大江戸文帳録2

「岩城先生」
稽古着姿の少年が、岩城に駆け寄ってきた。
「どうした、源太。稽古は終わったのだろう」
「はい。香藤先生に稽古をつけていただきました。今日は稽古場に来るのが遅れてしまっ
て、弓道の練習ができませんでした。申し訳ありません。」
源太は小さな頭をぴょこんと下げる。彼は商人の次男坊だが、とても礼儀正しい子で、言
葉使いも良かった。
「いや、気にすることはない。お前が稽古をさぼったりするような子ではない事は知って
いる。何か理由があったのだろう」
「はい、出かけに父に呼び止められたのです。武道ばかりしないで、家の手伝いもしろ
と」
「ははは、それは大変だったな」
岩城は声をたてて笑った。こんな風に彼が感情を表に出すなど、半年前では考えられない
事であった。
「今度は遅れたりしません。気をつけます」
「ああ、分かった。では、気をつけて帰れよ」
「はい、では失礼します。香藤先生、さようなら」
「ああ、さよなら」
少し離れた所で二人を見ていた香藤に挨拶をすると、源太は足早に道場を後にした。
弓道は剣道を習っている教え子らから、希望する者のみを教えている。
しかし、教えて欲しいという子供らは後をたたなかった。
岩城の無口だが誠実な心に引き付けられるようである。それに家柄のせいだろうが、岩城
には品があった。子供達がそんな岩城に憧れるのも無理はなかった。
子供達だけでなく、他の門弟達もそれは同じであるのだが。
「岩城さん」
「ん?」
「道場には、もう、誰もいないんだ。久しぶりに手合わせしてもらっていい?」
「ああ、いいぞ」
誰もいない夜の道場で、二人は打ち合い始めた。
道場での出会いから半年が経とうとしていた。
あれから香藤は岩城の事を知りたい、という衝動を止められず、何かと話しかけたり、強
引に食事に誘ったりしたのだった。
最初は冷たくあしらっていた岩城だが、人なつこく嫌味のない香藤の強引な誘いに根負け
したようである。
ぽつぽつ話をしたり、こうして道場で剣を打ち合ったりしているうちに、次第に心を許す
ようになり、道場仲間の中で一番親しくなっていた。
今では岩城がどういう素性の持ち主なのかも大体分かっている。
彼は旗本の次男であったが、ある事情によりお家断絶となってしまったらしいのだ。
それから、病身の母親と二人で所縁の寺である龍安寺に住んでいたが、去年に母も他界し
たとの事だった。
かなりの家柄だったらしく、岩城の武術はひとかたならぬものであった。
中沢はぜひ剣道の方も教えてやって欲しい、と懇願したが、岩城は断った。
自分の剣は汚れているからと言って……
中沢は意味が分からないと言ったが、香藤はなんとなく察しがついた。
でも、汚れているという、彼の言葉を否定したい気持は中沢と同じだった。
岩城の剣は、透きとおった水のような静謐な美しさと冷たさにもっており、香藤は強く惹
かれた。
こんな美しい気をもった人の剣が汚れている筈がない。
そう思う。
教える事は頑なに拒んでいた岩城だが、香藤の矢のような催促にまたも負けて、彼にだけ
は手合わせをしてくれるようになった。
しかし岩城に手合わせしてもらいたいという、他の門弟達は山程いたので、彼らには秘密
である。
その為、こうして人のいなくなった道場、時には人気のない屋外で打ち合う事となったの
だ。
私利私欲に剣を使う人ではないと分かっている。
では、なぜ、人を殺めなければならなかったのだろう。
道場を灯す蝋燭に照らされた岩城の顔は、あの夜の事を思い出させる。
しかし、香藤は今だに聞けずにいた。あの夜の事を……
「はあ!」
岩城の木刀が香藤の胴に入る。香藤は一瞬痛みに顔をしかめたが、身体をたてると、場に
戻り礼を拝した。
「どうした香藤、集中力が散漫だぞ」
