相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十五歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹

   虎落笛(もがりぶえ) 

 福田は自分が他の人と少し違う、と幼い頃から気付いていた。
 初めて悟ったのは六歳の時、家の近くにある神社で白髭のおじいさんに会った時だった。
 その神社は日が暮れると、門が閉ざされ閂がかけられていた。昼間以外は近寄ってはいけないと親に言われ続けてきた。ところがある日の夜、誰かに呼ばれた気がして、福田はその神社に行ってみた。掛かっている筈の閂ははずれており、門の隙間から中を覗くと一寸(30センチ)ぐらいの白髪で白髭のおじいさんが立っていたのである。
 福田は別に驚きもしなかった。そのおじいさんは指さしたので、その方向に目を向けると木に小さな布がひかかっていた。
 これをとって欲しいのだろう、と分ったので木に登りとってやる。その布を渡すとおじいさんは消えた。
 福田は不思議な気持ちで家に帰ったが、誰にも話さなかった。行ってはいけないと言われている神社に行ったのが後ろめたかったのである。それから、半年後、近所のおばさんが家に駆け込み、母と話しているのを偶然聞いてしまった。
「長治さんとこの叔父さん、見てしまったんですって。例のおじいさん」
「ええ、どうしてあの神社に行ったの?!」
「大坂の方に住んでいたんだけど、こちらに遊びに来てたんですって。で、近所を散歩してて偶然あの神社に………」
「土地の者じゃないから大丈夫、なんて事は……」
「ないんじゃない。多分………」
 二人は暗い土間で声をひそめて話していた。
 後に知った事だが、福田が会ったおじいさんはあの神社の祭神だった。しかし、彼の姿を見た者は十日以内に死んでしまうのである。現に、長治の叔父も七日後に亡くなっている。ゆえに、門に閂をかけ、日が暮れてからは近寄ってはいけないと子供達に厳命していたのだ。
 だが、福田は死ななかった。祭神自身が呼び寄せた為か、口を聞かなかったからか、理由は分からない。
 この事件以後、福田はどうやら自分が普通だと感じているものが、皆同じように感じている訳ではない、と気付いたのだった。そして話してもいい者と、話さない方がいい者がいるという事も。
 親に言えば心配するのは分かりきっていたので、福田は近所の寺の和尚にだけ話した。和尚は何も言わず福田の話を聞いてくれた。さんしょっ子と遊んでいるのも、この和尚にしか話していなかった。
 十三歳の時、刈谷九郎兵衛と出会い、彼の国に行く事になった。福田は乳母の娘のおまさと将来を誓いあっていた。幼馴じみとして共に大きくなったふたりは、小さな頃からお互いを好いていたのである。子供の約束と言えばそれまでだが、福田は真剣だった。
 だから、免許を頂いた時、彼女に直に会って報告したいと国に一度帰ったのである。が、彼女はすでに他の男の元に嫁いでいた。
 家の当主である父親が薦めた話しだった。免許をもらった事は先に知らせておいたので、良家に婿にやれると思った父親が、おまさをやっかい払いしたのである。
 福田は衝撃を受け、おまさに会いに行った。そして、そこでお腹を大きくしたおまさに再会したのだった。
 今でもはっきりと思い出せる情景である。夕暮れの中、家に入ろうとしているおまさが橙色に染まって見えた。自分を見てはっと息をのんだ彼女の表情も。
 家の前はまずいと思ったのだろう、少し離れた人気のない路地に手を引かれる。
「……お帰りになったのですね………」
「……ああ………」
「……免許をいただいたと聞きました。おめでとうございます」
「……ありがとうございます……」
 不思議とくやしさや、憎しみの情は沸いて来なかった。
「……結婚したのか……」
「……はい………」
「子供が……?」
「……はい、もう五月もすれば産まれます」
「……そう…か……」
「…………」
 おまさが急に深く頭を下げた。
「堪忍して下さい。謙二郎様!」
「……え………」
「しょせん、あなたと私では身分が違うのです。いくら幼馴染みとはいえあなたは武家で私はただの町民です」
「……おまさ……?」
「この縁談は私がお願いしたのです」
「……なぜ……」
「私と謙二郎様がいっしょになっても上手くいく筈ありません。お互い不幸になるのは目に見えていますもの」
 不幸に?なぜだ、好いた者同士がいっしょになって何故不幸になるのだ……?
「結婚すれば謙二郎様の両親は私をうとましく思うでしょうし、あなたはその狭間で苦しむ事になります。そんな中で幸せになれる筈ありません」
「…………」
「堪忍して下さい。私は謙二郎様との美しい思い出を、汚したくなかっかのです。いつまでも美しい思い出として、胸にしまって生きていきたいのです」
 やめてくれ、と福田は心の中で叫んだ。
「……それが、おまさの幸せなのか……?」
「………はい、あなたとの思い出があれば、私は幸せです」
「………そうか……」
 それから自分がどうしたのか福田は覚えていない。気が付いた時、河のほとりに立っていた。胸がかっらぽで空虚だった。
 おまさはもう自分を美しい思い出としてしか、見ていないと分ったからである。美しい過去になってしまったのだ。
 そんなものになりたくなかった。不幸になっても、苦しくても側にいたい、と思って欲しかった。汚れても離れられない、そんな存在になりたかった。
 美しい思い出という形にはめられた自分…それは本当に自分なのだろうか………
 汚れた自分では愛してもらえる価値がないのだろうか?
 両親も免許をもらった自分だから、迎えてくれるのだろうか?
 自分はどうなのだろう?おまさを愛していたと思っていたけど、本当に彼女のすべてを知っていたのか自信がなかった。
 剣の修行に行ったのも、自分の意志でななく、両親に行けといわれたからだ。確かに剣を極めたいと思ったのは本当だが、それは水月でなくても良かった筈では?
 福田はぞっとした。自分は人の望みどおりにしか生きられないのでは、と思ったからである。それは果たして自分の意志なのか?そして自分も、誰かに形にはまれと強制するのだろうか?
 この時、福田の中で何かが変わってしまった。
 そして、ここにはいられないと思い、家に書き置きを残して出奔したのだった。

