名も無きもの SCENE9

 香藤はアーリントン墓地の中で必死に『香藤洋二』と刻まれた墓を
探していた。空は黒々とした重い雲のカーテンを垂れ下げ、遠方では
稲妻が妖し気な輝きを放っている。低い雷鳴が辺りに響く。
 香藤は心の中で必死に否定しながら暗闇の中、息をきらして駆け続
けていた。しかしそれはそこにあった。
 自分の名が刻まれた墓の前で香藤は呆然と立ち尽くした。
「……そんな……どうして………」
『この墓が香藤洋二の墓なら十五年前に死んでいた事になる……では
俺は……?ここにいる俺は一体何者なんだ!?』
 もしかして同姓同名なのではないだろうか?という考えがチラリと
頭をかすめるが、香藤は即座に否定した。
 このロスに暮らす日本人で『香藤』という珍しい姓で、名前も歳も
同じ者のいる確率はかなり低い。なにより香藤は心の底で知っている
のだ。『香藤洋二』が十五年前に死んでいる事を………
『では一体……俺は何者なんだ?十五年前、岩城さんに憧れていた少
年は?』
 香藤は目をつぶり、外を歩く岩城の姿を思い浮かべる。いつも二階
にある家の窓から見ていた光景を……
『え……?』
 本当に窓から岩城を見ていたのだろうか?
 外を無防備に歩く美しい少年………
 なんて純粋で美しいのだろうかと思った……彼の側にいきたい。いっ
しょに並んで歩きたい、そして守ってやりたいと思って………
 だから………
「だから貴様はあの人間に自分の印を刻みつけ、力を与えたのだ」
 突然、耳もとで声が聞こえ、香藤は驚いて振り返った。
 耳もとで声が聞こえた筈なのに、5、6メートル離れたところにあの
依頼人が立っている。
『確か今耳もとで声が………?』
「……ど、どうしてあなたがここに………?」
「思い出したのだろう。自分が何者なのか……」
「……なん…だと………」
 香藤は目の前に立つ依頼人を睨みつけた。いつも無気味な雰囲気を
漂わせて、彼に会う時は不愉快な気分になったものだった。今の彼は
その何倍もの負のオーラを全身に漲らせている。歪んだ笑みをその顔
に張り付け、口元が耳もとまで裂けそうだ。香藤は直感した。
『……人間ではない……』
 そして……俺も………
「貴様の目的は一体なんだ?何の為に俺に近付いた?」
「自分の正体を思い出させてやろうと思ったのさ」
「自分の?」
「そうだ、お前はすっかり記憶を消しているようだったのでな。自分
の事を調べるうちに思い出すだろうと思ってな」
「自分の事……?では双児の弟というのは……?!」
「そうだ、お前の事だ」
 近付いてきた稲妻が香藤の頭上で鳴り響いた。

     *

「……よし………」
 岩城はもう一度床に描いた魔法陣と、古文書のそれと見比べ、間違
いがないか確かめた。プールにはすでに水が満たされている。水量を
計る計器のスイッチは切っておいたので、ニーソン牧師の時のように
すぐに誰かが気付く事はあるまい。
 岩城はニーソン牧師の遺体が発見されたこの場所で、再び召還を試
みようとしていた。一度異世界と通じた場所は空間に歪みを生じてい
て、再び繋がりやすいのだ。もともとこの場所は空間的に不安定な場
所で、喚び出しやすい所だったようである。
 岩城は深呼吸をし、心の中でもう一度ニーソン牧師に詫びた。だが、
止めるつもりはなかった。
 プールサイドに描いた魔法陣の中心に立ち、呪文を唱え始める。
 プールの大きさは長さ20m水深は1m弱といった小さなものだ。
 岩城が呪文を唱え始めると、水面が波だち、それはじょじょに激し
くなっていった。
 辺りは室内だというのに霧のようなもやがたちこみしだして、視界
が悪くなる。
「この印の表す名も無きものよ、我の元に来れ」
 周りの空気がゆっくりと動き出してきた。まるで岩城の言葉に反応
するかのように。
「我は命ずる!この印の表すものよ、来れ!」
 部屋の空気が渦をかいて激しく動きだす。
「う!」
 巻き込まれまいと岩城は足に力をいれ、必死に踏み止まった。プール
から強烈な風が舞い上がりだす。
「来れ!」
 風はますます激しく吹き荒れだした。

