白い雪

「お帰りなさいませ」
「……変わりないか?」
「はい、何もございません」
「………………」
女中は草加から脱いだコートを受け取った。
少し肩についている雪を払い、アイロンをかける為、作業室に持っていく。
雪は夕刻から降り始め、もう積もり始めていた。
草加は階段を上がり自室に入ったが、すぐに誰かがドアをノックした。
「誰だ?」
「イトでございます。よろしいでしょうか?」
「ああ」
イトが緊張した面持ちで部屋に入ってきたので、草加は何かあったのだと察
した。
「どうした?何かあったか?」
「実はあの方が…………」
「何!」

草加が急いで離れに駆け付けると、秋月は布団の中で眠っていた。 「……秋月さん……」 そっと布団をめくると、左手首に包帯が痛々しく巻かれているのが目に入 る。 秋月はまた自殺しようとしたのである。 幸いイトが早く発見したので、大事には至らなかった。が、医者に見せられ ない為、油断はできない。 湯のみを割って、その欠片で手首を切ったそうである。 もちろん、そんな小さな傷ではすぐ塞がってしまうので、水をはった桶に手 首を入れていたらしい。 ずっと、自分の血が流れ出ていくのを見ていたのだ。 イトが見つけた時、秋月は出血の為、意識を失っていた。 手首を入れた桶は血だまりにしか見えなかったとイトは呟いていた。 青白い秋月の顔を見つめると、草加の胸はきりきりと痛んだ。 彼の頬に触れると、とても冷たい。 まるで死者のようなその感触に草加は思わず秋月の呼吸を確かめた。 小さく息をしている。 ほっとして手を引いた。 草加の持ってきたランプのかすかな明かりが、秋月の横顔を照らしている。 彼は初めて会った時と変わらず、美しい。 でも、自分達の立場はなんと変わってしまった事だろう。 どうしてこんなにすれ違ってしまったのだろう。 あの時、英国に留学したのが間違いだった。 日本に残り、戦う事になっても共に生き残る術を模索すべきだったのだ。 どんなに後悔しても、時間は戻ってくれない。 今、共に生きたいと秋月に訴えても、彼は拒絶してゆく。 自分の命を断つというかたちで……… どうして?俺といっしょにいたいと言ってくれたのは嘘だったのか!? 秋月の気持は痛い程分かる。 もしかして、彼を一番苦しめているのは自分かもしれない。 しかし、どうしようもないのだ。 生きていて欲しい。 それだけが草加の望みだった。他は何もいらないのに……… 時々、彼を憎んでしまう事がある。 メチャクチャにしやりたくなる時がある。 彼をかき抱き、その身体に自分を刻み付け、自分の事しか考えられなくした い。 その時だけが彼の命を強く感じられるから……… 包帯の巻かれた手を取り、その甲に唇を押し当てた。 とても冷たかった。 ふと秋月が目を開けた。 「……秋月さん………」 「………………」 応えはない。彼の上に覆いかぶさり、視線を合わせようとしてみても、秋月 は草加を見ていなかった。 目に映っていても、見ていない。彼は何を見つめているのだろう? 草加は堪らなかった。 「秋月さん」 深く口付けても、彼のそれは手と同じくらい冷たかった。夜明けの雨のよう に………… 秋月の帯を解き、着物を脱がせると、草加は自分を彼の身体に刻み始めた。 「……あ……あ……く、草加……止め……」 草加は包帯を巻いた左手首を強く握った。 「痛…………!」 秋月の顔が苦痛に歪む。 「痛い?それって生きてる証だよね。秋月さん」 「……草加……」 胸元から下へゆっくりと、やさしく草加は愛撫してゆく。 冷たかった秋月の身体が徐々に熱を帯びていくのが分かる。 「……秋月さん……」 「……あ…ああ……!いや…だ…草加……」 「嘘だ。だって秋月さん、こんなに感じてるよ」 「……そ、そんな……うっ!」 秋月の足を上げると草加は内に入っていった。苦しくて、秋月は身体のけぞ らせる。 白い首筋を吸いながら、草加は激しく秋月を揺さぶり、高めていった。 「……あっ……ああ!……」 草加と一つになりながら、秋月は喜びと同時に自分に対する嫌悪を感じてい た。 今の自分は彼にとって何ひとつ為にならないのだ。 戦犯の自分を匿っていると知られたら、草加は破滅してしまう。 明治政府の外務大輔という地位で、新しい時代を創っていく大切な人物なの だ。この自分の為に犠牲にさせる訳にはいかない。だから………… 自分を消してしまいたい………… と、秋月は思った。しかし、同時に少しでもこの男の側にいたい、と思って しまう。愛する人の側に、少しでも………… 濡れた空気が辺りを包む。自分達の息使いだけが部屋に響いて、まるで他の 存在が消えてしまったかのように感じる。 もし、そうであったなら、どんなにいいだろう………… 誰も知らないところに二人で行く事ができたなら、どんなに……… 外は白い雪が音も無く降り続いている。 すべてを雪が消してくれたらどんなにいいだろう。 その汚れのない白さで、埋め尽くすように……自分達を……