幽鈴(中編)

それから、数日間、お松は毎晩岩城の所に琴を聞きにきていた。
何をするでもなく琴を聞き、たあいもない話をして帰っていく。
香藤は「え〜また来てたの〜?」
と、少々呆れぎみにため息をついた。
岩城は別に毎晩来てくれても構わないのだが、お松は少々変な
ところがあった。言ってる話の辻褄があわなかったり、岩城以
外の人が来ると何も言わず帰ってしまうなどである。
先日もおふみが
「このところ毎晩、同じ時刻に琴を弾いてらっしゃいますね。
何かの練習ですか?」
と、聞いてきたので、お松が来るので弾いている事を話すと、
自分も聞きたいと言いだした。では、琴の音が聞こえて、こち
らに来れるようであったら来ればいい、と言ったのである。
そして、いつものようにお松が訪ねてきて弾きだしたところ、
おふみが来た。
岩城が玄関に出迎えて、お松にことわろうとおふみを連れてい
くと、お松の姿はもうなかった。
気に触ったのだろうか?
と、岩城は気になったので次の日に聞くと
「急な用事を思い出したので………」
と、言うだけで口をつぐんでしまった。
何か訳があるのだろうか?
と、岩城もそれ以上探究するのはやめた。
そもそも、なぜお松は毎晩聞きにくるのだろうか?
自分以外の人に会おうとしないのは何故か?
分からない事だらけであったが、なぜか岩城はお松に聞けなか
った。彼女が来ると頭の中がぼんやりして、琴を弾く以外何も
考えられなくなるのである。

「今日も、彼女来たの?」
「ああ、今しがたまでいたが、帰ってしまった」
「そう………」
「?どうした、香藤?」
「ねえ、そのお松さんと何話してるの?毎日ただ琴聞いて帰る
だけなの?」
「ああ、それだけだ。まあ、話といっても近所の人の話とか、
子供の頃の話とかするけどな」
「それで?」
「だから、それだけだって言ってるだろ」
「う…ん……」
なんだか香藤は不安だった。そのお松という女性が岩城目当て
である事はまず間違いないだろう。しかし、岩城の話を聞くと
別に気をひこうとしている様子もないようである。よほどのお
くてなのか?それとも、別の理由があるのか?
『実はすごい年寄りとか………』
それなら向こうがためらうのも分かるし、心配する必要もない
のだが………
なぜか自分の感じている不安は別のところにあるような気がす
る。
お松はどういう人なのか岩城に聞いても、いつもあいまいな答
えしか返ってこないのである。あの勘のするどい岩城が、彼女
の話になると、どうにも要領の得ない話ぶりになる。
どうもひっかかる。
それに、このところ岩城の顔色がすぐれないのも香藤は心配だ
った。
お松が来てからではないだろうか?
『明日は何がなんでも早く帰ってお松って女の顔見てやろう』
と、香藤は決心した。

