主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻

虎落笛(もがりぶえ)白鷺の章

 ある日、福田が町の中の商店通りを歩いていると、前から二十歳そこそこの女性が歩いてきた。すぐに人間ではないと分かった。むこうも福田に気付き、微笑みながら近寄ってくる。
「おはよう」
「…おはよう」
 人の言葉を話したので、少々驚く。稀に人間に化けるものがいるが、人の言葉を使うものはほとんどいないからである。という事は、人と暮らしているのか?
 と、福田が思った時
「あなたは、本当は何?どうして人の姿をしてるの?」
 彼女が尋ねてくる。
「私は元から人です。化生しているのではありません」
「え、そうなの?じゃあどうしてかしら?…ああ、あなたは言葉を必要としない魂をもっているのね」
「……え……」
「人の言葉の力はすごいのね。あれには誰も逆らえない……」
「そうですね……人と暮しているのですか?……」
「うん。人の言葉を使う度に昔を忘れてしまうわ。もう戻れない……」
「なぜ、人の世界に?」
「昔、山の中で怪我してるのを彼に助けてもらったの。とても嬉しかった。あの人の側にいたいと思ったから、三輪山の力をかりて人の姿になったの」
「三輪山?随分遠くから来たのですね」
「ええ、仲間達とあちこち旅してるの。人を殺して物をもらってくるみたい」
「…………」
 彼女の淡々とした口調からそぐわない言葉が飛び出したが、どうやら強盗団らといっしょにいるらしい。彼女は人の世界をあまり知らないから、それがどういう意味か理解できないのだろう。
「人はあれ程の力をもっているのに、何故いつも怖がっているの?」
「……まやかしがあるからかもしれません。どれが本当か分からない……」
「ああ、人はない事を言うものね」
「……確かに……」
「では、もう行かなくては」
 彼女はぴょこっと頭を下げて去って行った。彼女の立っていた場所に白い羽が落ちていたので、福田はそっと拾い上げた。
「…白鷺か……」
 人の世界にいるのは辛いだろうに、彼女はこちらの世界に来た。そうまでして、側にいたい人がいたのだろう。もう以前の自分に戻れないと知っているのに……
「それが強盗団の男なのか……」
 少々複雑な心境である。人の世界の汚なさを、彼女は汚いと思わない。いや、汚いという意味が分からないかもしれない。彼女のいた世界には存在しない認識だからだ。嘘という意味も知らない。
 人間は言葉と言う術を用いて、自然のあらゆるものを支配する。陰陽師や祈祷の力をみれば明白だ。
「ない事を言う…か……」
 自分も人の言葉を話し、人の名前をもっている以上、人という呪縛からは逃れられない。福田謙二郎という人間の運命からは……

