小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………最終話

「…お前が……何かしたのか………」
 果月の震える声に我に返った十郎は視線を向ける。
「十郎……お前……友弘に何か言ったのか……だからいきなりフラ
ンスに行くなんて言ってるのか………!」
「……………」
 十郎は無言で文机の下から木箱を取り出した。
「……………?」
「……友弘の打った面だ………」
 果月は突かれたように顔を上げ、箱の蓋を開けた。
 そこに美しい『小面』の面があった。果月は手にとってそれを見
つめる。
 清楚で愛らしく、深みのある表情をした面で、友弘の作に間違い
ない。
『……別れの品のつもりか………!』
 訳のわからない胸の悪さを覚え、果月の頭に心臓の音が耳鳴りと
なって響いてくる。
「……十郎……お前が決めたのか………」
「………………」
「そうなんだな!お前の差し金だな!」
 混乱した果月は目の前にいる憎い男に憤りのすべてをぶつけよう
としていた。怒りを全身を漲らせ、十郎の襟首を掴もうとする。が、
その手は十郎に払われ、替わりに左頬に彼の拳を思いきりくらう。
 すごい勢いで果月は後ろに倒れた。目の前に星が散り、切れたらし
く血の味が口腔内に広がる。ふらつく頭を振って起き上がろうとした
が、それより先に十郎が襟首を掴んで締め上げてきた。
「……ぐ………」
 すごい力で絞められるが、半ば倒れた体勢なので身体が満足に動か
せない果月はふりほどけずにいた。
「……貴様に分るか………」
 十郎の押し殺した声が聞こえる。
「……俺はずっと友弘を見てきた……貴様が産まれる前からずっと
な……」
「……な…何………」
「決して成就できない想いだと分かっていても、諦められなかった…
…ずっと想い続けてきた………だが、あいつが選んだのは俺じゃな
い………」
 自分ではなかった……
「……その俺の気持ちが貴様に分るか……!」
 十郎は掴んでいる襟首を引き寄せて、果月に顔を突き付ける。彼の
裡から吹き上げた炎が全身を包んでいるようだった。これ程までの情
熱を秘めていたのだ。
 彼の感情の爆発を肌にピリピリ感じて、圧倒された果月は言葉を
失う。
 十郎は突き放すように果月の身体を離し、背を向ける。
 その背中からも立ち上る蒼い炎が見えた。
「……貴様が憎い…心底な………」
「……………」
「あいつの心を手に入れている貴様がな………!」
 こいつは振払っても振払ってもついてくる自分の影………
 自分の過去の過ちが形となった忌々しい存在………
 日ごと自分に似てくる果月が十郎は認めたくない存在だった。
 いつか呑まれそうで………
 しかし、この果月だけが、友弘の求めていたものを与えたのだ。自
分の矜持も情熱も友弘の為ならすべて差し出すだろうこの男だけが。
 自分では与えてやれなかった………
 十郎の激情を感じながら、果月の身体が徐々に冷たくなっていった。
恐怖を、絶望を感じて血の気が引いていく。
 友弘が行ってしまうという事実が、現実のものとして迫ってきたか
らである。
 ……行ってしまう………友弘は行ってしまう………
 この十郎も彼に置いていかれる側の人間なのだ………!
 温和な友弘だが一度決めた事は絶対にまげない意志の強さを持って
いる。その彼が決めたのなら覆すのは容易ではない。それが人の為で
あるならなおさら………
 果月は畳の上に転がった面を拾いあげる。
 いやだ……堪えられない………
 もう、友弘に会えないなど……あの日、自分の腕の中で眠る彼の寝
顔を見たのが最後だなんて……!
「……どこに……いるんだ…………」
 かすれていたが果月はなんとか声をしぼりだした。
「………………」
「どこにいるんだ………!」
 このまま会えないのか?会えないまま行ってしまうのか?絶対に嫌
だ!
