古都4

もうすぐ梅雨の季節になろうという頃、香藤は岩城に対する思いを
持て余していた。
毎日、見る度に好きになる。日ごとに増すこの思い………

清水屋にいつもより早く帰った香藤は、店の前に立派な駕篭が止ま
っているのを見て驚いた。
『なんだろう?どこかのお武家さんが注文に来たのかな?』
そう、考えながら勝手口から中に入る。と、おふみが興奮した面持
ちで走り寄ってきた。
「香藤さん、見ましたか?外の駕篭!」
「ああ、見たけど。どうしたの?どこかの屋敷から注文に来たのか
い?」
「注文じゃないんですよ。なんと岩城家からのご使者です」
「岩城家って…岩城さんの実家の!」
「そうなんです。私あんな立派な駕篭見るの初めてですよ〜も〜ど
きどきしちゃって………」
まだ12才だが快活な性格のおふみは目をきらきらさせて、自分達と
は違う世界を垣間見れた事に興奮しているようだった。
「岩城家って三千石の旗本らしいですよ〜お奉行様とかになる身分
でしょ、すごいですね〜」
しかし、香藤は不安でたまらなかった。岩城の実家が何をしに来た
のだろうかと………
もしかして、岩城さんを江戸屋敷に連れに来たんじゃ………
そう考えて香藤の胸に暗い影が過る。
その時、使者の者がもう帰るらしく、廊下を歩いて来た。
白髪頭の御老体であったが、全身からは武士らしい貫禄が感じられ
た。
丁寧に見送りする女将に頭を下げて出て行く。
香藤は足早に離れに戻った。
「ただ今帰りました」
「ああ、香藤か、おかえり」
いつものように何も変わった様子はない岩城が出迎えてくれる。
「……さっき、誰かが帰っていったけど…岩城家の人が来てたんだ
って?」
「ああ………」
「…そう……帰るの?」
「え?」
「岩城家に連れ戻しに来たんじゃないの?」
岩城は淋し気な笑みを浮かべた。
「違うよ。もうすぐ母の命日なので、当日、迎えを寄越すと言って
きたんだ」
「そっか、そうなんだ」
香藤はほっと胸をなで下ろした。

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その日の朝、立派な駕篭が岩城を迎えに来た。
見送りながら、香藤は今さらながらに岩城との距離を感じていた。

