幽鈴(前編)

岩城は北町まで琴の稽古をつけにきてきた。教え子は米問屋の
娘さんで、ご両親は教養を身につけさせたいらしい。送り迎え
はいつも丁稚の小太郎がしてくれる。10才ぐらいの子供だが機
転のきく頭のよい男の子だった。
岩城によくなついてくれていて、手をつなぎながらいろんな話
をした。
その日もいつものように、帰り道を二人で歩いていたのだが
「危ない!」
「みんな!逃げろ!」
遠くの方で悲鳴にも似た声が上がる。
「どうしたんだ?小太郎?何かあったのか?」
「分かりません。前の方からですよね」
岩城は地面からの振動を感じた。
『馬車か?』
思ったとおり馬車の音がすごい早さで近付いてくる。
「大きな馬車が暴走してます!岩城さん、こっちに!」
小太郎が岩城の手を引張り、いっしょに木の影に隠れたが、こ
ちらに来る前に、馬車は長家に飛び込み、ものすごい破壊音を
轟かせた。家の崩れる轟音と人々の悲鳴、馬のいななきがあがり、
岩城は耳を塞ぎたくなる。
やがて大事故の後の静寂に辺りは包まれた。
「…小太郎…どうなった?……」
「…す、すごい事になってます……暴走した馬車が長家に突っ
込みました……馬は死んでますし、長家も崩れてバラバラにな
りました。怪我人が絶対いますよ……」
おそる、おそる周りにいた人間が事故現場に近付き始める。
「おい、大丈夫か?」
「うう…助けてくれ………」
「誰か、手を貸してくれ!人が木材の下敷きになってる!」
「急げ!」
人々が急いで崩れた木材を撤去し、下敷きになっている者達を
救出し始めた。岩城も力をかしたかったが、目の見えない自分が
行っても足手まといになるだけである。岩城は口惜しかった。
「あ!」
「どうした?小太郎?」
「離れた所に女の人が木材の下敷きになってます。でも皆気付い
ていないようです。どうしましょう?」
「よし、助けに行こう。小太郎、俺の目になってくれるか?」
「分かりました!」
小太郎の言うとおりに歩いて近付き、木材をどけると、安全な場
所に彼女をの身体を引きずっていった。
「大丈夫ですか?しっかり!」
岩城が声をかけても女はうめき声をあげるだけであった。
「…小太郎……」
「口からも胸からも血が流れてます………」
小太郎の声が震えている。どうやら彼女の怪我はひどいものら
しい………
「あ!目を開けました!」
「大丈夫ですか?もし?」
「うう……あ………」
「大丈夫ですか?頑張って下さい」
「あ……ああ………」
「なんですか?何か言いたい事が?」
「……あなたは………」
「私ですか?私は岩城京乃介というものです」
「あ……」
「引き車を持ってきたぞ!診療所までこれで運ぶ!怪我人を乗せ
てくれ!」
「もっと引き車持ってきてくれ!足りないぞ!」
「女、子供が先だ!」
「こちらの女性をお願いします!」
岩城が大声で叫ぶと、二、三人の男が駆け寄り、彼女を引き車に
乗せるが、彼女は不安なのかずっと岩城の手を握りしめていた。
「運ぶぞ!」
車が動き出しても、離すまいと強く握りしめていたので、離れる
瞬間、彼女の爪が岩城の手に痕を残していった。

後から聞いたところ、この事故で8人が怪我をし、4人が亡くなっ
たらしい。岩城は気になったが、亡くなった中に、あの女性がい
るかは確かめる術がなかった。
岩城はあの女性の名前も顔さえ知らないのだから…
女性の顔を知っている小太郎もショックであったらしいから、あ
えて、事故の話題は避けるようにしていたので、彼からも聞けな
かった。
あの日、着ていた服には彼女の血がべったりとついており、捨て
るしかないと言われ処分した。
目の見えない岩城にも血の匂いで、どれ程の量が付いているのか
見当がついた。
『大丈夫だったのだろうか?』
ずっと、岩城は彼女の事を気にしていた。