「頼む、教えてくれ十郎」
 果月は起き上がり畳に手をついた。恐ろしくて全身が震え、感情の
昂りから瞳が潤んでくる。
「………愛してるんだ………」
 言葉なんかでは言い表せないほど……
「………………」
 知っている………十郎は心の中で応えた。
 友弘に愛された男だという事も………
 十郎は懐から小さな紙を取り出し、果月の傍らに膝をついて目の前
に置いた。
「ここに書いている場所にいる……明日の早朝発つ………」
 果月は縋るように紙切れを掴み、立ち上がった。
「だが、引き止めるな………」
 十郎の言葉に一瞬彼を見つめる。
 しかし、果月は彼の言うとおりにするつもりなどなく、面を持った
まま部屋を飛び出そうとした。
「あいつに縋るな!」
 背中に放たれた十郎の声に、果月は金縛りにあったように身体を
硬直させた。
「……友弘は……人の哀しみや苦しみをすぐに感じる……誰かの苦し
みを取り除く為なら自分を犠牲にしてしまう……俺も父もそんな彼の
優しさに甘え、利用した………」
「………………」
「お前が止めたとしても友弘は決心を変えないだろう……苦しめるだ
けだ……俺も、お前も、今は彼を苦しめる存在なんだ………」
 十郎が友弘を自分のものにする事を諦めたとしても、想いが消えた
訳ではない。友弘はそれを知っているから、去ろうとしている。
 十郎を苦しめると分かっていて、愛している男の元に留まる事など、
彼は自分に許せないのだ。
 果月と同じく十郎も友弘が遠く去っていくなど堪えられない。しか
し、それでも彼のだした結論なら受け入れてやろうと思った。
 友弘に愛されなくても、愛される資格がなても、彼を愛している事
だけは誰にも負けたくなかった。
 では、自分に出来る事はなんだろう?
 自分の為に命を差し出そうとした彼にしてやれる事は………
 彼のすべてを受け入れてやる事だった………
 友弘の言葉も想いも、出した結論も行動も、黙って受け入れよう……
 俺という重荷から、解放してやろう………
「……去ると決めたのなら……思うとおりにさせてやれ……」
「………………」
 果月は全身を小刻みに震わせて聞いていたが、堪えられなくなって
部屋を飛び出す。稽古場を抜け、近江の家を走りでるが、果月の足は
止まらなかった。
 行き先など考えてもいない。ただじっとなどしていられなかった。
裡から突き上げてくる熱い想いを持て余してひたすら走る。
『あいつに縋るな』
 十郎の痛い言葉が頭に響く。
 俺は友弘に縋って引き止めようとしている。しかし、それが彼を苦
しめるのか?
『でも、堪えられないんだ!』
 友弘が自分の前からいなくなってしまって、その後自分はどうすれ
ばいい?一人で残される自分を想像すると怖くてたまらない……
 母を失った時の孤独を思い出して果月は身震いした。
 友弘がいたから堪えられた。自分が一人ではないと感じていたから。
いつも彼が側にいて微笑んでいてくれたから……
 その彼が去っていく?自分を置いていってしまう……どうしてだ、
どうして俺を置いていってしまうんだ!あんな簡単な手紙だけを残し
て……
『幸せになって欲しい』
 どうやって幸せになれというんだ……あなたがいないのに……
『俺はどうすればいい………?』
 この身も焦がすような想いを一体どこにぶつければいいのだ。自分
自身をも焼き付くす程のこの想いを……
 外はすでに日が暮れていて、辺りは暗闇に包まれ始める。
 果月の心も暗い闇に覆われ、その中をあてもなく彷徨い歩き続けて
いた。

     *

 早朝、友弘は身支度を整え、マンションを出た。
 外には呼んでいたタクシーが止まっている。乗り込む前に、友弘は
辺りを見渡し、早朝の清々しい空気を吸い込んだ。
 マンションの外観も、辺りの景色を眺めるのもこれが初めてである。
今まではバルコニーの狭い範囲内から見るだけだったから、辺りがこ
んなに殺風景だと思わなかった。
 マンションの側に川が流れ、土手沿いに遊歩道があり、犬の散歩に
