大江戸文帳録1

綺麗な月だ。
河原でうたた寝をしていた香藤洋二郎は、空に浮かぶ月を見上げながら目を覚ました。
「げっ、今何時だよ」
道場仲間と酒を酌み交わした帰りにここを通ったのだが、あまりに気持ちのいい風が吹い
ていたので、つい川べりに降りて寝転がり、そのまま眠ってしまったのである。
月がかなり西に落ちているところを見ると、もう真夜中だろう。
「やべ〜」
側に置いた提灯の明かりは当然消えている。仕方なく火打ち石を取り出して火をつけよう
としたところ、上の道に明かりが見えた。誰かがこちらにやってくるようである。
火を灯すのが邪魔くさくなった香藤は、火をもらおうと上に登って行った。が、そこに不
穏な空気を感じて足を止めた。
「誰かいるのか?」
一瞬、自分にむけられた言葉かと思ったが、こちらからも、向こうからも見える位置に自
分は立っていない。
「……廻船問屋駿河屋の主人、善三郎だな…」
低い男の声がする。
「そうだが、誰だお前は、な、!」
善三郎の叫び声が聞こえたかと思った次の瞬間、刀を抜く音と人を切る音がした。
「ぐわ」
叫び声がまた聞こえ、誰かが地面に倒れた。
香藤は音しか聞いていなかったが、何が起こったのかは分かった。
自分の目の前で駿河屋の善三郎が殺されたのである。
香藤は身を伏せ、足音を立てないように河原を登り、道をそっと覗いてみた。
長身の黒い着物姿の男が立っていた。刀を振って血のりをきると鞘に納める。
その姿だけで相当の手練だということが分かった。
彼の傍らには一人の男が倒れている。殺された善三郎だ。切られた時に落としたのだろう
提灯が地面で燃えていた。
その明かりで善三郎を殺した男の顔がはっきりと見えるが、香藤はその男の美しさに目を
奪われた。
提灯の炎に照らし出されたその美しさに………
形の整った唇に濡れたような漆黒の瞳と黒髪。着物の色に、白い肌が余計に際だって見え
る。
髷は結っておらず総髪である。浪人だろか……
なにより善三郎を見下ろす淋し気なその黒い瞳に吸い込まれそうに思えて、香藤は息をす
るのも忘れて見入っていた。
やがて男は去っていった。
香藤はゆっくりと河原を登っていき、ぼんやりとした心もちで道に立つ。
殺人の現場に居合わせたというのになぜか恐怖感はない。
まるで夢を見ていたようだ。
しかし、足元に転がる一人の男の遺体がそれを否定している。
香藤の脳裏からは、先程の男の顔がずっと浮かんで離れなかった。

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「香藤、大変な事に巻き込まれたらしいな」 稽古場で木刀を振っていた香藤に、大久保が尋ねてきた。彼は同じこの道場に通う友人 で、あの夜いっしょに飲んでいた仲間の一人である。 「大変な事?何かあったのですか?」 「おう宮部、どうも香藤は一月程前、死体を発見したらしいよ」 「何!もしかして駿河屋の善三郎ですか!」 「知ってるのか?」 「知ってるもなにもその話は町内で今、もちきりですよ。なにかと恨みの多かった人物で すからね」 「そうなのか?」 「ええ。廻船問屋といえば金持ちで威張り散らす者が多いですが、善三郎はその中でも特 別質が悪かったそうです。殺し屋に殺されたんじゃないかって噂もあるくらいで」 「ふ〜ん……」 「で、善三郎はどんな様子だったんだ?下手人は見て無いのか?」 「あ、ああ…俺は遺体を発見しただけだ……」 香藤は嘘をついた。 あの後放っておく分けにもいかず、近所の者をたたき起こして見張りを頼むと、奉行所に 知らせに言ったのだ。 そしてそこで下手人は見ていないと言ってしまった。 自分が発見した時にはすでに善三郎は殺されていたと。 日頃嘘などつかない香藤であったが、なぜかその時あの男の事を話せなかった。 『なぜなのだろう。人を殺した奴なのに……嫌悪感や軽蔑する気持ちが湧いてこない…』 あの男の瞳のせいだろうか?どこか哀しそうな、純粋な瞳だった。 とても人を殺すようには見えなかった。 『何か訳があるのではないだろうか?』 香藤はふとそう思った。 『会いたい。もう一度あの男に』 香藤はあの夜からずっとそう思い続けていた。 「香藤、もうそろそろ子供達に稽古をつけてくれないか?」 「え、あ、ああ分かりました。すぐ行きます」 この道場の持ち主である中沢半蔵から手招きされて、香藤は稽古場を出る。 中沢は懐の深い人物で、武道を真剣に習いたいという者なら、武士だろうが町民だろうが 身分に関係なく誰でも稽古に参加させた。 子供達に武道を広めたいという考えももっており、その為の稽古部屋も開いていたのだ が、弟子の数が多くなり過ぎてなかなか稽古がつけられなくなってしまった。 そこで、腕のたつ何人かの者に稽古を手伝ってもらっているのである。香藤はその一人 だった。 「すまんな、これからある武家屋敷に赴かなくてはならなくなってな」 「はあ………」 「そう、今日は紹介したい人物がいる。龍安寺で知り合った人物でな」 「はあ………」 「子供らに弓道を教えてくれるのだ。私は弓の方はあまり得意でないので、誰か教えてく れる人物を探していたがようやく見つけたよ」 「はあ………」 「どうした香藤?生返事ばかりではないか」 「はあ………」 どうしたのかと、中沢はいぶかしんだが、それ以上何も言わなかった。 廊下を歩きながら香藤はあの男の事を考えていた。 どうしたら会えるのだろう? なぜ善三郎を殺したのだろう? ずっと考え続けていた疑問。直接あの男に問いただしてみたい。 子供達の声が聞こえ香藤はようやく顔をあげた。 いけない、今は武道に集中しなければ。 中沢は引き戸を開け、声をかけた。 「皆、稽古を始めるぞ。並びなさい」 散らばっていた子供達が整列しだす。 「お待たせした。香藤、先程話した弓道の稽古をつけてくれる人だ」 道場の端に立っていた人物を中沢に紹介されて香藤は息が止まった。 「岩城京之介殿だ。岩城殿、こちらは香藤洋二郎。この道場の門弟で、子供達に剣道の稽 古をつけてくれている」 「はじめまして、岩城京之介です」 「………」 香藤はじっと息を止めたまま、目を見開き彼を見つめていた。 耳には何も入らず、時が止まってしまったかのように感じる。 「香藤殿?」 「………」 「どうした、香藤、挨拶せぬか」 中沢に背中を軽く叩かれて、ようやく香藤は我にかえった。 「え、ええ、あ、ああ、か、香藤洋二郎です。よろしくお願いします」 『なんだこれは!信じられない』 動揺しながら香藤は慌てて頭をさげた。 聞こえるのではないかと危惧するぐらい胸が高鳴っている。 「では、みんな整列したかな、今日は素振りの後で、引き立てを香藤殿につけていただ く」 稽古の説明をする中沢の声も耳に入らず、香藤は横に立っている岩城の顔を盗み見た。 端正なその横顔は確かにあの夜、善三郎を殺した男と同じ顔である。 あの美しい淋し気な瞳をもった…… 香藤の視線に気付いたのか、岩城が香藤の方を振り向く。目が合って香藤の身体に電流の ようなしびれがはしった。 「ど、どうも……」 ちょこんと頭を下げる香藤を見ると、何ごともなかったかのように前を向く。 胸を高鳴らせながら、香藤は歓喜している自分を感じていた。