相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十五歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
虎落笛(もがりぶえ) 二
ある日の夜、相葉は茶屋の二階にある部屋を訪れた。
「すまん、牧村、待たせたな」
「いや、たいした時間じゃない」
待っていたのは同じ道場仲間の牧村であった。刈谷道場の三羽烏の一人で、共に稽古に励んだ仲間である。去年、牧村の父親が亡くなり、彼は若干二十二歳で家督を継いだ。
「飲むか?」
牧村は相葉に御猪口を差し出し、酒を薦めた。彼自身は結構飲んでいるらしかった。無口で真面目な彼にしては珍しく、相葉は不思議に思う。
「…じゃあ、いただこうか……」
相葉は注いでもらった酒を飲み干した。
「……どうだった?」
「ああ…噂どおりだな、あの本郷って男は。毎日のように遊女屋を訪れ浮名を流していた」
「……そうか……」
「本当に妹さんを本郷の元に嫁がせる気か?」
「………親父の遺言だ……本郷の父親には恩があったらしくてな……」
「……そうはいっても……あんな男の所に嫁いだら、苦労するのは目に見えているぞ」
「……………」
牧村は黙って酒を飲んだ。本郷とは弓削道場の門弟で、牧村の妹、加代の婚約者である。牧村の言葉どおり、父親同士の約束事で、幼い頃から二人の婚約は定められていた。そして、不慮の事故で怪我を負った牧村の父は、死ぬ真際に必ず婚約を守るように、と遺言して死んでいったのだった。
一周忌も済み、喪も明けた。そろそろ婚礼の日取りを決めなければならないのだが、牧村は迷っているらしい。婚約者の本郷虎之助の家は、代々組頭をつとめる由緒ある家柄で、本郷自身も剣がたち、美男子である。が、その素行は悪名高いものであった。
しょっちゅう遊所に訪れ、踊り子といい仲だとか、どこかしこの芸子とむつみ見合っていたとか、後家さんと酒をくみかわしていた、とかいう噂が堪えなかった。派手な性格で、遊びには金を贅沢に使い、周りにはいつも取り巻きがいる。
三ヶ月程前、相葉は牧村から本郷が噂とおりの人物かどうか確かめて欲しい、と頼まれたのである。牧村は当主となってしまったので、如何わしい場所に顔をだし、噂がたつような事があってはならなかったのだ。そこで、相葉は本郷がよく姿を見せるという染河町の遊女屋に入り浸り、彼の素行を見張っていたのだった。もちろん、女を買った事など一度もない。
そして相葉は本郷が噂されていた通りの人物だったと確かめたのである。大胆で、無情で、我侭な男とみた。
「お前には悪かったな……変な噂とかたてられてないか?」
「ああ、大丈夫だ」
父親には呼び出されて、くどくど説教されたが、相葉は馬の耳に念仏であった。
「ま、なんとかこの婚約は取り止めにした方がいいと思うが……」
「…実はな…相葉…俺は加代は家にいない方がいいと思っているんだ………」
「はあ?」
「……俺の元にいない方がいいって………」
「何言ってるんだお前?お前の世話に追われるとでも思っているのか?」
「……………」
二人の母親は幼い頃に病で亡くなったしまったらしい。それからは家の女主人として、加代が病弱ながらも使用人達を動かし、父親と兄の面倒をみていたようだった。二人とも仲の良い兄妹で、近所でも評判である。
「妹さんの美しさは有名だ。本郷でなくても、いい縁談はもちこまれると思うが……」
「だが、本郷の家と張り合う奴は滅多にいないだろう………」
「……まあ…な……」
しかし、ここ数カ月、見て来た限りでは、あの男と結婚して、加代が幸せになるとは思えない。
