古都5

次の日、朝の眩しい光で香藤は目を覚ました。
雨の後のカラッとした清々しい朝である。もう夏はそこまで
きているのだろう。
大きくのびをし、下に降りるが岩城の姿はない。昨日は帰っ
て来なかったようだ。
『大雨だったもんな〜』
夜になる前に少し小振りになったところを香藤は帰ってきた
のだが、その時も岩城はまだ帰っていなかった。小振りなっ
たとはいえ、ぬかるみを歩くのは危険だから用心の為今夜は
帰らないかもしれないと思っていたのだが、そのとおりにな
ったようである。
昼頃には戻っているだろう、と思っていた香藤はいつものと
おり道場にでかけた。が、帰ってきた香藤は女将から聞かさ
れた話しに驚いた。

「怪我ですって!」
「ええ、昼前に菊池家からのお使いが来て、昨日岩城さん、
菊池邸で怪我をしたそうで今療養所にいると」
「そ、それで、怪我の具合は!」
「あまりたいした事はないそうなんですけど、大事をとって
しばらく菊池家の方で預かるって言われました」
「はあ?」
「怪我をしたのはこちらの落ち度だからっておわびの印とし
てって強く言われたので、こちらとしても無下にもできない
し………」
「それで………?」
「お願いしますとしか言えなかったです」
「どこの診療所ですか?」
「変な話で教えてくれませんでした。明日にも菊池家に引き
取るから教えても無駄だって言われて」
「………」
「大丈夫ですよ香藤さん。怪我の方はたいした事ないそうで
すから、きっと明後日には帰ってきますよ」
「………ええ………」
そう言いながらも香藤の胸は不安でいっぱいだった。怪我の
具合も気になるが、診療所も教えないという菊池家の言い分
も気に入らない。
池のほとりであった菊池の挑むような態度が思いだされる。
「ありがとう、香藤さん」
「え?」
「香藤さんが来てから岩城さんとても明るくなったみたいで
すから。きっと岩城さん、香藤さんが好きなんですね」
「いや、そんな」
女将の言葉に香藤は顔を真っ赤に染めた。

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明後日には帰るだろう、と、清水家の誰もがそう思っていた
が、岩城は帰ってこなかった。そして一ヶ月が過ぎようとし
ていた。
さすがに清水家の者も心配になり、何度も菊池家に問いただ
したのだが、まだ良くなっていない、もう少し、の一点張り
であった。
香藤も気になって道場で教えるどころではなくなっていた。
毎日家に戻り、今日こそ岩城が帰ってきている事を期待する
のだが、いつも真っ暗な誰もいない玄関にただずむだけであ
る。
我慢できなくなった香藤は江戸にある診療所にかたっぱしか
ら足を運んだ。そこに目の見えない男性が治療に来なかった
か尋ね回ったのである。
そして何件目であろうか、小石川診療所を訪れた。
「すみません」
「はい」
中に入ると白いかっぽう着を来た看護人らしい若い女が出て
来る。
「尋ねたい事があるのですが、よろしいですか?」
「は、はい」
香藤ほどのいい男に見つめられてぽーっと、していた女性は
恥ずかしそうに下を向いた。
「半月程前、ここに目の見えない男性が治療しに来ませんで
したか?背が俺ぐらいで、総髪の男前なんだが」
「ああ、あの人ですか」
「ここに来たのか!?」
「ええ、すごい大雨の日でしたから、よく覚えています」
「怪我の具合はどうだった?」
「傷自体はさほど深くなかったんですが、出血がひどくて発
熱して意識がなかなか戻らなかったんです」
香藤の心臓がどくんと跳ねる。
「それで、どうなったの?」
「意識が戻られてから家の方が連れに来られましたよ。まだ
熱があるからここに居た方がいいと言ったんですが……」
「家の人って?」
「覚えてません。すみません」
「いや、いいんだ………」
聞かなくても分かっている。菊池だ。
「どういう怪我したんだ?出血って?」
「喉元を刃物で刺したようです」
「なっ!」
「ここだけの話しですけど………」
看護人が小声で話しかけてきた。
「連れてきた人は過って刺したって言ってましたけど、目が
見えない人だったので、将来を悲観して自害しようとしたん
じゃないかって、私たち噂してたんです。意識が戻ってから
も心ここにあらずって感じでしたから。まあ、熱のせいかも
しれないんですけど」
「……………」
香藤は呆然とした。どうして、なぜ、岩城はそんな怪我をし
たのだろう?
まさか…菊池が岩城さんに何かしたのではあるまいか?
「それで、その人もう大丈夫なのか?」
「かなり良くなったらしいですが、先生がたまに往診に行っ
てます」
「どこに!?」
「え、それが………」
「何?」
「それが変なんです。いつも迎えに駕篭が来るんですが先生
目隠しされるそうです」
「目隠し?」
岩城のいる場所を外部に知らせない為か………
老獪な奴だ、と香藤は唇を噛んだ。
おそらく菊池は怪我が治ったとしても岩城を返すつもりはな
いのだ。
ここの医者が呼ばれていると分かったので、今度来た時後を
尾ければいい訳だが、香藤は我慢できず、菊池家に足を向けた。