歩いている人が一人いる。少し離れた所に小高い丘があって、公園で
もあるような雰囲気だが他には何も無い。日が高くなればたくさんの
人が行き交うかもしれないが、今は休日の早朝という事もあって人気
はほとんどなかった。
 友弘は深呼吸をしてタクシーに乗り込んだ。
 出来るだけ何も考えないように努めて、空港に行くように支持する。
 車が動きだして、友弘はふっと丘の方へ目を向けた。途端に、息が
止まる。
 そこに、果月がいた………
 練習着の袴姿で、うちひしがれて立っていた……
 淡い朝日の中、まだ白い空の下、遠く小さな影だったが間違うこと
なく彼だった。
 顔が見えなくても自分が打った面をかけているのが分る。
 哀しみを現わすクモリの表情をして、彼を包む空気さえも、泣いて
いた……
 せり上がってくる苦しさを覚えて、友弘は口元に手をあてた。指の
間から
微かに嗚咽が洩れる。
「どうかしましたか、お客さん?」
「……いえ、なんでもありません……」
 靴紐を結ぶ振りをして前屈みになり、運転手の視線から逃れた。
『どうして離れなければならないんだろう…こんなに、想っているの
に…』
 何度も同じ考えを頭の中で繰り返す。
 足元にぽたぽたと涙が落ち、車を飛び出して彼の元に駆け付けたい
衝動を必死に押さえ込む。
『でも駄目だ……俺は果月をずっと想っていたい……』
 その為には自分はここにいてはいけないのだ。
 自分がいれば、十郎も果月も、玄雄も苦しめるだろう。そして自分
はそれに堪えられない。
 誰かを不幸にした記憶が重すぎて………
 いつか果月を愛した事さえ後悔する日がくるかもしれない……
 友弘はもっと強くなりたかった。
 すっと果月を想い続けていられるほど……誰も傷つけないくらい強
く……
 そうすれば、果月が自分を憎んでも、恨んでも、自分はきっと愛し
続けていられる……
 それが自分の望みである、自分の決めた道だった……
 友弘は涙を拭くと、顔を上げて前を見据えた。
 もう、果月の姿は視界から消えたが、瞼の裏には彼の姿が焼き付い
ていた。
 いつまでも忘れない光景となって………

         *

 ―――五年後―――
 弥生の日、和歌山県道成寺の敷地内の庭で、特設の能舞台が組まれ
ていた。
 建立三百年の祭礼の奉能がとり行なわれる為だ。演目はもちろん、
この寺所縁の『道成寺』である。
 『道成寺』は怨霊物の代表曲で、劇的な場面が次々と続くので人気
の高い演目だ。
 舞台の中央に鐘が釣り下がっているところを何かで見た人も多いだ
ろう。他の演目にはない異様な緊張感、不安定感が漂う曲である。
 今回の『道成寺』は祭礼という事と、若干二十五歳の小鳥遊果月が
シテを演じる事で注目され、野外の見所には関係者も多く訪れて満席
だった。
「果月、十郎先生が呼んでるぜ」
 設えられた鏡の間で身支度を整えていた果月に武が声をかける。果

は装束を着ていたが、面はまだかけていなかった。
「分った」
「お前大丈夫か?」
「何が?」
 『道成寺』は能楽師にとっても特別な曲なのだ。『乱拍子』『鐘入
り』といった難度の高い技が要求されるので、『道成寺』を拓く(初
めて演じる)のは一人前の能楽師になったという証でもある。
「なんでもない。今日の舞台、頑張れよ」
「ありがとう」
 すぐさま果月は十郎のいる控え室に向う。
 もうすぐ本番が始まるというのにあがっている様子もなく、むしろ
清々しい表情をしている果月を見て武は今日の舞台の成功を確信した。
「果月はどこだ?さっきまでここにいた筈だが」
 ちょうど入れ違いに父親の須藤がやって来る。
「ああ、十郎先生に呼ばれて控え室の方に行ったよ。なんかアドバイス
でももらうんじゃない?」
「そうか……」
「しかし、なんだね〜あの二人の関係も変わったね。五年ぐらい前ま
では険悪ムードだったのに、今じゃ子弟関係だもんな」
「本当に良かったよ。玄雄先生は高齢だし、ずっと果月に教えている
訳にもいかないからな」
