相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十五歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹

   虎落笛(もがりぶえ) 

 入水では、と噂があったが、結局加代の死は事故として処理され、牧村家所縁の寺に葬られた。
 初七日が済み、そろそろ落ち着いただろうかと思われた頃、相葉は牧村の家を訪れた。
 牧村は加代が亡くなってから一度も道場に来ていない。相葉も葬式の時、牧村の強張った顔を見て、声をかけられなかった。彼がどれ程の辛さを耐えているのか知っていたから………
 まさか後追いなどしないだろうが、もしやという思いも捨てきれない。何でもいいから、とにかく彼と話をするべきだと考えて来たのだった。
「失礼する」
「これは相葉様、いらっしゃいまし」
 奥から下男の西蔵が出て来る。
「牧村は御在宅か?」
「いいえ、六つ(午後六時)頃からお出かけになられて、まだお戻りになっていません」
 もう四つ(午後十時)にもなる時刻だというのに、そんなに長い間何をしているのだろうか?
 まさか………
 最悪の事態が思い浮かぶ。
「お待ちになりますか?」
「……いや、また日を改めよう…邪魔をした」
 と、相葉が帰ろうとした時、誰かが門をくぐって入ってきた。
 暗くて顔が分からず、声をかけようとしたが、その人物から発せられる殺気に気付き、相葉は思わず身構える。
「……相葉……」
「…牧村…か……?」
 屋敷からの明かりで浮かびあがったその人物は牧村であった。彼はそのまま相葉の横を素通りし、恐ろしい程の殺気を放ったまま敷居をまたぐ。相葉も後を追い、屋敷にあがった。
「西蔵、にぎり飯を用意してくれ、急げ!」
「は、はい……」
 主人の只ならぬ剣幕に押され、西蔵は台所に走り去った。牧村は自室に入り、旅支度を始める。その様子を開けられた襖越しに見ていた相葉が尋ねた。
「……牧村…どこに行く気だ………?」
 彼の背中は無言を返すだけだった。
「その殺気はなんだ?……誰かを……切ったのか……?」
「………ああ………」
「………誰だ………」
「本郷虎之助を切った……」
 予想どおりの答に相葉は目を瞑った。門で殺気を放つ彼を見た時、そうではないかと思ったのである。
「……なぜだ……?」
「………あいつは…加代を……凌辱したんだ……」
「……え………」
「加代は死ぬ前の日に本郷に呼び出されて、茶屋にでかけたそうだ。俺はその日は宿直を預かっていて、家を留守にしていた。あいつはそこで、加代を………」
「……………」
「初七日が過ぎ、部屋を整理していた時に加代の遺書を見つけた。それに書いてあった………」
「……牧村………」
「今日、本郷を呼び出して問いただしたが、あいつはなんと言ったと思う。『もうすぐそういう仲になるのにばかな女だ』とぬかしやがった!」
 怒りを吐き出すかのような口調だった。身体は微かに震え始め、殺気がまた鋭くなる。
「……加代も…俺を…想っていてくれてた……最後に書いてあった……」
 相葉は言葉を失った。
「……なあ相葉……俺は何を大事にしてきたんだ?…何を守ろうとしていたんだ……?」
 牧村に言い返す言葉が出てこない。
「俺は腹を切らんぞ」
「……牧村……」
「……相葉……俺を切るか………?」
 牧村は振り返り相葉を見据えた。その殺気に満ちた目には絶望の色が降りている。しばらく無言で見つめあっていると、西蔵が竹の葉でくるんだ握り飯を持ってきた。
 それを掴み、牧村は急ぎ足で外に出る。
「牧村!」
 相葉の声に牧村は足を止めて、振り返った。
「相葉、お前も苦しい想いをかかえているんだろ。試合の時に分った」
「……………」
「俺のようになるなよ………」
 牧村はそのまま踵を返し、二度と振り向く事無く、闇の中に消えていった。