     *

「岩城さんにあの痣をつけたのは……俺…か……」
 香藤はぽつりと呟いた。
 そうだ……思い出した……あの夜俺は……
 岩城さんと融合して自分の印をつけた。
 彼にとって恐ろしい経験になるのは分かっていたが、どうしても彼を
護りたかったのだ。
 彼に……恋をしてしまったから……
 ちょうどその時、近くで小さな心の叫び声が聞こえた。隣の部屋にい
た少年が発したものだった。
 少年は外に飛び出し、用水路にそのまま飛び込んだのだ。
 自殺した者の魂は天国に行けない。
 少年を哀れに思った香藤は、彼の記憶と肉体を奪い、魂を天国に導い
てやった。
 自殺した記憶も肉体もないのだから、少年の魂は無事天国に登って行
く事ができた。
 それから自分は香藤洋二の記憶と肉体を手に入れ、天使である自分を
封じた。だが、外見は魂の色によって変化してしまった。そして自ら施
した封印の力のせいで、会う人は自然と目の前にいる人物が香藤洋二だ
という暗示にかかるのだ。
 通常、いかに天使といえど、人間の肉体に同化するなどたやすく出来
る事ではない。だが、香藤と少年とは精神的な共通点があったので、同
化できたのである。
 共通点とは、岩城に恋していた事だ……
『同じ人を愛していたからこそ、少年の心の叫びが聞こえたんだ………』
 香藤は十五年前に聞いた少年の悲しい叫びを思い出して胸が痛くなっ
た。
「貴様の痣のおかげでどの悪魔もあの人間に近付けなかったのだ。いま
いましい事にな」
 依頼人が吐き捨てるように言葉を発したので、香藤は彼を睨み付けた。
「岩城さんを襲ったのはお前だな……」
「護符の力が弱まったので、大丈夫かと思ったのだがな……印の力をあな
どっていた……」
「何故岩城さんを襲った……」
「あの人間のおかげでどれだけの悪魔が地獄に送り返されてきたと思う。
たかが土塊から産まれた人間の分際で邪魔ばかりしよって……目障りだか
ら葬ってやろうと思ったまでよ」
 香藤は殴りかかろうとする衝動を必死に押し留めた。
「……なぜ俺を目覚めさせる?封印した天使に何の用だ……」
 岩城を襲った理由は憎しみからだと分かるが、自分の記憶を蘇らせて何
の得があるというのだろう?
「記憶が蘇らなければ、天使として復活する事が出来ないだろう」
「何?」
 香藤はますます訳が分からなくなった。悪魔の天敵である天使を増やして
どうするのだ?彼等の利益になる何かがあるというのか?
『天使によって召還されれば、悪魔は本来の力のままこの人間界に出現でき
る』
 香藤ははっとした。天使も悪魔も人間界に出現してもほとんど力は使えな
いが、召還されるとなれば別である。呼び出す者にそれだけの力があればあ
る程、本来の力に近い能力をもって出現できる。しかし、呼び出す者が人間
である以上限界はある。が、天使ならば………
「……俺にお前達の召還をさせる気か……」
「そうだ、地獄界での力を持ったまま出現できればこの人間界など簡単に支
配できる……貴様は自分で封じているだけだ。己で解こうと思えば簡単に封
印は解ける」
「ばかばかしい!蘇ったとして誰がそんな事をするか!第一俺は封印を解く
気はない……!」
「どうかな?いくら人間などにその身を堕としてみても本性は変わらん」
「なにが言いたい……」
「貴様は天使などではない。我々と同じく堕天したものだ」
「なんだと……」
「貴様の本性は悪魔さ……地獄がお前の生きるべき場所なのだ。だから人間
界も地獄に変えてしまえばいい」
「違う!俺は地獄になど堕ちていない!」
「地獄に堕ちようが堕ちまいが天界にお前のいるべき場所はないのだ!だか
らこそ神は貴様の名を封印したのだろうが!」
「違う!俺は絶対にお前達と同じにはならないぞ!」
 叫んだ瞬間、香藤は身体に違和感を感じた。
『?なんだ……この感触……?』
 身体がどこかに引っ張られる感じがする。そう思った途端、すさまじい力
で身体が空に向かって引き寄せられる。
「なんだ!?」
「…ほう……人間にしてはなかなかの力だ……」
 ベルゼバブが歪んだ顔でニタリと笑う。
 まるで川にできた渦に巻き込まれるような感覚で香藤の身体は宙に舞い、
そのまま空に出来た空間の穴に吸い込まれていった。