      *

「では、今日の稽古はこれまで」
「ありがとうございました」
 道場での稽古が終わり、門弟達は着替え部屋に向かいだした。人がほとんどいなくなった時、橋本が福田にさりげなく話しかけた。
「福田さん、あの噂本当ですか?」
「噂?」
「相葉があの道場破りの平川を倒したってやつですよ」
「……そんな噂がたっているのか?」
「ええ、隣藩の療養所に平川らしき人物が駆け込んで来たってとこが発端らしいですけど…そいつが相葉の事を聞いていたって……」
「……本人に聞いたらどうだ?……」
「相葉の奴、今はまた忙しくなってますから、なかなか会えないんですよ。福田さんも相葉の兄の宣高殿が結婚するの知っているでしょう」
「ああ、大分のびていたようだが、とうとうだな」
 相葉の兄、宣高の祝言は一年前に一度あげる話がもちあがったが、相葉が討手に選ばれた為、しばらく保留になっていたのである。
 その件も片づいたので、年内に急いで式をあげる事になったのだ。
「……最近、稽古にもこないしな……」
 仲が悪いとはいえ、次の跡取りの結婚である。次男である相葉が何もせぬ、という訳にはいかないだろう。
「曾根崎も近々祝言をあげるっていうし…なんか置いていかれたって気分ですよ」
 橋本は寂しそうな口調で天井を仰いだ。
「曾根崎もか?」
「はい、まだ公にはされてませんけどね。身内だけでこっそりするらしいです。なんでも、嫁に来る女は出戻りなんだそうで」
「一度結婚していたのか?」
「そうなんです。曾根崎の本家に嫁いでた娘だったんですが、旦那に先立たれたとか。で、曾根崎のとこに話がきちゃったって訳です」
「そうか……」
 親戚筋の未亡人と再婚するという話はたまに聞く。せっかく婚姻で繋がった家同士の縁を切りたく無いからだ。曾根崎家も平川の事件があったので、跡取り息子を早く片付けたい、という考えに目覚めたのかもしれない。二十二歳といえば、結婚していてもいい年齢である。
「おい、橋本〜着替えないのか?」
 堀田が声をかけてきたので、彼も着替え部屋に向う。門弟達が皆出て行った後も、稽古場に残った福田は木刀を拭いて手入れを始めた。
「私も手伝います」
 伊井が隣で同じように木刀を磨きだした。そうやってしばらく無言で並んでいたが、伊井が口を開いた。
「……正直、相葉が生きて帰るとは思いませんでした……」
「…………」
「あの平川を倒すとは……私が思っているより相葉の剣の腕はあがっているようですね」
「……そうだな……」
「私と木刀でやりあった時は、さほどの力量は感じられませんでしたから、きっと彼の剣は殺気を帯びる事によって鋭くなる。真剣勝負に強いのでしょう」
 それとも、福田の命を救うという使命があったからか。
「福田さん、彼をどうするつもりです?」
「…………」
「彼はあなたを好いているのでしょう。その想いに、どう応える気ですか?」
「…………」
「彼は新左ェ門と少し似ている……」
 福田は、顔をあげて伊井を見た。
「あの日、福田さんが新左ェ門と決闘をした時、私は初めて水月の剣を見ましたが、正直、見たく無かったです」
「…………」
「同時に成人してからで良かったとも思いました。あの水月を幼い頃見ていたら堪らない。きっと捕われてしまっていたでしょう。新左ェ門のように……」
「…………」
「……初めて見るものが、この世で最高のものだったとしたら……きっと他のものすべてが色褪せて見えるでしょう。それはとても辛い事です……」
「…………」
「福田さんは相葉をどう思っているのですか?」
「……勝之進殿が亡くなった時、私はここを去るつもりだった。伊井も知っているな……」
「ええ、道場を頼むと福田さんが頼みにきましたからね。しかし新左ェ門は許さなかった……」
「実はそれより前に勝之進殿に話していたのだ」
「え?勝之進殿に?」
「ああ、九郎兵衛殿の四十九日が終わった時にな。勝之進殿はここを去る事を許してくれた。そして新左ェ門には言わない方がいいだろうと、おっしゃっていた」
「それでは……」
「新左ェ門には黙ってここを去るつもりだったのだ。だが、勝之進殿が急死して、新左ェ門に言わねばならなくなってしまった……それが、間違いだった…黙って去れば良かったのだ……」
「福田殿……」
「そうすれば、新左ェ門と立合う事も無く、彼は旅出たずにすんだ。相葉も水月の剣を見ずにすんだ……」
「…………」
「私は去るべきなのだ……」
「……福田殿……」
「……もう誰も不幸にしたくない……」
 昼間に会った白鷺の女性を思い出す。彼女のように、つい人が愛しくて、この世界にとどまってしまった。九郎兵衛が言うように、人の世界から離れて生きていった方がいいのだ。きっと……
「さあ、もう今日はこれくらいでいいだろう」
 福田はそう言って木刀をかたずけた。壁にかけられた置場に戻すと、伊井に挨拶をして稽古場を出て行った。少し淋し気な笑顔をうかべて……
 福田が去った後で、伊井は後味の悪い思いを感じていた。なんだが、大人しい子をいじめた子供にでもなった気分である。
 確かに水月の剣を見た者は運命を狂わせている。だが、それは福田のせいではない。狂わせているのはその人自身なのだ。自分で決めた行動の筈だ。
『不自由なく暮らせる事が普通の運命ですか?何の狂いもない人生ですか?』
 あの時、相葉を止めようとした時の彼の言葉が脳裏を横切る。
『自分の思いどおりに生きる事が本当の運命でなくてなんなのだ!』
 血を吐くような口調だった。伊井はその迫力に圧倒され、そして相葉の福田への想いを知った。
 きっと相葉は舞い上がっているのだ。恋に熱くなって現実を見失っているの違い無い。もう少し大人になれば分別がついて、自分の行動を冷静に見れる時がくるだろう。
 だが、彼は見てしまっているのだ、十四歳の時に水月を。
 水月に捕われたら最後、そこから逃げ出す事は至難の技だ。それが分かっているだけに、伊井はため息をついた。

