暗闇への光


「剣議員、今朝のコーヒーの成分分析の結果が届きました」
机に向かって仕事をしていた桃は、秘書の言葉に顔を上げた。
「どうだった?」
「…無味無臭の幻覚剤が混入されていました。麻薬の一種です。死に至る程ではあり
ませんが、幻覚に伴い、吐き気、目眩、気分の高揚などの症状が起きるようです」
「…なるほど」
「麻薬に手を出した腐敗議員としての失脚を狙った奴の仕業でしょう」
「フフ…みたいだな」
「朝食のコーヒーに薬が入っていると、よく気がつきましたね。まるで変わり無いよ
うに見えましたのに…」
「運が良かったな」
桃の家には厳格な執事がいて、家の中の事はすべて彼が取り仕切っている。食事の支
度から郵便物の整理、服装の手配、出入りする人のチェックまで。
桃は朝食に使用するカップは決めてあった。
毎年、桃が多額の寄付金を納めている障害者学校の生徒達が作ってくれたカップであ
る。
いびつな形のソーサーに『ありがとう』という文字が、たどたどしく書いてある。
いつもなら、その文字が座った時の桃に見えるように配置されているのだが、今朝は
違っていた。
あの厳格な執事が、配膳した者に指導しない筈がない。
疑問に思った桃は、朝食に手をつけず、執事を呼んだ。
執事は家の中から消えており、家中の者で捜索したところ、庭にある物置きに手足を
縛られた状態で発見されたのである。頭を殴られ、気絶していた。
幸い、たいしたケガではなかったので、すぐに意識を取り戻した。
犯人は昨日から入った新人のメイドだろうと憶測されたが、すでに逃げ去っていた。
「剣議員…これから、どうなさいます?」
「そうだな…これからは紅茶にしよう」
「…そういう意味ではなくて…」
「フレッシュジュースにしたほうが健康にいいかな?」
「…議員…」
「フッフフ、冗談だよ」
秘書のこみかみに青筋が浮かんできたので、桃は口をつぐんだ。

