古都6


香藤は走った。夜空が赤く燃えていた。寛容寺に近付く程逃げまどう
人々が増えていく。皆、荷物を持ち、叫びながら香藤とは反対方向に
駆けている。
「おい、寛容寺はどこだ!」
逃げてきた一人の男をつかまえて尋ねる。
「そこの焼けてる寺がそうだ!」
目をやると燃えている寺があり、ほとんどが炎に包まれていたので、
全焼はまぬがれまいとすぐ分かる。
隣にある大きな屋敷にも半分以上火が燃え移っていた。
「隣の屋敷が菊池邸か!?」
「そうだ!」
香藤が菊池邸に向かって走ろうとすると、その男が肩を掴んで止めた。
「あんたあそこに行く気か?やめとけ!外にあれだけ火がでてるんだ。
中はもっと火だるまだ!危ないぞ!」
香藤は男の腕を振払って走りだした。

入口の門は開いており、中から何人も出て来ていた。香藤は中に飛び
込み、逃げまどう人の中、女中らしき女を捕まえる。
「岩城さんは!?」
「え?なんです?誰の事です!?」
「目の見えない人だ!ここにいるんだろう!」
「そんな人いませんよ!離して下さい」
いない?ばかな?菊池は嘘を言ったのか?いや、岩城の存在を知る者
が限られているのかもしれない。
香藤は気をとりなおして煙のたちこめる母屋に飛び込んだ。
中はすでに火がところどころ燃えており、焼け落ちるのは時間の問題
だった。早く、岩城の居所をつきとめなければ!
大事なもの、となれば奥部屋だろう。香藤は人々とは反対方向に向かっ
て足を進めた。徐々に煙りが濃くなり、熱気がたちこめてくる。その
時、女の声が耳に届く。
「誰か!誰か!助けて下さい!」
「どうした!?」
中年の女が木戸の前で叫んでいる。
「この中に人が取り残されているんです!でも、この木戸を開ける鍵
が見あたらないんです!」
この混乱の中、誰かがどこかにやってしまったようである。
「誰が残っているんだ!」
「目の見えない男の方なんです!」
香藤は息を飲んだ。
「…分かった。俺が助け出す!あんたはすぐ避難しろ!」
「で、でも」
「いいから早く!必ず助け出す!」
香藤の迫力に圧倒され、女は頷くと逃げていった。
香藤は燃えている木を持ってきて、その火を木戸に燃え移らせた。戸
が燃えてゆくところに何度も体当たりをする。と、木戸は火の粉を散
らしながら、ものすごい音をたてて砕けた。
木戸の向こう側には下に通じる階段があった。

人々の大騒ぎする声や、慌ただしく駆け回る足音を聞いて、すぐにな
にかあったのだと岩城は分った。
耳をすませると、きなくさい匂いとともに火事だと叫ぶ声が聞こえ、
背筋が寒くなる。
しかし、この混乱に乗じて逃げだせるかもしれない、と思いたった。
人の足音や、日の光が上に感じる事から、ここは地下であると分って
いた。窓も上の方にしかないらしく、そこからは逃げられないだろう。
と、なれば戸口からしかあるまい。
手で触れると木戸で上部に格子窓がある。手を出してみるが、戸の閂部
分には届かない。人の出入りする時の音から錠はないと分っている。
岩城は腰紐を取り出し、二本の格子を横にかけて結び、その結び目の
ところに別の棒をくくりつけ、ゆっくりとその棒を回しだした。紐が徐々
にきつくなり、二本の格子はぼきりと折れた。
大きくなったその隙間から手を延ばすと、戸の閂に届いたので、急いで
はずして岩城は外に躍り出た。
人の気配はない。きなくさい煙はここでもたちこめている。岩城はゆっ
くりと壁に触れ、伝って出口を探そうとした。
木の廊下は足を進めるごとにギシギシと床が鳴る。すると、途中で違う
音のする床を見つけた。
「?」
なぜここだけ違う音がするのだろう?
