漆黒の瞳 3

気が付くと桃は闇の中に身を横たえていた。
身体が金縛りになったかのように動かない。目を開けようとするが、それも出来ない。
胸のあたりがズシリと重くなる。
『なんだ?』
重みは胸だけでなく、手足にも移ってきて動かす事がますます困難になっていく。
なんとか動かそうと試みるが徒労に終わった。
その時、桃は視線を感じる。
誰かが自分をじっと見つめている。殺気や敵意のないその視線はどこか優し気で縋り
付くような色を持っていたが、桃は恐怖を感じる。
その視線から逃れたくて身を起こそうとするが、やはり動かない。視線が近付いてく
るのを感じて、桃の恐怖は大きくなっていく。
『…いやだ…』
叫ぼうとしたところで、桃は目を覚ました。
荒く息をつき、心臓の鼓動が耳にまで鳴り響いている。
一瞬、自分がどこにいるか分からず戸惑うが、すぐに男塾の寮室であると気付く。
同室の者は授業に出ているので、ここには桃しかいなかった。
今朝から桃は熱を出しているのである。
発熱の原因は、昨夜、見知らぬ男に陵辱された事による精神的ショックと、夜明け前
に浴びた冷水のせいだった。
あの後、桃はなんとか身体を起こしたが、男に触れられた感触を振落としたくて水を
浴びたのである。風呂のボイラーなどは当然止まっているので、冷水しかなかったの
だ。秋の初めとはいえ、最近の朝夕の冷え込みはきつくなっている。
体力と気力が奪われているところに、身体が熱を奪われ風邪を引いてしまったという
訳だ。
同室の者には、夜中に目を覚まして林に散歩に行ったところ、気持ち良くて寝てしま
い身体を冷やした、と言っておいた。
あの男の話を塾長にすべきか迷うが、どこまで、何を話せばいいのか分からない。
刺客ではなかった。では、あの男の目的はなんだ?何故、あっさりと引き上げたのだ
ろう?
まるで、自分に会いに来たみたいではないか。
桃は男に押さえこまれた時の事を思い出して身を震わせた。布団を頭からかぶり身を
丸める。
目を閉じて考えまいとするが、身体に男の手の感触が蘇ってくるのだ。
忘れたいのに…
布団の中で桃が身をますます固くした時、部屋に誰かが入ってきた。
桃の気が冷たく張りつめる、が
「桃、起きとるか?」
富樫の声を聞いて、ほっ力を抜いた。布団から顔を出して富樫の姿を探す。
「桃、大丈夫か?」
「…富樫…」
富樫が寝ている桃のベッドを覗き込むと、桃が潤んだ瞳をこちらに向けたので、訳も
なく胸がドキリとした。
『な、なんでわしゃドキっとしとるんじゃ…;』
いつもの余裕の笑みを浮かべる桃と違い、熱のせいか弱々しい様子で頬を赤く染めて
いる。その姿はどことなく色っぽくて…
「り、りんごジュース作ってきたんじゃ!飲むか?」
富樫は自分の思考を振払おうと大声を出して、持ってきたコップを差し出した。
「りんご?」
「ああ、兄貴が俺が病気になった時によく作ってくれたんじゃ。りんごを擦って絞っ
ただけのやつだけどな。病気の時は効果てきめんよ!」
ふと富樫の手をみると絆創膏が貼られている。慣れない包丁使いに指を切ったのだろ
う。
「…ありがとう…」
食欲はなかったが、富樫の気持ちに応えたくて、桃は上半身を起こした。
「掴めるか?」
「…大丈夫だ…」
桃は富樫の差し出したコップを両手で掴み、こくり、と一口飲んだ。喉をスーッと通
り過ぎて行く冷たい感触と清涼感が気持ち良くて、桃は残りも一気に飲み干した。
「旨かったか?」
「…ああ、ありがとう…美味しかったよ…」
「汗かいとるじゃろ?着替えるか?」
「…でも…」
「椿山が昼休みに町に出て着替え買ってきてくれたんじゃ!安物のバジャマじゃが、
いつまでも汗で濡れた単衣を着てるよりいいじゃろ」
「そういや、富樫。今、授業は?」
「そんなもん、どうだっていいさ。お前の事が皆心配でな。俺が代表でここに来ただ
けよ」
富樫はスーパーの袋から買いたてのパジャマを取り出し、包んでいるビニールを破い
て中身を出すと桃に渡す。
「多分、サイズは大丈夫だと思うけどな」
「…ありがとう…」
みんなの優しさが嬉しい。着替えようとした桃だったが、ある事に気付き手を止める。
「どうした?桃?」
「…え?…あ…」
「脱いだ単衣は洗っておいてやるから心配すんな」
「…あ、ああ…ちょっと歯を磨きに行ってくる…」
そう言って桃はベッドから降りようとした。途端に目眩を感じて身体がふらついたが
富樫に支えられる。
「大丈夫か?桃…」
「ああ…大丈夫だ…ありがとう…」
「洗面所まで付いていこうか?」
「いや、大丈夫だ…一人でいけるから…」
桃は浮遊を感じる足取りでパジャマを持ったまま、洗面所に向かう。塾生は授業に出
ているので、そこには誰もいなかった。桃はそこで単衣を脱いで富樫が持ってきてく
れたパジャマに着替えた。
今の桃の身体には昨夜の陵辱の痕が色濃く残っているのである。
手首に帯のつけた痣も消えておらず、富樫がこれを見つければ問いただしてくる事は
確実であった。
冷水を浴びた時に、何度も何度もぬぐったが消えなかった。
まるで、一生消えない傷を刻みつけられたかのようだ…
胸が苦しくなった桃はその場に座りこんでしまう。膝を抱え、口を塞ぎ、込み上げて
くる嗚咽をなんとか押さえる。
『しっかりしろ』
心の中で、桃は自分を叱責した。
あんな事ぐらいで参るなんて軟弱な証拠だ。もっと自分は強くあらねばならない。
『これしきの事ぐらいで…』
そうだ、なんでもない事なのだ、昨夜の出来事は。すぐに忘れてしまえばいいのだ。
忘れてしまえばいい…
桃は繰り返し自分に言い聞かせ、呼吸を整えた。
「桃!大丈夫か?吐きそうなのか?」
心配した富樫が洗面所まで来ていた。座り込んだ桃を見て、気分が悪くなったと思っ
たらしい。
「いや…平気だ…手を貸してくれ…」
「おうよ」
富樫の手に捕まって桃は立ち上がった。そのまま富樫は桃の手を自分の肩に回させ、
歩きだした。
「身体が弱まってる時は遠慮せんと甘えればいいんじゃい」
「…富樫…」
「意地張っちゃいかん」
不器用だけど、優しい富樫の気配りに心が温かくなる。桃は富樫の肩にコトンと頭を
置いた。
「そうだな…甘えさせてもらおう…」
「おう!どんと来いや!」
富樫に身を預けながら、桃は部屋に戻りベッドに横たわる。水を組んできてしぼった
布巾を桃の額に乗せる。
「粥を作って来てやるからそれまで寝ておけ」
「…富樫…」
「あん?」
「…ありがとう…」
「何、言ってやがる。当たり前のことじゃろ!カカカ!」
と言って富樫は部屋を出て行った。
富樫の暖かい気風に触れた桃は、気持ちが楽になるのを感じる。
心の落ち着いた桃はそれから深い眠りに落ち、二度と悪夢は見なかった。
翌日、桃の熱は下がって授業にも出た。いつものように爆睡をかますという穏やかな日
常が戻って来た。しかし、勘のいい塾生の何人かは、桃がいやに艶っぽくなった事を不
思議に思ったりした。