「すいません…つい他の事に頭がいっちゃて……」
「他の事だと。ばかな。真剣で対峙していたらどうなっていたと思うんだ。うかつ過ぎる
ぞ」
「すいません。以後気を付けます」
あなたに見とれてた、なんて言えないよな〜
と、香藤は心の中でつぶやいた。
「もう、あがるか?」
「そうだね。そうだ、岩城さん。昨日から両国の方で旅芸人が小屋を開いてるらしいよ。見に行かない?」
「旅芸人?」
「うん、芝居とか奇術とかいろいろやってるみたいだよ。見た事ある?」
「いや、一度もないが……」
「じゃ行って見ようよ!」
と、香藤は岩城を両国に強引に連れて行った。

行ってみるとたくさんの屋台が並び、提灯の明かりがそこかしこに灯されていた。 人の数も半端ではなかった。お互い人込みに流されて何度も見失いそうになる。 「すごいな、どこからこんなに人が沸いてきたんだか」 「大丈夫、岩城さん。はぐれないようにね」 「ああ」 余りの明るさに圧倒されながらも、珍しいものばかりらしく、岩城は嬉しそうに辺りを見 渡している。 屋台に気をとられていると、ふと香藤がいなくなっている事に気付く。 「香藤?どこだ?」 少々不安気な呼び声で辺りを見渡す。 「岩城さん、こっち」 後ろから香藤の声がして、岩城はほっと息をついた。 「はい」 「ん?なんだこの綺麗な丸いやつ?」 三角に巻いた紙の筒を差出されたので、中を覗いてみると、そこには小さな毬のような球 体がいくつも入っていた。 「飴だよ。口に入れて舐めてごらん。甘いよ」 「綺麗だな……」 一つつまんで目の前で見てみる。辺りの光りが透けてとても綺麗だった。 「……食べるのがもったいないな………」 岩城の言葉に香藤は笑ってしまう。 「なんだ?」 「そんなのまた買えばいいじゃん、下町の駄菓子屋でも売ってるよ」 「そうなのか?」 行った事がないんだろうな〜と香藤は思った。 博学なのに、こんな事は何も知らない岩城がとてもかわいく思える。 「どこかの小屋に入ってみる?」 「そうだな。せっかく来たんだし」 「あ、あそこどう?人形芝居みたいだけど」 「ああ、行ってみるか」 そう言って二人は浄瑠璃の人形芝居を見る事にした。 内容は男女の悲恋もので、最後はふたりで手を取り合って海に身を投げる、というもので あった。 客席からはすすり泣く声が聞こえた。
芝居小屋を出て、いろんな屋台を見て回り、かなり夜も更けてから両国を出た。 人気のない帰り道を二人は歩いていた。 「結構おもしろかったね」 「そうだな。いろんな珍しい物が見れて楽しかったな」 「本当!」 「ああ」 「良かった〜岩城さんが喜んでくれて」 「なんだよそれは」 「だって、いっしょに行った人も楽しい方がいいでしょ。そうだ、人形芝居の心中場面の ところ、岩城さん涙ぐんでなかった?」 「な!ば、ばか、そんな事ない!」 「ほんとに〜?」 「ほ、本当だ!」 岩城は頬を赤くしていた。 「でも、芝居ものにはよくある話しだけど、俺は納得できないな」 「ん?」 「本当に好きならいっしょに死ぬより、生きる手段を模索すべきだと思うんだ」 「………………」 「……岩城さんはどう?」 「ん、……いや、よく分からないが………」 「うん?」 「……命を捨ててもいい思うものが、誰でも一つはあるんじゃないか………」 「………………」 ふと、気付くと道沿いには、つぼみをつけ始めた桜並木が続いていた。 「もう、そろそろ桜の季節だね。どう、岩城さん、咲いたら花見しない?」 「……花見か……」 岩城はどこか淋しそうな表情を浮かべ、桜の樹を見上げる。 香藤はそんな岩城を見て、不安になった。 時々、岩城はこんな淋し気な表情をする。その度に香藤は岩城がどこかに行ってしまうよ うな気がして不安に思うのだった…… なぜ、不安に思うのか…… 始めは分からなかった自分の気持ちを、今の香藤は知っていた。 