この回の年齢

小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …28歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …14歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …28歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …60歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………1

『 昔、昔のあるところに一人の刀鍛冶の男がおりました。その男の打つ
刀は素晴らしく、大層な評判でしたが、気に入った仕事しかしないという
頑固な男だったので、家はいつも貧乏でした。
 その刀鍛冶にはたいそう綺麗な一人娘がおりました。「家は貧乏でもあ
の娘だったら」という男が大勢いたので、いつも結婚の申し込みが堪えま
せんでした。
 しかし刀鍛冶は「うちの娘の婿になるものは一日に千本の刀を打てる者
で無くてはならん」と言うので、婿になれる男はいませんでした。
 そんなある日、弟子の一人でかねてより娘に想いを寄せていた若者がこ
う言いました。
「私が明朝一番鶏が鳴くまでに千本の刀を打てたら娘さんを下さい」
 その若者は立派な体格をしており、美男子で品のある若者だったので、
刀鍛冶は承知しました。
「分かった、もしお前が千本の刀を打てたら娘をやろう」
「ありがとうございます。では鍛冶小屋をお借りいたします。ただし、私
が刀を打っているところは絶対に見ないで下さい」
 そういって若者が鍛冶場に入ると、槌の響きが聞こえてきました。
 夜、刀鍛冶と娘が床についている間も、音が絶える事はありません。
 しかし、刀鍛冶は若者の言葉が気になっておりました。
「なぜ見てはいけないのだろう?」
 不信に思った刀鍛冶は鍛冶小屋に行き、見つからないようこっそり中を
覗きました。
 すると、若者はその姿を鬼に変え、恐ろしい形相をして槌をふるってい
るではありませんか。
 刀鍛冶はすっかり腰を抜かしてしまいました。
「なんという事だ!あんな恐ろしい鬼のところになど可愛い娘をやれるも
のか」
 刀鍛冶はどうしようかと悩んだあげく、若者の言った一番鶏が鳴くまで
に、という言葉を思いだしました。
 刀鍛冶は急いで鶏小屋に行き、雄鶏の留まっている竹棒にお湯を流し込
みました。
 足元が温かくなった鶏は朝になったと勘違いして、声高に刻の声をあげ
ました。
 びっくりしたのは若者です。ちょうど999本の刀が完成していて、残り
後1本だったのです。
 しかし、一番鶏が鳴いてしまった以上、時間切れです。
 音の聞こえなくなった鍛冶場を刀鍛冶はそっと覗き込みました。
 中で若者が人間の姿に戻って死んでいました。
 鬼になったとはいえ、長年共に暮して来た弟子です。
 刀鍛冶は哀れに思い、ねんごろに葬ってやりました。 』

 それは、六年前の事、果月が14歳の時であった。

 義理の父である小鳥遊友弘と共に、果月は近江の屋敷を訪れた。亡くな
った果月の母、小夜子の実家である。
 この日は近江家の家長である玄雄の還暦の祝事がとり行われる為、招き
に預かったのだ。
 玄雄は小夜子の父で、果月にとって実の祖父にあたる。
 近江家はシテ方月華流に属する能楽家で、その流派に江戸時代初期に加
わった家系だ。
 能家の歴史の中では新しい部類に属するが、昔からその時代に名を残す
能楽師を輩出してきた名門の家柄である。玄雄自身も、昨年勲章を受
賞した程の舞手であった。
 しかも、近江家は昔からこの地域の大地主なので、多くの土地や山を所
有しており財政は裕福だ。屋敷は広大で、初めて訪れた者はまず要塞のよ
うな立派な門構えに圧倒されるのが常だった。
 果月はその立ちはだかるような門の前で、軽いため息をついた。
 初めて来るのではないが、この門は別の意味でいつも果月を威圧する。
 彼はできるだけこの家には来たくないと思っていた。
 産まれた時から8歳までの幼少期をこの家で過ごしたが、いい思い出など
一つもなかったからだ。
 祖父以外の家の者と顔を合すのは、能稽古の時だけにしたかった。
 稽古時は師匠である祖父以外とほとんど話をしなくてすむし、叔父の十郎