変に思ったその時、そのすごい音がして、自分を呼ぶ声が聞こえる。
「岩城さん!」
「!」
聞き間違える筈がない香藤の声だった。岩城の心が歓喜に震える。
「香藤!」
久しぶりにだしたので変な声だったが、すぐに香藤は岩城の声だと分
った。
「岩城さん!」
急いで階段を降りると、壁に手を付いて立っている岩城の姿が目に入
る。
側に駆け寄り思いきり抱き締めた。
「岩城さん、岩城さん!」
やっと会えた、もう絶対離さない、と香藤は思った。
「香藤………」
夢ではないだろうかと岩城は思う。
夢ならさめないで欲しいと………
岩城も香藤の背中に腕を回し、二人は強く抱き締めあった。
「岩城さん、大丈夫?怪我は?」
「大丈夫だ。お前こそ、どうしてここが?」
「その話は後でするよ。今はここから逃げ出そう」
「ああ」
二人は手をきつく握りあって階段を登った。が、上の部屋はもうすで
に火の海であった。
「う!」
香藤はなんとか歩を進めようとするが、燃えた天井が落ちて来て、それ
以上進めなかった。完全に逃げ道はない。
『どうすればいい!?』
香藤は岩城を振り返った。
「岩城さん、怖く無い?」
「いいや………」
岩城は首を横に振る。本当に怖く無かった。あれ程恐れた火に囲まれて
いるのが分かるのに、香藤といっしょなら何も怖く無いと………
「岩城さん………」
香藤はそっと岩城を抱き締めた。胸が愛しい気持ちでいっぱいになる。
絶対に助けてみせる!
そう思った香藤の頭に、菊池の言葉が蘇った。
『地下への抜け道やら……』
「……岩城さんいちかばちか、さっきの地下に戻ろう」
「え?」
「もしかしたら、抜け道があるかもしれない。菊池がそんな事を言ってた
んだ」
「そういえば、さっき歩いた時、一ケ所だけ違う音のする場所があった」
「それだ!行こう!」
二人はもう一度階段を降りた。
「この辺りだ」
と、岩城は床を足で叩いた。確かに他の場所とは違う音がする。
香藤が床板をめくってみると、中に空洞が見えた。覗いてみると真っ暗で
何も見えない。その時、上に通じる階段を燃えた木が転がり落ちてきた。
ここにもすぐに火が燃え移ってくるだろう。
落ちてきた木を床下に投げ落とす。火に照らされて道のような穴が通って
いるのが分かった。出口があるのかないか分からないが、今はここを通る
しかない。
「岩城さん、床下に道があるみたいだ。ここを通るよ、いいね」
「ああ」
香藤は先に降りて、岩城を抱き降ろす。背の高い二人には狭い天井なので、
かなり前かがみにならなければいけなかった。
進んでいくうちに足元が水で濡れてきた。段々と水が深くなっていき、
香藤は嫌な予感がした。岩城の手を握る力が強くなる。暗闇の中、二人の
体温だけが信じられるものだった。
そして予感は的中した。水かさが腰までになったところで先の道がいきな
り狭くなり、完全に水没していたのである。
水没している道がどれぐらい続くのか、出口に通じているのか確かめてこ
なくてはならない。
香藤は少しでも水の抵抗を無くす為、着物を脱いだ。
「岩城さん、道が小さくなって完全に水につかってるんだ。どれぐらい続
いているのか確かめてくるよ。ここで待ってて」
「香藤………」
岩城は不安そうに香藤の手を握りしめる。
「大丈夫。すぐ戻ってくるから」
香藤は岩城をそっと抱き締める。
「絶対戻ってくるから。待ってて」
そう言って香藤は水の中に消えた。
残された岩城は一人、暗闇で不安を感じていた。
ここ一ヶ月過ごしたあの部屋の事が思い出される。一人だったあの寒い部
屋。
本当に香藤は戻ってきてくれるのだろうか?もし、これが夢だったらどう
しよう?目が覚めてまたあの部屋だったら………
側に誰の体温も感じられない事がこんなに不安だなんて………
香藤と知り合う前は一人でも平気だった。でも今は香藤を知ってしまった
のだ、あの暖かい人を………
あそこにいる間ずっと香藤の事を考えていたのだ。もう会えないかもしれ
ないと思った時、どれ程の絶望感を感じただろうか。
寒気を感じて岩城は自分を抱き締めた。ほんの少しの時間がとてつもなく
長いものに感じられる。その時、水が微かに動いた。
「プハッ」
香藤が水面に出てきた。
「香藤!」
岩城が香藤を確かめようと延ばした手を香藤は握りしめた。
「大丈夫。ここを通れば広い洞窟にでるよ。光が差し込んでたから外にで
られるよ」
「そうか………」
岩城は外に出られるという事より香藤が戻って来てくれた事の方が嬉しか
った。
「岩城さんどれぐらい息止められる?少し長いよ?」
「分からない。やった事ないから……」