       *

 牧村の出奔はその日のうちに知れ渡り、宗が原で本郷虎之助の遺体が見つかった。
 牧村家はすぐさま取り潰し、藩に召し上げられる事が決定した。
 跡取りを殺された本郷家の怒りはすさまじく、討手として藩の中でも屈指の剣客達が五人呼ばれた。代々組頭を勤めてきた名門であるだけに、その権力は絶大なのだ。そして、相葉影嗣もその討手の中に名をつらねていたのである。
 他の選ばれた者は皆家中からで、三十初めから半ばの、男として充実している年令の者達ばかりだ。二十代のしかも部屋住みである相葉に声がかかったというのは、それだけ彼の剣の腕がかわれているのだろう。
 父親はただ大喜びして受けたが、相葉は迷っていた。
 もちろん藩命に背く事は許されない。まして、自分は部屋住みの身分で決定権などないに等しいのだ。しかし、相葉はもう一度牧村と対峙した時、切れるかどうか自信がなかった。そう思う一方、行かなければ、という使命感もある。なにより相葉は牧村に会わなければならない気がしていたのだ。
 もやもやとした気持ちをもてあましながら、ある夜、相葉は福田の家を訪れた。牧村を追う旅に出る前の日であった。
 福田は縁側で笛を吹いていた。彼は楽の才能があるらしく、その笛の音はいつも聞く人々の心を癒してくれる。ある時など、有名な和楽の師匠が彼の笛の音を聞き、ぜひ内弟子にならないか、と申し込んだぐらいである。
 澄んだその音色を聞きながら、相葉は目を閉じた。心地よい彼の空気に触れていたかったから。
 しかし、福田の方が庭の隅に立っている彼に気付いた。
「影嗣か?」
「………はい……」
 相葉はゆっくりと庭を横切り、彼の前に出る。
「影嗣、よく来てくれたな、さ、あがれ」
 相葉は無言で座敷にあがった。
 福田はいつもと変わらない笑顔で出迎えてくれる。今回の事件は藩中の大騒ぎになっているので、彼の耳にもはいっているだろう。誰が討手に選ばれたのかも。
「酒は、飲むか?」
 相葉は首を横に振る。
「そうか……」
 福田は熱い茶を相葉の前に差し出した。
「福田さん、お願いがあってまいりました」
「なんだ?」
「……私と真剣で勝負していただきたいのです……」
「……それはできん……」
「そこを伏してお願いします」
 相葉は手をついて頭を下げた。
「お願いします。私にもう一度水月を見せて下さい」
「……影嗣………」
「お願いします。もしかしたら、もう二度と………」
 ここには帰ってこれないかもしれない。
 相葉は途中で言葉を飲み込んだ。刈谷道場の三羽烏といわれた、牧村と相葉だが、力は同格。いや、捨て身となった今、牧村の方が分があるかもしれない。返り打ちに合う可能性は十分あるのだ。
 なにより、いつ本懐をとげられるか分からなかった。何ヶ月で終わる時もあれば、何十年かかる時もある。
「……分った……」
 小さな福田の声に相葉は顔を上げた。
「浜へ行こう……」
 立ち上がった福田は奥の間に行き、初めて見る見事な剣をたずさえて戻って来る。その剣から強烈な霊気が立ち上っているのを感じて、雪華の剣であると分った。相葉は背中がぞくりとした。
 雲ひとつない満月だった為、明かりがなくても十分浜へたどり着けた。
 波の音だけが響くその場所で、二人は向かい合う。
 向かい合って、相葉は初めて水月の大きさを実感した。
 六年前に横から盗み見た時とは比べものにならない圧倒的な気迫である。すべての気が福田の中から放出されているような感覚だった。同時にすべてを飲み込むかのような、受け入れるかのような器も感じる。
 人でないものがそこにいた。人などに適う筈のない存在がそこにあった。
 名も無き神がそこにいる。
 こんな大きなものと対峙しているのか………
 相葉は圧倒されながらも、心は喜びに満たされていた。
 愛しい人が自分の前でやっと仮面をはずしてくれたような気がする。
 そうだ、この人なのだ、俺が愛しているのは………
 はっきりと確信した。
「はっ!」
 相葉は思いきって打ちこんだが、福田に難無くかわさた。動いた気配すらないのに、いつの間にか自分の剣は空を切っているのである。何度やっても同じだった。水に映る月に剣を放っているかのごとくである。実体のないものに向かっている感覚に、次第に力が奪われていく。
 と、手にすごい衝撃を感じた瞬間、相葉の剣は空を飛んで砂浜に落ちた。
 一気に身体が重くなった相葉は膝をつく。大粒の汗が流れ落ち、必死に空気を吸おうと荒い呼吸を繰り替えした。
 対峙してみて、改めて水月の剣のすごさを知った。
「影嗣、大丈夫か?」
 福田が心配そうに近付いてくるが、先程の大きさなど微塵にも感じさせない穏やかな表情である。
「福田さん………」
 相葉の息はまだ整っておらず、彼の声は少し苦しそうに聞こえた。
「……俺は絶対帰ってきます……あなたの元に………」
「……………」
 迷いの消えた影嗣の瞳は、いつもより熱さを増していた。