大江戸文帳録4

「ちょっと、待て、香藤!」
「…………」
香藤は岩城の手を引きながら、ひたすら無言で走り続けた。
怒りで我を忘れていた。
「待てと言ってるだろう!」
人気のない神社に辿り着いた時、岩城は香藤の腕を無理矢理ふりほどいた。
境内に咲く夜桜の花びらの中、二人は息をきらせて立ち止まる。
しばらく、無言で見つめ合っていたが
「……どうしてなんだ、岩城さん………」
「……な、何が………」
「なんで、あんな事………どうして!」
急な展開で成りゆきを飲み込めなかった岩城は、ようやく自分が男娼していたと香藤が
思っている事に気付いた。自分はしているつもりがなかったので、頭に浮かばなかったの
である。途端に胸が羞恥心で一杯になる。
香藤は岩城の顔をじっと見つめた。
その視線に堪えられなくなった岩城は横を向く。
「……お、お前に…関係ない……」
小さな震える声で言い放つ。
軽蔑された……
そう思った岩城の胸がつぶれそうなぐらい痛む。だが、真相を言う訳にはいかない。
香藤にだけは見られたくなかったのに………
香藤の頭は言いたい事、聞きたい事で溢れかえって言葉にならなかった。怒りと激しい想
いとで、破裂しそうなぐらいいっぱいになっている。
岩城の横顔は相変わらず美しく、乱れた襦袢姿が妖艶な香りを放っているようだった。
その姿に目眩がする。
香藤の脳裏に先程の映像が浮かんできて、たまらず乱暴に岩城の腕を引いて抱きしめた。
「どうして、なぜなんだ!」
血を吐くような叫びをあげながら、香藤は強く岩城を抱き締める。もう我慢できそうにな
かった。
「…香藤……?」
「……好きだ………」
「え………」
「岩城さん、あなたが好きです………」
「……な………」
思いもよらぬ香藤の言葉に岩城は呆然としていた。と、香藤は身体を引き、岩城に口付け
た。
「……ん……んん………」
激しい口付けに岩城は頭の中が真っ白になる。息ができなくて苦しかった。でも………
「…ん……香藤!」
流されそうになる自分を必死に押さえ、岩城は香藤の胸から離れた。その表情は今にも泣
きだしそうだった。
「…岩城さん……」
手を延ばす香藤から逃れるように、岩城は走り去った。花びらの舞う中、幻のように消え
去った……
「くそ!」
思わず近くの木に拳を叩きつける。
木にはうっすらと血がにじんでいた。

走りだした岩城は、息があがって林の中でようやく立ち止まる。鼓動が耳に響いて痛い。 しかし、これは走った為ではない。香藤のせいだ。 初めて、しかも同じ男である香藤に口付けられたというのに、不快感はまるでなかった。 谷山には手をふれただけで、虫酸がはしったのに……… 岩城は自分の唇を指でそっと触れてみる。 香藤の言葉を思い出して身体が燃えるように熱くなる。そして、喜びに満たされている自 分を感じる。 好きなのだ………自分も……香藤が……… でも、香藤が好きなのは本当の俺じゃ無い……… 自分が人を殺した人間なのだと分かったら、香藤はどう思うだろうか……… 「……う………」 岩城の目から涙が溢れた。 こんなに嬉しいのに、心は苦しくて悲鳴をあげていた………
慌てふためいて船宿を出た谷山の転がり込んだ先は、掘土佐守の屋敷だった。 谷山はすぐに謁見を願い出、たまたま屋敷にいた掘土佐守は、しぶしぶ奥の間に通すよう に家来に言い渡した。 「なんだ、人目につくような会い方はするなといつも申しておろう」 掘土佐守は思いきり不機嫌な態度であった。彼はこの小心で度胸のない谷山をわずらわし く思っていたのである。 「い、岩城家の者に襲われました……」 谷山の声は震えていた。 「何、岩城?あの六年前に死んだ奴か?」 「あやつには弟がおりました。おそらくそいつです。私を殺そうとしたのです。善三郎を 殺したのもそいつの仕業に違いありません」 「う〜む……どうやって探り出したのかのう……」 「ど、どうなさいますか?おそらくまた狙ってくるでしょう。もちろん勘定奉行様にも」 「……分かった。早急に手を打とう」