中には、そんな遊び人の男がいいという女もいるだろうが、加代はそんな男を好く性格ではなかった。清楚で、大人しい少女なのである。
「そんなに急がなくてもいいんじゃないか。何か理由つけてのばしておけば、そのうち向こうがもっといい縁談見つけてきて、勝手に結婚するかもしれないだろ?」
「……そんなに待てない……」
「何故?急ぐ理由が分からないな」
「……加代は本当の妹じゃないんだ……」
「……え……?」
「母の前の旦那は病死して、その間に産まれたのが加代なんだ。親父は俺の本当の母親とは離縁していたし……両親は子供連れで再婚同士だったんだ……」
「そうだったのか……」
「……加代は小さい頃から少し病弱で、可憐で、かわいくて……俺はずっと、加代を守らなければと思ってきた……」
「牧村………」
「……このまま加代が家にいたら、俺は自分を押さえられる自信がない………」
「…………」
「妹だと思った事はない!」
牧村は拳を机に叩き付け、苦し気に頭を抱えた。
「……昔も…今も………」
「…………」
酒のいきおいに借りて、牧村は苦しい心情を吐露した。普段は自分の感情をあまり表にださない男なだけに、その苦しさは感じている以上のものだろうと相葉は察した。
おそらく、牧村本人も妹への感情は家族としての想いだと思っていたのだろうが、加代の縁談が近付き、自分の気持ちに気がついたに違いない。
相葉は彼の気持ちが痛い程分かり、何も言えなかった。彼の苦しい心情を理解出来るから……
自分も誰にも言えぬ熱い想いを胸に秘めているから……
二人は長い間、無言のまま、酒を飲んでいた。*
桜の季節が近付いてきた頃、刈谷道場では模範試合が行なわれた。
予想通り、相葉、牧村、曾根崎らが順調に勝ち進んでいった。そして、相葉が曾根崎を破り、最後の試合は相葉と牧村で行なわれる事となった。
「では、最終試合を行なう。一本勝負だ。尚、勝った者は明日の稽古の前に私と手合わせをしてもらう」
伊井の言葉に、道場の四方に正座している門弟達から歓声があがる。皆、伊井の剣を見たいと常日頃から思っているのだ。
「伊井先生」
「なんだ、相葉?」
「…もし私が勝ったなら、福田さんと手合わせをさせて頂けませんか?」
相葉の言葉に道場にいた皆がざわめいた。同じく、正座していた福田自身も驚きの表情で相葉を見つめる。
「……福田殿と?」
伊井は若干年下の為か、福田にいつも敬語を使う。
「はい」
「……なぜだ?」
「福田さんの剣が見たいのです」
「…………」
「お願いします」
相葉が深く頭を下げる。その姿を見た伊井は
「……分った………」
「伊井……」
福田が少し焦った口調で伊井に言葉をかける。
「頼みます、福田殿……」
しばらくとまどっていたが、福田は微かに頷いた。
「但し、相葉、勝ったらだぞ」
「はい………」
「では、試合を始めよ」
相葉と牧村は立ち上がり、道場の中央で向かい合った。立礼を済ませ、木刀を構える。
負けるものか、と相葉は思った。
水をうったような静けさの中、二人は対峙した。その沈黙を破ったのは相葉であった。かけ声とともに牧村に打ち込み、かろうじてよけた牧村も、木刀を相葉に振り降ろす。
お互い一歩も引かない打ち合いが続き、試合は激しいものとなった。門弟達は息をのんで、その行方を見守った。二人が一旦身体を離して、再び打ち込んだ時、一瞬の隙をついて牧村は足の向きを変える。すれ違い様に相葉の振り降ろした手を強く打ち、相葉の手から木刀が落ちた。
「止め!」
伊井の声で二人は身を引いた。相葉は木刀を拾いあげて、場に戻った。牧村と向かい合い立礼を済ませる。
「ふたりとも、こちらに」
伊井の前に二人は立った。
「牧村見事だった。明日は私と手合わせをしてもらうが、異論はないか?」
「もちろん、ありません」
「相葉、惜しかったな」