も雑念をいっさい振払って稽古に専念しているので、稽古場にいる時の彼に
会うのはそれ程苦痛ではないからだ。
 が、近江家の屋敷で会うとなれば話は別である。
 親類縁者の好奇の目にさらされるかと思うと気が滅入る。
「さ、行くぞ果月」
「うん………」
 友弘の言葉に促されて、果月は門をくぐった。
 屋敷の中に入ると一族の者の他に親類や義縁者の達が、烏の行水のごとく
集まっていた。
 玄関近くの部屋は、すべて来客用の居間や小部屋で、住人用の部屋ではな
い。
 この広い屋敷の中は玄関から奥に入るにつれ、客人用、住人用、稽古用、
と居住区が分かれており、用途別によって使い分けているのである。
 その客人用居間の障子や襖が全部取り払われているので、かなり広い空間

なっている筈だが、それでも人の多さから手狭に感じる。
 集まった人々は思い思いに喋ったり、お茶を飲んだりしてくつろいでいた。
 一度、玄雄に到着の挨拶した後は、各自で宴会が始めるのを待っているの
だろう。
 その中の何人かは、果月をねめつくような目で眺め、ひそひそと話してい
る者がいる。
 果月はそんな奴の前に行き、
『言いたい事があるならはっきり言え!』と怒鳴り付けてやりたい気分だっ
た。
「すみません、小鳥遊です。お義父上にご挨拶したいのですが」
 忙しそうに働いていた女中に、友弘がすまなさそうに声をかける。
「あ、はい、こちらです」
 すぐに案内され、玄雄のいる部屋に通された。
「果月、友弘、良く来てくれたな」
 玄雄が小広間の部屋で赤い座布団の上に正座をして二人を出迎えてくれた。
 還暦という事で、頭には赤い帽をかぶり、赤い上着を着物の上に羽織って
いる。
「お義父上、この度はおめでとうございます」
「おめでとうございます、お祖父様」
 玄雄の前に座ると、二人は頭を下げて祝いの言葉をのべた。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今日はめでたい祝いの席だ。ゆっくりくつろ
いで楽しんでくれ」
「ありがとうございます」
「宴会は大広間の方で行うから、始まるまで、好きなようにして待っていてく
れ」
「はい、お義母上にも挨拶をしてきます。十郎さんは?」
「おお、そうか。あれは女中達に支持をだしている筈だから、勝手所か大広間
にいるだろう。十郎は多分親戚達の世話でそこらへんをうろついていると思う
が…」
 十郎はこの家の嫡男である為、親類縁者の接待に追われているのだろう。
「ありがとうございます。では失礼いたします」
 部屋をでると友弘は台所に向かおうとした。
「祖母さんに挨拶するの?」
「ああ、しない訳にはいかないだろう」
 果月はまたため息をついた。
 近江家の者でに普通に接してくれるのは祖父だけだ。祖母に会っても冷たい
目で見られると分かっていたので、気が重くなる。
「どこかで休んでくるか?」
 そんな様子に気付いた友弘は優しく声をかけてくれた。
「え?でも………」
「お義父上には挨拶したのだし、もういいだろう。それにこれだけ忙しければ、
誰と挨拶したかなんて覚えていないと思うよ」
「う…ん………」
「いいから、行っておいで。宴会が始まるまで、まだ時間があるようだし」
「いいの?」
「ああ」
「じゃあ、どっかで休んでおくよ。ちょっとしたら戻るから」
「ああ、気をつけて」
 助かった、と安堵した果月はどこかで昼寝をしようと思った。
 誰にも見つからず邪魔されない場所はどこかと考えて、装束部屋の納戸に決
めた。
 そこは日頃あまり使われない能の装束や小道具、面などが保管されている場
所で、住人用の居住区よりも奥にある。
 日頃から人の出入りの少ないところだし、ましてや今日のような稽古も舞台
もない日は誰も来ないだろうと、果月はさっそく装束部屋に向かう。
 こういう時は以前住んでいた者の杵柄で、誰にも見とがめられる事無く納戸
に着けた。
 中を伺いながら引き戸を開けると、思ったとおり誰もいない。
『よし』
 部屋の入り口辺りは廊下と同じ板間だが、少し上段になったところに六畳程
の畳が敷いている。ここで装束を広げたり、道具類を調べるのである。
 壁は棚だらけで、畳の奥にまた納戸があり、その中にも装束や面などが納め
られている。
 果月は畳に上がり、その納戸の中に入った。
 中は狭くて人一人がやっと通れるだけの空間しかなかったが、羽織を脱いだ
