相葉影嗣(あいばかげつぐ) …二十歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだけんじろう) …三十五歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いいせいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりやしんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷九郎兵衛(かりやくろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人

   虎落笛(もがりぶえ) 

 梅の香りがする………
 相葉影嗣が漂うその香りの源を探して頭を巡らせると、橋の近くに梅の樹が立っているのを見つけた。その樹には小さなつぼみがついている。まだ空気は冷たいが、確実に春が近付いているようだ、と思い、顔がほころぶ。
「相葉じゃないか、どこに行くんだ?」
 道の反対側から道場仲間の堀田と橋本が駆け寄ってくる。
「福田さんの所に行くところだ。お前らは?」
「藩校の帰りさ。今日は稽古が休みだから、こんな時ぐらい行っておかないと」
 藩校とは家中の子弟が通う学問所である。十歳から行き始めるが、終日授業に変わる十五、六歳あたりから真面目に通う者と、武道の道にはまり、そのまま勉学から遠ざかる者とに別れてしまう。橋本と堀田はあきらかに後者であった。
「福田さんの所って事は弓道か?」
「ああ」
「お前剣で免許までとった腕があるんだから、弓の練習なんかしなくていいんじゃないのか?」
「…全然上手くならなくてな」
「安心したよ。弓まで達しゃになられちゃかなわん」
 堀田がおどけた口調で話したので、三人は軽い笑い声をあげた。
「それより、先生が話された模範試合だけどさ、いつやると思う?」
 橋本が二人に興奮気味に話し掛ける。先日、三人の通う刈谷道場で、近々道場内で模範試合を行なうと師の伊井正太郎が門弟達に通達したのである。
「う〜ん、春に行なうって言ってらしたけど、確実な日にちは教えて下さらなかったな」
「日が近くなったら教えて下さるだろう。俺達はいつものように腕を磨いておけばいいさ」
「そりゃ相葉ぐらいの腕前ならいつ行なわれても大丈夫だろうけど」
「相葉はどれぐらい勝ち抜く自信ある?」
「自信って…俺は俺の剣で戦うだけだ」
「まあ、最後まで残るのはお前か曾根崎か牧村だろう。なんといっても刈谷道場の三羽烏だからな」
 相葉は五百石の高禄、相葉家の次男で部屋住みだが、幼少の頃から剣術の誉れ高く、二年前のわずか十八歳で免許をとる程の剣才である。堀田や橋本らと違って藩校にも真面目に通い、終日課業を終えた。見映えもよく、部屋住みだろうがどこにでも婿や養子の口はあるだろうと、常々噂されている。
 曾根崎、牧村は嫡男で跡取りだが、剣の腕は両者とも相葉と同じぐらいの力量があり、刈谷道場の中で三人はいつもしのぎを削っていた。
「勝負はやってみらければ分からないぞ。思わぬ伏兵が現れる可能性もあるし」
「ほほ〜誰かな?」
「堀田、お前かもしれんぞ」
「試してみるか?」
 三人はまた声を出して笑った。
「最後に残ったものは先生と手合わせするのかな?」
「だといいな。先生の雁砕流の剣は滅多に見れないから」
 堀田と橋本は熱っぽい目つきで空を仰いだ。無理もない。二人は伊井正太郎の剣と人柄に惹かれて刈谷道場に入門したのだから。
 伊井正太郎は少年の頃から諸国を修行して回り、雁砕流の奥義をきわめて帰国した剣豪である。巨漢なその体格と同じく剛気な性格で何事にも一本気な人物だった。
 彼は六年前、道場主である刈谷新左ェ門から留守をまかされ、以来、同じく師範代を務める福田謙次郎と共に道場を守ってきた。本来なら自分の道場を開くべき力量があるにも関わらずである。人情家で初心者への教え方も手厚い、そんな彼を慕って入門してくる門弟は後をたたなかった。
 相葉影嗣も別の道場に通っていたが、十四歳の時、いきなり刈谷道場の門を叩いたので、そんな中の一人であろうと皆は思っていた。しかし、事実は違った。
「相葉は伊井先生と立合った事あるんだろ?いいな〜」
「え!あるのか!いつ!」