「そうだよね…着物脱いでくれる?水の抵抗は少ない方がいいから」
岩城は言われたとおり、着物を脱いだ、が、香藤は長襦袢だけは着ていた
方がいいと判断した。水温は冷たいので、病み上がりの岩城の体力を奪わ
れるのが心配だったからである。
「いくよ、合図したら息を思いきり吸って水に潜って。後は俺が引張るか
らついてきて。手を絶対離さないでね」
「……ああ…絶対離さない……」
「俺も……岩城さん……怖くない?」
香藤はもう一度同じ質問をした。
「いいや………」
先程、一人で残された時の方が余程怖かった。もし、ここで死んだとして
も、本当に怖く無いのだろう。
「じゃ、行くよ。息を吸って」
二人はいっしょに水に潜った。

水面にでた時、岩城は激しく咳き込んだ。香藤がその身体を支え優しく背
中をさすってやる
「大丈夫?岩城さん」
「あ、ああ………」
やっと咳がとまり、岩城はほっとした。
「歩ける?少し休む?」
「大丈夫だ。行こう」
二人は光が見える方向に向かって歩きだした。腰まであった水がだんだん
低くなり、足元まで下がった時、遠くから聞こえていた水音の正体が分
った。
「滝だ………」
香藤がつぶやいた。
「滝………?」
「うん、出口だと思ったところは小さいけど滝が流れてるんだ。ここは滝の
裏側にある洞窟だったんだ」
おそらく上に流れている川がなにかのはずみで洞窟に流れ込んだのだろう。
滝をくぐり身体を出して外を見ると、静かな林の中の小さな池にこの滝は
注ぎこまれていた。夜空に星が輝いている。やっと出られたのだ。
「やった岩城さん!でられたよ!」
香藤は思いきり強く岩城を抱き締めた。
「香藤……ありがとう……」
あんな危険を犯してまで、命がけで助けにきてくれて………
「いや、岩城さんさえ無事なら俺は何も言う事ないよ。顔みせて……」
逃げる事に必死でゆっくり顔も見れなかった。
香藤は両手で岩城の頬に触れて、顔を見つめた。
自分の愛した人が手に中にいる。幸せを噛み締めながら、香藤はまた岩城を
抱いた。
二人は長い間、お互いの存在を確かめるように抱き合っていた。
さあ、帰ろうか、と思った香藤はもう一度滝から外を見た。
遠くの空が赤く燃えて、煙りが立ち上っている。人々の喧騒も聞こえる。
まだ火事騒ぎはおさまっていないようだ。
『この格好じゃな〜』
香藤は素っ裸で腰布しか身につけていない。頭の変な奴だと思われたら
ことだ。騒ぎが収まるまでこの滝の裏側で待っていた方がいいだろう。
ここなら滝で外から見えないし。
「岩城さん、もう少し騒ぎが収まってから出て行こうか?」
「ああ………」
岩城もかなり疲れているようだった。二人で足の甲ほどの深さの水に腰
を降ろし一息ついた。
ほっとして、香藤は岩城の肩に手を回して自分の方に寄せた。と、その時、
初めて岩城の姿をまともに見てしまう。
濡れた襦袢がぴったりと身体にまとわりついている。乱れたそれは透けて
岩城の身体の線をたどるようである。岩城は身体を香藤にくっつけていた。
裸同然の自分の身体に………
『や、やばい………』
身体が熱くなって、香藤は岩城から少し身を引くが、岩城がその隙間を
埋めるようにまた身体をよせてくる。心臓が高鳴り自分の中の凶暴な何
かが出て来そうで香藤はとまどった。
「あ、あの…岩城さん………」
「ん………?」
「ちょっと、離れてくれない……?」
「なぜだ?」
「い、いや…そ、その……」
「?」
「ちょ…と…俺の…理性が………」
「……………」
岩城は香藤の顔に手をのばし、唇の位置を確かめると自分のそれを重ねた。
驚いて声もでない香藤の首に腕を回す。
「香藤……お前が好きだ………」
香藤は一瞬何を言われているのか分からなかったが、やがてゆっくりと岩城
の背中を抱いた。
信じられない程嬉しかった。
「岩城さん………」
名前を呼び、もう一度唇を重ねる。触れるだけだったそれが、やがて激しい
口付けへと変わってゆく。
「ん、ふ…ん……」
舌をからめながら、香藤は岩城の身体を水面に押し倒した。
岩城の背中で水が跳ねる。
襟を大きく広げると白い首筋に赤い傷が見えて、香藤の胸はずきりと痛んだ。
強くその傷を吸うと胸を愛撫しながら唇で身体をたどりはじめる。
「あ……ああ…香藤………」
腰紐が濡れてほどけない。香藤は濡れた裾をまくって下腹部に顔を埋
めた。
「ああ!か、香藤……そ…そんな………!」
岩城の身体が大きく仰け反って水面が揺れる。
信じられない、香藤がそんな事をするなんて………
岩城は今まで味わった事のない快感に襲われて香藤の髪にすがりついた。