果月は構わず寝転がる。
 ここで隠れていれば誰にも分らないだろう。なんなら宴会が終わるまでここ
で寝ていたかったが、それはできない相談であった。
 もし、ここで自分が欠席すれば、義父の友弘に鉾先が向けられるからである。
 お前の教育がなっていないと、分家の者達が因縁つけるに決まっているのだ。
優しい友弘に嫌な思いはさせたくない。
 ならば、ぎりぎりまでここで寝転がっていよう、と果月は目を瞑った。

 果月の母、小夜子は18歳の時、熊野詣に参り、そこで行方知れずとなった。
 一ヶ月後、無事に発見されたが、その時、果月を身ごもっていたのである。
 小夜子は行方知れずとなっていた間の話をいっさいせず、身ごもった子は絶対
に産むと言いはった。
 彼女の態度から駆け落ちしようとしたあげく、男に捨てられたのではないかと
皆は噂した。果月の事も影で「忌子」と蔑みを込めて呼んでいたのである。
 この家にいる間は、人々の無言の眼差しを浴び、幼いながらも無気味に感じて
いた。母は愛情を注いでくれたが、自分達の回りには常に冷たい空気が漂ってい
たのだ。
 家長である玄雄が果月を認めているので、目につく中傷はできす、代わりに沈
黙の蔑みを与えていたのである。その視線が消える事は今も無い。
 果月が自分の出生の秘密を知ったのは、母と近江家御用達の能面師である友弘
の結婚が決まった時だ。
 彼が母と結婚したのは六年前で、名義上、果月は14歳年上の父を持つ事になっ
た。
 当時果月は8歳だったが、いつも遊んでくれる優しい友弘が父親になると分か
って嬉しかった。
 だが、結婚式の前日、偶然、勝手口で女中達の話しを聞いてしまったのである。
「明日の婚儀、小鳥遊さん可哀想ね」
「いつまでも未婚の母では家の体裁が悪いから、彼に押し付けたんでしょ」
「そりゃ〜小夜子様はお綺麗だけど、病身だし…最近じゃほとんど寝たきりじゃ
ない。あれじゃ家事もできないわよ」
「薬代とか治療費は近江家が持つって聞いたけど?」
「じゃあ、そのお金目あてで結婚するのかしら?」
「にしてもよ〜、どこの男の子供か分からない子を育てなきゃいけないのよ〜普
通嫌でしょ〜」
「そうよね〜大体小夜子様が亡くなったら、あの子の面倒を彼がずっとみなきゃ
いけないじゃない」
「今までもどこかへ嫁がせようとしたけど、それが理由で話がまとまらなかった
らしいわ」
「だから、小鳥遊さんに、やりだまがあがったのよ」
「小夜子様とは幼馴染みだし、近江家御用達の能面師が断れる筈ないもの」
「ねえ、本当に小夜子様駆け落ちしようとしたの?」
「多分ね。実はその頃小夜子様に縁談の話が持ち込まれたんだって。で、それを
嫌がった小夜子様が男と逃げたって話よ」
「でも結局捨てられて戻ってきた」
「その時の縁談は?」
「当然破談よ。で、ずるずるこの家に居座って、最後は小鳥遊さんに、はいどう
ぞ、よ」
「やっぱり可哀想。結局一番貧乏くじひいたの小鳥遊さんって事よね。あの人優
しいから」
「本当ね〜」
 聞いた当初、果月は意味が分らなかった。
 だが、時が経つにつれ、自分の生まれた経緯や家の者達の態度の意味が、なん
とはなしに理解できるようになった。
 これまでにも、何故自分には父親がいないから母に尋ねようとしたが、身体の
弱いか細い母に、そんな辛い話をさせるのは躊躇われたのだ。子供心に自分の出
生の秘密が辛いものであると感じ取っていたのである。
 小夜子は果月を産んでからすっかり身体が弱ってしまい、今は一日の大半は床
の中で過ごしている。
 母は青白くて、細くて、果月は消えてしまうのではないかと、いつも怖かった。
母が病弱な理由は家の者達の態度に神経をすり減らしているのも原因の一つだと
果月は思っていた。だから、近江家の者達が果月は大嫌いだった。
 父親の事は、祖父にさりげなく聞いてみた事もあったが、笑ってごまかされた。
祖母は自分に対してあからさまな憎しみをぶつけてくるので、口を聞くのさえ怖い。
 そして、小夜子の弟である叔父の十郎は………
 十郎はいつも果月親子を完全に無視していた。何か用事がある時も人に伝言を
頼むのである。
  実の姉と甥に対してあまりにも冷たい態度であった。
 普段は居ない者であるかのようにふるまわれるが、背中にぞくりとする視線を
感じて振り向くと、そこにはいつも彼がいた。
  憎んでいるのか?嫌っているのか?一体何が言いたいのだ?