「はっきり変わったなって思ったの、二年ぐらい前かな。ちょうど十
郎先生のお嬢さんが誕生した頃」
「やはり親になると違うだろう。子を愛する気持ちが分るとな」
「へ〜そういうもんか〜」
 いつ頃からだろう、武は果月が急に大人になっていくのを感じてい
た。『舞』がどんどん研ぎすまされたものとなり、同時に性格も穏や
かになっていった。
 口数は少ないが、感情の起伏は激しい方だった。それが、柔らかく、
人を包みこむような空気を纏うようになったのである。
 懐が大きくなった。
 そう感じる。
『あの柔らかさは小鳥遊さんを思い出すな……』
「そういや、小鳥遊さん今日も来ないね。せっかく果月の大切な舞台
なのに」
「フランスからじゃ遠いんだろ」
「それにしてもな〜冷たいんじゃないの。あっちにいってから一回も
帰ってきてないみたいだし」
「いろいろ事情があるんだろ」
「でも果月の方は養子の話も断って、あの家で待ってるのに」
「あれは十郎先生が断ったみたいだぞ。もちろん果月の意志もあるが」
「え、そうなの?」
「ああ、果月を養子にだせば小鳥遊さんが一人になってしまうだろ。
あの人は他に身寄りもないし、可哀想だって言ってな」
 果月が養子の話をきっぱり断ったのは、友弘と親子でもいい、繋がり
を残しておきたかったのである。十郎もそれさえもなくなってしまうと、
友弘の心の糸が切れてしまうと考え、玄雄や周りを説得し、話を白紙
にした。
「そうだったのか〜」
「さ、武、お前も今日の舞台はしっかり見ておけよ」
「言われなくても分ってるって。果月の晴れの舞台だもんな……」
 どんどん先を行く友人の姿に、俺もしっかりしなくては、と気をひ
きしめる武であった。
「果月です。失礼いたします」
 寺に設けられた控え室の前で果月が膝を折って声をかける。入れ、
と返事がしたので障子を開けて中に入ると、部屋は座布団の上に正座
する十郎だけだった。果月も向いに腰を降ろし、少し頭をさげて挨拶
する。
「お呼びとお伺いしましたが」
「……今さら言うまでもないが『道成寺』は能楽師が一人前になった
事を披露する大切な演目だ。失敗は許されん」
「はい……」
「これよりお前は一人立ちし、舞台のすべての責任を背負う事になる
が、覚悟はできているか?」
「承知しております………」
「今日の前シテの面はこれを使え」
 十郎は蓋の開いた木箱を差し出し、中には『曲見(しゃくみ)』の
面が納めてあった。果月は一目でそれは友弘の作だと分った。
「……彼の面は縁起がいい………」
 信じられぬ思いから果月は彼の顔を凝視する。
「……お前は昔「愛する人も為なら千本の刀を打ってみせる」と言っ
たな……」
「……はい………」
「では、打ってみせろ。今日の舞台を一本目とし、千本の刀を見事打
ちあげればお前を認めてやろう……」
 果月は十郎の言葉に目を見開いた。
 お前を認めてやろう………
 それは、友弘にふさわしい男だと、認めてくれるという事か……
「どうした?自信がないのか?」
 果月は手をついて頭を下げる。
「……ありがたく……お受けいたします……」
 胸が熱い想いで溢れ、苦しくなるが決して不快ではなかった。
 果月は顔を上げて、自分の前に座る最高の能楽師の姿をじっと見つ
めた。
 果月はずっとこの男を憎んでいるが、同じくらい尊敬の念も抱いて
いる。
 友弘が去ってから、果月はすべての稽古を近江家で受け始めた。友
弘から何か連絡があった時、十郎に握り潰されないように見張る為、
という言い訳を自分にしていたが、本当は同じ苦しみを分つ彼の側に
いたかったのだ。憎くてたまらなかったが、自分の味わっている苦し
みを知っているのは彼だけだったから。
 またも果月は十郎を憎む事で自分を支えようとした。そして十郎の
舞を見れば見る程彼の凄さを実感したのである。
 舞う彼の深い想いにいつも圧倒された。同じ『狂い』を舞う彼の痛
い想いが伝わり、果月は涙を流さず泣いた。そしてなんと自分は度量
