凍える刻

眠れねえ…
夏の熱帯夜、この男塾にあって冷房設備などという気のきいたものがある筈もなく、毎
年その暑さと不快指数と戦う事が塾生達に義務づけられている。
赤石の筆頭部屋も例外ではなく、暑くけだるい夜に頭が冴えて、夜中になっても眠れず
にいた。
最近まで赤石は病院に入院していた。
今年の一号生筆頭の剣桃太郎と戦った時の傷を癒す為にである。病室のベッドに縛り付
けられているのは性に合わず、医者が止めるのも聞かず退院してきたのだが、これでは
もう少し快適な温度を保ってくれる病室にいた方が良かったかもしれない。
傷はほとんど治っている。そのせいで眠れないのではない。
神経質な性分でもなく、多少の不快な夜でも気にせず寝つける方なのだが、今夜に限っ
ては何故だが眠れない。
苛立っている。
身体だけ熱く燃えているのに、頭の芯は冷えているような感覚だ。身体と理性のくい違
いに苛立ちを覚えるのだ。落ち着かないのは熱帯夜のせいなのか、それとも…
夜風でもあたりにいくか…
自分の心情が掴みきれないのを、とりあえず暑い夜のせいにする。斬岩剣を持って赤石
は単衣一枚の姿で外に出た。
塾内の庭に出ると、ゆるやかな風が吹いている。
こもりきった部屋の空気と違い、流れているだけで随分暑さの感じ方も違ってくるもの
だ。
空を見上げると星の瞬きと満月が目に映る。頬を撫でる生ぬるい風と静寂さに包まれ、
赤石は少し心が落ち着くのを感じた。
塾内でも一番人気ない奥庭の竹林に行くと、赤石は斬岩剣を構えた。

