から微かな張り詰めた気を感じるのだ。
そういった空気には敏感な性分であるから、無意識にも目を覚ましてしまっ
たのである。
道場の中に予想どおりの人物を発見した。
少し冷たい空気の中、風を切る音がする。
身体全体、腕から伸びる剣先にまで、気が張り詰め、その澄んだ緊張の色は
辺りの空気さえも変えていく。
「はっ!」
運ぶ足が道場の床に小気味の良い音をたてさせる。薙ぐ剣にはいささかの迷い
も乱れもなく、ただ美しかった。空気を切り裂き、音さえも遅れて聞こえてく
るような鋭い太刀筋。しかし、そこに畏怖はない。
透明な美しさがあるだけだ。
人の命を奪う真剣でさえ、この男にかかれば優美なものへと変貌する。ひらり
と額から風に揺れる白い布をもあいまって舞をみているようだ。
伊達はしばらくその舞に魅入られていた。
「…………」
気配は隠していたのだが、気付かれたらしく視線がこちらに向けられる。
「…どうした…?」
桃が構えを解き、微笑した途端に張り詰めた空気が氷解して水のように流れて
いく。
先程までのあの緊張の糸を切るのではなく、一瞬にして流せてしまえるその技
量に伊達は心の内で感嘆した。
「お前こそどうした?」
「…早くに目を覚ましたから…」
「昼間にあんだけ寝てればな…」
授業中の爆睡は桃の十八番だ。
伊達のからかうような言葉に桃は微笑む。
桃の真剣を持つ姿を久し振りに見た、と伊達は思う。
授業で使う機会はないし、真剣をもつ必要が近ごろ減少したのも原因だが。
しかし、それは人前での話で、こんな風に一人稽古の時は真剣を操っていたの
かもしれない。
その事に少しだけ伊達は感謝する。
この美しい気を自分以外の誰かに見られるのは少々口惜しい。
伊達は道場に入りながら、肩を回したり首を振る。簡単に身体をほぐすと、自分
の愛用している槍を手に取って両手で軽く回転させた。その様子から彼も鍛練を
するつもりらしい、と桃は邪魔にならぬよう少し間を開けた。が、
「桃」
呼ばれた声に振り向くと、自分に槍先を向ける伊達が目に映る。
「……………」
不思議そうな目を向けた桃であったが、すぐにその真意を悟り自分も真剣を身構
える。
言葉は必要なかった。
道場の空気は再び緊張の色に染まる。
二人は長い間対峙していたが、青眼に構えた桃の足が素早く動いた。
踏み込むと同時に鋭い一手を上段から伊達に仕掛ける。伊達は身体を引く事無く
、槍先で躱すと自分も桃に深く手を突く。が、それを受け止められ、伊達は槍を
引いた。その引きに合わせて桃の剣が迫る。
間に合わない、と判断した伊達は柄で太刀を払い、また鋭い突きをくり出す。
今度は桃が剣の峰でそれを払う。お互いが相手の次手から逃れる為に同時に飛び
のく。
構えながら二人はまたも対峙する。
「やるな」
「お前こそ」
相対する二人は幸福とも言える充実を感じていた。
お互いに相手の力量は分かっている。遠慮も加減もいらぬ真剣勝負がこの男だか
らこそ出来るのだ。決して自分に負ける事はないだろと知っている安心。だが、
自分も譲るつもりはないと、喜びに似た高揚感が沸き上がってくる。
一瞬でも気を抜けない、隙を見せられない。
研ぎすまされてゆく緊迫感に昂揚する。
再び二人は剣を交えた。
しばし、金属の当て合う音が道場内に響いていたが、やがて二人は同時に構えを
解いた。
早朝を知らせる校舎の鐘の音が聞こえたのである。
塾生達が目を覚ます時間の鐘ではないが、頃合を感じた二人は身を引いたのだ。
随分、長い間相対していたらしい。
楽しくて時間を忘れていた。
お互い顔を見つめながら、微笑み合う。
桃は真剣を鞘に納め、伊達は槍を壁際の台に戻した。
二人とも息はきらしていなかったが、汗はかいていた。水でも浴びようかと思っ
た伊達の目に桃の額が映った。
乱れていたのだろう鉢巻を取った桃の額は、いつもそれをしているせいか白く見
える。伊達は無意識に近付き、そっと手で触れた。
「伊達?」
不思議そうな桃の声。薄く開いた唇と、自分を見上げる澄んだ黒い瞳に、伊達は
心を捕らわれているのを感じる。込み上げてくる想いのままに、伊達は桃の唇に
自分のそれを重ねた。
優しく触れるだけの接吻は一瞬だった。
「…伊達…?」
桃は驚きの表情を浮かべて伊達を見つめるが、伊達は優しい瞳を桃に向けただけ
で静かに道場を出て行く。
残された桃はしばらく呆然としていた。
伊達に口付けられた唇に触れてみる。
…夢……?