の小さい男なのだと恥ずかしくなった。
 感情を蓄積し、心情を放つ………
 十郎は激しい情熱も、苦しみも、哀しみも胸の奥深くに秘め、美し
い華として舞台に解き放っていく。
 その美しさ、緊迫感の中で放たれる薫る事のない香りに人々は酔い
しれる……
 今だに『井筒』を舞うのは彼だけである。それは月華流の能楽師だ
けでなく、すべての能舞台においてだ。
 頂点に立つ者への遠慮ではなく、十郎への賛辞として皆は舞わない
のだ。
 彼に匹敵する『井筒』は、後百年たたなければでないだろう、と
まで言われている。
『この男には一生追いつけないかもしれない……』
 彼のいる地点に到達しても、その時十郎はさらに高みに登っている
であろうから。
 いつまでも理想であり続ける男だった。まるで偉大な父親のよう
に……
 果月はそんな風に感じる。
「まがいものが一本でもあれば承知せんぞ……」
「……はい………」
 男としても適わないかもしれない。自分には絶対無理だ。
 他の男に友弘を認めるチャンスを与えるなど………
「もう行け。心を濁すな……」
「……はい……失礼いたします……」
 果月が去った後、玄雄が部屋に入ってきた。
「今いたのは果月か?」
「はい」
「何か話したのか?」
「今日の舞台への心構えを確かめておりました」
「……例の話ではないのか?」
「果月を私の養子にする話ですか?あれは私は承諾しておりません
よ」
「しかし、お前は今のところ娘しか誕生しておらんし、跡継ぎが…」
「まだ娘しか出来ないと決まった訳ではありません。仮に娘だけとし
ても婿をとるという方法もありますし、弟子達の中から近江家の能楽
師として相応しい者に継がせるという手もありますよ」
「……しかし……な……」
「お父さん、才能に血は関係ないと言ったあなたが一番血に捕われて
いるのではないですか?」
「何?」
「果月があなたが愛した人の血を受けついでいるから………」
 小夜子の母親の血を………
「………………」
「あれは翼を持っています…いつか大きく羽ばたく時がくる……」
 そうだ、いつか果月は雄々しい翼を広げて飛ぶだろう……彼のとこ
ろに………
 もちろん、そう簡単に許すつもりはない。
 確実に果月が友弘を包める器があるかどうか確かめてからだ。
 しかし、十郎はその日は必ずくると、幾許かの寂寥感をともないな
がらも確信していた。
「……十郎………」
「果月は獅子になれぬ男です……」
「分った……もうこの話はやめよう………」
「………ええ………」
 十郎はまだ友弘を愛していたが、自分の心が決まった今、乱れる事
はない。彼への想いは昇華し、自分の持つ一番美しい華となって心の
奥底に潜んでいる……醜い欲望に変わる事はもうなかった……
 二年前、娘が産まれた時、その小さな身体を抱いた時、十郎の心は
確実に決まったのである。
 自分は愛している人でなく、愛してくれる人を、必要としてくれる
人を選んだのだと。
 父親というもの、我が子という存在に対する愛しい想いもその時生
まれた。
 人の親となったからには、育て、慈しみ、見守っていく義務がある
のだ。
 他に行く道もあったろうが、これが自分が決めた道だ………
「行きましょう、もうすぐ始まります」
「うむ」
 十郎は立ち上がり舞台へ向った。息子が一人前の能楽師となる姿を
見届ける為に。

「お、果月急げ、囃子方さんは揃っているぞ」
 武の言うとおり、鏡の間にはもう囃子方が全員揃っていて、「お調
べ」をするところであった。「お調べ」は開演の合図である。
 果月は会釈をして挨拶すると、鏡の前に座った。
「十郎先生なんだって?」
「………面を下さった……」
「そうか良かったな……じゃあな……頑張れよ」
「ああ………」
 今日の武は揚幕を上げ下げする役なので、声をかけると急いで揚幕
の場所に向った。
 果月は深呼吸を何回か繰り返し、友弘の面をかけた。
 心が澄んでいく………
 「お調べ」が済んで、囃子方と地謡が舞台へ出ていく。