 彼の態度が理解できなかった果月は、彼が一番怖い人物であり、一番嫌いな男
だった。
       *

 どれぐらい時間がたっただろう。人の話声で果月はふと目を覚まし
た。
 誰かが部屋に入ってきたようである。
『まずい、誰だろう?』
 果月は納戸の引き戸を少し開けて、誰がいるのか確かめようとした。
 近江家の者のほとんどは自分を嫌っているので、こんな所で昼寝し
ているのがばれたら怒鳴りつけられるに決まっている。
 自分だけならいいが、友弘に被害が及ぶのは避けたい。
 できるだけ慎重に覗くと、部屋にいたのはその友弘だった。
『なんだ、友弘か』
 出て行ってもいいかな、と思ったが、もう一人いた人物を認めて果月
は眉をひそめた。
 友弘と話しているのは叔父の十郎だったのである。
 彼が自分に冷たい態度をとるのは、家名を汚した者として見ているか
らだと果月は思っていた。
 きっと未来の家長としてのプライド故であろうと………
 彼の態度は母が友弘と結婚して、自分達親子がこの家を出てからも変
わらなかった。いや、むしろひどくなったような気さえする。
 自分にとってどうしようもない理由で、不遜な態度をとられるのは納
得できないが、言ってみたところで何も変わらないのは分っていたので、
必死に堪えた。
 母や祖父に対する気づかいもあったし、何より自分が騒ぎを起すと友
弘が不利な立場にたたされると分ったからである。
 四年前に母が亡くなった時は、さすがに怒鳴り込みに行ってやろうと
したのだが………
『あいつといっしょじゃ見つからないようにした方がいいな。でも友弘
と何の話だろ?』
 自分の事で何か友弘に言う気じゃないだろうな、と隙間から二人の様
子を伺いつつ、果月は聞き耳をたてた。
「今度婚約する事になった……今日、父が宴会の席で皆に伝える予定だ」
「そうか、おめでとう」
 どうやら自分の婚約を友弘に伝えているようである。しかし、なぜこ
んな所でわざわざ?
「本当にそう思うか?」
 十郎の声がいつになく低いように果月は感じた。
「ああ、いいお嬢さんなんだろう。良かったな、おめでとう」
「別にめでたくはない」
「え?どうして?気に入らない女性なのかい」
「……月華流の大鼓方のお嬢さんさ…つまり政略結婚だ……」
「………でも……いい娘さんなんだろ?」
「ああ、いい子だ。おとなしくて、品があって、控えめで、夫をたてる
模範的ないい妻になるだろうよ」
「……じゃあ……大切にしてやれよ……お前みたいな我の強い男は、ちゃ
んと後ろに控えていてくれる人がいいと思うぞ……」
「だが、つまらん女だ」
「……おい…十郎……そんな言い方失礼だろ」
 友弘は十郎と同歳である。小さい頃から小夜子をまじえてよく遊んで
いた幼馴染みなので、いつも友達口調だった。
 果月はその話を聞く度に
『本当にこんな高慢な男にも、そんな時代があったのだろうか?』
 と信じられなかった。
 唯一、友弘が十郎と対等に話している時に、その話の一旦を垣間見る気
がするだけである。
 友弘は自分に友人口調を許している事を引き合いにだして、十郎も本当
はいい奴だ、と言う時があるが、果月はいつも不快に思った。
 大好きな友弘が自分の嫌いな十郎を信頼しているのが厭だったのだ。
「……十郎……もしかしてお前…誰か好きな人でもいるのか?」
「………………」
「そうなのか?だから、結婚したくないのか?」
「……お前……何故小夜子と結婚した?」
「え…………?」
 予想していなかった十郎の言葉に友弘は少し驚いた。同じように納戸で
話を聞いていた果月も息を飲んだ。それは自分もずっと感じていた疑問だ
ったからである。
 あの女中達の話を聞いてから、果月は素直に母と友弘の結婚を喜べなく
なった。
 しかし、いっしょに暮らしてみて、友弘は決して物の損得で決断する人
ではないと分かった。彼は優しくて思い遣りのある、心の綺麗な人だ。な
により、母が亡くなった時の友弘の落ち込み様は、見ていて痛々しい程だ
った。
 本当に友弘は母を愛していたのだと思う。だが、彼に直接確かめた訳で
はない。
「何故、小夜子と結婚したんだ……?」
「な、何故って………」
「同情か?義理か?」
「………違う。俺は小夜子さんが好きだったからだ……」
「……そうだったな……お前は小さい頃から小夜子に憧れていたな……」
「……………」
「一度小夜子の縁談が持ち上がった時のお前の落胆ぶりは今も覚えてい
る……」
「……………」
「ところが、あの騒ぎで縁談は消えた……嬉しかったか?」
「…何が言いたいんだ……?」
「一度諦めたものが、自分のものになるというのはどんな気分だ?」
 十郎が友弘に迫ってきたので、友弘は無意識に後ずさりした。
 彼はよくも悪くも人を圧倒させる雰囲気をもった人物である。
