古都3

岩城と香藤が共に暮らすようになってから、一ヶ月が
過ぎようとする頃。
すでに桜の季節となり、江戸の者達は連れだって花見
に出かけた。
その日、清水屋の者達も店を早目に閉め、皆で桜を見
に出かける事になっていた。
岩城も誘われたのだが、断ったらしい。
桜は香りもないし、花見ともなれば皆浮かれた気分で
酔う者も多いだろう。
そんな人の大勢集る所はあまり出かけたくないらしか
った。
香藤も道場の稽古帰りに仲間に誘われて桜を見に行っ
たのだが、見事な桜を眺めても心から楽しめなかった。
『岩城さんはこの見事な桜が見れないんだな………』
そんな事を考えながら、頭に浮かぶのは彼の顔ばかり
だった。
いつもは賑やかな清水屋だが、今日は5.6人しか残って
いないらしい。その者達も交代で花見にでかけると聞
いた。
今、岩城は一人で何をしているんだろう?少し寒いあ
の部屋で………
「ごめん、俺、用事思い出したから先に帰る」
「おい、香藤」
仲間達の声を背中に聞きながら、香藤は清水屋に帰った。

戻るとやはり清水屋はいつもより静かだった。明かりの
ついている部屋も少ない。
離れに入ると中はいつもと同じ真っ暗である。
しかし、岩城が姿を見せなかった。人がくると必ず出て
くるのであるが………
どこかに出かけたのだろうか?
と、思った香藤の耳に水音が聞こえた。風呂場の方から
だった。
岩城さんかな?
確認しようと足を向けると、引き戸が少し開いて洗い場
に座って水を浴びている岩城の後ろ姿が見えた。
途端に香藤は息をのんだ。
明かりのない風呂場に月の光りが差し込んでいた。ほの
かな明るさの中、岩城の白い肌が浮かび上がって見える。
その美しい背中に、月光を浴びた銀の雫が伝い落ちていく。
うなじに濡れた黒い髪がまとわりついている。
あまりに妖しい美しさに、香藤は目を離せなかった。声を
かけるのも、息をするのも忘れて捕われたようにじっと
彼を見つめていた。
やがて立ち上がった岩城が視界から消えた。
香藤は止めていた息をゆっくりはきだした。
胸が高鳴る。体温が一気に上がった気がする。
まるで覗見していたようで恥ずかしいが、それよりも今
見た岩城の美しさに顔が火照る。
同じ男性の裸体である筈なのに………
今、自分はどんな顔をしているのだろうか?
岩城は見えないのだが、いつも見すかされているような
印象を受けるのである。
動揺している自分を見抜かれてしまうのではないだろう
か?
「香藤?」
背後から声をかけられ、香藤の心臓は跳ね上がった。
振り向くと、浴衣を着た岩城が立っている。髪は濡れて
妖しい銀色の雫をまとっていた……
「あ、い、岩城さん」
「?帰ってたのか?水を使っていたから気がつかなかったよ。
おかえり」
「……ただいま」
まともに目が合わせられない。
「?どうかしたのか?」
やはりいつもと違う香藤の様子を察したらしく、心配気に
声をかけてくる。
「い、いえ…別に………」
「そういえば、花見には行かなかったのか?もしかしたら
今日あたり仲間と行くかもしれないと言っていたんじゃな
かったのか?」
「あ、ああ、行ったは行ったんだけど………」
「うん?」
「あ、そうそう、お酒もらってきたんだ?いっしょに飲まない?
風呂上がりでちょうどいいでしょ。桜の花びらが入っている
変わったお酒なんだ」
香藤はすこしでも話題をそらそうと別の話をもちだした。
「………酒か……俺はあまり強くないぞ?」
岩城は小さい頃から弟子入りしていたし、その後は僧坊で過
ごしたのだから、今まで何かの儀式か正月のお屠蘇ぐらいしか
飲んだ記憶がない。
酔っぱらって千鳥足になる訳にはいかないという理由もあるが。
「そんなに強い酒じゃないよ。一杯ぐらいなら大丈夫じゃない?」
「……そうだな」
考えてみれば、友達と酒をくみかわすなんて、やった事がなか
った。
初めての経験に岩城の胸が少しはずんだ。

縁側で月明かりだけで二人はお酒を酌み交わした。
一階にいる時、闇夜でどうしても必要な時以外、香藤はほと
んど明かりをつけなかった。
火が近くにあると岩城が緊張するのが分ったからである。
決して言葉にはしなかったが、岩城はそれに気付いていた。
香藤のさりげない優しさに。
自分の前ではゆっくり歩く事。話す時も呼んでから話してく
れる事。それでいて、自分を特別扱いしない事。
彼はこちらが疲れるような気の使い方をしなかった。
いつも自然だった。
彼の前では自分もとても自然でいられるような気がするのだ。
それに、今までやらなかった事までやってみようかな、という
気分になるから不思議だ。
きっと彼がいてくれるという安心感があるからだろう。
お酒を酌み交わすなんて少し前の自分では考えられなかった。
でも彼の気配を感じながら飲むお酒はとても優しく感じるのだ。
「気持ちいい風が吹いてるね」
「…そうだな……」
二人はさりげない言葉をかわしながら静かにその時間を楽しん
でいた。
香藤は夜空を見ながら今まで知らなかった美しさを知った気が
していた。
ここに来てから知った夜の美しさを。
見えるものがすべてではない事も。
岩城と会わなければ理解出来なかった美しさかもしれない。
ふと、先程の岩城の背中を思い出して香藤は頬を赤くした。そ
の時、岩城の頭が香藤の肩にもたれかかった。
『え!』
驚いて見ると、彼は寝ていた。たった一杯しか飲んでいないの
に………
あまりに気持ちよく眠っているので、香藤はゆっくりと彼の身
体を抱えて部屋に運んだ。
夜具はもう敷いてあったので、そこに静かに身体を横たえる。
無造作に投げ出された手足や、白い布に流れる黒髪。しどけな
く開かれた胸元を見て、香藤は目が離せなくなっていた。
香藤は目を閉じ、岩城の顔にそっと触れた。
岩城の瞳、頬、唇、と指先で彼を感じていると、身体の奥から
愛しいと思う気持ちが湧き出てくる。
手を首筋の後ろに回し、始めはおずおずと彼を抱き締めた。そし
て徐々に力を込めてゆく。
彼が好きだ。
香藤は自分が岩城に恋をしていると気が付いた。
それは身をこがすような激しいものだった。