そして、一ヶ月後。「愕怨祭」が行われ「関東豪学連」が「男塾」を配下に納めよう
とやって来たのであった。
「やっと大将のお出ましか」
「どうでもいいけど、なんちゅー格好しとるんじゃ」
「これぞ歴代関東豪学連総長、戦時の装束」
太刀を抱えた桃が塾生達の先頭に立っている。
『筆頭だったのか…』
桃の実力を考えれば当然かもしれない、と伊達は納得する。
一ヶ月振りに見る桃の姿は、相変わらず澄んだ漆黒の瞳が美しく、微塵の淀みも感じ
させない聡明さだ。
まるで、自分が桃の華を蹂躙した事などなかったかのようである。
自分を見つめる桃の真直ぐな瞳には、敵意の他に軽蔑の色があるのを伊達は感じた。
事実、桃は目の前にいる総長も男の勝負にアヤをつけた森田と同じく、うす汚いイン
チキ野郎だと思っていた。
驚愕した様子がないので、自分を陵辱した男と同一人物であると気付いていない、と
察する。
いつ気付くのだろうか?気付いた時、お前はどんな表情を見せるのだろうか?
伊達はまるで他人事のように胸の中で冷静に考える。
他人のように考えねば、冷静な判断が下せなくなる怖れを感じていたからだ。
関東豪学連の総長として、やるべき事をやるまでだ…
「かかれ!」
「関東豪学連」と「男塾」の死闘が始まろうとした、まさにその時
勝負はその場に現れた塾長によって「驚邏大四凶殺」によってつけられる事となった。
「委細承知。引き返すぞ!」
「ウォー!」
「男塾」を去った伊達は「驚邏大四凶殺」の勝利を確実なものとする為、三面拳を喚
んだ。黎明寺で助けられた後の修行中に知り合った拳法家達であり、伊達に人間らしい
心を引き戻してくれた者達でもあった。
「よろしいのですか?」
飛燕が尋ねてくる。
「何がだ?」
「戦いの相手は「男塾」と聞きました。かつて在籍していたところなのでしょう?」
「…退学になった所だ。恨みこそあれ、義理はない…」
「しかし…」
「一度だけ私の部下となり、力を貸す約束をした筈。それが今だ…」
「…分かりました。何も聞きません。冷酷に戦いに徹しましょう…」
「…………」
勝負において情けは無用。容赦なく戦いに徹する事が勝利に繋がる。
もしかしたら、俺はあの男を殺すかもしれん…
伊達の脳裏にあの美しい瞳が蘇る。
だが、手を抜く事はあの男を侮辱する事に繋がる。
そんな無礼な真似は出来ん…
情けもかけず、手も抜かない。だからお前も全力でぶつかってこい。
お前と命を賭けた真剣勝負が出来るなど、至福の極みだ…
伊達は残酷な色をもった恍惚を感じる。
その結果が自分の死であれ、桃の死であれ、後悔をするような戦いだけは決してすまい、
と伊達は心に誓った。
俺は命ある限りお前を忘れない。だからお前も…

       

            その記憶のど真ん中 血よりも紅く焼きついて…


H20.9.27

ま、まさか続くとは…;この話は私の伊達と桃の脳内設定が強く反映されてますね;
脳内設定はこちら→
最後の二文は某歌の歌詞です。この話書いてる時に耳に飛び込んできて;なんかピタッ
とはまった感触があったので、思わず書いてしまいました;すみません…;