いや…優しい感触が今も残っている。
不快な気持ちは一切なく、驚きと戸惑いが桃の心を占めていた。
鳥のさえずりが外から聞こえ、格子から陽が道場に差し込む。
すっかり明るくなった道場の中に、顔を赤くした桃は一人立ちつくしていた。

    *************

その日は三号生の卒業式だった。
桃は二号生筆頭として送辞を読み、卒業生達を見送った。
お前のファンだった、という三号生達に囲まれて、サインや握手をせがまれる
桃の姿を見て、他の仲間達は苦笑した。
しかし、惜しまれたのは桃だけでなく、富樫や虎丸、Jや飛燕も多くの三号生達
に囲まれたのだった。
そして、夜は飲み会に突入である。
キャンプファイヤーよろしく校庭に櫓を組んで薪を造り、周りで皆が好きなよう
に酒を飲んで戯れる。
中心で裸踊りをする椿山や田沢に野次をとばしたり、芸を披露する者をはやし立
てたり。楽しく飲んで踊って騒いで、つぶれた者はその場で眠りこけるか寮に帰
ってまた酒盛りをするのか、それは各自の自由である。
午前2時も過ぎるとさすがに、ほとんども者がつぶれて眠りこけてしまった。
「ほら、こんな所で寝ていると風邪をひきますよ」
「う〜ん」
「寮に帰って寝るか、この毛布をかぶるかどっちかにして下さい」
面倒見のいい飛燕は校庭で大の字になって眠る塾生達に声をかけている。
その声に促されて起き上がり寮に帰ろうとする者。毛布をもらって幸せそうにそ
の場に眠りこける者。と様々であった。
「桃はどうした?」
ざっと校庭を見渡して桃の姿が認められなかった伊達は飛燕に尋ねた。
宴会の間中、桃の姿を確認するようにはしていたのだが、あちらこちらからお呼
びのかかる桃は一ケ所に留まることがなく、いつしかどこにいるのか分らなくな
っていた。
「桃なら、俺も寝るからと寮に帰りましたよ」
「…そうか…」
それなら、俺も、と伊達も寮に戻ったが、自室近くに来ると、思い立ったように
側の道場に足を向けた。
あの時と同じように、そこには桃がいた。
暗闇の道場の中、外を見ていたのか格子の側に立っている。
音もたてずに入り口に立った伊達に、桃はすぐに気付く。
「伊達か…」
こういったところはたいしたものだと伊達はいつも思う。
伊達は意識している訳ではないのだが、気配を感じさせない癖が身についている。
ほとんどの者はたとえ三面拳でもその気配を察するのは難しい。
『どうして桃はこうもたやすく俺の気配を察するのだろう…?』
伊達はいつも不思議に思うがくやしいと思った事はない。彼の力量を認めている
からだ。
そして、嬉しくも感じている。
足音もなく伊達は桃に近付き、傍らに立つ。
「どうした?」
「伊達こそ、どうした?」
「…お前がいるような気がした…」
「…そうか…」
桃は伊達から目を逸らし、また外を見る様に視線を戻した。格子から差し込む月
明かりに浮かぶ桃の表情はどこか淋し気だった。
「卒業式…」
「ん?」
「お前いなかっただろ?」
今日の卒業式、二号生は三号生を送る役割として全員出席する筈なのだが、その
中に伊達はいなかった。
「別に俺一人いなくてどうもあるまい」
「残念がってた先輩もいたぞ。お前のファンだって」
「は。お前の方が多かろう」
桃ファンクラブが各塾年ごとにこっそり作られているのを伊達は知っている。桃
は微笑みを見せたが、やはりどこか憂いを帯びていた。
伊達は大体の見当はついていた。
今日の卒業生の中に、いるべきあの人がいなかったからだ。
「…赤石の事を思い出したのか?」
桃の肩がぴくりと揺れる。
「…ああ…」
忘れられる訳がない。自分達を助ける為に命を落としたあの人を…
桃が赤石を慕っていたのは知っている。無条件ともいえる信頼と尊敬の念を抱いて
いた事も。
その感情が特別なものであったか、どうかは伺いしれないが、赤石の死は桃の心に
決して消えぬ影を残した。
桃の頭を軽くポンと小突く。桃がきょとん、とした顔を伊達に向ける。
「しっかりしろよ、総代」
「…ああ…分かってるよ…ただ…」
「ん?」
「みんな、いつか卒業していくんだなって思っただけだ…」
「…当たり前だろ…」
「…ああ…」
いつか、この塾生時代にも終わりがくる。この楽しい仲間達との日々がいつか思い
出に変わる時がくる。そんな事は分り切った事だった。
けれど…やはりどこか寂寥感を覚えるのである。
桃はいつか外へ出て大きく飛び立っていくだろう、と伊達は確信していた。
この小さな場所で終わるような男ではない。情に厚いが情に溺れる程弱い人間でも
なく。
人の気持ちを受けとめ、大きくなっていく。それが出来る器をもった男なのだ。
