名も無きもの SCENE5

 香藤は暗い雰囲気のビルに入り、エレベーターで約束の階まで上がった。相変わらず
重厚な作りにも関わらず、人気のない無気味なビルである。
 13階の突き当たりの部屋のドアを香藤はノックした。
「入りたまえ」
 低い男の声がする。
「失礼します」
 香藤は静かにうす暗い部屋の中に足を踏み入れた。この依頼人に会う時はいつもこう
である。
 部屋の明かりはほとんど点ず、昼間でもカーテンをしっかり引いてある。なんでも目
の病気で、明るいのは駄目なのだそうである。そんな理由から、香藤は依頼人の顔をは
っきりと見ていない。シルエットと声から察するに、中年の品のいい男性のようである。
言葉使いも丁寧だし、身につけているものも高級品の匂いが漂っているので、上流の出
らしい。が、香藤はこの依頼人はあまり好きではなかった。彼から醸し出す雰囲気が、
どうしても異質に感じてしまうのである。悪魔払いをした岩城を見た時でさえ、そんな
事は思わなかったのに。
 もっとも岩城に関して香藤が公平な判断ができる筈もないのだが。
「香藤さん、捜査の方はどうです?順調ですか?」
「いえ……予期せぬ展開になってきまして……信じてもらえるかどうか……」
 香藤は今まで岩城といっしょに調べたニーソン牧師の事について隠さず話した。悪魔
払いや天使の存在などについては、ある程度省略しておいた。
「もし、俺の捜査が御不満であれば、打ち切って頂いても結構ですよ。もちろん探偵料
はいりませんので」
「……いや、構いませんよ……どうぞ続けて下さい」
 思ってもみなかった言葉に香藤は少し驚いた。
「驚かれないんですか?こんな尋常で無い話ですのに」
「……ええ……ある程度予測していましたから……」
「予測していたとは?」
「……………」
「もうそろそろ聞かせていただけませんか?あなたは誰を探しているんです?なぜニー
ソン牧師の死にこだわるんですか?」
 この依頼人が頼んだ捜査とは、ニーソン牧師が探していたある人物について調べて欲
しい、というものだった。
 その人物の名前も顔も分からず、ただ、牧師に関わる人物というだけであった。
 当初は岩城の事かと思い、報告したが彼ではなかった。この時香藤はかなりほっとし
たのを覚えている。
 しかし、ニーソン牧師の死には人を越えた存在が関与しているかもしれないと分かっ
た今、これ以上捜査しても無駄ではないかと思えてきたのである。真実が見出せない可
能性もあったし、なにより依頼人が信じないかもしれない、と。
 実を言えば香藤は捜査の打ち切りを期待していた。この依頼人と会わずに済む方が有
り難かったのである。しかし、思惑は、はずれてしまった。
「……探している人物は私の友人の双児の弟でね…かなり前から行方不明なのです……」
「弟さん?では名前ぐらいは教えていただけませんか?」
「それは出来ない……固く止められていますので」
「……………」
「顔写真を見せないのも双児だからです。弟さんの顔は友人の顔でもありますから。そ
れに教えたところで、彼はその名前を使っていないでしょう」
「……ニーソン牧師はなぜ弟さんを探していたのですか?」
「推測だが彼に会って何かを確かめるつもりだったのではないかと思う……彼は人なら
ざる力を持っていて、悪魔信仰に関して大変興味をもっていました……」
「悪魔払いを行っていたのですか?!」
「……それが分からないのです……力をもっていたのだが、それをどう使っているのか
が……」
「……というと……?」
「悪魔憑きに使っている可能性もあります……」
「……………」
「もしかしたら、牧師を殺したのは彼かもしれない……」
 香藤は息を飲んだ。
「その可能性がある為、探偵であるあなたを雇ったのです。友人の名を汚したくありま
せんからね。分かっていただけましたか?」
「…事情は分かりました……」
「ここまで話した以上、捜査の続行は引受てくれますね。費用の方はいくらかかっても
構いませんので……」
「……………」
「君には地獄まで付き合ってもらわねばなりません」
 否を言わさない依頼人の威圧的な口調。薄闇の中で彼の肩が微かに揺れる。
 笑ったのだ。
 香藤は初めて自分が後戻りはできない異様な世界に足を踏み入れた事を悟った。
 だが、不思議と恐怖はなかった。
 むしろどこか嬉しく感じている自分がいた。岩城の身を置く世界に入れた事に………