 背も高く体格に恵まれているので、28歳にして、近江家の跡取りの風
格を備え始めていた。それは能楽師としての才能も十二分にもっている
事への自信も加わっている。
 才能、という点では果月も存在能力を見せつけていた。
 母が小鳥遊友弘と結婚した時、能面師の家の子供になるのだから、能
楽師の席から排すべきでは、という意見が分家筋の者から出たが、玄雄
が頑に拒んだのである。
「果月には才能がある。私は自分の孫だから贔屓目で言っているのでは
ない。世阿弥の『継ぐをもって家とす』という言葉が示すように、才能
に血は関係ないのだ。本人の気力と才能をつまらぬ確執から潰すのは間
違っている」
 と言って血筋にこだわる分家の者を黙らせたのだ。
 舞う事が好きだった果月は祖父にとても感謝している。
 玄雄の予言通り、家を出てから心の呪縛がなくなったせいか、果月はめ
きめきと才能を発揮し始め、今では果月を能楽師にするなという者は一人
もいない。
 もっとも、跡取りである十郎には、まだ足元にも及ばないのであるが。
 その十郎が友弘の前に威圧的に立ちはだかったので、果月の目には小柄
で細身の友弘が余計に小さく見えた。
「嬉しかったか?歓喜したか?」
 十郎の手がのびて、友弘の両肩を掴むと自分の方へ引き寄せる。
「どこがよかったんだ、あんなあばずれ……」
 十郎の言葉に友弘の表情が曇った。
「……よせ……」
「どこの馬の骨とも分からない男と子供まで作りやがって……」
「……離せ……帰る……」
 友弘は十郎の腕を払って降りほどいた。普段の彼らしくないその仕種に、
怒っていると分る。
「今日のお前変だぞ。ちょっと頭冷せよ」
 部屋を出ようとした友弘の腕を、十郎は再び掴み、乱暴に自分の方へ引
き寄せた。
「まだ、愛しているのか?!」
「……………!」
「結婚生活はたった二年間。その間小夜子はほとんど寝たきりだった……
そんな夫婦生活で幸せだったのか……?」
「……十郎……?」
「……小夜子と寝たのか……?」
 突然、十郎は友弘の身体を抱き寄せ、彼の唇を吸った。
 友弘は何が起きたのか分らず、しばらく動けなかった。
「な、なにする十郎……」
 やっと我に帰った友弘が十郎を突き飛ばして身体を離した。
 が、次の瞬間、十郎に身体を押され、畳の上に倒された。
 背中をしたたかに打って、友弘は息がつまった。痛みがはしって動きが
止まると、十郎が身体の上にのしかかり、友弘の着物の襟元を大きく開い
てきた。
「……十郎………?」
 友弘の問いに答えず、十郎は腰紐も解いてくる。友弘は正装の紋付袴で
近江家に来たが、この部屋に入ってきた時、羽織りは脱いでいた。
「な、何してる?おい十郎……!」
 友弘はなんとかして十郎を止めようと手を掴んだが、逆に手首を掴みか
えされてしまう。
「…痛………」
 取られた手は畳の上に押さえ付けられた。
「お前が小夜子と結婚した時、俺がどんな気持ちだったか分るか!?」
 十郎が震える声で悲鳴のように叫ぶ。
「……十郎………」
「お前が小夜子を見ていたように、俺もずっとお前を見てきた……なのに
お前はまるで気付かなくて……」
 友弘はその言葉に呆然となりながら、自分の上に覆いかぶさる十郎を見
つめていた。
「……絶対お前は俺のものにならない……そんな事は分ってた……諦めて
た……だが………」
 十郎の瞳に妖しい光を見えて、友弘の背中にぞくりと冷気が走る。
 友弘の着物を脱がせようと十郎は乱暴に裾を引いた。
「よせ!十郎やめろ!」
「……………」
 十郎は友弘の声など聞こえていないかのように、表情も変えずに手を進
めていく。友弘は逃げ出そうと必死にもがくが、体格が違う上に不利な体
勢なので上手く動きがとれないのだ。そのうち、はだけられた着物が肘に
たまり、手があがらなくなる。それに気付いたのか、十郎はいきなり友弘
の身体を後ろに返し、着物ごと手を後ろに回して縛ってしまった。
「なっ!やめろ、解け!」
「断る……」
「十郎………!」
 再び友弘の身体を仰向けにすると、彼の顔を掴んで髪をかきあげる。友
弘はびくりと震え、怯える瞳で十郎を見つめた。こんな表情を自分に向ける
彼は初めてで、十郎の中に今まで押さえていた強烈な想いが突き上げてくる。
「お前を俺のものにする……」
 十郎は友弘に激しく口付け、彼の首筋に歯をたてる。
「いやだ……十郎……」
 掠れた悲鳴を無視し、手を内に入れて触れると、友弘の身体が大きく震
えた。
 果月は微動だにできなかった。驚愕と戦慄の為、ただ、その光景を見つめ
るしかなかった。
 目の前で起きている事がすぐに理解出来ない。
 混乱していた頭がやっと起きている自体を把握する。
『友弘が十郎に凌辱されている………!』
 どうすればいい?出て行って十郎を殴りつけて止めればいいのか?
