古都2

次の日から早速香藤はその離れで暮らし始めた。
久しぶりに静かな部屋で暖かい布団にくるまれての睡眠だったので、
随分眠り込んでしまった。
「やべ〜」
朝、高く登っている太陽を見て、急いで飛び起きた。
何時ぐらいだろうか?道場まで、今までより時間がかかるだろうから、
早目に出ようと思っていたのに。
下に降りると人気はなく、居間に朝食の膳が置いてあり、書き置きら
しき紙が添えてあった。
『よくお休みのようですので、声をかけずに先に出ます。時間があり
ましたら朝食の膳は清水屋の厨房に返してあげて下さい』
一瞬、岩城が書いたのかと思ったが、少し幼稚な字だったので丁稚の
誰かが代筆したのだろうとすぐ分かった。そういえば昨日はあまり話
をできなかった。女将から家の中や使用人達、家族など紹介されてバ
タバタしていた為である。
朝食を食べながら香藤はぼんやり岩城の事を考えた。
どういう素性の人なんだろう?どうして目を悪くしたんだろう?今ま
でどうやって暮らしていたのだろう?
でも、あんまり聞いたらうるさい奴だと思われてしまうだろうか?
いろんな考えが頭の中をぐるぐるかけめぐる。
大体の話は秀から聞いていたが、もっと詳しく知りたくなってしまっ
たのだ。
人の素性や過去など普段はまったく気にしない香藤だが、岩城に関し
てはなぜか興味を覚えてしまうのである。
初めて彼を見たあの時から………

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道場にはなんとか遅刻しないで着けた。しかしこれで、今までより半
刻早く家を出なければならない事が分かった。つまり帰るのも同じよ
うに半刻遅くなる訳だ。
『まあ、しょうがないな〜』
と香藤は諦めた。

やはり、帰りも少し遅くなってしまった。清水屋に着く頃には日が落
ちて辺りは夕闇に包まれていた。
勝手口から庭に入り離れに向かう。
3月の始めはまだ少し肌寒い。足早に香藤が庭を歩いていると、琴の音
が聞こえてきた。
離れに近付くにつれてその音色は大きくなってゆく。縁側で岩城が弾
いているのが見える。
思わず香藤は立ち止まった。
月明かりの中、ほのかな香りをただよわせている梅の樹と、風のように
流れる美しい琴の音。
岩城の凛とした横顔と優雅に動く長い指。
なにか一枚の絵を見ているかのような、そんな気分だった。
ここだけ別の空気が流れている。雅な美しい空気が………
その空間を壊したくなくて、香藤は琴の音を聞きながら立っていた。
すると、琴の音が止まった。
「誰かいるのですか?」
岩城の声に香藤はハッとする。
「香藤です。ただ今帰りました」
少しバツが悪そうに、表に回り香藤は中に入った。
「見えますか?」
居間から声をかけてくれた岩城の言葉どおり、中は真っ暗で何も見えな
い。おそるおそる足を進めて居間に上がった。
「大丈夫です。遅くなりまして申し訳ありません」
「いえ、私に謝る事はありませんよ。お気になさらないで下さい」
微かな月明かりの中、少し逸らされた岩城の閉じられた瞳を香藤はじっと
見つめていた。
「おふみが夕食を持ってきてくれていますよ。確かちゃぶ台の上に置いて
いると思いますが」
香藤が目を向けると膳が二つ並べて置いてある。
「岩城さんは?」
「まだです。つい梅の香りに誘われて琴など弾いていましたので。すみま
せん。お耳ざわりなようでしたら香藤殿の前では弾かないように…」
「いえ、とんでもない!実は先程も聞き入っていたのです」
「え?」
「庭を歩いていたら琴の音が聞こえてきまして、あまりに綺麗な音だった
ので、つい足を止めて聞きいってしまいました」
「……………」
「夕食まだならいっしょに食べませんか?一人より二人で食べる方がおい
しいでしょ」
「……そうですね、確かに……では明かりを……」
「ええ、二階から持ってきます」
そう言って香藤は階段を上がっていった。
そして二人で向かい合って夕食をとった。
香藤のもってきた明かり照らされて、少し冷たい空気の中で。
ここには火の気がまるでなかった。
盲人にとって火は一番怖いものである。逃げ場が分からないし、どんな
ぼやでも消す事ができないからだ。
岩城も用心しているらしく、真冬でも火鉢を使わなかったそうである。
風呂もいつも水風呂で、さすがに真冬の間は清水屋の風呂を借りたそう
であるが。
香藤は銭湯ですませるつもりだった。
清水屋の女将からは岩城さんの事をよろしく頼むと言われた。
誰かをこの離れに住まわせようと考えたのは、用心棒的な役目もして
もらいたかったが、一人の岩城が心配でもあったからだと、昨日話し
てくれた。
岩城は決して甘えてこないのだと。どんなに困っても助けを求めない。
庶民だからと見下しているのでは決してない。それは彼の性質による
ものだった。
どこか、一線を引いているような、どこか近寄りがたい空気を身にま
とっていて…でもどこか淋し気で………
女将はそんな岩城が痛々しく映ったらしい。
そこで、武士の出でも、庶民の間に混じり、岩城と同じような生活を
している香藤になら、頼るかもしれないと思ったそうである。
話を聞いて、確かに、と香藤は思った。
初めて会った時の、あのピンと張り詰めた空気は確かに禁域のようだ
った。
触れてはならぬもの………
しかし香藤は触れてみたいと思った。
その空気の中に入りたいと思ったのであった。

