大江戸文帳録3

「若」
夜、龍安寺の離れにある自室で書見していると、障子越しに矢平が岩城を呼んだ。
「なんだ?入っていいぞ」
「失礼いたします」
障子を開けると音もなく矢平は部屋に入っくる。
小柄でがっしりしたこの初老の男は昔、忍びであったらしい。
身分の低い下級忍者の末路は、死か物乞いと相場が決まっている。が、岩城の父はなぜか
この矢平を気に入り、屋敷の庭師として他藩から引き取ったのである。
彼はこれを一生の恩として、父に忠誠を誓ったという事だった。
断絶後も岩城ら母子に従い龍安寺に移り住み、身の回りの世話などしてくれた。
真相を知る為探りをいれたり、母の薬代を稼いでいたのも矢平である。
しかし、彼が何をして稼いでいるかは知らなかった。
口数少なく、言より動。しかし情に厚い面もあり、思い遣りをもっている男である。
誇りを失った武士よりよほど武士らしかった。
岩城は彼に感謝していたし、父がなぜ彼を引き取ったか分かるような気がした。
「なんだ?」
「……谷山新太郎の居場所が分かりました」
「何!分かったのか!」
「はい……神田明神の近くの近藤邸江戸屋敷でした。近藤家は谷村家の分家にあたりま
す」
谷山新太郎とは岩城の父と兄を死に追いやった輩の仲間である。
仲間は廻船問屋駿河屋の善三郎、町奉行所与力の谷山新太郎、勘定奉行の堀土佐守定謙、
らがすでに分かっている。
彼等は結託し、阿片を横流しして莫大な利益を得ていたのだ。堀土佐守定謙はその金を
使って勘定奉行の地位を手に入れた。
おそらく、兄はその事を知ってしまった為に殺されたのだろう。無実の罪をきせられて…
岩城は知らずに唇を噛んでいた。
「……隙はあるか?」
「それが…善三郎が殺されてから用心しているようでして、家も近藤家にこっそり移って
いましたし、勤めに行く時も必ず2、3人の中間(ちゅうげん)と用心棒らしき男を連れて
います」
「……他人は巻き込みたくないな……」
「しかし、この男、色事にはだらしないようで、吉原によく通っているようです……」
「吉原へ?」
「はい、さすがにこの時は用心棒の男一人だけで、駕篭で移動しています」
「……何か討てる機会があるかもしれないな……」
「……はい……」
「……分かった……明日にでも吉原に出向いてみよう……」
「えっ、若があのようないかがわしい場所に行かれる事はございません。偵察ならば私が
行って参ります」
「いや、どうような場所か把握しておきたい。何が起こるか分からないのだからな……谷
山の顔も見ておきたい……」
仇さえとれれば命など惜しくはないが、谷山を殺してもまだ堀土佐守が残っている。まだ
捕まる訳にはいかなかった。
「分かりました。明日、吉原へ参りましょう。お供いたします」

何日間か吉原で張り込んだ岩城は、やっと谷山を確認する事ができた。 そして、驚いた。兄の遺体に唾棄した男だったからである。 岩城の胸に怒りが込み上げた。 用心棒なのだろう、後ろにはいかにも遊び人風の男が一人付いている。 すると、視線に気がついたのか、谷山がこちらを振り向いた為、目が合ってしまった。 岩城は急いで視線をはずすが、谷山は少し酒がはいっているようで、薄笑いを浮かべなが ら近付いてくる。 気付かれたのか……… いつでも太刀を抜けるよう身構えた。 「なにか俺に用か?」 「別に………」 顔を背けたままぶっきらぼうに答える。 「俺を見ていたんじゃないのか?」 「…………」 「お前、客じゃないな?売っているのか?」 自分の事を男娼だと思って声をかけてきたらしい。張り込んでいた数日間、いかにも客で はない様子の岩城を見て、何人かが同じように声をかけてきたが、この男からもかけられ るとは思っていなかった。 が、自分から網に掛かってくれるのだからありがたいことである。 この男救いがたいな……… 善三郎を殺めた時は良心の呵責があったが、この男には感じずに済みそうである。 岩城は谷山の顔を見つめてこう言った。 「……買ってくれるのか?」 そして、七日後、深川の船宿で会う約束をとりつけたのだった。
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「お〜桜ももう満開だな」 道場の門の外にある桜並木は今や満開であった。 香藤と大久保は稽古の帰り道、桜を見上げてため息をついた。 「どうだ、香藤。今度皆といっしょに花見でもして飲まないか?」 「そうだな。明日の稽古の帰りにでも行くか?どこがいい?」 「う〜ん、上野とか御殿山とか。どこも人がいっぱいだろうな」 その時、後ろで中沢と話をしている岩城の姿が目に入る。 かなり離れた所に立っていたが、舞い散る花びらの中の岩城はことさら美しく思えて、香 藤は時ずっと見続けた。 『なんで、そんなに綺麗なのかな〜』 ぼんやりと、そんな事を思う。 「やっぱ綺麗だよな〜」 横で大久保が呟いた。 