         *

 相葉が屋敷の渡り廊下を歩いていると、一人の女中に声をかけられた。兄の妻になる静の侍従である。静とはこの家に来た時、簡単な挨拶をしただけである。同じ家にいるのに三日間口を聞いていない。
 このところ、相葉はずっと祝言の支度に奮闘していて、道場に行く暇もなかった。あちこち引っ張り回されて、押し掛けてくる親戚共や、家中の者の対応に追われっぱなしなのである。中には世話を相葉を指名してくる者もいた。大儀を果たした男の顔が見たいというのである。相葉にしてみれば、いい迷惑であった。
「なにか?」
「お嬢様がお呼びです。こちらに来て頂いてよろしいですか?」
 何ごとかと思いつつ、ついていくと、静のいる部屋に通された。静が畳に正座していたので、相葉も前に腰を下ろす。
「何かご用ですか?姉上」
「お久し振りでございます。影嗣殿」
「は?」
「覚えていらっしゃいませんか?私と影嗣殿は以前お会いしているのですよ」
「え?いつですか?」
「一年程前、京都で…暴漢に襲われているのを助けていただきました」
「あ!」
 静の言葉に相葉はやっと思い出した。

 一年前、相葉達討手は牧村を追って京都に行った。そこで、暴漢にからまれていた女性と、その侍従を助けたのだが、それが静だったのである。
「あの時は本当にありがとうございました。名前も聞けませんでしたし、ろくにお礼も言えませんで……」
「いえ、こちらこそ…急ぐ旅だったので……」
「あの時は京都の寺に参拝に行っておりましたのよ。影嗣様のご本懐が無事とげられるようにと……」
「……そうでしたか…私が帰らないと祝言があげられませんものね……」
「…………」
「ともかく、おめでとうございます。あなたが姉上でとても嬉しく思います」
「本当ですか?」
「え?」
「なんだか影嗣様の今のおっしゃりよう、社交辞令といった感じでしたわ」
「え、そ、それは……」
 そんな事を言われるなど、予想していなかった相葉はとまどってしまう。
「ふふふ、冗談ですわ。私もあなたに会えてとても嬉しゅうございます」
 静がいたずらっぽい瞳で笑う。からかわれたと知って、相葉は苦笑する。
 それから静は事あるごとに相葉に話し掛けるようになった。見知らぬ土地で、見知らぬ人々に囲まれて、心細いのかもしれない。同じ藩ではあるが、静の生家は山を越えた反対側の村にあるので、気軽にお里帰りも出来ない。知っている者がいれば、少しは心やすらぐだろう。と、相葉も出来るだけ彼女と話をするようにした。
 彼女は勝ち気で明るい性格の女性だと分って安心した。すぐに家の者とうち解けるだろう。高禄の家にありがちな、高慢なところはまるでない。少し気が強いが、自分の意見をもっており、行動力もある。美しいだけの人形のようなお穣様とは違っていて、相葉は好感をもった。
『兄にはもったいないぜ』
 と、静が少々不憫だった。

