古都1

時は江戸、将軍吉宗の時代。平和な時代だったが、江戸はよく火災にみまわれ、
その度に多くの庶民は家や財産を失った。つい先だっても北町で大規模な火災
があり、多くの者が焼きだされた。
香藤洋二郎もその一人だった。
旗本の三男坊である彼は、家督を相続するでもなく、小さい頃から気楽に城下
に出向き庶民にまじり楽しい生活を送っていた。しかし、武芸の才能は長男、
次男をも凌ぐものであり、幼い頃から注目されていた。わずか十六歳で師範の
資格をとる程だった。これ程の腕前なら養子の話はいくらで舞い込むだろうと
周辺の者は噂していたが、香藤は武士であるにもかかわらず、庶民との生活が
好きで、成人するとすぐに家を出て町の道場で師範代として働き、長屋暮らし
を始めたのである。
町の者達は明るく、楽しく、人情的で、彼等の中で暮らすのは楽しかった。が、
火事で何もかもすっかり失ってしまった。
江戸屋敷に戻るつもりなど毛頭ない彼は、同じように焼きだされた皆と一緒に、
避難所である寺で集団生活をしていた。
住む所もすぐに見つかったのだが、家族や所帯持ちの友人に譲ったりしている
内に、とうとう一ヶ月が過ぎてしまった。
寒さはましになったが、もうそろそろ畳の上で眠りたい〜と思っていた時(寺は
板間)同じ長屋に住んでいた職人の秀から居候でいいならいいところがある、と
紹介されたのであった。
「清水屋?南町の呉服大問屋じゃないか。そんなすごい所でか?」
香藤が驚きの声をあげた。
「いや正確にはその離れです。そこの二階だ、三部屋あるらしいけど、一階には
他の人が入ってます」
「どんな人物だ?」
「香藤さんより5才年上の男で、琴の師匠ですが目が見えないんです。どこかの
身分のある家の出らしいけど、小さい頃病気で視力を失ったんで、楽の道に入っ
たそうです」
「へ〜」
「目を悪くしてから目覚めた琴の才能はかなりのものだったらしく、京都のある
有名な師匠の元で修行して皆伝の位を受けたそうです。しばらく京都で教えてい
たらしいですが、二年程前、お父上が亡くなられて、兄上が家督を相続する事に
なったのを機に江戸に戻ってきたって聞きました」
「じゃあ、二年前からそこに住んでいる訳か?」
「いえ、半年前からだそうです。当初は所縁のある寺で暮らしていたらしいです
か、そこの住職が亡くなっていられなくなったんです。で、教え子の一人に清水
屋の一人娘がいたそうで、気の毒に思った奥方が使っていない離れを提供したと
いう訳です」
「ほう……」
目の見えない人を追い出すなんて、その寺の新しい住職も随分人情がないな〜、
と香藤は思った。
どんな男だろう?目が不自由で琴など弾いているからには弱々しい男なんだろう
が………
南町の清水屋あたりだと、道場からは少し遠くなるな〜と香藤は考えた。その様
子を察した秀は
「家賃はいらないそうですよ」
「え!」
「しかも三食賄いしてくれるそうですよ」
「なんで、そんないい条件なんだ?」
「あんな大問屋だとやはり夜盗とか気になるでしょう。でも腕のたつ人が居候して
いるとなれば入られる可能性が低いと考えての事ですよ。つまり用心棒を兼ねて
もらうって訳で、腕に覚えのある人で身元のしっかりした人、人望の厚い人ならば
家賃などいらないそうです。で、あっしが香藤さんの事話したらぜひにとおっしゃ
るんですよ。賄いの方はその琴の師匠の分もすでにしているので、まあ一人分増え
ても差し障りないって訳でして」
「へ〜」
いたれりつくせりとはまさにこの事である。気に入らなければ、すぐに出て行って
もいいし、今はとにかく板間から開放されるのが先だ。
「どうです、こんないい条件って他にないと思いますがね〜」
「よし、承知した!」
香藤は大きく頷いた。