      *

 その夜岩城はアスランのクラブを訪れた。香藤は依頼人への報告があるからと、出掛
けていたので一人だった。
 香藤が来てから岩城は一人になる事に変な違和感を覚えるようになっていた。彼が来
る前はずっと一人だった筈なのに、傍らに香藤が立っていない事がまるで風穴が空いて
いるように感じてしまう。
『ばかな、ニーソン牧師がいなくなったからって気弱になっているんだ。しっかりしな
くては』
 岩城は無理矢理自分を奮いたたせた。
 アスランのところに行ったのは、例の暗号文の事である。もうすぐ解読できそうだか
ら、前払いで金をよこせと言ってきたのだ。
 岩城は仕方なく、自分のもっている中で一番高価な金の十字架を差し出した。
 これは美しく、高価なばかりでなく、悪魔を払う力が強力に秘められたものだった。
護符としての力もたいしたもので、中世時代の神父から代々受け継がれてきたらしい。
 これを手放すのは岩城にとってかなり痛手となるが、ためらっている余裕はなかった。
 アパートに着くとドアの前に立って隣の部屋をちらりと見る。人気のない様子からま
だ香藤は帰っていないようだった。
 無意識のうちにため息をつきながら鍵を開け、部屋の中に入る。
 明かりを点けようとした瞬間、岩城の身体はものすごい力によって吹っ飛ばされた。
「あう!」
 まったくの無警戒だった為、床にしたたかに叩きつけられる。痛みをこらえて起き上
がろうとしたが、またも身体は見えない力によって床に押し倒された。
 手も足も動かず、岩城は床に大の字になって縫い止められた。
「く、くそ!」
『一体どういう事だ!』
 岩城がもがきながら天井をふと見ると、そこに男の顔が浮かび上がっていた。
「な……」
 まるで不思議の国のアリスに出て来るチェシャ猫のように顔だけが天井に浮かび上が
り自分を見ている。岩城は言い知れない恐怖を感じた。
 やがて男の顔をゆっくりと岩城に向かって降りてきた。すると、今迄天井という水に
ひたっていたかのごとく、スーツ姿の身体も徐々に浮かび上がった。
 男は床に転がる岩城と、顔合わせのちょうど平行に並んだ状態で近付いてくる。
 岩城は必死に手足を動かして逃げようとするが、まったく動かなかった。男から漂う
冷気と禍々しいオーラを感じて吐き気が込み上げてくる。腐った死体の方がましだと思
うくらいのおぞましさだった。
『まさかこいつが十五年前に俺を襲った奴なのか?!』
 と、一瞬思うが、すぐに違うと直感した。
 何かが違う、根本的な何かが十五年前のものとは違っていた。
 あの時岩城は恐怖を感じたが、これ程の本能的な嫌悪感はなかった。
 男は気味の悪い笑顔をその顔に張り付け、そっと岩城の頬に触った。
 途端に岩城の全身に鳥肌がたつ。虫酸が背中をかけまわり身体中を苛む。
『やめろ!』
 声をだそうとすうが、それすらも出来ない。
 男の手は頬から首すじへとゆっくりとまるで岩城の肌を楽しむかのように辿りはじめ
た。
 息ができなくなるぐらいの嫌悪感に包まれる。
 やがて男の手は胸元へと移り、シャツの中に入って岩城の肌に直接触れた。
『いやだ!』
 岩城が声のでない悲鳴をあげた時、胸の痣が燃えるように熱くなり、男が「ぎゃあ!」
という悲鳴をあげて飛び退いた。
『なんだ?!』
 岩城は咄嗟に飛び起きて、身体が自由になった事を知った。
「ぐおお〜」
 男は震えながら自分の右手を見ている。
 よく見ると、その右手は手首から先がなかった。しかも、まだ、干涸びた壁がはがれ
落ちるかのごとくボロボロと崩れ落ちていっている。
「おのれ〜貴様〜」
 歪んだ恐ろしい顔が岩城を睨み付けていた。赤い目、耳もとまで裂けた口に光る牙が
見える。それはもう人間の顔ではなかった。
「人間ごときが!」
 そう言った瞬間、男の身体が一気に灰となって崩れた。
 と、岩城は思ったが、灰ではなく、小さな虫の大軍になったのである。
『蠅、まさかベルゼバブ?!』
 蠅は大軍となって岩城を襲った。
「くそ!」
 岩城は布を取り出し、それに力を吹き込んで燃やした。太陽のような光が現れ、蠅達
は逃げていった。
 光が消え、辺りは再び闇に包まれる。
 岩城は床にしゃがみ込み、激しく呼吸をした。全身に冷汗が流れ、寒くてたまらなかっ
た。思わず自分の身体を抱き締める。
 今迄何度も悪魔払いを行ってきたが、あれ程の上級悪魔と対峙したのは初めてだった。
 先程の悪魔のオーラを思い出してぞっとする。
『よく、無事だったものだ………』
 何故、ベルゼバブの身体が崩れ落ちたのか。
 おそらく、岩城の胸にある痣に触れた為であろう。
『どうして?この痣をつけたものは悪魔ではないのか?』
 いや、悪魔は仲間意識がとても低く、例え同じ悪魔であっても平気で殺す。だが、岩
城の感じた感触はあまりにも違い過ぎている。
 どちらにしても、あのベルゼバブと同格か、あるいはそれ以上の力をもっているもの
らしい。
 岩城は自分の痣をなぞってみる。
 寒さに包まれる身体の中で、そこだけがほのかに暖かかった。


堕天使の名 ベルゼバブ
 ベルゼバブともベルゼブルとも呼ばれる。古代宗教の多くでは蠅は魂を運ぶと信じられており、
「蠅の王」とは魂の支配者を意味した。蔑称であった「蠅の王」の名は、後に彼の姿そのものを
表すようになり、中世では巨大な蠅の姿で描かれるようになった。
 反乱を起こした堕天使たちの中で、地獄が神から与えられた牢獄であることを知り、復讐の手
段に、地上と人間とにその矛先を向けることを提案したのがベルゼバブである。ベルゼバブはサ
タンらと共にイエスと三日間対決したといわれている。
 サタンの中での実力はルシファーに次ぐ者とされている。

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