        *

 討手が牧村を追い始めた当初、彼を東海道で見かけたという情報がはいり、京都か江戸に向かったかで議論された。仕方なく二手に分かれて、相葉は京都に向かう組に入った。
 しかし、京で探索をしていると、江戸にいるという確実な目撃者が現れた。相葉達、京組は他の者と合流するべく、江戸に向かった。
 この時、牧村が出奔してから一年の歳月が流れていた。
 相葉達が旅をしている間、江戸にいた者は牧村の潜伏先を発見してた。彼は深川の長家に住んでおり、討手の者は近くの町人に納屋を借り、交代で彼を見張っていたそうである。全員がそろい、入念な手筈を調えた後、牧村を討つ為長家に向かった。
 到着した時、牧村は家を留守にしていた。時刻は六つ半(午後七時)納屋で皆ははやる気持ちを押さえつつ、彼が帰ってくるのを待つ事となった。
 だが、一向に帰ってくる気配がなく、皆は交代で仮眠をとり始めた。少しでも体力の消耗はさけたい。
 相葉は身を堅くして、長家を見張った。
 初夏のなまぬるい風が吹く夜である。
「降るかもしれんな………」
 討手の中で一番の最年長者、柏木がぼそりと呟く。ときおり突風が吹き荒れ、闇の中から笛のような音が聞こえる。
『虎落笛か……』
 相葉の頭に福田の顔が思い浮かぶ。この旅の間、彼を思いださぬ日はなかった。
『俺は帰るのだ、絶対に。あの人のところに』
 離れてみて、自分の中で彼の存在がどれ程大きかったのかが分かる。
 夜も明けようとする頃、相葉はうす闇の中で歩いてくる人影を認めた。
 仮眠をとっていた二人の肩を揺さぶる。
「来たのか……」
「……分からん………」
 近付いてきた人影を目を凝らして見つめると、その背格好、顔だちは間違いなく牧村であった。
 相葉の身体中の肌が泡だつ。
「牧村だ、間違いない。いくぞ、皆用意はいいな」
 隣に立った男の身体が小刻みに震えだしている。いよいよ迎える戦いの場に緊張しているのだろう。
 柏木が他の者に合図を送り、五人は一斉に納屋を飛び出した。
「元川越藩家中、牧村親成か!」
 手筈どおり、討手は牧村の周りを囲み逃手を塞いだ。
「藩命により、そなたを討ちに参った。覚悟いたせ!」
 討手の者は全員抜刀するが、牧村はじっと立ったままである。
 辺りは氷のような緊張に支配された。
 一年ぶりに牧村を見た相葉ははっとした。彼の容貌があまりにも変わっていたからである。
 不精髭がはえ、髪は月代に結ってはいるが、乱れていた。頬はこけ、くぼみからのぞく目はやけにぎらついて光っている。この姿こそが、今の彼の生活を物語っているようであった。
「では、参る!」
 牧村の左後ろにいた男が切り掛かる。その剣をたくみによけながら牧村は太刀を抜き、その男を切った。男は絶命し地面に倒れた。
「はっ!」
 牧村にまた一人かかっていったが、何太刀か打ち合った後、切られてしまう。三羽烏に数えられた剣の腕は、少しも衰えていなかったのである。
 相葉の右横にいた男は、刀を構えながら後退し始めた。もう牧村に挑む気力がそがれてしまっているらしい。柏木が前にでようとしたが、相葉は彼の横から前に進みでた。牧村の肩が少し動く。
 しばらくの間、二人は無言で向かい合っていたが、牧村が相葉に剣を振り降ろしてきた。
『速い!』
 きわどいところで剣先をよけ、相葉も剣を振る。それを牧村の剣が払い、いつかの試合の時のような激しい打ち合いが続いた。
 極度の緊張のせいで、二人の額には汗がじっとりと滲みだしてきた。
 牧村は少し後退した後、突風のように相葉に踏み込んできた。左上から向かってくる剣を相葉は見たが
『違う、下だ!』
 牧村のまやかしを見破った相葉は、下からくる剣先を迎え討ち、無防備になった彼の胸に渾身の太刀を放った。牧村はおびただしい血飛沫をあげて、地面に倒れる。
「牧村!」
 相葉は急いで駆け寄り、倒れた牧村の身体を起こした。
「……相葉……」
「牧村!しっかりしろ!」
「……お前…で…良かっ…た……」
「牧村……」
「……すまな……た……加代………」
 牧村は愛しい人の名前を呟いて、そのまま息を引き取った。
 彼の亡骸を抱き締めながら、相葉はこぼれそうになる涙を必死にこらえていた。
 そんな二人に、冷たい夜明けの雨が落ちはじめたのだった。