        *

 数日後、福田が町を歩いていると、通りが何やら騒がしくなってきた。奉行所の者が強盗団を捕らえて帰ってきたらしい。先頭の与力の馬が見えてきたので、町人らは道脇に身を寄せた。通り過ぎて行く一行を興味深々で覗き込む。
 同心の者達の後ろには、盗賊団だろう五、六人の男が綱で縛られ、一列に繋がれていた。泥と血だらけで、衣服も破れていた。皆、疲労困憊といった様子で、うつろな表情をしている。その中で一人、白鷺の屍骸を抱きかかえた男がいたので、福田ははっとした。
「なんだ、あの鷺抱えた男?」
 福田の前に立っていた町人が隣にいた友人だろう男に話しかけた。
「聞いた話によると、男が密偵だと勘違いして殺したらしいぞ」
「鷺をか?頭おかしいんじゃねーの?」
「それが、女の姿をしていたっていうんだと。盗賊団の話だと」
「なんだそれ?」
「殺した途端鷺になったっていうんだよ、変な話だろ?奉行所からの密偵は他の奴だったらしいけど」
「不思議な話もあるもんだな〜狸なら納得もするんだが、鷺が?何してたんだ?」
「さあな、さっぱり分からねーよ。で、殺した男はずーと屍骸をかかえたまま離さねーんだと」
 福田は男達の話を聞きながら、列を見送った。白鷺は満足だったのだろうかと、考えながら……
 後日、この強盗団は全員河原で打ち首となった。その時も男は腐りかけた白鷺を抱いたまま処刑された。見物人達は気がふれているのだろうと噂した。
 きっと男は白鷺を愛していたのだろう、と福田は思った。
 しかし、人間ではない彼女に違和感を感じてしまい、それを彼は彼女が密偵であるからだと、錯覚したのだ。そして、殺した。
 男は白鷺を殺した自分を許せなかったろう。もう一度帰ってきて欲しいと願っても、叶わない。罪の意識にたえきれず、正気を失った。
 白鷺は満足だったのだろうか……?
 福田はずっとそれを考えていた。
 自分が想った人に疑われ、殺され、その人も正気を失った。そんな結末で良かったのか?分かっていても、側にいたかったのだろうか?
 自分の世界のすべてを捨てても……
 自分が何を脅えていたのか福田はやっと分かった。相葉に愛されて、いつも脅えていた見えない何か……
 相葉が自分を愛した為に不幸になるのが恐いのだ。いつか彼に憎まれる時がくるのが恐い。なぜなら、自分も彼を想っているからだ。
 私はここを去らなければ……
 過去の過ちをまた繰り返さない為にも……