目を閉じていなければ見えない人とは思えない程、岩城は静かに上手に食
べている。
本当に綺麗な食べ方だったので、ついついじっと見つめてしまう。
「なにか?」
「え!」
「私を見ているようですので…何か?」
岩城の言葉に香藤はドギマギした。
「あ、す、すいません。つい…目が見えないなんて信じられなくて……家の
中歩く時もぶつかったりしないし、杖も持たないみたいなので………」
「半年も暮らしていれば慣れてどこに何があるか分かりますよ。外出する時
はほとんど稽古をつける時ですから迎えを寄越してくれるのです。それに行
き慣れた道なら大体分かりますし」
「そうなんですか?すごいですね」
岩城は微笑みを浮かべた。香藤の胸が少し高鳴る。
「そういえば、以前はどこかの寺に住んでいると聞きましたが?」
「ええ、永明寺に。修行僧達といっしょに」
「あそこですか?でも新しく住職になった人は住まわせてくれなかったとか?」
岩城の動きが一瞬止まる。
「?」
「……いえ…居てもいいと言われたのですが、私から断ったのです。そんなに
甘えてもいられませんし………」
「そうですか。その方が良かったかもしれませんね。間違って断髪されても困
りますものね」
「確かに」
岩城は笑って答えた。香藤はその笑顔がとても美しく見えたのだった。

夕食を終えて食器を返そうとした時だった。
「つっ」
土間に降りようとした岩城が指を押さえた。
「どうしたの?岩城さん?」
立ち上がった時に障子を掴んだが、ささくれがあったらしく、その棘が
刺さったのだ。
岩城の指からうっすら血が滲んでいる。
咄嗟に香藤はその指を口に入れた。
濡れた生暖かい感触に指が包まれて、それが香藤の口の中だと分った岩城は
びっくりして瞳を開いた。
香藤は岩城の開かれた目に驚いてしまった。その美しさに……
切れ長の黒い濡れた瞳。その髪と同じくらいの深い色が白い肌に際立って見え
る。
「……岩城さん…みえるの………?」
「え………」
指から顔を上げた香藤だが、岩城の視線は一向に動かない。やはり見えていな
いのだ。
「ごめん…目が開いていたから、一瞬見えるのかと………」
「ああ。目を閉じているのは医者から言われてですよ。虫やほこりが目に入り
そうになっても、私には瞼を閉じて防げないから」
「そうですか…すみません………」
「いえ………」
「俺、食器持っていくついでに、何か清潔な布をもらってきます」
「いえ、たいした事はないですよ」
「駄目ですよ。指は大事にしなくちゃ。それと俺に敬語使うの止めて下さい」
「え………」
「岩城さんの方が年上なんだし、俺は新参者ですからね」
「でも………」
「いいんですよ、そうして下さい。なんか照れちゃいます。それに何でも言い
付けて下さい。じゃ、布もらってきますから」
香藤の足音を聞きながら、岩城は心が暖かくなるのを感じた。
指の熱さと同じように………