名も無きもの SCENE7

 いきなり岩城の携帯が鳴った。岩城はなぜか嫌な予感を感じ
ながら電話に出る。
『イワキか、私だ、トマスだ』
 切羽詰まった口調の相手は間違い無くトマス神父の声だった。
「トマス神父?どうしたんですか?何かあったんですか?」
『心して聞いてくれ、例の暗号文だが、なんとか解読したので
今話す!』
「……あなただったんですか……どうして……」
『詳しい事はアスランから聞いてくれ!とにかく、もう時間が
ないんだ!あいつらがこれを奪いにそこまで来ている!』
 岩城の全身に鳥肌がたつ。
「トマス神父!今どこにいるんです!すぐに行きます!」
『もう間に合わない……頼むから聞いてくれ』
「……しかし……」
 岩城はどうしたらいいのか分からなかった。心臓が早鐘を打
ち、息が苦しくなる。
 もしかして、カトリーヌ教会かもしれない?!
 岩城は電話を耳にあてながら、教会に向かって走りだした。
『いいかいイワキ、ルシファーの双児説を聞いた事があるだろ?
どの書物にもルシファーが双児であるなどと書いていないのに、
なぜか彼は双児で片割れはミカエルという逸話がある』
「はい」
 ルシファーとは元大天使長のもっとも神に愛された天使で
あるが、神に対して反乱を起した為、地獄へ落とされ、サタン
となった堕天使である。
 岩城は息を切らして走りつつ、耳に集中してトマス神父の
言葉を一言も聞き漏らすまいとした。トマス神父の口調はい
つもの穏やかなそれと違い、早口で焦りを感じさせるものだ
った。聞いている岩城の気が余計に急いて、時折足がとられ
てしまう。
『だが、彼は本当に双児だったんだ、この暗号文に書かれて
いるのはその者を表わす紋章なのだ。蔦にみえるのは炎で、
ルシファーの紋章と対になるらしい』
「…で、ではサタンの紋だと………!」
『いや、それは分からない……その者はルシァーが神に対し
て起こしたクーデターには加わらなかったらしい。だから堕
天した訳ではないようだ。しかし、また反逆が行われる事を
恐れた神は、その者の名を封印し、存在を抹殺したのだ。だ
からこの者を呼ぶ名前は存在せず、この紋章だけがそやつを
表わす唯一の印なのだ』
 胸に刻みつけられた痣が熱くなる。岩城は手を胸にあて、
今自分がどこにいるのか、どこに向かって走っているのか分
からなくなっていた。胸が張り裂けそうに痛むが、足をとめ
る事はできなかった。
「…そいつは一体どこにいるのです………」
 岩城は苦しい息の下から、掠れた声を絞り出した。
『これには書かれていない…天界にいるか、地獄の住人と化
したか不明だ……』
 ルシファーの片割れがあの夜俺を………?
 一体なんの為に?!
 ずっと考え続けてきた疑問をまた頭の中で反芻する。
 目眩がする……
 岩城はグラグラと揺れる視界の中で、自分の中の何かが歪
んでいくような気がした。
『イワキ…君に言っておかなければならない事がある』
「な、なんです……」
『ニーソン牧師の手紙を私は持っている……彼に自分に何か
あった時は君に渡して欲しいと頼まれたのだ。しかし私はど
うすべきが悩んだ。これを読んで、君まで牧師のようになっ
てしまうのではないかと……』
「!そ、その手紙はどこに!」
『イワキ何があっても自分を信じるのだ。ニーソン牧師も私
も、君を見守って……う………!』
「トマス神父!」
 突然電話が切れて、無情な通話音だけが岩城の耳に聞こえ
てきた。