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次の日、香藤は身の回りの物をまとめて清水屋を訪れた。
身の回りの物といっても、火事で焼けてしまい、太刀と替えの着物ぐらいで、
荷物は片手で事足りた。
店は繁盛しているようで、中は大勢のお客と使用人で賑やかだった。
「失礼する」
香藤が暖簾をくぐると、すぐに番頭らしき男が近付いてきた。
「香藤洋二郎様ですか?」
「ああ、女将に会いにきたのだが」
「はい、承知しております。どうぞこちらに」
香藤は店の奥にある住居の一室に案内された。そこには女将らしき優し気な女性が待
っていた。
簡単に挨拶を済ませると、早速離れに案内してもらった。
それは美しい日本庭園の中に建てられていて、少し大きい目の茶室のようであった。
近くに井戸まであり、まるで別住居のようである。
離れといっても本宅とつながっていると思っていた香藤は少し以外に感じた。
中は広く清潔だった。美しい襖と障子、派手ではないが落ち着いた調度品が心地よい
空間をうみだしている。
香藤は一目で気に入った。
「離れというより近くの別荘って感じですね」
「そのとおりです。実は先々代の女将が旅行好きな方だったのですが、年をとって行
けなくなってしまった時、息子である先代が少しでも旅行気分を味わってもらおうと
建てたらしいですわ。縁側から見える景色も気を配った様子でとても美しいですのよ。
気に入っていただけるといいのですが」
「いやーこの庭の美しさは素晴らしいですね」
外からもう一度建物を眺めていた香藤は本当に心から思った。
それ程素晴らしい庭だった。離れの近くにある梅の樹が、華を咲かせており、辺りに
いい香りを漂わせている。その香りを吸い込んだ時
「あ、岩城さんが戻られたようです。ちょうど良かったですわ。ご紹介しますね。岩城
さんよろしいですか?」
女将が声をかけたので、香藤が後ろを振り返ると、一人の男がこちらに向かって歩いて
くるところだった。
自分と同じくらいの背格好をした、黒髪の美しい男だったが、彼の瞳は閉じられていた。
『え?』
と、香藤は少し驚いた。
もしかしてこの男が?あの同じ離れに住む目の見えない琴の先生なのか?
「香藤さん、こちら岩城京乃介さん。岩城さんこちらお話していた香藤洋二郎さんです。
これからいっしょに暮らしていただく事になりました」
「ああ、はじめまして岩城京乃介です」
そう言って彼は頭を軽く下げる。
「い、いえこちらこそ、よろしくお願いします」
香藤も慌てて頭を下げる。
「中はもう御覧になられましたか?」
「ええ、落ち着いた美しい造りですね。とても気に入りました」
低くて深みのあるまろやかな声である。訳もなく香藤の胸は高鳴った。
「そうですか、良かった。ところでなにか明かりは持ってきていますか?」
「え?」
「御覧のとおり私は盲目ですのであの家には明かりが一つもないのです。
必要ありませ んので」
「ああ、うっかりしていましたわ。香藤さん、すぐにいくつか用意させますわ」
「ああ、すみません。ありがとうございます」
「では、店の者達を紹介しますわ。戻っていただけますか?」
「はい、分かりました」
「では、香藤殿また後で。失礼いたします」
そう言うと岩城は離れに向かって歩いていった。杖もつかず、しっかりした足取りで。
香藤はその後ろ姿を驚きつつ見送った。
想像していたのと全然違う。もっと小柄でひょろっとした男だと思っていたのに……
しっかりした体つきで、かなりの美男子である。色が白くて物腰はやわらかいが、
ひ弱な 印象はまるでない。ぴんとした美しい空気を身にまとっていて、
どこか世間とは懸け離れ たような美しさを持っている。
なんだろう、この感じ………
香藤は彼を見た時に何か胸に形容しがたい思いを感じたのである。
それがなんなのか、今の香藤には分からなかった。