堀田が目を輝かせて聞いてくる。彼は二年前に入門したばかりなのだ。
「免許をいただいた時だ」
「そうか〜いいな〜どうだった!?」
「力強くて、圧倒的な気を放っていた。素晴らしい剣だった………」
「だろうな……よし、俺もいつか先生と立合ってみせるぞ!」
「おし、まずは模範試合目指して頑張ろうぜ!」
「ああ、せめてお前には負けないぞ橋本」
「それはこっちがいう言葉だ」
 張り切る二人を見ながら、相葉は何も言えなかった。
 彼は伊井正太郎ではなく、福田謙次郎の剣に惹かれて入門したからである。
 共に師範代を務めている福田は、刈谷新左ェ門の祖父、九郎兵衛の教え子であった。十八歳の頃から刈谷家に住み、道場で師範代を務めてもう十七年になる。住み始めた時、すでに免許皆伝を受けていたとの事だから、かなりの遣い手の筈なのだ。しかし、彼があまりに穏やかなので門弟達は本気にしていなかった。主に初心者相手で、上級者への稽古はつけていないし、彼の水月の剣を誰も見た事がない。なにより刈谷新左ェ門は共に門弟らを教えていた福田ではなく、伊井に道場をまかせた、とい理由もある。
 小柄で細身の福田は剣士というより、学者的な雰囲気が漂っていた。髷を結わず総髪にしている彼を、門弟達は師というより先輩として接している。師匠として崇めている伊井と違い、福田は優しくて近寄りやすく、親しみを感じるのだ。
 相葉は福田の水月の剣を一度だけ見た事があった。
 六年前の刈谷新左ェ門との決闘の時である。あれ程美しい剣を見たのは初めてだった。どんな剣豪達をも習得し得ない、彼だからこそもちえるものなのだろう。それにどれだけ自分が惹かれたか。だからこそ刈谷道場に入門したのである。水月の剣に、福田の近くにいる為に………
 そして、いつだったのだろう、福田自身に惹かれている自分に気がついたのは………
「じゃあな、俺はこっちの道だから」
「ああ、明日道場で」
 相葉は十字路で二人と別れた。相葉が遠くに行った時、堀田が橋本に囁いた。
「さっき、相葉に会った時さ、染河町の遊女屋に行くところかと思ったぜ」
「え、遊女屋?相葉がか?」
「ああ、誰かと密会でもするじゃないかと…」
「まさか〜あいつに限ってそれはないだろう。お堅い奴なのに」
「う〜んでもな、最近相葉らしい男が通っているのを見たって奴がいてさ」
「誰だよそれ?」
「そ、それはまあ〜言う訳にはいかんけどさ……」
「ふう〜ん」
 橋本がちろりと堀田を見つめる。
「と、ともかくな〜心配してんだよ俺は。相葉の兄上が近々祝言をあげるだろ?相手は七百石のお姫様らしいから変な噂が広まらなければいいのに、って思ってさ」
「う〜ん、今まで女性関係には淡白な方だったのに。あいつ真面目でいい奴だけど融通きかないとこあるからな〜本当ならのめりこまなければいいが……」
「あの武道一筋の相葉が夢中になるなんて、そんなにいい女なのかな?」
「どうだろう……」
 二人は相葉を心配したが、その彼が通っている女とはどんな女かと、想像してみるのだった。

        *

 ほう、梅の香りか………
 庭の手入れをしていた福田謙二郎は、顔を上げた。庭にある梅の樹につぼみがついているのを見つけ微笑む。春が近付いているのだな、と思った。
『これから色とりどりの華が咲き出すな………』
 福田は嬉しくなった。彼はこの庭が大好きで、九郎兵衛の弟子だった頃から手入れをさせてもらっていた。雪に白く染められる姿も美しいが、やはり鮮やかになる季節は楽しいものである。
 その時、門から入って来た相葉が後ろ姿の福田を見つけ、声をかけようとした。が、福田の肩に止まっている小鳥を見て、言葉を飲み込んでしまう。
 まただ………
 と、相葉は思った。
 そこに、美しい空間が広がっている。小さいけれど、四季の木々と草花の植えられた見事な庭と、同じ空気をもった存在が立っている。それは透明で静謐なもので、異物である自分が入る隙間は一切ない。
 以前も同じような光景を見た時がある。夏の終りに、福田が一匹の蟋蟀をその手の中に捕らえた時だった。
 月明かりだけの森の中で響く、虫達の幻想的な音楽の中。福田の手からも美しい音色がこぼれる。まるで、一つの世界がそこに出来ていた。自分以外のすべてによって作り上げられる美しい空間。何が足されても、何が引かれてもいけないものが………