 だが、今さらそんな事をして友弘は傷つくだろうか?
 誰かに見られていたと知ったら、二人はどういう態度をとるのだ?
 頭の中で大きな渦がぐるぐると回っている気分だった。
 どうすればいい?
 動揺しながらも、その一方で冷静に二人の様子を見ている自分がいた。
 身体が硬直して動かず、見てはいけないと心のどこかが警告するが、その
光景は容赦なく果月の網膜に焼き付いていく……
 十郎が友弘の左足を肩に抱え上げたので、彼のむき出しになった腿が目に
飛び込んでくる。
 その時果月は友弘の足が白くて綺麗な事に初めて気がついた。
 滑らかなその腿は、妖艶な香りを放っているようで果月の目はそこに吸い
寄せられる。
『ああ、友弘って色白かったんだな………』
 果月はぼんやりと思う。
 うす暗い部屋の中でやけにその白い腿が浮かんで見えて、痛々しいが、同
時に艶かしくも感じた。
「あ!…あ…う……」
「……友弘……俺のものになれ……」
 十郎が熱い吐息とともに、友弘の耳に囁きかける。
 こんなに余裕のない十郎を果月は見た事がなかった。
 彼はどんな時も、常に落ち着き払っていて、感情を表にださない冷徹な男
だと思っていた。
 そして、母と自分への態度の理由を初めて知った。
 彼の冷たい視線の意味は、愛する人を手に入れた者に対する嫉妬だったの
だ。
「や、やめ…駄目だ……十郎……あ!……」
 友弘の声に果月は突然我にかえった。
『俺は…なにしてる………?』
 自分を浅ましく感じた果月は引き戸から離れ、納戸の奥に蹲った。
 見ているしか出来ないばかりか、果月は友弘の声に身体が熱くなってしまっ
たのである。
 自分が醜い人間になってしまったようで、情けなくて涙が滲んだ。
 友弘の悲鳴のような声がまた聞こえる。今迄聞いたことのない甘い響きを
もった声だ。
 同時に衣擦れの音、揺さぶられて軋む板の音、十郎の熱い息遣いが聞こえ
る。
 初めて聞く媾合の波に、二人の熱い熱までも伝わってくるようだ。
 その波にまた果月の身体が反応する。
 自分の奥底から滲みでようとしている獣欲を、果月は必死に押さえ付けた。
 耳を塞ぎ、できるだけ聞こえないようにする。
 自分の中で何かが変わっていくのを、嫌悪しながら感じていた。

             *

 どれぐらい時間がたっただろう………
 部屋から物音がしなくなっている事に気付く。
 緊迫した手足をなんとか動かし、果月はそっと隙間から部屋の中を覗いた。
 十郎の姿はなく、着衣の乱れた友弘が、白い背中を向けて横になっている
のが目に映る。
 彼の背中が小刻みに震えている。
 泣いているのだ………
 果月は見ていられなくて、また納戸の奥へ引っ込んだ。
 自分に対する罪悪感で胸が苦しい。
 しばらくすると、身支度を整えているのだろう友弘の動く気配がして、引
き戸の音とともに人気のなくなったのが分った。
 果月は暗闇の中に蹲りながら、長い間動く事が出来なかった。
 これからどうすればいいのかと思うが、頭に浮かんでくるのは友弘との思
い出ばかりだった。
 四年前に母が亡くなり、それからずっと二人で寄り添うように生きてきた。
 友弘の能面師としての評価はかなり高く、この歳で打った面とは思えないと
絶賛されている。しかし、四十年で一人前と言われる世界なので、まだまだ
修行中の身ではあった。
 果月は近江家の能楽師として修行中であるし、小夜子が亡くなってから援助
も断ったようで生活は苦しかった。
 だが、果月の心はいつも満たされていると感じていた。
 友弘は果月が甘えられる唯一の人だった。果月は幼い頃から甘えるという
事ができない境遇であった。本人も誰かに甘えるとか、抱き上げてもらうな
どされた事もなかったし、それで当然だと思っていた。
 だが小夜子が亡くなってしばらくたった日の夜。真夜中、突然目を覚まし
た果月はいいようのない哀しさに襲われた。母を失った不安が一度に溢れ出
てきたのである。