自分の思っていた事をそのまま口にされたので、香藤の心臓が一瞬跳ね上がる。 「そ、そうだな……」 「……あの噂、本当かな……」 「噂?なんだ大久保?」 「えっ!…あ、ああ、実はな………」 「うん?」 「誰にも言わないでくれよ。実は岩城さんが……その……」 「なんだよ、早く言えよ」 岩城の事となると、香藤は余裕がなくなるのだった。 「その……男娼してるんじゃないかって噂があるんだ………」 「何!でたらめ言うな!」 香藤は思わず大久保の襟首を掴んでしまった。 「あくまで噂だよ!最近吉原で岩城さんらしき人をよく見かけるって言うんだよ。しかも 客という感じじゃないって……」 「………そんな……」 香藤は言葉が出なかった。 「ほら、岩城さんって道場から何ももらってないんだろ?金子はどこからでてるのかって 話でさ。いや、まさかとは思うよ。俺は信じてないけどさ」 「…………」 香藤は呆然とした。 岩城さんが、そんな……… 他の者なら只の噂だと笑いとばせるだろう。しかし、香藤にとって岩城は特別な存在だっ た。しかも、なんらかの事情があるだろう事も知っている……… まさか、まさか……… 「どうした、二人共。何かあったか?」 二人の声を聞いた中沢が声をかけてくる。岩城も二人を振り返った。 岩城の顔を見て、香藤はたまらず走り去った。 「香藤?」 不思議そうな大久保の声が聞こえる。でも、今、その場にいる事は出来なかった。自分が 何をするか分からなかったから……… 走りながら香藤は自分の中の想いが、押さえられないぐらい大きくなっているのを知っ た。
家に帰っても香藤は大久保から聞かされた話が頭を離れなかった。 自室に入り、畳の上に寝転がる。 絶対に違う、何かの間違いだ、只の噂じゃないか。ほら、あんまり岩城さんが綺麗だから ……… 何度も自分に言い聞かせるが、不安は大きくなるばかりであった。 目を瞑っても岩城の美しい横顔が浮かんでくる。 その横顔に誰かが触れるのだろうか……… 「くそ!」 自分の想像にたまらなくなり飛び起きる。 じっとしていられなくなった香藤は太刀をとると、龍安寺へと向かった。
龍安寺が見えてきた時には日もすっかり落ちて、辺りは暗くなっていた。 と、門のところで岩城が出掛けるところであった。 咄嗟に香藤は身を隠す。そして後を付け始めた。 我ながら、何やってるんだ、と、思ったが止められなかった。 まさか、本当に吉原に行くのではないか、と、どぎまぎしていたが、岩城は深川で、ある 船宿に入っていった。 近付いて見てみると、岸に繋いである1艘の屋形船の中に乗り込んで行く。 出発しないところを見ると、まだ、誰か待っているようだ。 誰が来るのだ……… どうすればいいのか分からないまま、香藤はそのまま様子を見ていた。 すると、一人の男に付き添われた駕篭がやってきた。 駕篭から男が降りてすぐに船付き場に向かったが、付き添っていた男は辺りを伺いつつ後 ろからついてくる。用心棒のようだ。 岩城の乗った船にいた船頭が男に近寄り、船に誘う。用心棒は付き場で待っていて、船に は乗り込まなかった。 まさか……… 香藤はもっとよく見ようと駆け寄る。と、男が乗り込む時、開けた船の障子の隙間から岩 城がちらりと見えた。岩城は襦袢姿であった。まるで娼婦のような………
船に乗り込んだ谷山は岩城の美しい姿に息を飲んだ。 岩城は酒をすすめようとしたが、いきなり押し倒されてしまった。 「ちょ、と、待っ…ま、まだ早い………」 「いいではないか」 そう言いながら谷山は荒々しく着物を脱がせにかかる。 ここで殺める訳にはいかないので、岩城達はもっと岸から離れたところで事を成し遂げよ うと考えていたのだった。船頭はもちろん矢平である。 それまで、酒等飲ませて時間をかせごうとしていたのだが。 抵抗するわけにはいかない岩城は、目を閉じて横を向いた。早く岸から離れる事を祈っ て。 そんな岩城の姿を恥じらっていると思った谷山は、帯に手をかける。その時、外で言い争 う声が聞こえた。 「なんだ?」 谷山が後ろを振り返った時、矢平を押し退けた男が障子がいきおいよく開ける。その男と は…… 「香藤!?」 「岩城さん!」 「何?岩城だと?」 障子を開けた途端、目に入ってきた光景に香藤の頭の血が一気にのぼった。 男が岩城の上にのしかかり、帯に手をかけているではないか。しかも着物の裾はめくりあ がり、岩城の白い腿が覗いている。 「離れろ!」 怒りにかられた香藤は谷山を殴り倒すと、岩城の腕を掴んで走りだした。 「お、おい!香藤!」 船宿を出て、二人は夜の闇の中を走り去っていった。 店の者も何があったのかと、ぽかんと口を開けている。 殴られて呆然としていた谷山だったが 「……岩城だと……」 正気がもどると慌てふためいて船を降りる。 「か、帰るぞ!」 怯えた様子で用心棒に声をかける。顔色が鬼でも見たかのように青白かった。 「とんだ美人局だな」 用心棒の男が大声で笑った。