 しかし、相葉は自分がその空間を壊すと分っていて声をかけた。
「福田さん」
 声に福田が顔を見上げると、肩に止まっていた小鳥が飛び立つ。
「ああ、影嗣か。すまぬ、もうそんな時間になっていたか」
「いえ、私が早く来てしまったのです。何かご用があるのでしたらお待ち申します」
「いや、大丈夫だ。では的場に参ろうか」
 福田はいつもと同じ柔らかな微笑みを浮かべながら、片付け始めた。
 この住まいは刈谷九郎兵衛の隠居所であった。息子の勝之進が祝言をあげた時、彼は海の近くに建てられたここに移り住んだそうである。もう引退した筈だったが、六十五歳になった時、福田と出会い彼を弟子にした。九郎兵衛の福田に対する肩入れは並々ならぬものがあり、ここに住まわせながら修行をさせ、亡くなった後も彼にこの家を譲ったのである。隠居したとはいえ、武道の鍛練をしたかったらしく、奥に小さな道場と的場があった。ここで相葉は二年程前から福田に弓道の稽古をつけてもらっているのだが、剣と違いなかなか上達していない。
 的射場に入ると、福田がまず弓を構え、的に目掛けて矢を放った。側で相葉はその様子を正座して見つめている。矢は的のまん中を見事に射た。相葉は止まっていた息を静かに吐き出す。海の近くとはいっても高台にあり、多少離れているので、潮の香りはほとんどしない。隣に大きな竹林があるのも原因だろう。
 ここは福田の気が満ちている場だった。澄んだそれは感じているだけで心地よいものである。
「影嗣、射てみよ」
「はい」
 立ち上がり同じように矢を放つ。矢はまん中からわずかにそれたが、的に当たった。
「うん、その調子だ」
「はい」
 相葉の弓はいつも最初はいいが、長く続けると調子が狂ってきてしまう。同じ感覚を長時間保つ事ができないのである。剣のように爆発的な力を放出するのではなく、静かに回りの空気と溶け合い無心に放つ。それが自然にできている福田を相葉は尊敬していた。
 尊敬が愛情に変わったのはいつの頃だったのだろう………
「暗くなってきたな。危ないから今日はこれぐらいにしよう」
 日が沈み始め、辺りはうす暗くなっていた。
「やはり、あまり成果はありませんね………」
 相葉がため息まじりにぼつりと呟く。
「そうでもないぞ。初めの頃にくらべると格段の進歩だ。それに毎日射ている訳ではないから勘を取り戻すのにも時間がかかってしまうだろう。ところで、この後なにか用事はあるか?」
「何もありませんが」
「なら夕食をいっしょに食べよう。お重さんが影嗣がくるというので馳走を作ってくれた」
「それはありがとうございます」
「うん、お重さんにも直接言ってやってくれ」
 お重さんとはこの家で賄を作っている通いのお婆さんである。九郎兵衛の代からいるので結構な年なのだが、腰もさほど曲がっておらず、話す声もでかいという元気なお婆さんだ。が、やはり年には逆らえず、つい先日、腰を痛めてしばらく寝たきりになってしまっていた。福田はお重さんを担いで医者に通っていたが、武士が町民の使用人に対してそこまでする者は滅多にいない。
「いらっしゃいまし、相葉様」
 台所からお重婆さんが挨拶をする。
「ありがとうございます。元気になられてなによりです」
「なんとか、福田様のおかげで元気になりました」
「おおげさだよ。それよりもう帰った方がいいのではないか。暗くなってからでは足元が危ないだろう」
 険しい道などはないが、町のはずれにある為、夜は人通りが少ないのだ。足をくじいたりすれば朝までそこで、という事になりかねない。
「では、今すぐお運びいたします」
「運ぶぐらい自分でやる。早く帰った方がいい。慌てないようにね」
「そうですか。ではお言葉に甘えまして失礼させていただきます。失礼いたします」
「ああ、ありがとうお重さん」
 お重はそのまま帰り支度を始めて帰っていった。
「影嗣は居間で待っていてくれ。すぐに持っていくから」
「私も手伝います」
「そうか、ありがとう」
 男子厨房に近よらず、で育った相葉だったが、ここにいる時は何をしようと気にならなかった。二人は食事をし、酒を飲みながら楽しく話しだした。
「今日、梅の香りが庭でしてな。つぼみがついているのを見つけたよ」
「え」
「もう、春が近いのだと思った」
 相葉は福田が同じ日に同じ事を考えていたと知って嬉しくなる。
