大江戸文帳録6

「……岩城さん…寒くない?」
「……いや………」
着物を身に付けた岩城の背中に香藤は声をかけた。
先程肌を合わせた身体がまだ火照っている。
着物を着た方が少し寒い、と思った。
雨はもう止んでいた。
香藤がそっと手をのばし、後ろから優しく抱き締める。
「話してくれないの?」
「……今は…だめだ………」
「なぜ?……」
「……もう少し待ってくれ…頼む………」
「分かった…………」
「……すまぬ………」
お堂を出ると眩しい日ざしが飛び込んできて、岩城は思わず目を細めた。
今の自分には眩しすぎる、と思う。
龍安寺まで二人は無言で歩いた。門のとこにくると
「…香藤、暗くならないうちに帰れ……」
「岩城さん……道場にはちゃんと来てよ」
「分かった……近いうちに顔をだす」
「本当に?」
「………ああ……」
「辞めたりしないね?」
「………ああ……」
「気を付けて………」
岩城は頷いた。香藤が見えなくなるまで、じっとその後ろ姿を見送った。
「……しっかりしろ……」
一人つぶやいて目を閉じる。
まだ身体に香藤の手の感触が残っていた。

嘘をついている事を香藤は見抜いていた。 岩城は一度も自分の目を見て話さなかった。きっと近いうちに何かする気だ。 命を投げ出すような何かを……… 岩城は自分を受け入れてくれた。同じように自分を想ってくれていた。 涙がでる程嬉しかった。 もう絶対離さない……… 訳を話してくれないというなら、自分から調べるまでだ。役人に言うなどと言ったのは、 かまをかける為である。岩城が関与しているのは、おそらく法に反する事なのだろう。 船宿で身を売ろうとしていたのは、別の目的があってに違い無い。 「絶対死なせない………」 香藤は自分の全てをかけて岩城を守ろう、と決意した。
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次の日の夕刻、岩城達の住む離れに、文が投げ込まれた。 谷山からである。 そこには源太なる少年を預かったので、殺されたくなければ、丑未つ刻に堀土佐守の江戸 屋敷に一人で来るように、と書かれてあった。 「!卑怯な!……」 敵のあまりの汚さに、怒りを通り越して胸が悪くなる。 絶対に只ではすまさない、と岩城は思った。 殺されてもいい、一糸ぬくいてやらねば気がすまない。 「……若……」 「…いよいよだな………矢平、思い残す事はないか?」 「はい……大丈夫です。ですが、少し身の回りの物を整理してまいります。丑未つ刻ま で、まだありますゆえ。若は誰かに会っておかなくてもよろしいのですか?」 「……………」 頭の中に香藤の顔が浮かび上がる。 最後に一目会いたい……… でも会えば、あの真直ぐな瞳に嘘など見抜かれてしまうだろう。 あの一時だけでも、想いを伝える事が出来たのだ………それでいいではないか……… と、岩城は自分を無理矢理納得させた。 「……大丈夫だ……そうだな、私も身の回りの物の整理をしよう。龍安寺の住職にも、お 世話になったお礼の書状を書いておきたい…」 命があってもなくても、仇がとれれば岩城は奉行所に出向くつもりだった。 いくら元武士とはいえ今は一介の浪人である。人を殺めた以上死罪となる可能性は高い。 だが、己の罪を隠して生きるつもりもなかった。 裁きに従う覚悟は出来ている。 どんな汚い奴らとはいえ人の命を奪ったのだから………
真夜中、岩城と矢平は龍安寺を出た。部屋には住職にあてた書状を残し、母の墓前に報告 も済ませた。 もう、思い残す事はない。 ただ一つを除いては……… 門の前で一度振り返ったが 「行こう」 再び歩き出した岩城の目に迷いはなかった。