**********************

「遅くなっちゃったな〜」
 香藤はアパートの階段を駆け上がりながら呟いた。部屋の
ノブに手をかけた時、ちらりと岩城の部屋のドアを見る。
 何か不遜な空気が漂っている気がした。
『?なんだろ。俺には霊感なんてまったくないけど……いや
な感じだ……』
 もし、寝ていたら起こす事になってしまうかも、と少し悪
く思うが、どうしても岩城の姿を確認したくなった香藤はノッ
クしようと岩城の部屋の前に立つ。
「あれ、鍵かかってない……?」
 まさか泥棒?!
 と、香藤は足音をたてないように岩城の部屋の中に忍びこ
んだ。
 暗い部屋の中、誰かがベッドに仰向けに横たわっている。
目を凝らしてみると岩城だったので、香藤は少しほっとして
近付いた。が、岩城のシャツの胸元が開かれ、血のようなも
ので染まっているのが見えて、香藤は急いで駆け寄った。
「岩城さん!どうしたの?どこか怪我したの?!」
「……か……とう……」
 胸には爪痕のような傷がいくつもついており、血が流れて
シャツを赤く染めている。
「何があった…の……」
 香藤は岩城の顔を見て言葉を失った。
 岩城の瞳はうつろで涙を流していたのである。
「……トマス神父が……」
 岩城は夢の中にいるような口調で話しだした。
「うん……?」
「………死んだ……」
「え………?」
「……奴らに……殺された………」
「そんな………」
 その時、岩城の傷のあたりで何かが動いた気がして、香藤は
視線を傷にもどしたが、信じられないものを見てしまう。
『え?』
 岩城の胸元の傷が塞がっていくではないか。それはスロー
モーションの逆回しのように治っていき、あっという間に元に
戻った。そして、そこには奇妙な形をした痣があった。
『この痣は?』
 この形には覚えがある。
『そうだ、牧師の部屋でみつけた暗号文に書かれていた紋章だ。
なぜ岩城さんの胸に?』
「……香藤……」
 呆然としていた岩城は突然ハッと気がつき飛び起きた。
 襟元を寄せて胸元を隠し、ベッドの脇に身を丸める。
『見られた!香藤に見られた!』
 岩城は悲しみと羞恥心に襲われ、香藤の顔がまともに見れな
かった。
 この過去の忌わしい印を香藤にだけは見られたくなかったの
だ。
 あの夜から、岩城は何度もこの痣を消し去ろうとした。ナイ
フで削ったり、火で焙った事もあるが、どんな事をしようとも、
傷はすぐに塞がり痣はまた浮かび上がってくるのである。呪い
のようにこの痣は岩城を呪縛し続けるのだ。トマス神父の死を
感じた岩城は深い悲しいと憤りに襲われ、発作的に痣に爪をた
ててしまったのである。
「…岩城さん……何があったの……?」
 香藤は痣の事を聞いてこなかった。
「………………」
「神父が死んだって確かなの?」
 岩城は一瞬身体を震わせ、小さく頷いた。
 悲しみがこみあげてきた岩城は、また大粒の涙を流した。
「…みんな……いなくなってゆく……」
「……岩城さん………」
 そう、大切な人はみんないなくなっていく……誰もいない……
『一人だな……俺は……』
 背中を丸めて泣く岩城を見て、香藤はたまらなくなった。そっ
と手をのばし、優しく彼の岩城の身体を抱き締める。
「……俺が……いるよ……」
「…香藤……?」
「俺が岩城さんの側にいる……ずっと……」
「……香藤………」
 香藤は少し身体を離して岩城の顔を見つめると、静かに優しい
口付けをした。
「…香……藤………」
 驚いている岩城に香藤は優しく囁く。
「岩城さん……あなたが好きです……」
「……え………」
「愛してる………」
 再び香藤の腕の中に捕らえられた岩城は、驚きつつも深いや
すらぎを感じて瞳を閉じた。
 いつでも明るく、優しい香藤の腕の中は今まで味わった事の
ない程の暖かさに満ちていた。


天使の名 ミカエル
 現在の大天使長、最強の天使、常に天使たちのトップに立って
きた彼は、彼のシンボルである『鞘から抜かれた剣』が示すように、
戦うための天使として武勇において語られることが多い。神から
の信頼も厚く、サタンとの戦いが始まったとき、『天軍の指揮者
ミカエルよ、汝もゆくのだ!武勇においてミカエルに次ぐガブリ
エルよ!汝も共に…』と指令を受けている。また、一つの重要な
役目に、最後の審判の日にラッパを吹き鳴らし、審判の場で人間
の魂を秤にかけるとされている。

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