「どうした影嗣?楽しそうだな」
「あなたと話しているからです」
「随分嬉しい事を言ってくれるな。もう少し暖かくなったら、また釣りにでも行くか?」
「そうですね。模範試合が終わったら、ではどうですか?」
「ああ、それがいい。潜って貝を採ってもいいな」
「福田さんは潜るのが上手いですからね。よくあんなに息を止めていられますよ」
 深い海に潜る彼に、相葉はいつも手が届かなかった。
 まるで魚のように綺麗に泳ぐので、その美しさに恐怖を感じる時がある。
「慣れればたいしたものではない。誰でも出来るさ。海女さんなんかもっとすごい」
「そういえば、福田さんは伊勢の方の出身でしたね」
「……ああ」
 福田は少し暗い表情になった。彼は国を出奔してきたらしいのだが、なぜ家を捨てたのかその理由は知らない。もちろん犯罪など彼が犯す訳はないし、どうも自らの意志でそうしたものらしかった。
 尋ねようとすると、いつも福田が辛そうにするので、相葉は聞けなかった。
「さあ、影嗣」
 福田が相葉に酒をついでやると、相葉は一気に飲みほした。ふいに福田が笑いを浮かべる。
「?何か」
「いや、影嗣も酒をおいしく飲めるようになったんだな、と思って…初めていっしょに飲んだ時は、むせながらまずそうに飲んでいたのに」
「それは!大分昔の話でしょうに。まだ子供だったので酒の味が分からなかっただけです。今は違います」
「ああ、そうだな、すまん。ところで影嗣は幾つになった?」
「二十歳ですが」
「そうか…刈谷道場に入門してもう六年になるのだな……」
 あなたと出会ってからも………
 と、相葉は心の中で呟いた。
「そういえば兄上が祝言をあげると聞いたが」
「四月の予定です」
「もうすぐだな。家ではいろいろと忙しいだろう」
「母は毎日忙しそうにしておりますが、私にはあまり関係ありませんから」
「そうか?」
「もともと、話も滅多にしない兄弟ですので」
「……年も離れているしな。確か七つ離れていたか?」
「八つです」
 相葉には八つ年の離れた兄がいる。両親はこの兄を溺愛していた。政略結婚のような形で結ばれた両親だったので、二人の間に愛情はほとんどなかった。だから嫡男が誕生した時は、家を継続させる務めは果たせたと、ほっとしただろう。
 ところが八年後に影嗣が産まれた。ふとした気紛れから一夜を共にしたらしく、その証が影嗣だったのである。両親は影嗣に関心を寄せず、乳母にまかせきりだった。子供の頃は両親に会う時は旦那様、奥様といった感じがしてとても緊張した。だが、自由に育つ事ができたという点ではありがたく思っている。
 そんなどうでもいい次男に父が関心を寄せだしたのは、剣の才能が現れ始めたからだ。自慢できる息子としてではなく、使える駒が出来た、という関心だろうとすぐ分った。
 今さら親面するな、と相葉は憤慨した。藩校を真面目に通ったり、剣に打ち込んだのは両親を喜ばせる為ではない。自分が好きでやっているからであり、自分が怠惰をするのが嫌だったからである。
 兄が片付けば、婿先についてあれこれ言い始めるだろう。それを思うと相葉は気が重くなった。
「兄上が嫁をとれば、次は影嗣を婿にくれという話が、たくさん舞い込んでくるのではないか?」
「……興味はありません」
「影嗣ならどこにでも入り口があるだろうに。選ぶのに苦労するだろうな」
「私は婿になど行きたくありません」
「?扶持(家臣としてかかえる事)をもらいたいのか?」
「……………」
「……もしかして…その…好いた女子でもいるのか」
 福田の言いにくそうな口調に相葉はピンときた。
 さては、家の者が来たな………
「なんと言われました?」
「え?」
「家の使いの者が来たのですね、私から何か聞き出せと言われましたか?」
「…い、いやそういう訳では……」
「遊女屋通いは止めるように説得してくれと頼まれたのですか?」
「……………」
 図星か………
 お人好しの福田は、頭を下げられると断れない性格なのだ。
 相葉が福田を慕っているというのは、家の者なら誰でも知っている事実である。おそらく、そんな彼の説得なら、頑固な相葉も耳を貸すかもしれないとふんだのだろう。もっとも、慕っているというその気持ちが、恋慕の情であるとは誰も思っていないだろうが………