堀土佐守邸につくと、門番はおらず、閂も降りていなかったので、勝手口からすんなり 入っていけた。 屋敷の中庭に出ると大勢の人の気配を感じる。 待ち伏せか……… そんな事は元より分かっていた。 「よく来たな、岩城京之介」 縁側から堀土佐守が出てくる。隣には谷山と一人の浪人がいた。 岩城の胸に怒りが沸き上がる。 「源太はどこだ?無事なのだろうな」 「そんな事はどうでもよかろう。貴様はここで死ぬのだからな」 「……………」 やはりな、と岩城は心の中で思った。 人の命をなんとも思わないこんな奴らが、約束など守る筈がないのだ。 岩城が屋敷に入るのと同時に矢平が裏から忍び込み、源太の居所を探して助け出す事に なっていた。 自分が現れるまで、万が一の事を考えて、源太は生かしておく筈である。 少しでも長くこちらに気をとらせておかなければ。 「……なぜ、兄を殺した……?」 「大体の察しはついているだろう。阿片だ」 「……………」 「ここにいる谷山とお前が殺した善三郎と協力し、抜け荷していたのだが、その裏帳簿を 見られてしまってな」 「……………」 「金を渡すから黙っていろ、ともちかけてやったのに断りおった。ばかな奴だ。それで始 末させて貰った」 岩城は指の関節が白くなる程拳を握りしめた。必死で怒りを押しとどめる。 「ほれ、谷山、殺せ」 「は、わ、私がですが?し、しかし……」 谷山は怯え切った目を岩城に向けた。腕ではかなわない事は分かっているのだ。 「案ずるな、他の者達が助太刀いたす」 この中庭には15.6人の手練が潜んでいる事を谷山は知っている。 「は、はあ、では………」 谷山がビクビクしながら前に出た時、堀土佐守の隣にいた浪人が太刀を抜き、谷山を後ろ から切ったのだった。 「!ぐわ!」 「!」 岩城も驚いてその様子を見ていた。 「お奉行様……な、なぜ……」 信じられない、といった表情を浮かべ、谷山は堀土佐守を振り返ったが、袈裟がけにまた も切られてしまう。 そのまま地面に伏して絶命した。 「……なぜだ………」 驚きを隠せず、岩城は堀土佐守に尋ねた。 「ふん、この小心者のうつけが。いつ始末してやろうかと思っておったのだ」 「……なに?………」 「裏帳簿を見られるという不始末をやらかしたばかりか、お前の兄を殺すのに数人の手を 借りたのだ。そやつらは、その事をネタに度々金子を要求してきた。その金は谷山を通じ て私が払わねばならなかった。しかし、こやつが死ねば私の事を知る者はいなくなる」 「……その為に…殺したのか?………」 「金使いも荒く、先の事をまるで考えない能なしだ。善三郎が殺されてからビクビクしだ しおって。こんな奴と組んでいてはいつかばれる」 「……………」 「貴様には感謝せねばなるまい」 「……な………」 「谷山はお前が殺したのだ。兄の仇と逆恨みしての。お前の兄の罪を発見したのはこやつ という事になっておるからの」 「!」 「そこを儂の部下が見つけ、お前を始末したという訳だ。素晴らしい筋書きだろう」 「…貴様……この外道が!なんと腐った男だ!」 岩城からの発する怒りで大気が震える。 「皆の者!こやつを切り捨てろ!」 堀土佐守のかけ声があがるや否や、身を潜めていた浪人達が、一斉に太刀を抜いて岩城に 飛びかかってきた。 太刀を抜き、応戦するが、切るつもりのない岩城は不利だった。 『くそ………』 絶対にこのままでは死ねない。絶対に……! が、次第に押され始め、岩城は木のたもとに追い詰められてた。 腕の一つはもっていかれる覚悟をした、その時。 「岩城さん!」 「!」 香藤が飛び込んできたのである。岩城の周りを囲んでいた浪人達を太刀で蹴散らしてゆ く。 驚きながらも、岩城は自分の残酷さに驚いていた。 嬉しいと感じている自分に……… こんな死地に飛び込んできて、彼の命が危険にさらされているというのに……… 嬉しくてたまらなかった。 自分はなんと残酷なのだろう……… 「岩城さん、大丈夫ですか!?」 「香藤!なぜここへ!?」 二人は応戦しながらも言葉をかわした。 「龍安寺から後をつけたんです!こいつらは一体!?」 「兄の仇だ!六年前、こやつらに無実の罪をきせられて死んだ兄の!」 「!そういう事ですか!」 二人になったとはいえ、香藤も峰打ちしかしないので、やはりきりがなかった。 「うわ!」 飛んできた小刀が、腕に刺さって浪人の一人が悲鳴をあげる。 「若!」 「矢平!」 「源太は倉から助け出しました!