「…………」
「……よし、戻れ」
二人は他の門弟達の中に戻った。
「では、これで今日の稽古を終える。皆の成長ぶりを見る事ができて、私もいろいろと勉強になった。明日からいつも通りの稽古になる。今日の経験を活かし、おのおの精進するように」
「はい!」
「では、明日。皆、御苦労だった」
「ありがとうございました」
門弟達は着替え部屋に向かったが、相葉は座ったままであった。
「おい、相葉、着替えないのか?」
「…………」
相葉は堀田の声など聞こえていないかのように、少しも動かない。その背中から、くやしさが滲みでているのが分った。
「そっとしとけ……」
「……そうだな………」
橋本とともに堀田は着替え部屋に向かった。牧村もしばらく相葉の背中を見つめていたが、同じように道場を後にした。
座り込みながら、相葉の胸は自分に対する怒りが満ちていた。勝ちに急いで踏み込みが雑になってしまったのは明らかだった。
『このばかが……!』
福田と手合わせが出来る、という喜びから焦ってしまったのである。気が急いて冷静さを欠いていた。
『なんたる未熟!』
これで福田と手合わせしたいなどと、思いあがりもはなはだしい………!
膝に乗せた拳を強く握りしめる。
「相葉」
突然かけられた声に顔をあげると、廊下から伊井が呼んでいた。
「こちらに………」
促され、相葉は伊井の後をついていった。通されたのは、道場の奥にある伊井の書斎であった。
「座れ」
言われたとおり、相葉は伊井の正面に座る。
「相葉……お前は福田殿の剣を見た事があるのか?」
「………はい」
「いつだ?」
「六年前、刈谷新左ェ門との決闘の時です」
「…そうか、あの時な……」
「………伊井先生も見届け人としていらっしゃいましたね」
「……ああ…新左ェ門に頼まれてな………」
「……そうですか………」
「……そうか…見たのか……水月の剣を……」
「……はい……」
「だから、この道場に入門したのだな……」
「はい」
「……福田殿の剣に…惹かれたか……?」
「…………」
「相葉、あの剣の事は忘れろ」
思いがけない言葉に相葉は少し驚いた。
「なぜです?」
「自分でも分っているのではないのか?」
「………え………」
「あれは、人ならぬものがもつ剣なのだ」
「…………」
「あまり執着しすぎると新左ェ門のようになる」
「新左ェ門のように、とは?」
「……水月の剣は新左ェ門の祖父、九郎兵衛殿が習得していた剣だが、彼自身も完全に会得できていなかったらしい。そして、その剣を会得するのは剣才の他に、その者の本質が大きく関わるのだという」
「…………」
相葉は黙って伊井の話を聞いていた。
九郎兵衛の息子である勝之進は剣の才能はあったが、水月を習得する本質がなかったらしい。だが、すぐに雁砕流の剣を極め、道場を継いだ。
新左ェ門と伊井は幼馴染みで、共に勝之進から剣を学んだ。すぐに新左ェ門は頭角を表し、その才能は父をも越えるものだと噂された。そして彼は水月の剣を継ぐのは自分だと思っていた。祖父のもつ美しい剣をきっと教えてもらえると信じていた……だが、彼にも水月を会得できるものを持っていなかった。
多くの門弟がいたが、一人もその本質を持っている者はおらず、九郎兵衛は水月を伝える事をあきらめ、隠居生活を始めた。そして、ある日、ふと思い立って伊勢参りに出掛け、そこで福田と出会ったのである。
ようやく、水月の剣を伝えられる者と、めぐり会えた九郎兵衛は歓喜した。
両親を訪ね、彼に剣を伝える為、自分の元に連れていくよう頼み込んだ。福田は部屋住みだったので、すぐに了承してもらえたが、剣を伝えれば帰す条件であった。