 入門した時から相葉は彼の後をついて回っていた。福田はそんな相葉を拒まず、よく付き合ってくれた。釣りに連れて行ってくれたり、朝早くからの虫捕り等にも。
 やんちゃをして木を登る相葉を、福田は優しく見守ってくれた。ここに泊まった事も何度もある。同じ部屋で夜具を並べて横になり、福田はいろいろな話しを聞かせてくれた。豆腐はどうやって造るのかとか、昔から伝わる不思議な物語、遠い異国の話しや物の怪の少し怖い話もあった。
 ああ、その時だ
 と、影嗣は思い出した。
 初めて女性と関係をもった時、なぜか違和感を感じてしまったのだ。好いた女の筈なのに、身体の快楽とは別に、心に焦燥感のようなものが残ったのである。精神的に満たされない何かがあった。
 分からないまま、その女性との関係は終わってしまった。それからしばらくして、相葉はこの福田の家に泊まりに来た。いつもと同じように布団を並べて床についたのだが、相葉は福田のやすらかな寝息が耳について眠れずにいた。気になって何度も福田を振り返ってしまう。静かな彼の寝顔を見つめていると、自分の内から凶暴な何かが飛び出してきそうで怖くなった。
 その時初めて自分が彼に特別な感情を抱いていると、気付いたのである。
「遊女屋通いは止めません。やましい事など何もしておりませんので」
「影嗣、そなたがいい加減な男だとは思っていない。通っているのなら、本当にその女子を好いているのだろう。しかし、相手が遊女であれば、世間の目というのは厳しいぞ」
「……………」
「その女子に辛い目に合わせる事になるかもしれん。本気ならば身受けするとか、いろいろと方法がある筈だ。ただ通い続けるだけは感心しない」
「……………」
「私でよければ相談にのるぞ。話してくれないか?」
「……………」
「影嗣………」
「遊女通いは止めません。しばらくは………」
「なぜだ………?」
「好いた女がいる訳ではないからです。もっと別の目的があっての事です」
「別の目的?なんだそれは?」
「話さなければなりませんか?」
「……話したくないなら無理にとは言わないが……このままでは誤解を招くおそれがある。評判が下がれば婿先からあれこれ言われるのではないか?」
「誤解されようが私は気にしていません。婿になど行く気はありませんので」
「……気が変わるかもしれないぞ。その時後悔するかもしれない」
「変わりません。あなたへの気持ちが変わりませんから」
 福田は突かれたように顔を上げた。相葉はまっすぐに福田を見つめていた。熱い男の視線だった。
「……そろそろ帰ります……」
「……あ…そうか……では提灯を………」
「大丈夫です。持ってきておりますので」
 相葉は立ち上がり、玄関に降りて草履を履いた。提灯に火を灯して福田に挨拶をする。
「では、失礼します。ご馳走様でした」
「ああ、気をつけてな」
「明日、道場で」
「……ああ、また明日………」
 福田はしばらく相葉を見送ってから木戸を閉めた。少し緊張していた身体から力が抜ける。
 先程の相葉の視線を思い出す。いつの頃だったか相葉は男の視線で自分を見るようになっている。その事にうすうす気付き始めていたが、福田はあえて考えないようにしていた。しかし、最近ではおもわせぶりな言葉を口にするようになってきているのだ。
 どうしたというのだろう?
 彼の口調からうすうす両親の愛情を受けていないと察している。その代わりを求めているのだろうか?
 入門した時から、相葉は自分に興味を持っていた。伊井ではなく、自分に稽古をつけてもらいたがったのである。だが、彼は初心者ではなかったのでほとんど相手には出来なかった。
 師の教えどおり、水月の剣は滅多に人に見せてはならないからである。
 しかし彼はめげずによく話し掛けてきたり、弓の稽古をつけてもらいに訪れたりと、なにかと自分に近付き、今では門弟達の中で一番親しくなっている。初めは他の門弟達のように、先輩として慕ってくれているのだろうと思っていた。福田も年の離れた弟のように思って、彼を可愛がってきたつもりだった。
 頑固で、負けん気が強くて、しかし真直ぐな心をもった相葉が可愛かった。仲の良い子弟関係がずっと続くものと信じてきた。
 しかし、今自分を見つめていた相葉の視線は………
「……ばかな……」
 福田は一人呟いた。
『堪忍して下さい。堪忍して下さい。』
 昔、聞いたおまさの言葉が脳裏に蘇り、苦しくなった胸を福田は押さえた。