         *

 静が来てから二十日後の大安の日。ようやく祝言が行なわれた。結婚の宵は絢爛豪華で三日間続けられた。町人にも菓子が配られ、最後の夜は能が披露され、家中の者はほとんどが招待された。
 演目は『土蜘蛛』や『羽衣』といった有名なものである。
 野外なので観賞には少し寒いが、所々焚かれた篝火が熱を放ってくれていた。
 能が終わればこの騒ぎも終わる、と相葉はひと心地ついた気持ちで、舞台を眺めていた。
 席から離れた後ろで立っていると、橋本と堀田が声をかけてくる。
「よう、お久し振り。この度はおめでとうございます」
「これは、これは、ありがとうございます」
 三人は形ばかりの挨拶をかわした。
「相葉、曾根崎が結婚するの知っているか?」
「ああ、再婚の女性だって聞いたけど」
「そうそう、まあ器量はいいらしいけど、とんだ貧乏くじだよな、あいつも」
「嫡男の結婚なんてそんなもんだよ」
「橋本〜随分悟り切った事言うな〜。か〜俺は嫌だね〜やっぱ処女でないと」
「…お前がこだわるのはそこかよ……」
「なんだよ〜橋本は気にならないっていうのか?男なら気になって当然だろ、なあ相葉」
「別に……」
「お前も気にならないっていうのか?」
「ああ……」
「へ〜。そういえばお前、また縁談がもちこまれているんだって?」
「……らしいな……」
「以前は西井家があがっていたから、皆遠慮してたみたいだけど、無くなったと分かった途端、あちこちから声がかかってるらしいじゃないか」
「…………」
 堀田の言うとおり、また縁談がもちこまれるようになっており、相葉はうんざりしていた。今度は過去にこだわらない、と言っている所が多いらしく、投げ文の効果はないようである。また、新たな対策を考えねば……
「よりどりみどりでうらやましいかぎりだね〜。で、どこの娘さんにするんだ?」
「……結婚なぞしない……」
「だが、いつかしなきゃならんだろう?誰にするんだ?」
「……しない……」
「ひょっとして、好いた女がいるのか?」
「いや……」
「じゃあなんでしないんだ?相葉、お前もしかして衆道じゃないだろうな〜」
「それがどうした」
「へ?」
 堀田は冗談で言った言葉に予想外の応えがかえってきたので、とまどっていた。気持ちはかなり引いているようだ。
「…違うかもな……」
 相葉がぼつりと呟く。
「そ、そうだよな〜違うだろ〜 な、なんだよ驚かすなよ〜」
「……人じゃないかもしれない……」
「え?」
 舞台では『羽衣』が演じられていた。漁師が天女の羽衣を見つけ、天女が返してもらおうと、舞う場面である。
 炎の照らす光の中、面をつけた能楽師達が妖しく舞っていた。
 この話はいくつかの土地で似たようなものが多く存在する。多少の誤差はあるが、天女の羽衣を漁師が見つけ、羽衣を返してもらうと、天女は天に帰っていくのだ。
 何年か前、福田に話を聞かせてもらった事がある。
 夜具に入り寝物語として聞いたその時は、まだ自分の内に潜む熱い思いに気付いていなかった。
 彼から聞いた話では、漁師と天女は夫婦になる。が、物置き小屋で天女は羽衣を偶然見つけ、天に帰ってしまうのだ。
 相葉はなぜ漁師は羽衣を燃やさなかったのかと疑問だった。愛する人の大切な物だから燃やせなかったのか?
 自分ならきっと燃やすだろう、と思った。天女がそれを見つけたら帰ってしまうと分かっているからだ。帰らせない為に、自分の元にとどめておく為、自分なら燃やすだろう。なんのためらいもなく……
 強烈な寂寥感に襲われて、相葉はその場を立ち去った。
「おい、相葉、どこへ行く?」
 堀田達の声を無視して、そのまま福田の家に向かったのだった。歩きながら、福田の事を考えた。
 彼は自分を少しは想ってくれている……
 分かっている。でなければ身体を許す筈がない。しかし恐い。彼は羽衣を手にすると、自分の手の届かない世界にいってしまうと知っているからだ。
 あなたはいつか行ってしまう…あなたを愛している存在がいる世界に……
 そんな彼に怒りを抱く。そんな彼を愛した筈なのに……
 どうして俺は変われないのだろう……
 いっそ犬にでもなった方がいい……
 そうしたら、もう少し美しくあなたを愛せるだろうに……
 あなたが去っていくという恐怖から逃れる為に、あなたを殺したいと思っている。その時だけが、彼を自分のものに出来るから……
 俺の魂は病んでいる……
 いつからこんなに醜くなったのだろう。
 その時、相葉の耳に虎落笛が聞こえ、闇の中を振り返った。
 ああ、あの時からだ……
 あの時、己の欲望の為に友を殺した。生きて彼の元に帰るのだという願いの為に。あの時から自分はどんどん汚れていく……
 これからも、虎落笛を聞く度に、自分の醜さを思い知るのだろうか……