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月が登った頃、お松はやって来た。
いつものように琴を弾く岩城だったが、今日はなぜここに来る
のか絶対尋ねようと、一曲で弾くのを止めた。
「お松さん」
「はい」
「お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんです?」
「……なぜ、ここに毎晩やってくるのですか?」
「……………」
「別に迷惑などとは思っていませんが、少し気になってしまって。
差し支えないようでしたらお話しくださいませんか?」
「琴が聞きたいのです…あなたの弾く琴が………」
「それだけですか?」
「……………」
「ならばよいのです。そういえばお身体の方は大丈夫ですか?
以前、痛みが残るとおっしゃっていましたが………」
「痛み?なんですかそれは?」
「お身体の傷の痛みですよ。もう治りましたか?」
「……ああ、そうでしたわ、あの時の傷………あの時の痛みは
とても口だけでは表現できませんわ」
「お松さん?」
お松の口調が変化したのに岩城は気付いた。
「崩れた天井に押しつぶされて、私は倒れました。息も出来ず
に、流れ出してゆく命を感じていました。そこにあなたが現れ
た」
「え………?」
「あなたのような美しい殿方を見たのは初めてでした。私はず
っとあなたといたいと思いました。ずっと手を離したくなかっ
た………」
岩城は事故の時、お松が自分の手を握りしめていたのを思い出
した。爪痕を残していったのも………
爪痕の痛みが手の甲に蘇る。と、岩城はいきなり目が覚めたか
のような衝撃を覚えた。
部屋の空気が澱んでいる。どこからか黒い空気が流れている。
お松のいる場所からだった。
なぜ自分は今まで気づかなかったのだろう。こんな澱んだ空気の
中にいながら………
息が苦しくなって岩城は口を押さえた。
「あなたにもう一度会いたかったのです。それだけの為にこう
して参ったのです」
お松の言葉が無気味に耳に響く。身体を纏う空気が重くなり、
岩城は息を上げながら、前に倒れそうになった身体を手をついて
支える。
「あなたに会いたかったのです、もう一度だけ、そして会えま
した。もう離れません」
「…お松さん………」
澱んだ空気がさらにどす黒いものになる。岩城は苦しくて胸を
押さえた。
寒い、身体が凍えるようだ………
恐ろしい程の冷気と、どす黒い存在が近付いてくるのが分かる
のに、声をだす事も逃げる事もできない。
金縛りにあって身体が動かないのである。
「岩城さん」
お松の声が耳元で聞こえ、岩城は全身を逆立たせる寒さを感じた。
「いっしょに来てくれますよね」
「……お松さん………」
黒い空気がいっそう重くなり、あまりの苦痛に岩城は顔をしかめる。
『助けて……香藤………』
「岩城さん、ただいま」
香藤の声が聞こえた途端、岩城を纏っていた空気が消えた。
寒さも、重く黒い影も。虫の声が聞こえ始める。
岩城は呪縛から解けた開放感に息を上げながら、ほっとして上を
仰いだ。
「岩城さん?え、ど、どうしたの?」
出迎えにこない岩城を不思議に思い居間に来た香藤は、岩城が
苦しそうに息をあげているのを見て驚いた。急いで駆け寄り身
体を支える。
「どうしたの?こんな汗びっしょりになって?すごい顔色
だし………」
「…香藤………」
岩城は香藤の腕に抱かれた安心感から、彼の腕の中で意識を
失った。
「岩城さん?!」

岩城を布団に寝かせると香藤は清水屋に知らせ、医者に来ても
らった。
が、診察した医者は、どこにも異常はないと言ったのだった。
「そんな、こんなに顔色悪いのに……なんともないなんて………」
香藤はかなり強気な口調で医者に詰め寄る。
「しかし、ですね。本当に悪いところがないのですよ。あえて
言えば全体的に体力が落ちているようです。でも、養生してい
ればすぐに治る筈ですから、滋養のいい物を食べて休む事ですな」
『こいつやぶ医者じゃないのか〜』
香藤が不信の目を向けた時、医者が窓辺に吊るされている風鈴に
気付いた。
「あ、この風鈴はお松の作った風鈴ではないですか?」
「知っているのですか?」
「評判が良かったのでね。しかし、彼女も可哀想でしたな」
「え?ああ、例の事故ですか。でも、すっかり良くなったのです
よね?」
「とんでもない。彼女は亡くなりましたよ」
「え………」
「ひどい怪我でして、診療所に運び込まれた時はもうすでにうつ
手がありませんでした。しかし生きようとする執念があったのか
しばらく意識がありまして、相当苦しんで死にました。あんな姿
を見ると、死ぬ時はずばっと一気に死にたいものだと思わされま
すな」
香藤は呆然とした。
そんなばかな。では昨日まで岩城と会っていた女は誰だったのだ?
岩城は誰の為に琴を弾いていたのだ?
「……彼女は生きている筈です。昨日ここにやってきました」
「ですから、彼女は亡くなったと言っているじゃありませんか」
「そんな筈はないのです。事故の後、この風鈴を届けにきました!」
香藤の真剣な表情に医者は嘘や冗談を言っているのではないと
悟ったらしい。
「顔を見たのですか?」
「いいえ、俺は一度も。しかし岩城さんが………」
「ではきっと彼の目が見えないのをいい事に誰かがいたずらし
たのでしょう」
「しかし………」
「彼女に幽霊が現れたとでも?普通幽霊は恨みをもった者のと
ころに現れるものですよ。彼女と深い付き合いが?」
「いいえ、名前も知りませんでした」
「そうでしょうとも。付き合いのない人のところに来る訳あり
ませんよ。では失礼致します。お大事に」
そう言って医者は帰って行ったが、香藤は確信していた。
死んだお松は岩城に会いに来ているのだ、と。
しかし、何故?恨みではない。もしそうなら、琴など聞かせて
もらわずにすぐにとり殺そうとするだろうに。
「俺と同じか………」
彼を、岩城を愛したからか………
おそらく、初めて会ったその死の真際に………