 胸が痛くて堪えきれず、布団から起き上がった。周りを見渡すと、辺りは
暗闇ばかりである。
 その暗闇に一人ぽつんと、取り残されたような、誰もいなくなってしまっ
たような気がして怖くなる。
 泣きそうになった果月は部屋を飛び出し友弘の部屋の前に立った。
 だが、襖を開けるのは躊躇われた。今までそんな行動をとった事がなかっ
たのだ。
 すると気配に気付いたのか、友弘が襖を開けた。
「どうした?」
「…え……あ……その……」
 怖くなったなどと言えず、果月はしどろもどろになる。友弘はそんな果月
の前に屈み込み
「いっしょに寝ようか」
 と言った。
「え?」
「おいで……」
 友弘は果月の肩に手を回し、部屋に入れた。そのまま布団にいっしょに入
ると、果月を柔らかく抱き締めたまま眠ってしまった。
 果月は抱き締めてもらうなど初めてだったので、恥ずかしくてどきどきし
た。
 でも、友弘の暖かさに包まれていると、次第に心が落ち着いて不安が消え
ていったのである。
 友弘の胸に身体を預けて目を閉じると、檜の香りが微かに漂う。
 同時に果月は涙が溢れる自分に驚いた。悲しくもないのに涙がでるのは初
めてだった。
 自分が大切されていると実感する事が、こんなにも幸せな事だと知るの
も………
 苦しい時も、泣きたい時も、嬉しい時も、友弘はいつも自分の側にいて分
かち合ってくれる。
 果月は友弘と暮らし出して、言いたい事を言えて、感情も表にだせるよう
になった。
 全部、友弘は受け入れてくれるからだ。
 能面を打つ仕事場に入ると、檜のいい香りが漂っていて、果月はいつも清々
しい気分になる。
 そして、その清らかな空気の中で面を打つ友弘は透明で、澄んだ存在だ。
 能面は彫ると言わずに打つと言う。
 日本刀と同じく神聖なもので、魂を込める作業とみなされているからである。
 友弘が、ただひたすら面を打つ。
 無心に魂を込めて打っていく。
 果月はその光景を眺めるのが好きだった。見ているだけで心が穏やかになる。
飽きる事無く、友弘が気付くまで、長い間見つめ続けた。気付いた友弘はいつ
も笑顔を返し、何も言わずまた作業を始めるのだった。
 果月はあの夜と同じように、孤独ではない事を実感し、幸せだと思った。
 果月は友弘を父と呼んだ事はない。それよりも、歳の離れた兄や友人といっ
た感情を彼にもっていたからである。
 それで自分達は上手くいっていた。それはずっと変わらず続くものと信じて
いた………
 しかし、この時、果月が友弘に対して持っていた感情は、違うものへと変化
してしまった。
 彼を軽蔑するような感情はまったくなかったが、自分でも知らなかった熱い
想いが沸きだしていた。
 急に果月は、友弘がどこに行ったのか不安になった。
 大急ぎで納戸を飛び出すと、果月は彼の姿を求めて走り出した。
 家の中は、まだ女中が忙しそうに廊下や部屋を行き来している。
 大広間の方では酒宴が始まったようで、にぎやかな声が聞こえる。
 近江家の跡継ぎである十郎はそこにいるだろう。と、なれば大広間の方に友弘
はいない筈と果月は確信した。
 あんな事があった後で、平気な顔をして人前に出て来られる程彼の神経は太
くないのだ。
 果月は人の少ない部屋を探したが、どこにも友弘の姿は見当たらない。
 『もしかして庭かもしれない』
 果月は屋敷の中庭に向った。
 すでに日は落ちていて、家から漏れた明かりが庭を照らしている。その微かな
光を頼りに果月は庭を探し歩いた。
 この庭は有名は庭師の作で、四季のそれぞれの美しさが感じられる見事なもの
だった。
 春は梅、桜、桃、山吹、と色鮮やかな花が庭を飾り、夏は竹の青々しい緑が涼
し気な情緒をかもしだす。
 秋は木々の葉の紅葉が燃えるように美しく、冬はそこかしこに置かれた岩に積
もる雪が、神々しいまでの純白の光を放つのである。
 友弘はこの庭が大好きだと言っていた。
 小さい頃この庭で、十郎と母とかくれんぼをして遊んだと……