        *

珍しい男が自宅の庭に立っているのを見て、赤石は少々面くらった。
黒い革のジャケットを着て、大型バイクにもたれるその姿は同性から見ても決まって
いる。
伊達は赤石の顔をにこりともせず見つめていた。
「…何してやがる…」
赤石が渋顔で尋ねると
「話がある…」
と、短く返してきた。
…まったく、庭にバイク持込んでんじゃねーよ…
人目を避けたかったのだろうが…
仕方なく赤石は顎で家の中に入るよう促す。
協会の方に来ずに自宅に来るとは、仕事関係ではないらしい。それとも、秘密理に動
きたいのか…
赤石は仕事関係のものは家に持込まないように決めてあるので、部下に警護もさせて
いなかった。警護などつけると目立ってしまい、かえって逆効果になる場合もあるの
だ。
和室に通すと伊達は適当にあぐらをかく。
座布団も茶も出す気のない赤石は自分も前に座った。
考えてみれば、塾を卒業してから、伊達にまともに会うのは初めてである。
お互い裏の世界の住人として、風の便りに話を聞く事はあっても、会う必要はなかっ
たからだ。
塾にいた時から、お互い必要以上に口をきかなかった。
伊達がからんでくるのは大抵桃といっしょにいる時ぐらいだ。
懐いてくる、うっとうしい後輩…もとい可愛い後輩と生意気でくそ憎らしい可愛くな
い後輩。
誰に対しても、彼の唯我独尊態度は変わりなかったので、腹をたてこそすれ、良い印
象をもった事はない。しかし、不思議と後に引きずるような悪い印象もない。
つい「こいつに何言っても無駄」と諦めてしまうのである。
伊達が話があるとすれば桃が関係しているだろう。
「で、なんだ?」
「先日、桃が薬を盛られた」
「…なに…?」
「情報を小耳に挟んだんで桃に確認した。寸でのところで飲まずにすんだようだ」
「…誰がやった?」
「分かってたら、ここに来てねー」
「……………」
だろうな、と赤石は口に出さずに呟いた。
「毒か?殺す気だったのか?」
「麻薬だ…失脚を狙ったらしい」
「となると…政界関係者か…」
「桃は次期総理にもっとも近い男と言われているからな。次の総裁選までにつぶして
おきたいんだろ」
前回の選挙で桃の属する野党が圧勝して、政権交代が起こった。
これは桃の人気があったればこそ、だった。
しかし、桃はまだ若輩者だからと総理にはならず、党内の最年長の白井議員が総理に
なった。
その白井総理が健康上の理由で、近く辞任するらしいのだ。
与党から野党の地位に転落した議員達は、政権を奪還したいと考えている。
桃が総理になれば支持率が今より上がり、与党の地位が安定する危険性がある。
てっとり早い支持の急落方法は、人気の高い桃に国民の信頼を失わせる事だと考えた
のだ。
「…せこい手を使いやがる…」
「外務省関係者が裏にいると分かった。そして、あんたんとこの組織もな…」
「……………」
「あんたの組織の中に手を貸した奴がいる。誰だ?」
「…聞いてどうする?」
「つぶす」
つまり、殺すという意味だ。
相変わらず危なっかしい奴だ、と赤石は思う。
伊達組の頭になり、少しは落ち着いてきたかと思ったが、本質的なものは変わってい
ないようだ。
自分自身の為に生きる桃は、良い意味で我侭な男である。
桃は自分以外のどんな人も、自分自身の為に生きる事を認めている。彼のすごいとこ
ろは、人間なら誰でも持つ偏見や差別をもたないところだ。
まともな宗教家でさえ、そうなる為に過酷な修行を積むというのに。
感情を激しく震えさせても、しなやかな精神を持っているので決して折れない。
偏見や差別がない希有な人間なのは伊達も同じだが、関心がないからともとれ、どう
にも精神的に余裕のない部分がある。
撓らない太い心の柱を持つがゆえに、少しの衝撃では揺れないが、許容範囲を超え
てしまうと折れてしまうのではないか。
そこからくる狂気の面を赤石は伊達の「危険な面」として感じていた。
自分と似たところがあるので、なおさら分かるのだ。
もっとも、伊達の心を折りうる衝撃など、そうそうある筈がないと思っていたが…
…桃に何かあったら…こいつはどうするんだろうな…
ふいにそんな考えが思い浮かぶ。
「言う気がないなら帰る」
「…待て…」
立ち上がりかけた伊達を赤石は制した。
「俺の組織の者がいるとは、確かな情報か?」
「そうだ」
「…俺は心辺りが無い…」
「あんたが一から作った組織じゃねーからな、元から腐ってる部分はあるだろうよ」
どんなに目を光らせていても、巨大になれば端にまで届かなくなり、どうしても腐敗
していく部分はある。
「調べよう…が、処分はこちらにまかせてもらう」
伊達は眉をしかめた。
「これは俺の領分だ。誰にも手は出させん」
「…力づくでも渡してもらう、と言ったらどうする?」
「望むところだ…」
二人はしばらく睨み合っていたが、殺気はどちらも放っていなかった。
「…ここはまかせる…情けかけんじゃねーぞ」
「…片付いたら連絡する…」
赤石の言葉に伊達は立ち上がった。
とりあえず、赤石も伊達といっしょに表に出る。
庭先でバイクにまたがる伊達に「道に出てからふかせ」と注意する。伊達はしぶしぶ
バイクから降りて、道路まで運んだ。
「組長が二輪で移動か」
「身軽に行動出来るんでな」
750cc以上はあるだろうが、伊達は軽々と扱っているので中型ぐらいに見えた。
警察に目をつけられたくないからか、目立ち過ぎる顔を隠す為か、几帳面にメットを
かぶる。
「スピード出し過ぎるなよ」
「ケツに乗せてやろうか?」
「ばかやろう、事故んじゃねーぞ」
「はいはい、気を付けますよ、おとーさん」
「……………」
減らず口も相変わらずである。
「…伊達……」
エンジンをかけた伊達に赤石は無意識に声をかけていた。
振り向いた伊達に
…死に急ぐなよ…
そんな言葉を言いそうになる。
いつ、どんな形で死んだとしても、この男は後悔などしないだろう。自分を不幸だ、
などと思う事もなく。
塾生時代、伊達は一度だけ赤石に自ら会いに来た時がある。
『桃は俺がもらう』
そう言ってきびすを返した。
赤石は意味がまったく分からず、首を捻るだけだったが、今なら少し理解出来る。
桃は伊達が執着した、この世で初めての存在なのだ。
「…桃を悲しませんな」
「あ?」
「…うっとおしいが一応大事な後輩だ…」
「…後輩思いの先輩だな…涙が出るぜ」
「……………」
「約束は出来ねー。俺は自分勝手な人間なんで、場合によっちゃ桃を泣かせても平気
だ」
「…本気で言ってるのか?」
「ああ…譲れねーもんがある」
メットごしに、伊達の鋭い眼光が見えた気がした。
言っても無駄か…
分かっていたが、赤石は心の中で息をついた。
自分と似ているからこそ、この男は苦手だった。
けれど、決定的に違う部分を発見してからはそうでもない。
赤石は伊達の自分の命も、勝敗も、何に対しても執着しない彼の狂気に気づいた。
彼に希望の光を与えられるのは、一人だけなのだ。
桃に会うまで、伊達は自分の為に生きていた時があるのか疑問であった。
伊達はそれ以上何も言わずに、去っていった。
バイクの音で目を覚ました十蔵が、二階の窓からその光景を見ていた。
『かっこいいな…俺もあんなバイク乗りたい』
この日から十蔵はバイクに憧れるようになった。
それが嵩じてあのトカゲバイクに乗るようになるのだが、それはまだ先のお話。



H21.6.18

私の中では伊達と赤石先輩は避けてるって印象ですが、認めあっているとも思ってる
んで、どういう感じになるのかな〜と一度書いてみたかったんです;
この間書いてから、お父さんの赤石先輩の方が書きやすい、と気がつきましたので、
この時代で書いてみました。この時の方が会話しそうな気もしますし。
お父さんになってから、ますます苦労症の赤石先輩、という事で;
続き出来そうな話なんで、いつか書くかも;