夕刻になっても岩城は帰って来なかった。日が長くなり、まだ外は
明るいが香藤は不安になっていった。
久しぶりにお兄さんに会うのだから話がはずんでいるのかもしれない、
でも、はずみすぎてここに来いって言われてたら………
大きくなってゆく不安な気持ちを晴らそうと、香藤は辺りを歩きに出
掛けた。
さすがにもうすぐ日が暮れるので、人気はない。池の近くに来た時、
そのほとりに一人たたずんでいる岩城を見つけた。
「岩城さん!」
驚いてつい大声で名前を呼んでしまう。
ぴくりと肩を震わせた岩城が声のする方に顔を向けた。
「香藤か?」
「どうしたの?江戸屋敷に行ったんでしょ?こんな所であぶないよ、
池にでも落ちたらどうすんだよ」
「……ああ、すまん………」
「帰りはどうしたの?送ってくれなかったの?」
「……いや、送ってくれたんだが、俺が途中で降ろしてもらったん
だ……ちょっと一人になりたくて………」
岩城はいつもより淋し気な様子で、今にも消えてしまいそうな予感が
して香藤は怖くなる。
「どうしたの?何かあった?」
「……いや……何もない……ただ…母の顔を思い出して………」
「おかあさんの?」
「……俺がこの目で見た最後のものだ………」
「…岩城さん………」
あの時、視力を失う事になった病気の床で、熱にうかされた頭の中で
看病する母の姿を覚えている。
母の心配そうな顔………
その映像を最後に岩城の目は何も見えなくなった。8才の時であった。
母の墓前に手を添えながら、岩城は8才までに見ていたものを思い出し
た。
花の鮮やかな色や草の豊潤な緑、遊びに行った海の色、空の色とそこに
浮かぶ真っ白な雲。
そして、太陽。日が登る時の神々しまでの眩しさと、沈んでいく太陽が
すべてを染める夕暮れの色。
それらの美しさを思い出してしまったのである。
もう、今は見る事のできないそれを………
忘れたつもりになって、平気なふりをしていた。
「……………」
岩城の苦しさを感じて香藤は胸が痛くなった。拳を握り目頭が熱くなる
のを堪える。
「……香藤………」
「何………?」
「お前の顔に触れてもいいか?」
「岩城さん………?」
「……嫌ならいいんだ………」
「嫌な訳ないでしょ。こんな顔でよかったらいくらでもどうぞ」
岩城は微笑みを浮かべて、そっと香藤の顔に両手で触れた。
優しく指先でなぞっていく。こんな事をしても見える訳ではないし、
香藤の顔立ちがはっきり分かるのではない。しかし、触れていれば見え
るような気がするのである。指先に感じるその感触で。
香藤はそっと触れる岩城の指を感じてたまらなくなった。胸が愛しい気
持ちでいっぱいで………
「見たかったな…お前の顔………」
岩城の言葉に我慢できなくなった香藤はそっと、驚かせないように岩城
の背中に腕を回して自分の方に引き寄せた。
「香藤?」
何をされたか一瞬分からない。
「岩城さん、あなたが好きです………」
「え………?」
「あなたに本気で惚れてます」
「…香藤………」
驚いて岩城は目を開いた。香藤の抱き締める力が強くなる。
岩城は香藤の腕の中が心地よくて、ふりほどきもせず、じっとそのまま
でいた。
彼の側はいつも日だまりの中にいる時のように暖かい。
目を静かに閉じて香藤の熱が自分に伝わってくるのを感じていた。
無意識に腕を香藤の背中に回そうとした時、突然鳥の鳴き声が辺りに響
いて、我にかえった香藤は岩城から離れた。
「あ、あ、す、すいません、いきなり………」
焦っている様子が手にとるように分かる。
「……い、いや………」
岩城も照れくさくなってしまって、なんと言っていいのか分からない。
「帰ろうか………」
「ああ………」
「岩城さんではないですか?」
清水屋に足を向けた二人の背後から声が聞こえる。
振り返るとそこには、30後半ぐらいの男っぷりのいいがっしりした男が
立っていた。
「菊池さん」
岩城が声でわかったらしい、その人物の名を呼ぶ。
「こんな所で会うとは奇遇ですね。こちらの御仁は?」
「あ、ああ、清水屋で同居している香藤殿です。香藤、こちらは菊池克
乃進殿」
「はじめまして」
香藤はぺこりと頭を下げたが、菊池の方は何か挑むような目つきで香藤を
見つめるだけだった。
「ところで今度の稽古はいつでしたかな?」
「母上の今度の稽古は三日後です」
「そうですか、よろしくお願いします。頑固な母ですがあなたはたいそう
気に入っているらしく、会うのを楽しみにしているので。では、またその
時に」
そういって菊池は去っていった。
「どういう人ですか?あの人?」
「旗本の跡継ぎらしい。彼の母上に琴を教えてるんだ。時々頼まれて彼の
客人の前で演奏したりしてる」
「そうなんだ………」
なんだか嫌な印象を持つ奴だと香藤は思った。

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それからも岩城と香藤は表面上、変わりなく暮らしていた。
しかし、岩城が香藤に対して少しとまどっている事に香藤は気がついて
いた。
「岩城さん」
「ん?」
「このあいだ、俺の言った事あんまり気にしないでよ」
「え………」
「俺の気持は変わらないし、伝えたかったんだ。でもそれが岩城さんの
重荷になるのは嫌だから……」
「香藤………」
「じゃ、いってきます」
そう言って香藤は元気に出かけていった。
香藤はいつも優しい。さりげない言葉がいつも暖かった。
強く想われている事が分かって、岩城は自分の頬が赤く染まるのを感
じた。