 果月も美しいこの庭は好きだった。この家に暮らしていた間、一人になりたい
時はいつもこの庭に来たものである。
 冬の手前となる今の季節は、紅葉が終わったが雪もまだ降りず、庭は茶と濃緑
がほんの少し色彩を添えているセピア調の雰囲気で、眺めていると訳もなく淋し
くなる。
 そのせいか、果月の不安はどんどん膨らむばかりであった。
 もし、このまま友弘に会えなかったら………
 そんな考えが頭をよぎり、果月はぞっとする。
 だがしばらく歩くと、やっと庭の小さな池のほとりで立っている友弘を見つけ
た。
 少し項垂れて、空虚な表情で池の中を覗き込んでいるが、何も映っていないよ
うな瞳だった。うす暗く寒い空気の中、淋しそうに立っている。顔色が悪く見え
るのは気のせいではあるまい。
 今にも消えてしまいそうなほど儚気に感じる………
「……友弘………」
 小さく声をかけたが、彼の身体は大きく震えて顔をあげる。
 怯えの含んだ瞳が合うが、それは一瞬の事で、すぐに安堵した様子に変わった。
「果月か……」
「ああ………」
「……こんな所にいてすまなかった……探したんじゃないか?」
「……そうでもない………」
「………あの……気分が悪いんだ……帰らないか……?」
「……分かった………」
 友弘は立ち上げリ、ゆっくりとぎこちない歩みで果月の側まで来た。
 何も知らなければ、歩き方がおかしいがどうかしたのか、と尋ねるところである。
 果月は無意識に握っていた拳に力を込めた。
 そのまま中庭を抜けて、裏口の小さな勝手口から屋敷を出る。
 帰り道を歩いている間、二人は始終無言であった。
 友弘は先程庭で見た時と同じ表情で、少し足を引きずるようにゆっくり歩いてい
る。
 果月もそれに合わせてゆっくり歩いた。
 歩き方がおかしい事に自分が気付かないのを友弘は怪しまないだろうか?
 果月は何か気をそらす為に喋った方がいいかとも考えたが、すぐに友弘にそんな
余裕がないと気がつく。
 彼はうつろな瞳をして、足には枷でもつけているかのようである。
 瞳には怒りや憎しみでもなく、ただ哀しみだけが漂う。
 そんな表情を浮かべる友弘の顔を、果月はじっと見つめていた………
『……恋重荷………』
 果月はふと『能』の演目の題名を思い出す。
 菊の庭師の老人が垣間見た美しい女御に恋してしまい、それを知った女御と臣下
は老人には到底持てない重さの荷を差し出し、持ち上げる事ができれば御簾を上げ
よう、と言うのである。
 老人は必死に持ち上げようとするが、持ち上がらない。絶望した老人は憤死し、
悪霊となって女御の前に姿を現すのである。
 友弘は無理矢理大きな荷を背負わされた。だが、彼は十郎を恨んでいない。
 どうして憎まないのだろう………
 あんな男……憎んでしまえばいいのに……
 友弘は決して誰も憎まず、嫌いになったりしない……
 『恋重荷』の老人も結局最後は守神になると約束して姿を消す………
『まさか……十郎の事を好きなのでは……』
 そんな考えが思い浮かんだ途端、果月の身体が怒りに似た感情の為熱くなる。
『違う!それならば、先程十郎を受け入れた筈ではないか』
 凌辱の場面が蘇り、果月の胸は痛んだ。何も出来なかった自分を激しくなじる。
『……守りたい………今まで友弘が自分を守ってきてくれたように………今度は俺
が……』
 彼が誰も憎めないというのなら、自分が憎めばいい。彼の悲しみも怒りも分かち
合えるぐらい強くなりたい。
 大切な彼が二度と悲しまないように、自分が守るのだ。
 果月は隣を歩いていた友弘の手を思わず掴んだ。
 彼の冷たい手を果月はたまらなく愛しく感じた。
 友弘は少し驚いた表情で果月を振り返ったが、微笑むとそのまま何も言わずに歩
いた。
 体調の悪い自分を気づかっていると思ったのである。
 果月はそんな彼をずっと見つめ続けていた。
 この日から果月は急速に大人になる。
 そして友弘が彼にとって、完全に義父ではなくなった日でもあった。


        トップへ       2へ