***************************

そして、10日程たったある日の事。
夜、岩城は一人で部屋の中を片付けていた。季節はもう残暑で、
うだるような暑さの夜は滅多になかった。そこに冷たい空気が流
れてきて岩城はぞくりとした。
鈴のような音がして顔をあげる。
「あの………」
女性の声が聞こえる。
「どなたですか?」
岩城は玄関に出向いた。
「ここに、岩城京乃介さんという方はいらっしゃいますか?」
「はい、私ですが?何か?」
「あ、あなた様ですか?すみません、真っ暗でお顔が見えなくて…
私はお松といって先日北町の事故の時助けてもらった者です。あの
時のお礼が言いたくてうかがいました」
「ああ、あなたが。お身体の方はもうよろしいのですか?」
「ええ、なんとか回復いたしました。まだ少し痛みが残りますけ
ど」
「それは良くかった。でもご無理なさらないで下さいね。怪我は
治り際が肝心ですから」
「はい、分かっております。でも、本当にあの時はありがとうござ
いました。岩城さんが見つけて下さらなかったら………」
「いえ、見つけたのは小太郎という男の子ですよ。私では…」
「でも、下敷きになっている私を引きずりだして下さったのは、
岩城さんですもの。ありがとうございました」
「いえこちらこそ、ご丁寧にいたみいります」
「あの、お聞きしてもよろしいですか?」
「なんでしょう?」
「どうして部屋が真っ暗なんですか?誰もいないのかと思いまし
たわ」
「ああ、私は目が見えないんです」
彼女を助けた時は必死で瞳を開けていた。
「まあ、そうでしたの?では、あの時なぜあそこに?」
「琴を教えておりまして、その帰りでした」
「琴ですか。素敵ですね。あの……」
「なにか?」
「不躾なのですが、もしよろしかったら、聞かせていただくわけ
にはいけませんか?私、琴の音色は大好きなんです」
「私のような者の琴でよろしければいくらでも。お上がり下さい」
「よろしいのですか?ありがとうございます」
「暗いですが大丈夫ですか?」
「大丈夫です。今夜は満月で明るいですから」
お松を和室に案内すると、岩城は琴を取出し、「六段」から「三段」
を弾き始めた。お松はじっと耳をすませて聞いているようだった。
「ありがとうございます。素晴らしい演奏でした」
「いえ、つたなくて申し訳ありません」
「では、そろそろ失礼致します。あ、これを受け取っていただけま
すか?」
お松は鈴の音のする物を差出し畳の上に置いた。
「なんです?」
「風鈴です。私は風鈴の絵を描く仕事をしておりまして、ぜひ岩城
さんに受け取っていただきたいのです」
「これは、お心使いありがとうございます。遠慮なく頂戴いたします」
「あの、また失礼なのですが………」
「はい?………」
「また、演奏を聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ」
「本当ですか?ありがとうございます。岩城さんはお優しいのですね」
「い、いえ、そんな………」
岩城は恥ずかしくなって下を向いた。
「では、失礼いたします。本当にありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざお見えになって下さってありがとうございま
した。贈り物までいただいてしまって。お身体に気をつけて………」
お松が帰った後、岩城は急に暑くなった気がした。少し冷や汗が出て
いるようで寒気がする。
畳の上を探り風鈴を手に取って振ると可愛らしい音がこぼれた。
『本当に良かった。声の調子では元気になったみたいだ』
岩城はずっと気になっていた彼女が無事だと分かりほっとしていた。
「岩城さん、ただいま」
「あ、香藤、おかえり」
岩城はいつものように玄関に出迎えた。
「今日は少し遅かったみたいだな」
「うん、教えてた人が一人辞めたからね。教え子が増えちゃってさ。
あれ、何?風鈴?」
岩城の手に握られていた風鈴に香藤が気付く。
「ああ、今しがた、例の事故の女の人が助けてくれたお礼を言いに
来てくれてな、これをくれたんだ」
「助かったんだ。良かった〜岩城さん気にしてたもんね。綺麗な風鈴
だね。ホオズキの絵が描いてあるよ」
「ああ、本当に良かった。さっそく吊るしておくか」
「岩城さん、なんか顔色悪いけど大丈夫?」
「そうか?そういえばちょっと寒気がするかも………」
香藤は額を岩城の額にくっつけた。
「あっためてあげようか………」
「ばか………」

月明かりだけの部屋で二人はからめ合った身体を白い夜具の上に投げ
出していた。
情事の後の心地よいけだるさを感じながら、香藤は岩城に深く口付け
た。
「…ん………」
吐息を奪いながら唇を離すと、優しく岩城の身体をうつ伏せにする。
その背中を唇で愛撫してゆくと、岩城が身体をくねらせた。
「香藤………」
「…なに………」
「くすぐったいぞ………」
「だって綺麗なんだもの」
愛しあう時、目の見えない岩城は香藤に身体に触れていたいので、い
つも抱き合っていた。
しかし、香藤は初めて岩城の美しさを見た光景が忘れられず、つい
背中に触れたくなってしまうのである。
あの時、銀色の雫がこの背中を流れ落ちていた光景………
美しすぎてこの世のものとは思えなかった。
「…香藤………」
触れていたいのだろう、岩城が前に回した香藤の手を握りしめる。
香藤も身体を密着させ、手を回して岩城の胸を撫でた。
「……ん…あ………」
また熱くなってゆく身体を持て余して、香藤は岩城の身体を強く後ろ
から抱き締める。
「岩城さん……もう一回いい………?」
「……あ、ああ………」
岩城の返事を聞いてそのまま上半身を抱き起こすと、自分に岩城の
身体を落とした。
「ああ!」
初めての衝撃に岩城は声をあげた。
「か…とう……こ、こんな………」
「座ってやるの……初めてだね………」
「…や……あ…あ…あ………」
岩城は深く沈んでいく自分が感じる快感をどう受け止めていいのか
分からないように、身体をねじり、足を動かしていた。うなじに口付け、
揺さぶりながら岩城のそんな姿を見ていると、香藤の胸は愛しい気持ち
で一杯になるのだった。
満月の為、障子の影がくっきりと自分達の身体の上に落ちている。
夜具の上をくねらせる岩城の白い足にも………
足が動く度、影もその上を這うかのように動いていく。自分が愛撫し
ている時と同じようである。
『なんで、こんなに綺麗なんだろう』
「……香藤………」
岩城は手を香藤の頭に回した。顔を向けて二人は熱い口付けをかわし、
一つになって快感を感じるのだった。

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「ねえ、今日、誰か岩城さんを尋ねて来た人いた?」
清水屋の女中の一人、おさえがおふみに尋ねる。
「いいえ、誰も来ていないと思いますが?」
「そう……そうよね〜じゃあ勘違いか……」
「なんですか?」
「いえ、ちょっと前、庭通った時に離れが見えたんだけど、玄関に岩城
さんが立ってて、誰かと話してるような素振りだったの」
「じゃあ、誰かが来てたんじゃないですか?」
「それが岩城さんの前には誰もいなかったの。何か別の事してたのを
私が見間違えたのね、きっと」