菊池家に着くとそのまま返されると思ったが、すんなり中に
通され、香藤は少し拍子抜けした。
広い部屋で待っていると菊池が現れた。
彼の姿を見た途端怒りが沸き上がる。
「なにかご用ですか?」
ぬけぬけとよくも、と必死に怒りを抑えながら冷静に切り出す。
「岩城さんに会わせてください。連れて帰ります」
「ほう………聞いていると思うが彼は怪我をしてね。まだ完
治していないのでもう少し預からせて頂く」
「ふざけるな!」
香藤は思わず立ち上がった。
まるで岩城は自分の物だとでも言わんばかりの彼の物言いに腹
がたつ。
「…………」
菊池は少しも動じる様子はなかった。
「岩城さんは連れて帰る!なんと言われようと絶対にだ!」
「………お前自分がどれだけ幸せな男か分かってるのか………」
「なに?」
あの時、岩城を自分のものにしようとした時、あらん限りの力
で突き飛ばされ、一瞬菊池の身体が離れた時、岩城は懐にあっ
た護身用だろう短刀を取り出した。
そして自分の喉元に突き付け、これ以上近付いたら自分の咽を
切り裂く、と言ったのである。
本気である事は瞳を見れば分った。
『それ程俺が嫌いか?』
『こんなのは厭です』
『香藤が好きなのか?』
『……彼でなければ厭です……』
真直ぐに見つめる何も映さない筈の瞳には、彼しか映っていな
かったのだ。香藤しか………
その時、外から小間使いが声をかけてきて、気をとられた岩城
の隙をついて短刀を取り上げようとしたのだが、岩城の手の方
が早く、咽が切り裂かれてしまった。
白い首筋から朱い血が流れ、障子を、白い夜具を真っ赤に染めた。
大雨の中、急いで診療所に運んだ。
幸い菊池がすぐ短刀を振払ったので、それ程深くは刺さらず、
急所も外れていた。
熱もなんとか二日後にはさがり、回復してゆくかに見えた。が、
意識が戻ってから岩城は一言も喋らなかった。食事もうけつけ
ず、小間使いが、あなたが食べないと私が折檻されると泣きつ
いてようやく食べるようになったのである。
医者の話では声は出る筈だと言う。だが、岩城は喋らなかった。
こちらの何に対しても反応しなかった。まるで、声のだし方を
忘れたようであった。岩城の心はその瞳と同じように深い暗闇に
落ちてしまったのである。
今度無理強いすれば舌を噛みかねない。
彼の求める光は分っている。しかし、そう簡単に返すのもしゃ
くだった。
「寛容寺の隣に菊池家の別邸があるんだが」
「は………?」
「昔ある老中の屋敷であったところでな。隠し扉やら地下への
抜け道などあっておもしろい屋敷なので購入したのだ」
「何の話しをしている!」
香藤は殴ってやろうかと手を上げた。
「最近手に入れた大事なものをその屋敷に運んだ」
香藤の手が止まる。
「大事なものなので守る為の用心棒達が大勢いるがな。持ち出
せるものならやってみるんだな」
また菊池が挑むような視線を香藤に向けて来る。香藤は怒りを
押さえ
「失礼する!」
障子をいきおいよく開け放ち、廊下をドカドカと大股で歩いて
去っていった。
「……羨ましい男だ……」
ぼそりと菊池が呟いた。
あんな美しい存在に命がけで愛されるとは………

外はもうすでに暮れていた。菊池家を出てから香藤は別宅に向
かって歩いた。
岩城を絶対に取り戻す!そう決意して………
歩いてゆくと、人々が何やらざわめいているのが目に入る。
『なんだ?』
香藤の耳に遠くの方で鳴る警鐘の音が聞こえ始める。
「火事だ!火事だぞ!」
歩くにつれ逃げまどう人々が増えて来る。
「火事だ!」
「寛容寺の方だ!」
香藤の全身に寒気がはしった。