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次の日、眠れぬ夜を過ごした香藤は道場に向かった。が、岩城はそこにいなかった。 昨日の今日だ。今日は来ないかもしれない…… 思ったとおり、その日、岩城はこなかった。子供達は仕方なく剣道の稽古だけをしてい た。つまらなさそうに。 次の日も、その次の日も岩城は来なかった。 そして20日程たったある日、我慢できなくなった香藤は中沢に問いただした。 「……このところ岩城さんが来られていませんが?」 「……ああ、それが、使いの者が来て、もう教えられなくなったと伝えに来た………」 「なんですって!?」 「……何か事情があるのだろうな……なあ、香藤」 「………え…あ、はい?………」 「彼は素晴らしい素質を持っていると思うのだ…人柄もな………子供達にあれだけ好かれ ているのだ。心の美しい持ち主なのだと分かる」 「……はい………」 「それなのに何故自らつぶすような真似をするのだろうな…もっと彼は自分を大切にすべ きだと思うが………」 「……………」
稽古が終わると、香藤は龍安寺に行ったが、本堂には入れなかった。 もともと、ここは宿坊がある修行僧達の寺であるから、許しがなければ普通の庶民は入れ ないのである。が、入れなかった事などないのに、今日に限って門番に断られてしまっ た。 訳を尋ねても、自分は知らない、の一点張り。業を煮やした香藤は裏側に回り、人が来な い事を確かめると、外壁を登りだした。 内に入ると見事な竹林が広がっている。 どうしても、岩城に会いたかった。会って聞きたかった。 何を……? 自分の気持をどう思っているのか…… 半年前のあの夜の事も……… 昨日の事も……… 本当に男娼などしているのか……… 香藤は考えをふりほどこうと頭を軽く振った。 口づけた時に感じた限りでは、彼は身など売っていない。 あくまで自分の勘だが。 本堂に近付くと桜の樹が多くなり、舞い落ちる花びらが視界に入る。もう葉桜だ。 ふと、告白した夜の岩城の姿を思い出す。 乱れた襦袢姿で、桜の花びらの中に立っていた彼は、まるで人間ではないかのようだっ た。 その美しい姿を思い出し、彼への想いを強く感じる。 「香藤殿」 突然声をかけられて、驚いて振り向いた。 矢平がそこにいた。気配などまるで感じなかったが……… この龍安寺に来ると、いつも岩城に会う前に彼に会わなければならなかった。 隙のない男だ。 「何かご用ですか?」 「……岩城さんは?」 「何のご用ですか?伝言ならば伝えますが?」 「直接会って話したいのだ。どこにいるのだ?」 「何のご用ですか?」 「だから直接会って伝えると言っているだろ!」 矢平の落ち着いた態度が神経を逆なでする。香藤は次第にいらついてきた。 「若にはお会い出来ません……」 「なぜだ、なぜ会えない!」 「お会いしたくないそうです」 「!」 それは、拒絶されたという事か…… がっくりと香藤は肩を落とした。 「……理由は、聞いてはいけないのか………」 「伺っておりません」 「そうか……矢平殿………」 「なんでしょうか?」 「伝えたい事があるのだ。無理を承知で頼む。会わせてくれないか……」 「勝手な行動はできません」 「頼む、一目でいい。会いたいのだ。頼む!」 香藤は深々と矢平に頭を下げた。 「……香藤殿、あなたは若をどう思っておいでですか?」 「大事な人だ。この世で一番」 顔をあげて、真直ぐに矢平を見つめてそう言った香藤の瞳には、一点の曇りもなかった。 「……若は、今ここにはおりません」 「え………」 「御母堂のお墓参りに清涼寺に出掛けております」 「ありがとう、矢平殿!」 香藤は清涼寺に向かって駆け出した。