 家で福田は的場に座り、明かりもつけずに月を眺めていた。その手には白鷺の羽は握られている。もの思いに耽っていると、人の気配を感じた。目を向けると、相葉が立っていた。
「影嗣……」
 福田は一瞬夢かと思ってしまうが、相葉は彼に何も言わずに近付き、床に押し倒した。
 激しく口付け、乱暴に帯を解く。
「…か、影嗣……ま、待て……」
「嫌です」
「こ、こんな場所で……う……」
 福田は的場という神聖な場所で、そんな行為をする事が恥ずかしかった。しかも、的場は射場に向っている壁がないのだから、半分野外である。
「誰も来ませんよ」
「そ、そういう…あ……!」
 問題じゃない、と言いかけた言葉は、相葉のもたらす快感の波に飲まれてしまった。彼の手と濡れた舌の感触に、意識が次第に朦朧としてくる。冬の寒さが心地良かった身体が、次第に熱く燃え始める。
 相葉は福田の足を広げさせ、その間に顔を埋めた。途端に福田は甘い悲鳴をあげた。
「な…!や、やめ……影嗣……!」
 そんな事をされるのは初めてで、福田は信じられない気持ちだった。強烈な快感が足元から這い上がってくる。背中をそらし、逃れようと身をよじるが、相葉は強く押さえ込んでいた。荒れ狂う嵐に翻弄される。
「いや…だ…やめ……」
 身体だけが暴走をして心とばらばらになっていく。その嵐が去った後も、福田は苦しく瞳から涙が溢れた。
 激しく息をつく福田の身体を相葉はうつ伏せにする。まだ、先程の余韻が残っており、背中に指が触れただけで、福田の身体は大きく跳ねた。
「身体だけは、快感に弱い人間と同じというのも、やっかいですね」
 青白い月明かりの中でも、福田の頬が朱色に染まったのが分った。
 ひどい事を言っている。
 どうしてもっと優しく出来ないのだろう。
 自分に嫌気がさしながらも、相葉は彼の内に自分を入れた。逃げようとする福田の身体を抱えて、激しく揺さぶりだす。
 福田は揺れながら、いつも感じる波を感じなかった。感じるのは相葉の熱い想いだけ……
 見透かされている……?
 去ろうとしている自分を相葉に見透かされている。
 自分の内にねじ込まれた熱い昂りを、彼の怒りのように感じてしまう。熱くて、苦しい……
「…か、影嗣…熱…い……」
「……あなたの方が…熱い……」
 二人は一つになって揺れながら、やがて高みへと登りつめていった。

         *

 相葉は遠くから聞こえる話声で目を覚ました。
 あれから相葉は夜具に福田を引っ張り込み、何度も身体を繋げたのである。
 気絶するように眠った福田の顔を眺めていたので、眠ったのは夜明け近くだった。障子から差し込む光に、かなり寝過ごしたと分った。
 身を起こすと、中庭の方から話す声が聞こえた。一人は福田の声だが、もう一人は子供の声である。やがて、二人はどこかに行ったらしく、気配が消えた。
 福田はいつも優しい。それは俺だけじゃない……
 相葉は夜具の中で軽くため息をついた。

 朝に福田の家を訪れたのは、鶴羽神社で奉公している子供だった。困った事態が起きたが、今、神主は留守にしているので、どうしていいか分からないというのである。
 神主から荒神を静めた福田の話を聞いていたらしく、相談に来たのだ。詳しい話はしないし、何か怖がっている様子に福田は、鶴羽神社に出かける事にした。
 神社に着くと、亀淵ガ沼の方に案内される。
『また、あの荒神に何か?』
 と思った福田だったが、沼に近付くつれ、今までと違う何かを感じだした。
『なんだ?これは?』
 沼の方からどす黒い気が漂ってくる。澱んだそれは、清流の中に黒い水が流れ込んでいるかのごとくであった。そして何より
『荒神がいない?』
 あの荒神の気を感じないのである。静まった後も、ここは荒神の激しく神々しい気が漂って、近寄りがたい様相を呈していたというのに。あの、美しい、清々しい気が消えているなんて……
 代わりに漂っているのは禍々しい黒い気である。人間の欲望の気だ。
『なにがあった?』
「あそこです……」
 子供が微かに震える手で一本の気を指差した。禍々しい気はそこから漂っている。
 福田は一人、ゆっくりと木に近寄ってみる。
 そして、根元にあるそれを見た途端、寒気に全身を包まれ、鳥肌がたった。
 その木の根元には、何十本もの釘が打ち込まれた藁人形があったのである。

     終