九郎兵衛は夢中になって福田に剣を教えた。福田は水が砂に染み込むように習得し、九郎兵衛は彼であれば、自分が会得出来なかった水月の神髄さえも到達できるだろうと考えるようになった。一方、自分の側で、憧れ続けた剣を、祖父が他人に伝えるのを見るのは、新左ェ門にとっては苦痛であった。
「私は諸国を渡り歩いていたが、帰ってきた時には、新左ェ門が福田殿に、嫉妬と羨望が入り交じった目を向けているのをよく見たものだ」
「…………」
「そして、修行が始まってから、五年後、福田殿は免許をいただいた。その頃だ、彼が国を出奔してきたのは」
「……え……なぜです?」
「詳しくは知らないが、将来を約束していた女が、知らぬ間に祝言をあげていたらしい」
相葉は胸に棘が刺さったような痛みを感じる。
「噂によると、使用人の娘だったので、家のものが勝手に他の男と結ばせたようだ。免許をいただいた程の次男ならいい婿口があると思ったのだろう」
今の自分と重なる部分があって、相葉はふっと口元に笑みを浮かべた。
「どうした?相葉?」
「…いえ……どこの親も同じ事を考えるのだな、と思ったので……」
「……かもしれんな……」
「では、それから福田さんはここの道場に?」
「ああ、師範として教え始めた。但し、今と同じ初心者相手だ」
「……水月の剣を他者に見せない為ですか?」
「……そうだ……」
「なぜです?」
「……言ったろう、あの剣は人ならぬ者の剣だと……水月の剣を継いだ者には、同時に雪華という一本の太刀が渡されるのだが、これは魔剣だ」
「……魔剣……ですか……」
「魔剣は同時に神剣でもある。水月の剣を継ぐ者は、神剣をもあやつれる者なのだ」
「…………」
「見たお前なら、分かる筈だ。水月の剣の福田殿がどれ程のものであったかを。水月の剣をもつ者は、人の世界と、違う世界の狭間にいる者でなければならない」
相葉の脳裏に六年前のあの時が蘇る。あの頃は父が自分に関心を持ち始めた事に反発して、いろいろと夜遊びをしていた。
そしてあの夜、真夜中に通りかかった野原で、福田と新左ェ門が対峙している姿を見た。
月明かりの下、長い間動かなかった二人。生温い風が吹き抜け、草がゆらゆらと揺れていた。
じっと立つ、福田の周りの空気が澄んでいるのが分った。
彼の周りだけ空気が違う。透明で清涼な水のように、なにもかもが彼を通り抜けていく。
対峙している新左ェ門の、殺気さえも………
あの時の福田は、そこにいなかった。水に映る月のように、そこに見えているのに、そこに存在しなかった。人ならぬものの世界にいた。
その美しさを自分は見たのだ。人の世界にはない恐ろしさと、容赦のない圧倒的な力、そして儚さを……
「九郎兵衛殿が亡くなってしばらくたった頃、今度は勝之進殿が病であっけなくこの世を去ってしまった。すぐに新左ェ門が道場を継ぐ筈で、誰も異論を唱えなかったが、新左ェ門自身は納得出来なかった。そして福田殿に決闘を申し込んだのだ」
「……それが、六年前の、あの時なのですね……」
「そうだ。長年のくすぶり続けていた思いをはきだした。彼はずっと福田殿に劣等感を抱いていたからな。ふっきらなければならなかったのだろう。私に見届けるようにと頼んで来た。彼に勝たねば、前に進めぬ、とな。だが、結果はお前も知っているとおり、新左ェ門の惨敗だ」
「…………」
「彼は私に道場を頼み、修行の旅に出てしまった。それからずっと行方知れずだ。水月の剣に執着してしまったせいで、人生を狂わせた……」
「水月の剣は見てはならぬものなのだ。神事を見せぬように、人ではないものの姿は、そう簡単に見せてはならない。見てしまえば最後、とらわれる……」
「…………」
「相葉、お前もとらわれているのが自分でも分かるだろう。早く忘れろ」
「……先生は……?」
「ん?」
「……先生は忘れられましたか……?水月を……」