自分は岩城が好きなのだと…… その思いに気付いたのは、岩城と初めて対峙した時だった。 澄んだ美しい瞳に見つめられた時、香藤ははっきりと自覚した。 この瞳に映るのが自分だけであって欲しい、と願うこの気持ちに。 もしかしたら、あの夜の時、すでに心を奪われていたのかもしれない…… でも、彼に伝える事はできなかった。 かたくなだった岩城がやっと心を許すようになり、友人として見てくれているというの に。 自分の気持ちを言えばそんな関係が壊れてしまう。 香藤はそれが怖くて何も言えなかった。 桜を見上げながら岩城はあの日の事を思い出していた。 兄が亡くなった日の事を……
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六年前の春の温かな日、いきなり屋敷に兄が死んだという知らせが舞い込んできた。 しかも、商人と結託し、阿片を横流ししたというのだ。その罪が発覚する前に切腹し自害 したと。 岩城は信じられず、奉行所に出向いたが門前払いであった。 その後、息子の不始末を恥じた父が自害。岩城家は断絶となった。 そこから母と、たった一人自分達についてきた矢平という庭師と共に、龍安寺に移り住ん だ。 母は最後までお家の再興を望んでいたが、岩城はそんな事よりも真実が知りたかった。 なぜ、兄が死んだのか…… 兄は身の堅い人物で、岩城は少々苦手だった。 しかし、その兄が不正などする筈がないのだ。 あの日、門前払いとなった岩城は納得できず、その夜こっそりと奉行所内部に忍び込んだ のである。 見張りがいたので遠くからであったが、みすぼらしい蓑に包まれた兄の遺体を垣間見た。 周りにいた数人の男達が兄を侮辱する言葉を吐いていた。そのうちの一人は兄の遺体に唾 棄までした。 岩城は必死に自分を押さえながら、隙間から見える兄の遺体の傷を凝視した。 それは、切腹して死んだものではなかった。身体に刀傷が何ケ所もつけられており、明ら かに切り殺されたものである。 急いで父に知らせようとしたが、父は真実を知らぬ間に自害していた。 二人共、どれ程無念であったろうか…… その時から岩城は二人の無念を晴らす事だけを考えて生きてきた。 真実を知る為に矢平と共に探り始めた。 ただ一つ気がかりな事は、母の事だった。 母はお家の再興を望んでいたし、自分も母を残して死ぬ訳にはいかなかった。 でも、もう母はいない…… 何のためらいもなく復讐の鬼となる事ができる、筈だった…… 「岩城さん……?」 「え……」 「どうしたの?何考えてるの?」 「……いや、なんでもない……」 少しでも町に溶け込んでいる振りをする為、引き受けた道場での稽古だったが、今では自 分の生活の一部になってしまったかのようだった。 武道に打ち込んでいる間は、復讐など他人の事のように感じられるのだ。 人を殺した事も……… 道場で武道に打ち込み、他の門弟達と語り合っている時が、一番自分のあるがままの姿で いられるような気がする。 大切なものになりつつあった…… 特に香藤と共に過ごす時間が……… 初めはまとわりついてくる変わった奴だと思っていたが、彼の屈託のない明るさや、素直 な心は引かれるものがあった。どんな事にも全力でぶつかり己を偽ったりしない。 自分にはないものを香藤は持っていた。 立ち会いの時の熱い澄んだ目に見つめられるのは心地よかった。 香藤といっしょにいると、復讐の事など忘れてしまう時があるのだ。 ずっとこうしていられたら、どんなにいいだろうか、と思ってしまう。 父と兄の無念を晴らす為なら、この命など惜しくは無いと思い続けてきたというのに…… 二人は無言で桜並木を歩き始めた。 それぞれに胸に言えぬ思いを秘めながら………