 果月も出番に備え、揚幕の前に移動する。
 奉能の『道成寺』という事で囃子方、地謡も気合いが入っているの
だろう音で分り、果月も気持ちが高揚した。
 『道成寺』は安鎮・清姫の話で一般にもよく知られ、後の歌舞伎や
浄瑠璃にも多大な影響を与えている。
 物語は、道成寺で鐘が新調され、供養が行なわれようとした時、一人
の白拍子(男装の舞女)がやってきて鐘を見て欲しいと頼んでくるとこ
ろから始まる。舞を奉納する事を条件に境内に入れ、白拍子は舞うが、
鐘を落として中に入ってしまう。慌てた能力が住職に知らせると「昔、
山伏に裏切られた女が蛇体となって鐘に巻き付き、鐘の中に隠れた山伏
を焼き殺したのだが、きっと白拍子はその女の怨霊だろう」と言った。
すると鐘があがって蛇体の鬼女が現れる。鬼女は僧侶に襲いかかるが、
祈祷の力に負けて日高川に消えていく、というものである。
 シテの最大の見せ場は『乱拍子』『急々ノ舞』『鐘入』である。『乱
拍子』は蛇が石段を登る動作を表現したものといわれ、不安定な状態を
長時間維持し、極度の緊張感を強いられる為、シテにとって一番の山場
となる。
 次に『静』を破る『動』となる『急々ノ舞』。これは狂気を感じさせ
る舞で切迫した心理状態を感じさせるものである。そして『鐘入』。
 鐘に駆け寄り、落下地点に合わせて跳び上がり、その瞬間鐘が落ち
てくるのだ。
 非常に危険な演技で、重い鐘で頭や手を打って怪我をしたり、最悪死
に至る危険性もある。
 『鐘入』した後も、狭い鐘の中でシテは鬼女の姿になる為に着替えを
する。鐘が持ち上がった時は『般若』の面に鱗箔の装束を纏い、打杖を
持っていなければならない。この装束替えは、真っ暗の中での作業で、
慣れた熟練者でも難しい。
 まさに『道成寺』が「一人前として披露する曲」といわれる所以で
ある。
 そんな難曲を今から演じる果月だが、武の思った通り落ち着いていた。
 気持ちのいい春日和、風が揺らぎ、澄み切った青空が天にあるのを感
じる。
 適度の緊張感の中、心が広がっていく………
『道成寺』で自分が演じるのは、裏切られた悲しみと愛情の深さ故に、
愛する人を殺してしまう女の怨霊。
 再び「道成寺」に現れるのは、まだ男を愛しているからだろう。後悔
や哀しみ、男を慕う気持ちが渦巻いて怨霊となって現れたのだ。
 果月は激情が渦巻く心の乱れを知っていた。
 友弘が去った朝、会わなかったのは、その時の自分ができる彼への精
一杯の事だと思ったからだ。
 いつも欲しているばかりだった自分ができる唯一の事だと………
 しかし苦しみが消えた訳ではなく、彼を憎んだり、恨んだりもした。
だが、今も愛している……
 彼を愛さなければ生まれなかっただろう数々の想い………
 嫉妬も、憎しみも、欲望も、愛情も、歓喜も、絶望も、醜い想いも
美しい想いも……
 それは言葉にできない想いである。
 だから果月は舞う。そのすべて胸に秘めて………
 その時、果月の足元にどこからともなく小鳥が飛んで来て止まった。
 野外ならではの出来事に果月は面の内で微笑む。
 すぐに小鳥は空に飛び立った。
『俺も、飛べるかな………』
 友弘のところまで………
 いや、飛んでみせる………
 彼をもっとも愛する男に認めてもらい、彼のすべて受け止められる
強い男になり、正々堂々と友弘を迎えにいくのだ。
 果月は二人で暮した家で今も待っている。
 友弘が少しはにかんだ笑顔で玄関から入ってくるのを………
 彼の作業場が再び清涼な檜の香りで満たされるのを………
 決して諦めず、また慌てる事もない。
 心を乱す必要も、もうないのだ………友弘も自分と同じように、
いつまでも自分を愛している筈だから………
 揚幕が上がり、果月は橋掛かりへ足を運ぶ。
 そこは鬼も幽霊も、神をも存在する場。
 見えぬ華が咲き誇り散る、香りのない香りが満ちる幽玄の世界を果月は
舞い上がった。
 熱い心を解き放ち………


 

        戻る       トップへ