「岩城さん、後ろ向いて………」
香藤は岩城の身体をうつ伏せにして、はだけた着物をさらに下にずらせた。
背中にあの時と同じような銀色の雫が伝っている。揺れる水面の光りがそこ
に這うように映る。
その美しさに香藤の胸はまた高鳴った。
「岩城さん…綺麗だ………」
手を胸にまわし、濡れた背中に舌を這わせ銀色の雫を舐めとると、その度
に岩城の身体がしなり水が跳ねた。手の行き場がなくて水を叩く。すがり
つきたいのに香藤の身体に手が届かなくて不安になる。
「…香藤……!」
怖くなって岩城は香藤の腕を掴んだ。その表情をみて香藤は察した。
「ごめん、岩城さん、不安にさせちゃって………」
香藤はゆっくりと岩城の身体を仰向けにした。開いた濡れた瞳が目にはい
り、愛しさが込み上げてくる。
優しく抱き合い二人は深く口付けた。
香藤は岩城の背中に指を伝わせ、そこに入れた。
「あああ!」
快感に岩城の身体が震える。足で水を何度も蹴った。
香藤の指が冷たい水と一緒に入ってきて、余計に熱さを感じてしまう。
熱い。
自分を包む香藤の身体が熱かった。背中に感じる水の冷たさなど気に
ならなくなる程に………そして自分も同じように熱くなり、濡れて
いくのが分った。
「岩城さん…俺…もう駄目……いい?………」
「香藤………」
岩城が頷くのを見て、香藤は岩城の足をかかえ上げる。内腿を甘く噛
まれて岩城の腰が震えた。
「入るよ………」
「あ……ああ!香藤!」
あまりの衝撃で意識が飛びそうだった。香藤が自分の内に入ってくる。
岩城は香藤の背中に爪をたててしがみついた。
二人の身体が一つになって揺れる。
「はあ…あ……ああ……う…ん………」
岩城の耳には自分の声と息づかいと跳ねる水音しか聞こえなかった。
洞窟の壁に反響していて自分の声ではないようだった。
そして怖いくらい香藤を感じる。
こんなのは知らなかった。見るのではなく、言葉でもなく、感じるだ
けなのに、こんなにも確かなものなんて………
身も心も愛されている事をこんなにも感じる………
自分がどんなに彼を愛しているかが分かる………
愛しい気持ちが心の奥から溢れ出て、岩城の瞳から涙がこぼれていた。
やがて二人は大きな波にのまれて激しく息をついた。
肩で息をしながら唇を合わせる。
香藤の唇が離れると、岩城は目を開いて彼の顔を手でたどるように触れた。
目を開いて闇が広がっていようとも、それは今までと同じものではない。
自分は光を手に入れた。自分だけの………
「香藤………」
「ん…なに……?」
「お前が見える………」

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「岩城さん、お湯加減どう?」
「ああ、調度いい具合だ。ありがとう」
あれから何日かが過ぎ、二人は今までと同じように清水屋の離れで暮ら
していた。
岩城の体調も元に戻り、季節はすっかり夏である。
その後、菊池家の使いのものが来て、これまでと同じように琴を教えて
欲しいと言われた。
香藤は猛反対だったが、結局、菊池の母方の方がここに出向いてくれる
という形をとり、香藤はしぶしぶ承知した。菊池家とのつながりは完全
に無くしたかったのだが。
そして、今日、香藤が湯を湧かすと言い出して、岩城は何年か振りに暖
かい風呂に入る事になったのである。
この熱い季節にか?と言ったが、香藤は乗り気で用意をし始めた。薪を
割り、外で必死に火をおこして。
「ふう………」
岩城は久し振りの湯につかってゆったりとした気持ちになった。
この暖かい湯は香藤みたいだと思う。
暖かく包み込んでくれて、でも、心地よい熱さゆえに、こちらがのまれ
てしまう事がある。
そう考えた時
「岩城さん、俺もいっしょに入るね」
「はあ?」
返事をする間もなく、湯舟の中に香藤が入っている。
「おい、俺が出てから入るんじゃなかったのか?」
「いいじゃん、我慢できなくなっちゃたんだよ」
「狭いぞ」
「大丈夫、大丈夫、こうするから」
そう言って香藤は岩城の身体を背中から抱き締めた。
「ちょ、ちょっと香藤………」
香藤の肌が密着して、岩城は恥ずかしくて俯いてしまう。
「岩城さん………」
香藤がうなじに口づける。
「こら、香藤」
「だって岩城さん綺麗なんだもん」
「駄目だ!こんなとこで!」
「え〜駄目?」
「絶対ダメだ!」
「ちぇ〜」
「………あがってからならいいから………」
岩城がぼそりとつぶやく。
「え、いいの?ほんとに?やった〜!」
「ばか、熱い身体それ以上くっつけるな。のぼせるだろう」
二人の楽しそうな声が湯気の中に木霊していた。