駕篭に乗せましたゆえ、今、家に向かっています」 「ありがとう、矢平!」 「ええい!何をしておる!」 いつまでたっても一向に倒せない様子に、堀土佐守は次第に落ち着きをなくしてきた。 「こうなったら………」 懐から短筒を出し、岩城に標準を定める。 「若!危ない!」 矢平が岩城の前に飛び出すのと同時に轟音が響いた。 「ぐ!」 矢平が倒れ伏し、その胸からは血が吹き出ている。 「矢平!」 岩城は我を忘れ、彼を抱き起こした。そこを狙って浪人が岩城に太刀を振り降ろす。 「させるか!」 香藤の剣はその男の腕を切り落とした。太刀を持った腕が地面に落ち、かえり血が香藤に 飛び散る。 「うわ〜!!」 手を切られた男は血をあたりに巻散らしながら、地面をのたうちまわった。 「矢平!矢平!しっかりしろ!」 岩城は必死に呼び掛けるが、彼は苦しそうにうめくだけだった。香藤の目に、またもや短 筒の狙いを岩城に向ける堀土佐守が映る。 香藤は岩城と堀土佐守の間に盾となる為立ちふさがった。 絶対守ってみせる。 が、堀土佐守は引き金を引く前に、後ろから誰かに殴られ気を失って倒れた。 「な!」 堀土佐守が倒れた後ろには見た事のある顔があった。 「……あ!」 確か、深川の船宿で、岩城に会いに来た男に付き添っていた用心棒である。 その時、奉行所の役人の笛が鳴り響き、浪人達は動きを止めてざわめきだした。 「岩城さん」 その隙に、香藤は矢平を抱きかかえる岩城を木々の奥へ引いていった。 「ご用だ!ご用だ!」 逃げようとする浪人達が捕らえられてゆく。 このままではいつか見つかって捕まってしまうだろう。早く逃げなければ。 しかし、岩城は一向に動かなかった。 「矢平!矢平!」 必死に名前を呼ぶ。 「う………」 「矢平!気がついたか!」 「……若…お怪我は………」 「大丈夫だ。お前が助けてくれたから。しっかりしろ、今医者に連れていくからな」 「……若…もう…いいのです…私はもう駄目です………」 「何言ってる!大丈夫だ!」 「………私には娘が一人いました………」 「………え………」 「……産んだ女が農民でしたから…普通の娘として育っていきました。それを遠くから見 守るのが生きていく糧でした……」 矢平が自分の話をするなど、今までなかった事である。 「……しかし、死にました……阿片に犯され…ぼろぼろになって死んでいきました……」 口から大量の血が吹き出て、矢平は激しくせきこんだ。 「矢平!」 「……娘は…私が…この世に存在した……唯一の証…でした………」 苦しそうに息を吐きながら矢平は続けるが、言葉はかなり掠れている。 「許せなかったのです……娘の命を奪った……阿片も…それを利用する…奴らも……だか ら…これは私自身の復讐…なのです……決して…岩城家の…為ではありません………」 「………………」 息も絶え絶えな矢平は大きく息を吸った。 「………若…死んではなりません………」 「………矢平………」 「…若は皆が生きてきた…証なのです……大殿様、奥様、兄様……皆の命といっしょに若 は……生きておられるのです……」 矢平はまたも血を吐き大きく身を揺らせた。 「矢平!」 「…若が幸せになる事が……皆の……願いなのです………どうか………」 「分かった、分かったから…もう喋るな!」 「……香藤殿………」 「ここにいる………」 傍らに膝をついていた香藤は側に近付き、矢平の顔を覗き込んだ。 「……若の…事を………」 「ああ、俺がついてる。一生守ってみせる」 矢平は微笑を浮かべ、静かに目を閉じた。 「……矢平…矢平……」 岩城は涙を流しながら彼の身体を揺さぶるが、なんの反応も返ってこなかった。 彼の身体をそっと胸に抱き締める。 「……岩城さん…役人が来る………」 返事は分かっていたが、香藤は取りあえず岩城に尋ねた。岩城は首を横に振る。 「………彼を…置いていけない………」 「………………」 岩城ならそう言うだろうと思った。 香藤は矢平を抱き締める岩城の肩にそっと手を置いた。 「こっちにもいるぞ!」 見つけた役人が駆け寄り、二人に縄をかけた。