     *

「うわ!」
 プールからの閃光と強烈な突風に吹き飛ばされ、岩城は床に倒れこんだ。
 急いで身体を起こすと、プールの中に誰か立っているのが見える。先程
まで吹き荒れていた風は止まっていたが、霧はたちこめていたので人影の
正体がすぐに分からない。
 岩城は立ち上がり、ゆっくりとプールに近付いていった。
 そして、そこに立っている人を認めて岩城は衝撃を受けた。
 プールの中央に立っているのは、香藤だったからである。
「……香…藤………」
「…岩城さん………」
「……どうし…て……お前が………」
 岩城は胸の痛みを感じて手を押さえる。あまりのショックで頭がうまく
働かない。何も考えられなかった。
 どうして香藤が……?いや、香藤ではないのだ。本当の香藤洋二は十五
年前に死んでいる。では、目の前にいるのは一体誰なのだ?優しい瞳と
言葉でいつも自分を励ましてくれたあの優しい香藤は……なぜここにい
るのだ……自分は名も無き者を喚んだ筈なのに………
 では、名も無きものとは目の前にいる香藤なのか………!?
「……香藤……お前が…あの夜…俺に印をつけたのか………?」
 岩城の声は掠れて、泣いているような声である。
「……岩城さん……俺は……」
 そして………
「……ニーソン牧師を……殺したのか………?」
「それは違う岩城さん!俺はニーソン牧師を殺していない!」
「…香藤……本当か……?」
「うん、俺は誰も殺したりしていない……」
「じゃあ…どうして……」
『だまされるな』
『え……?』
 岩城の耳に誰かの囁く声が聞こえる。
『そやつは死んだ香藤洋二になりすまし、お前をずっと騙してきた奴なの
だぞ。信じていいのか?』
「……それは………」
『暗示などという汚い手を使って目をくらましてきた。古文書の半分を見
せたのは、残りの古文書を見つける為だ。見つけた後は殺す気だったに違
い無い』
「……そんな………」
 岩城は何を信じていいのか分からなくなり、後ずさりをして香藤から離
れはじめる。
「岩城さん!」
 香藤は急いでプールから上がり、岩城に近付こうとしたが、岩城は今に
も泣き出しそうな表情で香藤を見つめながら離れてゆく。
『無理もないか……どんな理由であれ、俺は岩城さんをずっと苦しめてき
たんだから……』
「岩城さん……」
「……………」
「……岩城さんの胸に痣をつけたのは俺だよ。でも、それは悪意があって
やった事じゃないんだ……そして、俺は誰も殺してない……信じてくれな
いかもしれないけど……」
「……香藤……」
「……俺は岩城さんを愛してる……」
「……………」
「岩城さんの気の済むようにしてくれていいよ……」
 香藤は瞳を閉じ、岩城の前に無防備なまま立った。罵倒されても、滅さ
れてもいいと覚悟を決めた。
「……香藤……」
『どうすればいいんだ……俺は……俺は……香藤を……』
 信じたいのだ。けれど怖くてどうすればいいのか分からなかった……も
し、嘘だったら?信じても裏切られたら……?
『イワキ、自分を信じるのだ!』
 岩城の心にトマス神父の最後の言葉が蘇る。
『そして誰かが君に愛を捧げたら、君もその愛に応えたいと思ったのなら、
勇気をだして受け入れて欲しい』
『ニーソン牧師……』
 二人とも自分の信念を貫き、死んでいったが、きっと後悔はしていない
だろう。迷う事なく、最後まで自分の意志で自分の命を生きたのだから……
『もし、ここで香藤を信じなかったら、俺はこの先何を信じていくのだ?
誰にも心を許さず、孤独で惨めな一生を送り続けるのか?』
 結果だけを考え、脅え、一歩も前に進めなくなってしまう、そんな人生
を………
『いやだ、もう……独りはいやだ……俺は香藤を信じたい………』
 愛する人を信じたいのだ……
 もし、それで死んだとしても、きっと満足して死んでいけるから……
「……香藤……お前を信じる……」
「岩城さん………」
 香藤が瞳を開けると、目の前の岩城が清々しい瞳で自分を見ていた。
 岩城はゆっくりと香藤に近付いていった。
「うわ!」
 その時、岩城の身体は見えない力によって引きずられ、プールの中に
落ちてしまう。
「岩城さん!?」
 香藤も岩城の後を追って再びプールに飛び込んだ。