何百回、斬岩剣を振っただろうか。赤石の身体から幾筋もの汗が流れ落ちる。
気分を変えようと夜風にあたりに来たというのに、これでは逆効果だ。
身体の火照りがひどくなっちまったぜ…
赤石は自嘲気味な笑みを浮かべて、剣を鞘に納めようとした。その時、誰かが近付いて
くる気配を感じる。
誰だ?こんな夜更けにこんなところに…?
竹林に身を潜め、気配を消して目を凝らすと、近付いてくる人物が桃であるのを認めた。
その一瞬、気を緩めてしまったので、桃は誰かの気配を敏感に感じとってしまったよう
で。
「誰だ?」
怒気は含んでいないが、凛とした声を暗闇に放る。
どんな瞬間の隙も見逃さずに突いてくる桃の力量に赤石は感心した。
聡い奴だ…
あまりに聡くて清々しいほどである。
こうなれば再び気配を消しても無駄な事だ、と赤石は桃の前に出て行った。
「赤石先輩…」
意外だったのだろう、桃は少し驚いた表情をしている。
「こんな時間にどうしたんです?」
「お前こそどうした?」
「暑くて眠れなかったものですから」
桃は持っていた太刀を、赤石に見せるように上げた。
「剣舞でもしようかと」
「…………」
自分と同じ理由でここにやって来た訳だ。御丁寧に格好まで同じ単衣姿ときている。
赤石は妙におかしくなって口元を綻ばせた。
「先輩はどうしてですか?」
「丁度いい」
「え?」
「相手になってもらおうか」
赤石は斬岩剣を桃に向けて構えた。そこに本気の緊迫感が漲っているのを桃は感じる。
「…嫌だと言ったら…?」
「言わせねえ」
「…分かりました…」
桃は赤石の気迫を悟り、ゆっくりと抜刀した。
「お手合わせ、願います…」
手合わせを強制したのは自分であるのに、お願いします、などと断るあたりが桃らしい。
あくまで先輩に対する礼節を重んじる訳だ。しかし、容赦はしない。もっとも、この男
相手に容赦など必要ないであろうが…
二人は互いの太刀を青眼に構え、相手を捕らえた。
赤石と刃を交えるのは、例の殺シアム以来だ。あの時は観客がいて横やりも入ったが、
今夜は誰もおらず二人きり。赤石の殺気と緊張感は並々ならぬもので、嫌が応にも闘争
心が高まっていく。
まるで決闘だな…
桃は冴えていく頭の中でそんな風に思う。
赤石の豪剣が先にうなりをあげて桃を襲った。桃はそれを紙一重で躱し、再び青眼に構え
る。次の明石からの一手が迫った時も、桃は剣を正面から捕らえず撫でるように流した。
赤石が豪剣をふるい、桃が軽く躱す、というやりとりが続く。
「どうした?躱してばかりか?」
「…………」
「怖いのか?」
そんな訳はない、と分かっていながら、まともに相手をされていないような感触に業を煮
やした赤石が尋ねる。
「どうして苛立っているんですか?」
「…なに…?」
赤石の問は桃の問で返される。
桃は赤石の太刀筋を見ながら、それがいつもの赤石の剣ではない、と感じていた。赤石の
剣にいつもの余裕がないのだ。広がりが収縮しているといってもいい。
赤石の剣は豪快なだけでなく、包み込むような大きさを感じさせる剣なのだ。それは、鋭
く、広く、大きくて、純粋で…まるで赤石本人に重なるような…
「俺を殺したいですか?」
「…………」
桃の問に赤石は沈黙を返す。
そんな訳はない。そんなのでは…
入院中、ずっと目の前の男が忘れられなかった。考えまい、としてもこの男の顔が、剣が、
頭の中をちらつくのだ。が、その事実を赤石は否定し続けていた。
自分が誰かに捕われるなど、執着しているなど認めたくなかったからだ。
そうだ、自分はこの男と再び刃を交えたかったのだ。全身全霊で戦える相手を。そして確
かめたかったのだ。
何を…?
赤石の考えはそこで止まる。
「…確かめたい…」
「何をです…?」
「…それはこれから分かる…」
自分は剣がすべての生き方しか出来ぬ。ならば答は剣によって掴むのみ…
赤石はすり足で近付き、桃との間合いを縮める。桃はひらいた分、後退して間合いをとろ
うとしたが、背後にあった竹によってさえぎられてしまった。
「逃げるなよ…桃…」
「…………」
赤石の言葉に応えるように、桃の緊張が集約していくのが分かった。
研ぎすまされ、美しく澄んだ気が満ちていくのを感じる。
重力さえ伴っているかのような、吸い込まれていきそうな密度をもっていながら、圧迫はな
い。
自分はどれだけ惹かれただろう。
この透明な気に、もう一度触れたかったのだ。
そうだ、もう一度、俺の太刀を受け止めてみせるがいい。
渾身の太刀を明石が放ち、桃はそれを真っ向から受け止める。
太刀のぶつかる音が辺に響く。
凝縮されていた気が四方に飛び、刻と空間さえも切り裂かれ、凍る瞬間が去来する。
美しい飛沫が辺りに散るのを赤石は全身で感じた。
その破片かと錯覚するような小さな光が、桃の左目に飛び込んでいくのが見える。
「うっ」
桃が左目を閉じて俯いた。赤石は急いで斬岩剣を引いて構えを解く。刃こぼれした欠片が桃
の目に飛び込んだのである。
「大丈夫か?」
「…はい…多分…」
「見せてみろ」
桃の頤に手をかけると、赤石はその瞳を覗きこんだ。美しい漆黒の瞳の端に、鋭い光を放つ
欠片が浮かんで見える。
赤石の大きな指では掴めない程小さい。なにより、目という繊細な場所である。少しでも傷
つける訳にはいかない。
「じっとしてろ」
そう言うと、赤石は桃の瞳に舌を這わせた。
濡れて柔らかなその部分なら傷つける事はあるまい、と思ったからだ。桃は一瞬身体をぴく
りとさせたが、後は赤石に言われた通りじっとしていた。
舌先に小さな固い感触を捕まえて、赤石は桃の瞳から顔を離した。瞳の内に怪我をしたとこ
ろはないか確かめると、目蓋を閉じるように、掌で目を撫でて合図を送る。外側にも怪我は
無かったが、桃の目蓋には横一線にうっすら赤い痕が走っていた。
自分が心眼拳を見極めさせる為に切った傷である。自分の残した痕がこの身体には刻まれて
いるのだ。
桃は目を閉じたまま、赤石を見上げる形で立っている。
まるで口付けを求めているかのようだ…
込み上げてくる衝動のまま、明石は桃の唇に自分のそれを重ねた。
最初はほんの一瞬。だが、桃が瞳を開き、そこに濡れた輝きを認めた次の瞬間、赤石は激し
く桃の唇を奪っていた。
「…う…ん…」
桃は抵抗もせず、赤石の口付けを唇を開いて受け入れる。吐息を奪い合い、何度も舌を絡み
合わせて二人は唇を離した。
少し後ろに下がって身体を離した桃が、指を自分の口の中に入れる。取り出した指の先には、
刃こぼれした欠片が乗っていた。
「…ありがとうございました…先輩…」
桃がいつものさわやかな笑みを浮かべる。
「…ふん…」
赤石は斬岩剣を鞘に納め、桃に背中を向けて歩きだした。
後ろ姿を桃がじっと見つめているのを感じる。知らずに赤石の口元が弛んでいく。
冷えていた頭の芯はすっきりしていて、もう苛立ちは感じない。
自分の求めていたものが分かった。
あの男と刃を交える、あの瞬間。美しく凍る刻を自分は求めていたのだ。
他の誰でも味わえぬ、透明で澱みのない気をもつあの男だからこそ得られる瞬間だ。
その美しさに惹かれる…だが、捕われてはならない。
また再び刃を交える時があるかもしれない。その時、自分は捕われずにすむだろうか?美し
さゆえに危険が潜む。
もしかしたら、自分はいつか…
赤石自身にもどうなるか分からなかった。しかし、それがどうだというのだ?
捕われたのなら、その時はその時。また、剣で答を見い出すまでだ。
赤石は晴れた気持ちで空に浮かぶ月を眺め、部屋に向けて歩を進めた。
背中に桃の視線を感じながら…

                       終


H20.9.10

初めての赤×桃です;
このお話、本当は初夜を迎えさせるつもりで書いてたんですが、やっぱ私の中で
赤石先輩はストイックで駄目でした;修行が足りん:出直してきます;

剣士と剣士が相対した時の空間に満ちる緊迫感を「凍る」と感じた事が
あって、その感覚を表現したかったのですが…;文才不足;