正午過ぎに迎えが来て、岩城は菊池家に出向いたが、屋敷に到着するや
否や、すごい大雨が降り出した。
稽古をつけている母上は出かけており、しばらく待っていたが、一向に
戻る気配がない。
この大雨で足止めをくらっているのだろう。
雨の勢いは緩まるどころかむしろ強まっていき、雷まで鳴りだしていた。
岩城も戻る事も出来ず、ただ部屋で待つしかなく、暇をもてあまして琴
を弾きだした。
弾きはじめると集中してしまって、雨音も雷も耳に入らなくなった。
弾きながら岩城の頭には香藤の言葉が浮かんでいた。あの日の彼の体温
とともに………
俺は香藤の事が………
岩城は彼を愛しく想っている自分に気付いた。
すると、誰かが部屋に入って来る気配がした。
考え事をしていたので、障子が開くまで分からなかった。
「どなたです?奥方ですか?」
「私です」
「菊池さんでしたか。どうなさいました?」
「……いや、ちょっと……母が留守にしていてすみませんでしたね。し
かも、この雨だ。すぐには帰れないでしょう。私も途中で引き返して
来たのです」
「どこかにお出かけでしたか?」
「ええ………しかし、戻ってきて良かった。あなたに会えた」
「?」
雷の音が一層大きくなり、昼間だというのに夜のように暗くなった部屋に
光がはしる。
「……岩城さん、ちょっと来ていただけませんか?」
「どこへです?」
「内密にお話しがあるのです。お願いします」
菊池は岩城の返事も待たず、手を強引に引張り出した。
廊下を足早に歩き続けるので、岩城は何度もつまづきそうになる。かなり
奥まで連れていかれて、どこに行くのだろうと思った矢先、足がやっと
止まった。
障子の開ける音が聞こえた、と思った途端、岩城は部屋の中に突き飛ば
される。
「あっ!」
倒れたところは畳の上でなく、柔らかい布の上だった。
それが夜具だと分かった時、背後から菊池に抱き締められた。
岩城は自分がどういう状況なのか、菊池が何をしようとしているのか察し
がついて恐怖を感じた。
彼の腕をふりほどこうと必死にもがく。
「菊池さん!離して下さい!」
が、一向にふりほどけず、強引に仰向けにされた。唇に柔らかい物が押し
当てられ、ぬるりとした感触が口の中に入ってくる。
菊池に口付けられていると分かり、大きく頭を振って逃れるが、まだ彼の
腕の中だった。
激しく息をついて開いた瞳から涙がこぼれるのを堪えていた。あまりの
ショックで頭の中が混乱している。
「綺麗な瞳だな」
菊池が岩城の頭を押さえて呟いた。
「その瞳が何も映さないとは信じられんな」
「……き、菊池さん………」
髪をなでられ、岩城はまた恐怖を感じる。
「な、何を、するんです………悪ふざけなら止めてください」
「わかってるだろ。お前を俺のものにするのだ」
「なっ!」
「どうせ、永明寺の新しい住職にも同じ事言われたのだろう」
本当の事を言われて岩城は言葉につまった。
自分を世話してくれていた先代の住職が亡くなった時、新しく住職にな
る男が来たが、自分に、ここに居てもいいが、かこい者になれと言われ
たのである。
その為に岩城は永明寺を出たのだった。
庶民達の間で暮らすのは不安だったが、初めだけだった。皆優しくて、
そして、何より香藤に会えた………
「本当はもっとゆっくり時間をかけるつもりだった。だが、あの男が
現れた以上、そう悠長に構えていられなくなった」
「…あの男………?」
「池のほとりでお前を抱き締めていた男だ。香藤とか言ったな」
「!」
「あいつを好いているのか?」
「か、香藤は………」
「あいつのものになる前に、お前を俺のものにする」
菊池は岩城の襟元を大きく広げ、白いうなじに歯をたてた。
「菊池さん!」
岩城はなんとか逃れようとするが、見えない目ではどうする事も出来
ない。
帯をほどかれ、荒々しい指が着物の中に侵入しようとしてくる。
岩城の目から恐怖の為ではなく、くやしさで涙が溢れた。
必死に手足を動かしても、掴まれて押さえ込まれてしまう。
めくり上がった裾から、菊池の手が岩城の内腿を乱暴に掴む。
「止めて下さい!菊池さん!」
岩城の悲鳴のような叫び声は雷鳴にかき消されて聞こえなかった。

「ひどい雨だな」
「ああ、当分やみそうにないな。少し小降りになったら稽古はきり
あげよう。暗くならないうちに帰った方がいい」
「分かりました」
道場に来ていた香藤は師範代の言葉に頷いた。
格子の隙間から土砂降りの外を眺めていると、後ろで門弟達の話が
聞こえた。一人が京都に行って来たらしく、その話に花がさいている。
『京の都か………』
ふと岩城の顔が目に浮かぶ。
あの岩城のまとっている空気は京のものかもしれない。
あの古の都の………日本の美しさがもっとも感じられるあの空気………
彼の事を考えて、香藤は胸が熱くなった。
気持を伝えてから、岩城はとまどいを見せるものの、自分を避けたり
軽蔑したりしている様子はまったくない。
むしろ、更に心を開いてくれているようで、嬉しくてたまらなかった。
少しずつ距離を縮めていけたらと思う。彼を想う気持は本物で変わる事
はないのだから………
岩城を想う時、香藤はたまらなく幸せな気持ちになれるのだった。