 水に落ちた岩城が目を開けると周りは暗闇だった。そして完全に身体
が水中にあるのを感じる。
『ばかな!俺が落ちたのは水深1Mにも満たないプールだぞ!?異次元に
落ちてしまったのか……!』
 水の底から沸き上がる禍々しい冷気に気付き、岩城はぞっとした。目を
凝らすと何か巨大な影が薄く見える。この冷気は形も分からぬその影から
発せられており、しかもこの世界のものではないと悟った途端、岩城の全
身に鳥肌がたつ。
 きっとこの底にあるのは地獄の入り口。魔界への門があるに違い無い。
くぐれば最後、二度と戻ってはこれないだろう。
『早くこの影から離れなければ!』
 そう思って賢明に泳ぎ始めるのだが、岩城の身体は一向に上昇してくれ
ないばかりか、影に向かって身体が吸い寄せられていく。
 焦る程身体が上手く動いてくれず、息がとぎれだして岩城の意識は次第
に遠のいていった。
『……もう駄目か……香藤……』
 香藤の顔を思い浮かべた途端、岩城の手を誰かが掴む。驚いて瞳を開け
るとそこに香藤がいた。
『香藤……!』
『岩城さん大丈夫!?』
 頭に香藤の声が響いてくる。香藤の心配している顔を見て、岩城は心が
凪いでいくのを感じた。
 今迄の不安も恐怖もいっぺんに吹き飛んで、鳥肌をたてていた身体も、
一気に暖かさが戻ってくる。
『まるで太陽だな……この眩しさは天界のものだ……』
 岩城は直感した。香藤は、名も無き彼は堕天などしていないのだと……
『さ、水から出よう。俺に捕まって!』
 香藤は岩城の身体を抱え込んで泳ぎだしたが、水面にでる前に岩城は気を
失ってしまった。


天使の名 ラファエル
天使の中でも明るく穏和な気質を持ち、大地と、そこに住まう人間の物理的
な幸福はラファエルにかかると言われ、何も知らない人間と楽しく語り合っ
ていることも多い。
エデンの園に降り立ったラファエルは、天界でのルシファーの反乱の話の他、
アダムの好奇心の質問に応じて世界の創造のことや天体の運行などを聞かせ
てやったりしてアダムの話し相手になっている。
癒しを行う輝ける者、人間の霊魂を見守る者、生命の木の守護者、などの肩
書きを持ち、守護天使を監督する立場にもある。天使と格闘して足を負傷し
たヤコブの傷を治療し、ノアに医学の書を与えた。また、彼が出現する時、
甘い芳香が薫ると言われている。四大天使の一人。

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