「…………」
「……無理です……それは先生が一番よくご存知でしょう」
忘れられないからこそ、道場を預かっているのではないのか。
「…………」
「……失礼いたします……」
相葉は頭を下げると、部屋を出ていった。
考える事と感じた事が多すぎて、目眩がする。おぼつかない足どりで廊下を歩いていると、道場で一人、床に雑巾がけをしている福田の姿が目に入った。
掃除は門弟らが当番でしているのだが、雑にこなす者もいて、いつも磨きあげられているとは限らないのだ。福田はよく門弟達の帰った後で掃除をしている。着替え室や練習で使われている木刀を点検したりと、見えない思いやりをのこしてくれる。
無意識に相葉は福田の側に近付いていた。
あれはいつだったか、福田がさんしょっ子の話をしてくれたのは、と、相葉は思い出した。
『相葉はさんしょっ子を知っているか?』
『さんしょっ子?いいえ知りません。なんですそれは?』
『さんしょうの木の精だよ。私は小さい頃よくいたずらをされたんだ』
『え?』
『かわいい七歳ぐらいの女の子の姿をしているんだが、たまに同じくらいの子供と遊びにでてくるんだ。私も同い年ぐらいの頃はいっしょに遊んだんだが』
『……そう…ですか……』
相葉はなんと言っていいか分からずに聞いていた。
『でも、私が大きくなるにつれて、さんしょっ子がだんだん透き通って見えるようになって、いつしか見えなくなってしまったんだ』
『はあ………』
そんな不思議な話なら、相葉も他の者から聞かされた事はある。
どこそこの墓場で火の玉が浮かんでいたとか、芝居小屋に狸が観に来ているらしく、銭入れにいつも木の葉が入っているとか。
しかし、福田の口調はまるでそれらの話をする者達とは違っていた。近所の女の子が赤い着物を着ていた、という話でもするように、普通に話している。
『見えなくなって、淋しかったですか?』
『いや、見えなくなっただけだからな』
その言葉の意味が分からなかったが、今、相葉ははっきりと分った。
彼にとっては同じなのだ。人も、そうでないものも………
見えるものも、見えないものも、存在しているから、同じなのだ………
「影嗣、どうした?伊井との話は終わったのか?」
相葉に気付いた福田が話し掛ける。
「……………」
だが、相葉は返事をせずに、じっと福田を見つめていた。
「……影嗣………」
相葉の熱い視線が痛かった。
「…もう帰りなさい………」
ばつが悪くなった福田は、相葉の側を通り抜けようとした。が、相葉に腕をとられ、引き止められてしまう。
「……影嗣……なんだ………?」
「……………」
相葉は福田を見つめながら、自分が分っていた事に気付いた。
人でないものに、彼が愛されていると………
深い、自分が行けない海に潜っている彼を見た時、小鳥が彼の肩に止まっているのを見た時、彼の手の中で蟋蟀が鳴いているのを聞いた時………
彼は愛されていた、その存在に………
そして自分も………
相葉はこみ上げてくる想いに堪えられなくなって、福田を強く抱き締めた。
『俺もこの人を…愛しく想っている………』
手に力を込めると、相葉はいきなり空を掴んだ。
驚いて、後ろを振り返ると、いつの間にすり抜けたのか、福田が立っている。その表情は困惑を写し出していた。彼は少し急ぎ足で、道場を出て行った。
残された相葉は、先程福田を抱き締めた自分の手を見つめた。
ほんの、一瞬だけ、彼のぬくもりを感じた手を………
自分は強いだろうか、彼を愛せる程強い人間だろうか………
分からない。けれども、諦められるものではないのだ、彼への想いは………
負ける訳にはいかなかった、たとえそれが人でないものでも………その夜、牧村の妹の加代が、池で浮かんだという知らせが相葉の元に入ったのだった。