お前はもっと大きくなるだろう。そして、俺はいつもお前を守ってみせる。
「…飲むか…?」
伊達は持っていた小振りの酒瓶を見せた。部屋に帰って一人で飲もうかと思って持
ってきたものだ。
「まだ飲むのか?」
桃が苦笑して聞き返す。
「やめとくか?」
「…いや、やろう…」
伊達と桃は座り込んで背中を壁にもたせた。伊達が封を切ると、そのまま直接瓶か
ら酒を飲み、桃に渡す。受け取った桃も同じように酒を飲み干した。
二人とも酒には強い質だが、宴会でさんざん飲んだ後だったので、飲むペースは自
然と遅くなり、一升瓶よりも小さい酒瓶の中身はなかなか減らなかった。
一口飲むと相手に渡す、という行為が繰り返される。
「少し甘いな」
「ああ」
「辛口の方が良かったな」
「でも、これはこれで旨いぜ」
言葉数も飲み干す回数と同じように一言、二言。他愛のない会話で沈黙が多くなる
が、二人の間に気まずさは皆無だった。血よりも濃い信頼がある者に、必要以上の
言葉は不要なのである。
しかし、伊達は自分は他に欲しいものがある、と気付いていた。
隣の桃を見ると、酔っているせいか、潤んだ瞳を空に向けている。
こんな時にも彼の視線が濁る事はない。澄み切った美しい黒い瞳が月光を浴びて浮
かび上がっていた。酒のせいで濡れた唇も。
気になったのか自分の唇を桃は小さく舐める。
伊達は吸い込まれるように、その唇を吸った。
「…伊達…?」
桃がその美しい瞳に伊達を映す。伊達は桃の背中に手を回し、もう一度、今度は深
く、激しく口付けた。
「…ん…」
息が苦しくなったのか、桃がくぐもった声をあげて、伊達の肩を掴む。だが、押し
退けようとする素振りはない。伊達が唇を離した時、二人の唇は濡れていた。
「酔っているのか…?」
「かもな…」
お互いの熱い吐息を感じる。伊達はそっと桃の身体を床に倒したが、桃はされるが
ままだった。
「俺も酔ってるかもな…」
伊達は桃のその言葉ごと唇を吸い取った。
「本当だ…」
桃の項に軽く歯をたてる。
「甘い…」
どうして抵抗しないのだろう?
桃の身体に自分を刻みつけようとする自分に、何の抵抗も拒絶の言葉すらない桃を
伊達は不思議に思う。
酔っているからか?
だが、止める気はない。
そこに手に入れたいものがあるというのに、どうして止められるだろうか?
ゆっくりと裾の中に手を入れ、直接桃の肌に触れると、桃の身体が少し跳ねる。腰
を引き寄せると思っていたより痩躯なのだと分った。
伊達の手が桃の身体をゆっくりと辿り始める。
桃は暗闇の海に漂っているような感覚を覚えていた。
深く、荒々しく揺さぶられる闇の海。しかし、恐れは無い。どれ程激しく乱れよ
うが、受けとめてくれる暖かさを知っているからだ。
ただ、澄み広がっていこうとする己の初めての感覚に、戸惑うばかりである。
…伊…達……
彼を受け入れた身体が熱く燃えて、名前を呼ぼうとするのに上手く声にだせずにい
る。
頬に優しく手がそえられ、その指がそっと目尻を拭ってくれる。
気付かずに桃は涙を流していたらしい。
悲しいのではないのに、どうして涙が溢れたのだろう?
「…伊達…」
やっと言葉に出来た。
「ん?」
絹づれのような音と雨の香りに辺りが包まれているのに気付く。
「…雨…が…」
「…そう…だな…」
雨音という程強い音は聞こえない。薄衣のような霧雨が降りてきているに違い無い。
「…桜雨…だな…」
「…ああ…」
優しい響きをもったその声に、桃は自分への想いを感じる。
頬に触れる彼の手を取り、桃はその長い指に口付けた。暗闇で彼の顔は見えないが
とまどった感触が伝わってくる。
桃は手を伸ばして伊達の頬を両手で包み込む。
特徴的な傷をもつその頬をそっと撫でる。浮かんだのだろう彼の笑みを指に感じ、
桃の心に愛しさが込み上げてくる。泣きたくなるような、澄んだ想いに胸が痛い。
彼だからだ…伊達だからこの行為を自分は受けとめているのだ…
桃ははっきりと自分の心を自覚する。
「伊達…」
背中に手を回して愛撫をねだる。
桃が情に厚いが情に流される男でないと知っている。だとすれば、伊達を受けとめ
てくれるのは、桃自身がそうしたいからに他ならない。
伊達は満たされた気持ちで桃の身体を抱き締めた。覆いかぶさって深く口付ける。
桜雨に包まれながら、二人は互いの熱い身体を受けとめた。

                              


初めて書いた男塾小説です;リハビリ小説;他の塾サイト様から設定もらってきて、
とにかく書きたいシーンだけ書いたって感じです;
自分ならどういう風に書くのか?という確認的小説;
(完全に自己満オンリーな話;)載せなくても良かったかも?